ある親子の哀歌

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読了時間目安:14分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

登場人物

エンブオー・クライド・フレアジス……夢工房の所長。ヴェスパオール市警の元刑事。
ルカリオ・リン・シェイ……夢工房唯一の従業員。謎多き男。
カメックス・アデロ・ラディナム……ヴェスパオール市警傷害課の警部補。
オーベム・“レニー”レンフリー・エティッド……弁護士。クライドとは大学時代の同級。

ミミロップ・アイリーン・ブルーアント……ルカリオ・リンと懇意の女性。引退した大物ギャング、ホルード・“マクシム”マクシミリアンの愛娘。
ジャラランガ……ドラコニア山脈の少数民族。非常に強力な第一級種族。
マニューラ・ジュン・ライ……反社会勢力ヴィツィオのソルジャー。ディニアでは“アイラ・ペイリン”という偽名を使用。
ムーランド・シニストラ・エンティリー……ヴェスパオール市警傷害課の巡査部長。
ホルード・“マクシム”マクシミリアン・ブルーアント……引退した大物ギャング。現在は探偵事務所を開いている。
 気が付けば、エンブオーはジャラランガと戦っていた。ここは鬱蒼とした森の中だった。周囲の半径五メートルの草が荒く刈り取られ、均されている。即席の決戦場のようだった。対峙する竜は拳を矢継ぎ早に、こめかみやみぞおち、喉、股間に向かって、まるで針穴を通すように打ってきた。その一撃は防御越しにも衝撃を伝え、骨の髄にまでじんと響かせた。反撃する隙さえもなかったと言っていい。せいぜいジャブを挟んで逃げ切るのがやっとだった。実際、世界の全てがコマ送りに見えていた。時間の流れる速さが三倍になった、そんな激しい命のやり取りだった。

 しばらくすると、エンブオーは自分の意志で攻撃を繰り出していたのではないことに気が付いた。自分の体に分厚い鱗が生え、長く重たい鞭のような尾を持ち、身体が動く度にじりじりとした音をなびかせることも。戦いの緊張も、興奮も、恐怖も、全てが借り物であったことも。

 不思議なことに、目の前のジャラランガは肩で息をするようになっていた。こちらは腕や足が痛むが、血は一滴も出ていなければ、骨も折れていない。ここぞとばかりに身体を前に傾け、相手の懐に深く切り込んだ。五メートルの距離が、まるで十センチだけ跨ぐように縮まった。その瞬間、周囲の景色が溶けて見えたほどだ。拳を打ち込む速さはこちらの方が上で、気づいた時には相手に着地していた。ジャラランガは矢継ぎ早の攻撃をせき止めていたが、次第に受け漏らし始めた。最初は脇腹、次に左の首横、そして心臓に。ジャラランガはついに痛みを我慢出来なくなり、よろめき、後ずさり、膝を折った。

「セヴよ、お前は私を超えた」。ジャラランガは静かに言った。言葉はディニアのものではなかった。それは魂で理解出来る言葉に変わっていた。 「終わらせろ」

 鱗だらけの右手で握り拳を作った。ジャラランガの目の前で膝をつき、顔を覗き込んだ。澄んだ目があった。恐怖もなく、怒りもなく、ただ恍惚としていた。子供が稽古を終えたばかりのような、さっぱりとした充足感があった。

 左手で彼の後頭部から生えた鱗鎖をしかと握った。右の拳をえぐるように心臓に打ち付けた。風船が割れたような音がして、その後で森がざっと一揺れした。

 Ecculci, Cevenne(ありがとう、息子よ)。ジャラランガはそう言って目を閉じた。

 後に聞こえたのは、風に踊る鱗の歌声だけだった。じりじりとした静寂の声だった。

 若き竜は今一度、父の顔を見た。うつ伏し、目を閉じ、満ち足りていた。微笑みは陽光に輝いていた。その顔を見た時、炎のように煌めく何かが瞼の裏に焼き付いた。その何かは風よりも速く駆けて、空の色に溶けていった――最初に習ったのは鱗の鳴らし方。友達とは言葉を交わすより先に鱗で挨拶をしろと教わった。拳と尻尾の打ち方は教えてくれなかった。それは友達と一緒に遊びながら、時には喧嘩をしながら覚える作法だったと後になって分かった。

 身体が大きくなり、激情に振り回されがちになった頃、ようやく父が拳の振るい方を教えてくれるようになった。それは理由のない御し難い怒りを鎮めるためでもあり、不遜な振る舞いに対する制裁でもあった。だが何よりも、誰もが一度は通る道だと教えてくれるためにあった。

 背丈が父に追いつき、鱗の色合いも油を点したようにぎらつくと、逆に父の鱗は色褪せていった。野試合をしても、父は褒めたり貶したりしなくなった。

 ある夜、父を含む大人達が夜ごと滝の近くに集まって何かを話すようになった。次の朝、次の族長の座を賭けた戦いが開かれることが決まった。そのときになって、己が生まれた理由は一時の血祭のためだけにあったと知らされた。時代を同じくした友達とは殺し合いになった。戦う意志を失った者は大人達に腕を折られ、セヴを名乗ることを許されなくなった。そうして最後まで勝ち残ったセヴだけが、族長と対決することになった。

 戦いの前に、父は族長としてセヴに向き合った。初めて出会った天敵のように、拒絶と怒りの表情で迫ってきた。だが、全てが終わると、父は最後にセヴを息子と呼んでくれたのだった。彼の魂は今、青の彼方に昇り詰めている。やがて英雄の間に至り、先祖達に暖かく出迎えられるだろう。そしていつか、自分にもそういう日が訪れるのだ。

 胸一杯に息を吸い込んで、竜の勝鬨を天空にあげた。天空から、何千もの鱗を同時に打ち付けた音が返ってきた。それは先祖達の歓声かもしれなかった。竜神が感服し、祝福していたのかもしれなかった。だが、本当は父からの最後の餞別に聞こえていた。

 * * *

 冷たい雨だった。暗黒の雲に包まれた空が、乾いた雷鳴を山々に撒き散らしている。小顔の満月はひどく青ざめて、白い靄の間から地上を恐ろしげに見下ろしていた。

 密林の決戦場で、右腕を投げ出すように這いつくばっていた。全身が千切れそうなほど痛み、指先一つ動かす力も残っていない。泥の青臭い味が舌の上を散らばり、喉元に広がる苦い味と混ざり合って吐きそうになった。胸は潰れ、吸いあげた呼気が肺に刺さる。吐息と血の匂いが、とぐろを巻きながら喉をせり上がってくる。切り傷を負った足には感覚がなく、その重みで土に沈み込んでいく。

「何をしている……早く、とどめを」

 目前に立っていたジャラランガは狼狽えていた。年若く、逞しく、艶やかな竜。その目には明白な後悔と悲しみが溢れていた。Cevaili(父さん)――血塗られた両の拳に罪を覚えている目だった。

「臆病者め。その様で一族をまとめられるか!」

「出来ない!」

「やるのだ!誓いを忘れたか。セヴはこの時のために生きてきたのだ!」

「出来ないんだ!」

「ならば何故名を捨てなかった!」

 若い竜は親に叱られた子供の顔をしていた。だが、もはや反省のしようもない。叱られたところで、その先がない。

「出来ることならそうしたかった」と若いセヴは震える声で言った。 「耐えられなかった!セヴ以外に、あなたを取られることに!」。大粒の懺悔が目からこぼれ落ちていた。

「お前は」と絞り出すような声で告げた。 「戦いに向かない子だった。心が向かない子だった」

 その言葉に若いセヴの口からは慟哭が漏れ出した。

「終わらせるのだ。その拳で。もうそれしか道はない」。あるはずのない力を込めると、地面に爪痕を残せるほどには動き出した。 「そうしなければ、お前は裁き神に――」

「Ella!(嫌だ!)」

「ならばセヴがお前を殺すぞ!」。力の限りに叫んだ。怒りよりも動揺に満ちた、情けない怒鳴り声だった。こんなことが起きていいはずがない。何としてでも息子に殺されなければならない。先祖代々の誇りは我々の代で地に堕ちる。息子は裁きを受け、彼の卵も孵ることはない。そのどちらもがあまりに耐え難い。戦士の恥は死より重い。

 だが息子は泣きながら、愛の限りに抱きしめてきた。息子は言った。Cev, kabali odi Cevaili ecclucica.(父さん、あなたを愛している)。息子はそう言って起こしてきた。その時、脳裏に見覚えのある何かが稲妻のように閃いた。それはかつて殺めた父の顔だった。

 * * *

 山の尾根から最後のウスユキソウが散った朝、百二十一回目の秋が来たのだと知った。その夜、他のセヴ達に滝裏の洞窟へと呼び出された。とうとう自分の番が来たのだ。

 古いセヴ達は焚火を囲んだ。彼らは口々に族長を褒め称え、遠い日の思い出を語り始めた。荒れ果てた山を競争していて、流れ者の大熊に出くわし、力を合わせて追い払ったこと。その闘いでセヴの一匹が命を落とし、それが死ぬことだと前の族長に教わったこと。笑っては泣き、泣いては笑い、子供のように騒ぎ立てては、その残響に酔いしれた。彼らは最後に美しい音楽と踊りでセヴを送り出してくれた。

 だが、その夜は一睡も出来なかった。頭をもたげていたのは、避けようがない死への不安だった。族長は代々、子供達や若者に死を恐れてはならないと言い続けている。死を恐れないことが、強い戦士たる何よりの素質なのだ、と。神は強い戦士を天に必要とし、先祖は自ら作った壁を子孫が乗り超えることを望んでいる。族長とはまさに超えるべき壁そのものだ。故にセヴは死を恐れてはならない。そんな素振りはおくびにも出してはならない。だが、どうして――そもそも、いつから――この古い慣わしが始まったのだろう?そんな言い訳めいた疑問だけが、頭の前後でせわしなく迷走していた。

「Cevaili(父さん)」

 背後に息子が立っていた。洞窟に差し込む月の光が、息子の鱗を通して太陽の後光に変わっていた。息子は思いつめて、両手を揉み、何かを言いたげだった。

「Szezzamini, Cevenne.(寝るのだ、息子よ)」。醒め切った目を無理に閉じながら言った。 「Elle oli lagnava.(何も言うな)」

 息子は本当に何一つ言わず、洞窟を去っていった。風にすすり泣く鈴の音をかき鳴らしながら。何か悪い予感がするとでも言うつもりだったのだろう。きっと滝の裏で何があったのか知っていたのだ。昔から本当に察しの良い子だった。だが、彼のお陰で頭をもたげる不安への答えも出た。自分の命ばかりを案ずる限り、死神は去ってくれない。未来のために戦って初めて、死が本当の意味を持つ。あの子らの明日のために、この命を捧げよう。その夜はよく眠れた。



 傷ついた身体をひしと抱きしめながら、どこか遠くへ逃げたい、と息子は言った――どこにも逃げられはしない。我々の居場所はシュギエヘイにしかない――息子は言った。こんな掟などには従わない。子が親を愛することに何の罪がある、と。セヴは何も言い返せなかった。

 その時になって、セヴは気づいた。あの日、この手で父の命を奪った時から心は死んでいたのだ。掟こそが神聖だと信じ込み、自分を誤魔化していただけだったのだ。族長になった後も、掟のためを考えて戦ったわけではない。後に生きるセヴ達に命の橋を架けるためだ。かつての父がそうしてみせたように。この不条理な儀式は、残された者が死の輪廻に未来を見出すためにある。それさえも要らないとすれば、他に何物を与えられよう。気が付けば、息子を抱きしめ返していた。強く優しく抱きしめていた。息子がそうしている以上に。

 その時、恐ろしい吠え声が空に轟いた。谷間の唸る風や、空を切り裂く雷鳴とも違う。無数の鉄鋼を荒い岩肌に擦り付けた、ばりばりとした音だった。それは霊峰の暗い谷底に潜む魔物の呪詛だった。

 Quivali, Cevaili, emmeli odi opiceli, Zammne ghanu ursulli ter ragna Cevoliga. (大いなる竜神よ、父なる戦士達よ。しかと御覧ぜよ、我らが流す蟲の膿を)

 雷光が森に差し込み、無数の赤い目が現れた。じりじりとした鎖の音が何十として周りを囲み、決戦場に迫ってくる。仲間のジャラランガ達だった。彼らが新たな長の勝鬨に応え、祝福を奏でるはずだった。だが今、ここには悲哀の歌しかなかった。

 彼らは息子の腕から身体を引きはがした。死力を尽くしたばかりの親子には抵抗する力もない。父さん、父さんと泣き叫ぶ声が暗闇に遠ざかり、ぼきりと何かが折れ、声はかき消えた。

 残念だ、と仲間の一匹が見下ろすように言った。同じ焚火を囲み、セヴと呼び合った兄弟が。 「代わりの長を決めなければ」

 彼らは森の中に戻っていくところだった。精根尽き果て、古ぼけた長には目もくれなかった。壊れた偶像を打ち捨てて去るところだった。

「待て!」。そう叫ぶと、ごぼごぼと血の泡が喉元から噴いてきた。 「セヴも殺せ!」

「お前はセヴではない」。森の声がじりじりと告げた。 「蜥蜴(とかげ)よ、お前は呪われたのだ。山を降りよ。そして穢れた地を蛇のように這いずるがいい。裁き神が良いというまで、異形のセヴを天に捧げよ。さもなくば、お前の血脈は死してなお、地の遥か下を流れ続けるだろう」。声は雨にかき消えた。ジャラランガは息子を探して森へと駆け出した。もつれ、よろめき、腐りゆく足で。いくら探しても息子はいなかった。

 崖の方から首を締めたような悲鳴があがった。聞き覚えのある幼子達と若い娘の声。声の一つ一つが崖下に落ちていった。もはやこの地上のどこにも故郷は存在しない。ジャラランガは山を下りた。どこからどうやって降りたのかは覚えていない。



 偉大なるシュギエヘイ。汚れし故郷。思い立ち、振り返り、空を見上げた。平地から見た山々は、今までに見たどの景色よりも美しく、恐ろしく見えた。ジャラランガは思った。あの時、息子に殴りかかってでも殺されるべきだったのだ、と。だが、そんなことで息子は拳を返しただろうか。いや。ジャラランガは目を閉じた。行き場を無くした愛が目から落ちてきた。父をこの手で殺めた時と同じように。全ては愛深き故の宿命だったのだ。

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