9-7:暗転

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 シーズンは、もう数試合で終わるという頃だった。
 とうに優勝チームは決まり、順位もほぼ確定していて、僕のチームは変わらず下位を低迷していて、いや変わらずそれじゃいけないんだけど、まあとにかく消化試合真っ只中だった。

 その日はビジターの試合で、三連戦の最終戦で、僕はいつも通りブルペンで肩を作っていた。
 試合開始まであと四時間少々といった頃合いだった。

 ショウリ! と真っ青な顔のダンバラが走ってきた。右手に携帯電話を握りしめている。
 普段野手がブルペンに来ることはほとんどないので、投手陣もブルペンキャッチャーたちも驚いた。
 普段飄々としているダンバラには珍しく、ひどく狼狽えている様子だった。ダンバラはぜえぜえと苦しげに息を整えてから、震えた声で言った。

「ショウリ、カエデが、カエデが……」
「キリ、落ち着け。どうした? カエデが、どうしたんだ?」

 ダンバラは何回か咳きこんで、泣きそうな顔でこっちを見上げて、言った。

「カエデが、ポ球の試合中に……か、顔に、顔に、投球が……」

 凍りつくような寒気が背骨に落ちてきた。ダンバラはまた咳きこみ、車で三十分の総合病院に、と震えて言った。
 息がつまりそうになりながら目線を動かすと、投手コーチが暗い顔で、行ってこい、と僕とダンバラの背を押した。
 僕とダンバラは促されるまま、練習場の外へ駆けだした。

 タクシーを拾い、全速力で飛ばしてもらって病院へ着いた。
 周りの人たちがユニフォーム姿のこちらを訝しげな目で見るのも構わず、病室へ駆けこんだ。

 病室には医者と看護師と、ポ球の監督らしきユニフォームを着た人と、カエデの奥さんがいた。
 カエデの奥さんはこちらを見て、顔にハンカチを当てて声を上げて泣いていた。
 アルコールや薬品のにおいと、鉄っぽいにおいが漂っていた。

 ベッドの上には、真っ白なシーツに包まれ、顔に白い布をかけられたカエデが、何も言わず、何も動かず、静かに横たわっていた。

「カエ……デ……」

 ふらふらとベッドの近くへ行き、顔に乗せられた白い布に手をかける。
 見ない方が、と医者が慌てて制止するが、それを振り切って布をはいだ。途端、息が止まった。

 カエデの頭には顔がなかった。
 首から上がはじけ飛んだように、血と骨と組織がぐちゃぐちゃになった赤黒い肉の塊がむき出しになっていた。

 すぐに布を戻すことも出来ず、僕はただ呆然と固まっていた。
 ダンバラの嘔吐く声と、カエデの奥さんの嗚咽が後ろから聞こえてきた。
 医者がそっと僕の手から布をとり、カエデの顔があった場所にかぶせた。

 僕もダンバラも、何も言えず、動けなかった。
 意味がわからなかった。何だこれ、何だこれ、という言葉だけが頭の中で何度も何度も繰り返された。



 気がついたら、モミジの街に戻っていた。
 ビジター三連戦の最終戦だったはずだけど、いつの間にか三日が経っていた。
 その間何をしたかは全く覚えていなかったけれど、マウンドに立っていないのは確かだった。新聞を見ると大差でうちが負けていたから、たまたま登板機会がなかったのだろう。

 葬式に出たかもしれないし、出なかったかもしれない。何も覚えていない。
 ただ何となく覚えているのは、医者だったかポ球の監督だったか、その辺から聞いた、カエデの「事故」の話。

 緩く上がったキャッチャーフライを追いかけて、カエデは試合中ずっとしているはずのキャッチャーマスクを外して追いかけた。
 気が緩んだのか戻したつもりになっていたのか、たまたまそのマスクを戻すのを忘れ、たまたま誰も指摘しなかった。
 そしてそこに偶然、狙いを外した剛速球が襲いかかってきた。
 偶然。たまたま。少し気が緩んだから。カエデの「事故」はそんな言葉と一緒に語られた。


 今週はビジターとホームの試合の間には二日の空きがあったはずだから、今日はホームで試合のある日。今日が試合で、明日は休み。二日休んで、もう二戦。それで、今シーズンは終わり。
 頭では理解できているのだが、身体の中が空っぽになったようで、真っ白だった。

 それでも、僕はプロの選手だから。野球をやらないと。
 空虚な身体を動かして、いつも通りの時間に、いつも通りの準備をして、いつも通り球場へ向かった。


 普段通りストレッチをして、ランニングをして、身体をほぐす。チームメイトが大丈夫か? と声をかけてくる。
 僕は曖昧にうなずく。本当に大丈夫かよ、顔が青白いぞ、とチームメイトが心配そうな顔を向けてくる。
 視界の端にダンバラが映る。口を真一文字に結んで、黙々とアップを続けている。僕はそれを見て、大丈夫、と小さな声で言った。

 練習場の真ん中のブルペンに立つ。ブルペンキャッチャーが準備オーケーと手を振ってくる。
 球を握り、投球準備に入ろうとする。


 足が震えた。抑えようにも抑えられない。身体が硬直して動けない。背骨が氷漬けになったように冷たい。
 モト、どうした? というブルペンキャッチャーの声が聞こえる。
 返事をしようにも声が出ない。あ、あ、と喉の奥から潰れたようなような音を漏らすのがやっとだ。

『大丈夫大丈夫、俺のところめがけて思いっきり放ればそれでいいから!』

 俺のところにめがけて、思いっきり。思いっきり。頭の中で、カエデの声が反響する。
 額から流れてきた汗が半開きの唇に触れる。薄い塩味。辺りに漂う鉄のにおい。内臓の上下が反転したように、体の中がぐるぐると渦を巻く。立っていられない。口の中いっぱいに酸味と生臭さが広がった。
 「モトさん!」「モト!」と周りから叫び声がする。
 ぼとり、と白球が地面に落ちた。



 気がつくと、医務室のベッドで横になっていた。
 一瞬、顔に白い布がかかっているような気がして、顔面蒼白で飛び起きた。布はなかった。心臓が早鐘を打っている。

 モト、起きたか、と監督が声をかけてきた。
 投球練習が始まった直後、ブルペンで突然もどして気絶したのだと。散々心配をかけてしまったらしい。
 申し訳ありません、と頭を下げた。虚ろな顔の僕を見て、監督はため息交じりに静かに告げた。

「お前の登録、抹消したぞ」

 黙ってうなずくしかなかった。
 投げられないピッチャーに存在価値などない。僕はもう、キャッチャーに向けてボールを投げられないのだ。

 僕はもう、野球ができない。
 そんな絶望感が、僕の空虚な身体の中に詰まっていた。
 監督はまた小さくため息をついて、指折り数えながら言った。

「うちの残り試合が三つ、シーズン終わりまで五日間。まあ、周りより少し早めにオフ入ったと思え」

 僕が間の抜けた顔を上げると、監督は僕の意に反して、少し困ったように笑っていた。
 しっかり休んでリフレッシュしろよ、と言って、監督は部屋を出て行こうとした。
 ああそれから、と監督はドアから首だけ出して追加の言葉を投げてきた。

「秋季練習はちゃんと遅刻せずに来るんだぞ。お前が抜けたらうちのクローザー壊滅なんだからな」

 逃げないように釘を刺して、監督は部屋を出て行った。


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