「ちょっと君! そっちは危ないよ!」
橋を渡ろうとする少女を悪い視界の端で捉えた私は、思わず大声で叫んだ。
このワイルドエリアは、その生息するポケモンの強さによって大まかに二分割できる。
トレーナーに成りたての少年少女は、普通難易度の低いエリアの南側で練習を積む。時折そぐわないレベルの強敵も出現するものの、道具等を揃えておけば太刀打ちできるだろう。
しかし何故か橋を越えた北側は、その強さが桁違いに変わるのだ。私がワットショップ担当のリーグスタッフとしてここに来てから、幾度となく北側で返り討ちにされるトレーナーを見てきている。
そんな橋の前、近年稀に見る悪天候の中で白い服の少女を見つけた時には驚きのあまり目を疑ってしまった。
白いワンピースを着た長髪の少女。ワイルドエリアを旅するにはあまりに軽装が過ぎる。そしてトレーナーにしてはまだ幼い、恐らく十歳前後の子供だ。兎角近寄って話を聞くべきだろう。
声を掛けた後は彼女は動きを止め、橋の前で立ち尽くしている。
辺りは霧のせいで真っ白。服の色のせいで今にも彼女の姿は掻き消えそうだった。
霧を掻き分けるように進み、彼女が近づいてくると、より異様な光景を目にして思わず口から驚愕の声が漏れた。
彼女は裸足だったのだ。
その細く美しい脚で地に立ち、儚げな面持ちで彼女は相変わらず立ち尽くしている。
その姿はあまりにこの場所にそぐわなかった。
私は常にエンジンシティへの入口付近でパトロールをしている。もちろんエンジンシティから来れば気づくから、北側から来たので無ければ南側、ワイルドエリア駅からやってきたということだろう。
しかしそれではつまり、彼女はこの軽装で厳しいエリアを踏破してきたということになる。
そんなことが有り得るだろうか。こんな幼い子が、荷物も何も持たず──
相変わらず何も言わない彼女に、恐る恐る声を掛けてみる。
「どうしたんだい。橋の向こうで出るポケモン達は皆強いんだよ。それに、その格好じゃ……」
「好いんです。今日は」
美しく澄んだ、それでいて細く小さな声が、風に乗って私の耳をくすぐる。
「どういうことだい。それに、君はどこから来たんだい。親御さんは」
「今日は、何処も霧ですから」
「えっ」
そうだ。確かに今日はどこも霧なのだ。
それは、ここワイルドエリアではほとんど有り得ない稀な出来事だった。
この広大なエリアは、場所によって天候が変わるという特徴がある。ある所では大雨でも、その隣では日照りなんてこともざらだ。その天候によって現れるポケモンも異なり、またその違いこそが多種多様なポケモンが生息する理由でこそあるとも思っているのだが。
今日は何故か、ワイルドエリア全域が濃い霧に覆われていた。
理由は分からない。これは本当にごく稀に起きることで、タイミングもつかめない。
しかしまあ、視界が悪いのは良くあることだから、大して困ることも無く気にしていなかったのだが……。
「貴方は、どのお天気がお好きですか」
「わ、私ですか」
突然彼女はこちらを向いて問いかけた。
その顔は何故か霧で上手く捉えられない。しかしその目がこちらをしっかりと向いているのは感じられた。不思議とわき起こる緊張、畏怖。
「私は……その、どの天気にも……良いところがあると、思っています」
なんとまあ、曖昧な答えをしてしまった。これでは問に対する回答になっていない。
思わず冷や汗をかいたが、少女は私の拙さは気にしていないようで、話を続けた。
「そうですか。では、此の霧一様のお天気は、お嫌いですか」
「え、あ、いや……確かに色んな天気があったほうが、魅力的ですかね」
何故だか否定しなければいけないと思っていたのに、心のままに述べてしまった。
話の流れから、霧を否定したら彼女の機嫌を損ねるような気がしていたのに……私は、こんな所で自分の意見を通そうとするほど気が強かっただろうか。
少女相手に、勝手にどぎまぎして緊張している自分がなんだか可笑しく思えてくる。
ただ、確かに霧ばかりでも面倒だ。
毎日どこも霧だと、視界も悪く、多様性というものが──
「でも貴方、それは何方が自然でしょう」
突然、周囲の空気が急激に凍りついたような気がした。
ヒヤリとした冷気が当たりを包み込む。ハッとして少女を見ると、気がついた。
怒っている──?
その目が、こちらを睨んでいるようだった。
突然私は、周囲の霧が一瞬にして氷の礫に変わって私を貫くのではないかという想像にかられた。
どちらが自然かなんて。そんなの、こんな霧ばかりでは──
「何方が」
少女の声が耳元で響く。
澄んだ、凍てついた美しく声が、耳元で問う。
「自然ですか」
心臓が早鐘を打つ。彼女の問は、答えは。
辺り一帯が霧だけなのと、少し歩くだけで天候が変わるのと、どちらが普通かなのは──
「お天道様を誤魔化すのは、人間にはまだお早いでしょう」
──ふと気がつくと、少女の姿は消えていた。
相も変わらず霧は濃く、辺りを見渡しても彼女の行先は知れない。
しばらく呆然と立ち尽くして、私は頭をかいた。今のは夢だったのだろうか。いや、そんなはずは。
私はふと、ワイルドエリアについての噂を思い出した。
ワイルドエリアの天候は、細かく操作されていると。
もうすっかり慣れてしまって、おかしな事を普通だと思い込んでしまっていたのか。
いくら広大と銘打ったこのエリアでも、所詮はただの箱庭、天候に差など生まれるはずが無いではないか。
局地的な雨、局地的な砂嵐。
あまりにも極端で、突飛で──
このワイルドエリアには、一体何が隠されているのだろうか。一介のリーグスタッフごときでは知る由もない、何か大きな秘密があるのではないか。
答えの出ない問を巡らせていると、あの儚げな少女の最後の言葉が蘇ってくる。
近くのポケモンの名を冠した湖で、何かが跳ねる音がしたような気がした。