母の愛

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読了時間目安:8分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

登場人物

エンブオー・クライド・フレアジス……夢工房の所長。ヴェスパオール市警の元刑事。
ルカリオ・リン・シェイ……夢工房唯一の従業員。謎多き男。
ミミロップ・アイリーン・ブルーアント……ルカリオ・リンと懇意の女性。引退した大物ギャング、ホルード・“マクシム”マクシミリアンの愛娘。
「お願いします。息子のビリーを探して欲しいのです」

 そのエレザードの老婆はやたらと恭しく言った。いつもの居丈高な大家ではなかったのだ。声には張りと潤いがあったし、目の奥には光があった。だがその光の色は病的で、病んで青ざめた膿の輝きを秘めていた。彼女は黒いサテンのぴたっとした手袋をはめて、尻尾の先には黒いリボンを巻いている。蝶柄の透かしが入ったリボンだ。そしてここに来る時に赤無地の大きな紙袋を持ってきてテーブルの下に置いたが、中身の予想は全くつかない。

「話が見えないのですが、大家さん」。脇から淹れたての紅茶を差し出しながら、エンブオーは言った。 「何もこの時節でなくても良いでしょう。エレデノさんの葬儀を済ませてからお考えになられては?」
「それだと遅いの」。エレザードは弱ったビードルのように言った。 「あたしなんかもう長くないから」
 エンブオーはいよいよしかめ皺を顔に隠しきれなくなった。元々引き受ける気もなかったので、こう切り出した。 「だいたい、その類の仕事は引き受けられないんですよ。よく似たようなことを頼まれているので、あなたにも全く同じことを言います。いいですか。行方不明者の捜索は、警察と探偵の領分です。私は警官でもないし、探偵でもない」。デスクの一番上の抽斗で眠っている探偵免許証でも見透かすように、エンブオーは言った。
「警官だったこともあるのでしょう?」
「話をそらさないで下さい。私は引き受けたくないのではなくて、引き受けられないのです。本当に今どうしてもというなら、知り合いの探偵事務所に話を回せますが」
「あなたでなくてはいけないのよ」とエレザードは辛抱強く言った。辛抱強くなるだけ、礼儀正しさのメッキはみるみる剥がれ落ちていった。 「その警察や探偵に、あたしが相談しなかったとでも思う?しましたよ。でも、全然役に立たなかったの。彼ら、口を揃えてこう言ったわ。『探しましたが、お気の毒様です』。何がお気の毒様よ。自分の無能さを棚に上げて、金まで巻き上げていくなんて」。エレザードはぴたりと話を止めて、ため息も半ばにエンブオーを怒鳴りつけた。 「葉巻は今必要なの?」
「申し訳ありません、そろそろ必要に感じたもので」。エンブオーは火を点け損なった葉巻をケースに戻しつつ言った。 「私もその程度の無能ですよ。この通りね」
そこでエレザードは突然微笑んだ。 「あなたは違う。本物のエリートだものね」

 それが単純なお世辞に聞こえることはなかった。これまでの彼女の言葉が全て彼女自身の内奥にも向けられているように、エリートという言葉を自分に言い聞かせているようだった。
「それにこういう言い換えをしたらどうなるかしら」。眼光を妖しくして彼女は言った。 「ビリーはあたしの夢なの。夢という言葉で収まらないくらい、あの子は私に意味を与えてくれるの。あなたは夢を叶えるんでしょう?断る理由はないはずよ」

 そして彼女は持参した紙袋をテーブルの上に置いた。置いたときに袋の中で紙束が擦れる音がした。中身を想像する間もなく、袋は引っ張り倒され、嵩張ったペラップ・マルコランの顔がテーブルにぶちまけられた。
「五百万よ」と彼女は言った。 「ビリーを連れ帰ってくれたらね」。そのときにようやく、エンブオーは老女の眼光の正体を知った。

 重責と虐待による愛情。決して珍しい親子関係ではないが、最も不幸な親子関係の一つには違いない。彼女は甘い毒の親なのだ。ビリーがどのように育てられたかも想像がつく。自由などは尻尾の鱗一枚ほどにもなく、着せ替え人形のようにして育てられたのだ。仮に息子を見つけても、彼はまたぞろ檻に戻る気にはならないだろう。彼女がそれを理解できるはずがないし、できていたらば、この親子は道を外さなかった。こんな親子の再会に続くのは泥沼の争いだけだ。離婚紛争と本質を同じにする、一番関わってはいけない依頼だった。

「やはり、まことに申し上げにくいのですが」。エンブオーがそう切り出したとき、彼女の襟巻がばちばちと音を立てて開いた。その音は先の言葉を男に言わせなかった。
「受けなければ、ここを引き払ってもらうから」。もはや彼女はいつもの居丈高な老女に戻っていた。 「このビルを売るわ」
 啖呵を切ったも同然の一言だったが、彼女はそれにも気付かなかった。

「もし脅迫しているつもりなら、この話は終わりです。あなたの夫や息子さんはそれで言うことを聞いたのでしょうがね。あまり大人の男をなめないでいただきたい」

 エンブオーは自分の口でそう言ったと思った。しかし、その時の意識の半分はオーベムの手紙の一節に向けられていたし、実際に舌も動いていなかった。だいいち声色も全く違っていた。玄関から冷気が漂っている。ルカリオが立っていた。ナイロンの黒いレインコートをすっぽりと被り、片開きの扉にもたれ掛かって、生身の左手が上に来るように腕を組み、左踵を扉に付けていた。

「あんたは!」、エレザードが引きつった声をあげて立ち上がった。 「こっちに来ないで!この悪魔!ルカリオのクズ!」
「もっと練れた表現に直していただけますか?考える時間を一分差し上げますので」
「消えてよ!」、彼女の声はよりいっそう裏返って、今では金属音のようなものを帯びた。ウサギ族なら思わず五十キロ先にも逃げ出したくなるほどの。
「どうやら五分は必要らしい」

 ルカリオは一歩前に歩きだした。同時にエレザードの襟巻が白く燃え上がった。そこからまばゆい電撃が延びて、レインコートをずたずたに裂いてしまった。ダークブルーのベストが露わになった。リスプレンデンスの新モデルは、ぱりっと糊がきいて、胸棘をとおす穴の周りに銀色の盾が刺繍されている。

「ダンスホールでローキックとカクテルといきましょうか?」。男はにこやかに言った。まんじりともせず、老婆の引きつった顔を射竦めながら。通りの良い、穏やかな低声に襟巻は音もなくしぼんでいた。

 エンブオーはすっとソファを立つと、ルカリオの方へと歩いていった。 「なあ、一旦出直してきてくれないか。ヒルトップのソルナズで何か食ってろ。別に食わなくてもいい。後で迎えに行く」
「ここでも俺はのけものか?裁判は辛かったぞ」
「ふてくされるなよ」。エンブオーは膝をついて、レインコートの破片を拾って言った。 「運が悪かっただけだ」

 ルカリオはエレザードの顔を見た。拒絶のあまり、心が地球の裏側まで逃げた顔をしていた。彼は別に老婆を殴ったりしたわけではない。だが、きつく言い過ぎた日くらいはあったかもしれない。それもそれなりに理由があってのことだったが、唯一の生き甲斐を失って絶望する老婆には、たとえアルセウスの言葉だって一音節も耳に入らないだろう。 「ビリーは戻ってきませんよ、マダム。もっと自分のために生きた方がいい。それならクライドも喜んで手を貸すでしょう」

 黙れ、という簡潔で表現豊かな答えが返ってきた。ルカリオはコートの残骸をエンブオーに脱いで渡すと、海辺に凍てつく大都会に戻っていった。なお、積雪量は今もなお更新中である。
登場人物更新

エレザード・フィリパ・マルクス……今回の依頼者にして、夢工房の入った赤レンガビルの所有者。夫の死をきっかけに、四か月前に失踪した息子のエレザード・ビリー・マルクスとの再会を希求する。

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