ジラーチが雇った男達

しおりを挟みました
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:17分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

2021/01/06
キャラクタ設定変更に伴い、一部文章を改訂しました。
「エントリーナンバー五番、プリン・シャローワさん……えー、課題曲は『メロエッタのために』でお間違いない?」

「はい!」

「それじゃあ、立って。準備はいいですか?」

「はい、いつでも!」

 彼女は深く息を吸い込んだ。


 * * *


 夜の摩天楼に、今日もプリンは一匹取り残された。怒りと悲しみの矛先をどこへぶつけるべきかも分からず、あてもなく都会の迷路を彷徨った。とても家に帰る気分ではなかった。黄色いガス灯に輝く夜霧を吸い込み、自分のために『メロエッタのために』の続きを口ずさんでいた。

「どうして誰も聞いてくれないの……」

 彼女は波止場で海を見ながら、あの地平線の向こうに飛んでいけたらと妄想し、ため息をついた。身体はため息の分だけしぼみ、丸々とした宝石の目はくすんでしまった。

「帰ろう」

 きりのない散歩を止めようと思い、街の方に振り返った時だった。一枚の看板が目に付いた。看板の可愛らしいエンブオーが、彼女に向かって星型で強調したウィンクをして、左手でサムズアップしていた。赤煉瓦造、三階建てのビル――『夢工房 ジラーチ&ピッグ あなたの夢、叶えます』


 * * *


 ビリヤードのブレイクショットが、手狭い事務所一杯に花火のように木霊した。エンブオー・クライドはその日も応接用のソファで夕刊を見ていたが、相方が朝昼晩と鳴らす玉突き音に我慢ならず、遂に言うことは言ってやろうと決心した。実際には、決心する前に口は動いていたのだが。

「おい、いつまでやってる。そんなにこの仕事は好きじゃないか?」

「いいや、大好きさ。一日中好きなことをしてられる」

 エンブオーのただ一匹の部下――『リン』とオリガ風に名乗ったそのルカリオの男は、体格が恐ろしく大きく、右腕の肘から下は鋼鉄の男だった。数か月前、エンブオーはこの男を助手として雇ったのだが、これが丸っきり仕事をしない男だった。決まってすることと言えば、誰かに手紙を書くか、外を散歩するか、ビリヤードをすることだけだった。

「お前にただ飯食わせてるのは俺だぞ。お前の仕事はなんだ?言ってみろ」

「繋ぎの仕事を探してくる?」

「分かってるなら、さっさとチラシを張りに行けよ」

「豚っ鼻め」

「何か言ったか?」

「あの……」

 プリンが事務所の扉を開けた時、彼らは口論の真っ最中だった。

「まだ、やってます?」

「あ――ああ、もちろん!いらっしゃいませ!さあさあ、どうぞお掛けになって下さい!今すぐドレディア・グリーンをお出ししますので――グランブル・マウンテンの方がいいですかな?」

 そう言ってエンブオーは夕刊を自分の机に置き、テーブルをいそいそと片付け始めたが、プリンは疑念と困惑の気配を表情に出した。叩く扉を間違えたかもしれないという顔だった。

「ミス、ここは何でも屋です。何かお困りごとが?」

 ルカリオは、ビリヤードのキューを両手に持って、プリンの方にゆっくりと歩み寄った。

「あっ……はい!そうです!」

 プリンの疑念は晴れ、ようやく事務所に入る決心がついた。エンブオーはそれを見て、ルカリオがつくづくずるい男だと思った。


 * * *


 プリンが打ち明けた相談は、一口に言えば自分の歌が評価されないということだった。歌を聞いた者がつまらなくなって、全員寝てしまうのだという。

「私、歌手志望なんです。ヴェスパオールに出てきたのも、オーディションを受けるためで。でも、全部落ちちゃって……」

「心中お察しします」

「ちなみに何社受けたんです?」

「おい……!」

「いいんですよ。二十三、いや、四かな。でも、歌い終わった頃には、皆眠ってしまってるんです。心を込めて歌ってるんですけど、頑張れば、頑張るほどに……私、もうどうしたらいいのか」

 プリンは自分の言葉で悔しさを噛み締めながら、ソファの上でぐずぐずと泣き出してしまった。顔の半分を占める大きな目からは大粒の涙が落ちたが、彼女の手は涙をぬぐうほど長くなかった。

「大丈夫、泣かないで下さい。私まで悲しくなります」

 エンブオーはハンカチを取って、プリンの涙を代わりに拭った。

「それで、ミス。あなたのお望みは?」

「オーディションに……受かりたいんです。一社でもいいから」

 エンブオーとルカリオは顔を合わせた。ルカリオはソファから立ち上がって、エンブオーの机から契約書を引っ張り出した。

「それで、いくら掛かるんでしょうか」

「まず、あなたが抱える問題の原因を調べます。我々の手に負えそうなら、お引き受け致します。ご予算など諸々については、後ほどお聴き致しますので」

「はい……あの、手に負えない場合は?」

「その場合はお断りさせて頂きます。ですが、ミス。我々は仕事を引き受ければ、必ず成功させます。どんな仕事でもね」

 ルカリオは書類を既にテーブルの上に用意して、細かく書かれた契約内容をプリンに見せた。

「しかし、どんな形でオーディションに合格しても、我々は責任を負いかねます。たとえ、歌手にしてくれと頼んでもお引き受け致しますが、どんな形であれ、それを望んだのはあなたです」

 ルカリオのあまりに無情な言い草にプリンの顔色がゆっくりと青ざめていった。エンブオーはそれを見て、すかさず優しく言い直した。

「望み事は具体的な方が我々もやりやすいということですな。何しろ、我々の仕事は夢を叶えることですので」

 プリンは俯いて、次に出す返事を考えていた。だが、ここで返事を渋ったところで、明日の向く先が変わるわけでもなかった。しばらく考えた後、今は願い事を具体的に考え直すべきだと結論した――それと財布の中も。

「また明日来ても?お返事はそれからでは?」

「もちろんです。お待ちしておりますよ」

「別に気が変わっても構いません。その方がいいこともあります」

 エンブオーはルカリオの顔を一瞬にらんだ。だが、すぐに咳払いで取り直して、プリンを玄関まで送った。

 プリンは階段を鉄の階段を降りる時、事務所から響くエンブオーの説教を聞いていた。だが、彼女は明日、ここに戻って来るだろうと明日の自分に教えていた。何故だか、彼らは信頼に足る男達だと思えたのだ。今だけは何も考えず、ただ暖かいミルクを飲み、布団に入ってから願い事を考えることに決めた。


 * * *


 翌朝になり、プリンは夢工房の事務所の前に着いた。だが、彼女は気がはやるあまり、事務所が十時に開くことを知らず、三十分も玄関前で待ちぼうけする羽目になった。

 幸いなことに、八時頃にもなれば、エンブオーが郵便受けを見に事務所の玄関を開けたので、彼女は凍えずに済んだ。エンブオー・クライドは純粋で人情味に溢れた男だったので、彼女は彼のことをいい友達になれそうだと思った。彼女はルカリオが現れるまでの間、スチームヒーターの水蒸気が金属にぶつかる音を聞き、目覚めの一杯をご馳走になりながら、目覚め始めた都会の喧騒を窓越しに聞き、今の自分とは関係ない騒がしさだと思った。

「ここに住んでらっしゃるんですか?」

「ん?ええ、まあ」

 エンブオーは自分のデスクに朝刊を広げながら、蹄で器用にマグカップの取っ手を挟み、濃い目のグランブル・マウンテンをすすっていた。

「あの青い殿方は?」

「ああ、ルカリオね。一緒には住んでないんですよ」

「あんなに大きなルカリオは初めて見ました」

「でしょう?俺も――失礼、私も仲間内ではそこそこ身体が大きい方なんですが、それでも同じくらいの背丈なんです。あいつほどのデカブツは見たことがありませんね」

「素敵な方です」

「とんでもない!見かけに騙されちゃいけませんよ!奴らは生まれつき容姿が優れた一族ですが、全員が生真面目な正義漢とは限らんのですよ。女に貢がせて、結婚前に消えた男なんて三匹は見ました。あいつも、それはもう!」

「でも、それはエンブオーさんもです。モノーマは今大変だそうですよ、エンブオー・バロームの独裁が始まって」

「まったく酷い話ですな。同族として忸怩たる思いです。あっちも、ルカリオ・アウラスのせいで、モノーマはルカリオ一族への風当たりが厳しくなったとか」

 玄関の扉が開いた。 「何の話だ?」

「お前の話だよ、伊達男」

 ルカリオは厳格さと知性が引き立つような黒く四角い眼鏡を掛け、ベージュのチョッキを着ていた。左手には黒褐色の四角いビジネスバッグを持っていた。

「九時半からやることにしたなら、先にそう言え」

「世間話をしてただけだ」

「どうも、ルカリオさん」

 ルカリオは、プリンに軽い会釈で返して、チョッキを脱いで窓際のハンガーに掛けた。そして、バッグをビリヤード台に置いて、台に立てかけてあったキューを手に取った。

「やめろ、こら」

「十時からだろう?一回くらいは通せる」

「九時半だ、今日だけはな。ほら、座れ」

 ルカリオは、ため息をついて、眼鏡を取ってバッグの上に置いた。そして、昨日のようにソファを囲んで話を始めた。


 * * *


「私、決めました。オーディションに合格したいんです。会社はドゴーム・レコードといって大手ではないんですが、あのサーナイト・レファールをプロデュースしたところなんです」

「サーナイト・レファールって『風に吹かれて』の?レコード、持ってますよ。聞いたことはないですがね。今はフラージェス・ヴァレーの舞台女優でしたかな」

「我々はあなたをそのドゴーム・レコードに合格させればいいんですね、ミス?」

「はい。残りは五社あるんですけど……その中で一番行きたいとしたら、ここかなと」

「その五社全てにアプローチを掛けることも出来ますが、それでよろしいのですね」

「そうすると、お高くなるのでしょう?私、お金は自分が本気になれることにしか使わないと決めました。歌手は子供の頃からの夢だったんです。今、ここで諦めたら、全部水の泡になってしまいます」

「芸能界は恐ろしい世界です。あなたが夢に見た華々しいファサードの裏では、政治と陰謀が常に蠢いている。あなたも他と同様、望まずして泥の河を泳ぐことになるでしょうね」

「それでもです!後悔はしません!だから、お願いします!」

 ルカリオとエンブオーは顔を合わせた。ルカリオはエンブオーを見てうなずいた。エンブオーはルカリオにうなずき返し、契約書をプリンの前に差し出した。

「分かりました。ではまず、あなた自身の情報について委細ご提供をお願いします。名前はもちろん、年齢、来歴、賞罰、住所、連絡先、家族構成……それと、年収と貯金も」

「年収も?」

「契約以外の用途ではいかなる理由でも使用せず、その一切を守秘することをお約束しますので」

「職務経歴書と自己PR書も提出していただきたいですな。それと、オークションでは課題曲披露があるそうですが、我々が聴いても?」

「ああ、歌ですか……構いませんけど」

「何です?」

 プリンは目を威圧的に見開いて言った。

「眠らないで下さいね。絶対に」

 ルカリオとエンブオーは質問の意図が分からず、訝し気に顔を見合わせた。

「もちろんですとも。眠ったら聴こえないでしょう」

「じゃあ……課題曲『白衣の騎士』、お聴き下さい」


 * * *


 プリンは歌い出すと自分の歌声に集中して目を閉じる癖があったので、二匹がとっくに眠ってしまったことに気付かなかった。エンブオーは蹄で脇をつねったりして一番まで聞き終えたが、その後の記憶はなかった。ルカリオは右腕を枕に十秒で眠ってしまった。

 プリンは上々に歌い上げたことに満足して目を開けた。しかし、そこにいたのは心地良く寝息を立てる壮年の男達だった。彼女は約束を守らなかった男達に向かって、我を忘れて大声で叫んだ。テーブルに置いたコーヒーの水面が揺れ、建付けの悪い窓が固まり、男達も慌てて飛び起きた。

「どうして!眠らないって約束したでしょう!」

「いや、聴いてました!聴いてましたとも!聞き入って目を閉じていただけです!」

「本当に?二番のサビ、最後の歌詞は?」

「その――一番が『天駆ける風に乗って 飛んでいきたい あなたの心へ』だったから……『あ、雨?』」

「もう!!!」

 声の衝撃で窓際のハンガーに掛けたルカリオのチョッキが床に落ちた。一階に住むビルの大家が、事務所の床をどんどんと棒か何かで突いていた。

「何でもないです、大家さん!レコードが壊れただけで!」

「あなたはどうなのよ!ちゃんと聞いていたの!?」

 ルカリオは怒れる風船少女の顔をじっと覗き込んでいた。ルカリオ・リンの顔は二枚目ではなかったが、間違いなくタフガイのそれだった。アクション映画に出てくる俳優は皆こんな顔をしていたことだろう。彼女はルカリオの官能的な顔を見て、怒りが引っ込み始めたが、にらめっこを意地でも止めるわけにはいかない、と目を見開いて頬を膨らませた。

 ルカリオはプリンの大きな両目を見て、ゆっくりと口を開いた。

「――『今あなたに巡り合い』」

 プリンの顔は急速に歓喜と感動の色に染まり始めた。

「『風が運んだ 花と抱きしめる』」

 プリンは感動のあまり、ルカリオを抱きしめに向かいのソファから飛んできた。ルカリオは胸の骨棘に気を付けて、抱きしめ返した。

 エンブオーはルカリオを見て、悪魔のようにずるい男だと思い、糾弾せずにはいられなかった。

「お前、波導を使って――」

「いい声だ。こんな才能を見逃すとは、ディニアの業界もどうかしている」

「ありがとう……ありがとう、聞いてくれて」

 プリンは感極まって号泣した。ルカリオは『女の扱い方』について、エンブオーに勝利の微笑みを差し向けていた。エンブオーは、ルカリオの今月の給料を五千リラだけはねようと心に決めた。


 * * *


 プリンが諸々の書類を提出して帰った頃、波止場の遥か地平線は紺碧に沈みかけていた。二匹の男達は、ソファとデスクでそれぞれ煙草をふかしながら、彼女の仕事を引き受けるかどうかを考えていた。彼らの懸念は、彼女の歌声を聞いた者が深い眠りに落ちてしまうことにあった。

「あの女だけだと思うか?」

「いや。多分、彼女の母親もそうだ。彼女はプリンローズの生まれらしい。そこには風船一族しか住んでいない。同族の間では歌声の副作用に気が付かなかったんだ。それも知らず、さぞ十年に一匹の歌姫と褒め千切られたことだろうよ」

「地元では一番歌が上手いという、あれか」

「だが、実際なかなかの上手さだったぞ。お前はすぐに寝たから分からんだろうが」

 そう言って、エンブオーは煙草を下あごの右牙に咥えて立ち上がり、サーナイト・レファールの『白い騎士』のレコードを掛けた。往年の歌姫が抒情歌を奏で始め、事務所は愛の世界に包まれた。

「これと同じくらいなら合格か。どう思う?」

「俺に聞くな。専門家じゃないんだ」

 ルカリオは紫煙を天に吹きながら言った。 「罪な声だな」

「どっちが」


「どっちもだ」

 レコードから流れるサーナイトの健気で気高い歌声は、摩天楼の陰から事務所に落ちた夕焼けと、赤煉瓦の内に薫る紫煙に感傷の色を加えるには十分だった。歌詞によれば、白い騎士は自らが死んでいたことにも気づかず、風になって主を探していた。今、その魂は潮騒に乗り、都会の木に寂しく留まる光の鳥になったようだとエンブオーは言った。

「どうする?引き受けるのか?」

「もちろん――」

 エンブオーは立ち上がった。

「引き受けるさ。光の鳥をまだ見ぬ主に引き合わせてやろう」

 エンブオーはハンガーからチョッキを取って、ルカリオに放り投げた。

「お前もあんな口説き方をしておいて、乙女心を裏切るような真似はせんだろう」

「ああ」

 ルカリオもまた、最初から引き受けるつもりだった。エンブオーにはそれが分かっていた。二匹は灰皿に煙草の火を押し付けた。

――ヴェスパオールの誰もが見落とした赤煉瓦の中から、ジラーチの使者が二匹、冷たく輝く都会の底に降りてきた。一匹はエンブオー・クライド。もう一匹はルカリオ・リン。彼らは自分の夢が叶うその日まで、誰かの夢を叶え続ける。エンブオーは己の正義のために。ルカリオは贖罪のために。今日も彼らは空を見上げ、見知らぬ街角に星を降らせに往く。



読了報告

 この作品を読了した記録ができるとともに、作者に読了したことを匿名で伝えます。

 ログインすると読了報告できます。

感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想