「――けいちゃんっ!」
「ここに居て。様子を見てくる」
言うなり恵太は背を向けて、事務所の玄関を飛び出した。
結愛も急いで靴を履いた。外へ出て、思わず声をあげた。
――炎だ。何かが燃えている。藍色に沈みつつある農場の奥が、赤く輝いている、真っ黒でいびつな煙の塊が、ものすごい勢いで膨らんでいく!
先に出ていたポケモンたちが、指示を仰ぐように振り返る。ポワルンにあまごいを指示すると、恵太はジバコイルの背に飛び乗って、すうと浮き上がり、宵闇へと音もなく滑り出していった。
無我夢中で、結愛も後を追いかけた。
ぽ、ぽっ、と頬を叩いた雨粒は、すぐにどしゃぶりへと変わった。びしょびしょになる服も髪の毛もぐしゃぐしゃになる足元も構わず走り続けた。昼間とはまるで違う顔をしたオボンの木は、結愛の頭の上へ覆いかぶさるように両手を広げて、帰れ、帰れ、と言うように、風に木の葉を揺らしていた。火の手は、おそらく、雨が消火しただろうが、向こうでもうもうとあがる煙は、なお不気味に膨張しながら、空へと立ちのぼりつづけていた。
チャッピーが。チャッピーがやったのかもしれない。ライチュウに進化するために働いているだなんて言ってしまった結愛に怒って、本当に畑を焼き払おうとしたのかもしれない。恐ろしい予感は煙のように渦巻きながら胸に広がり、結愛を覆い尽くしていく。比例するように、夜は刻々と深まって、景色は正体をなくしていく。
野生らしきピカチュウたちが声をかけあいながら逃げていくのが何度か見えた。ポワルンが呼び出した雨雲の広がる空で、稲光は代わる代わるに轟いた。
しばらく走り続けると、オボンの木の間の道に恵太がしゃがみこんでいた。なんと声をかけるか決めきれないまま、その背中まで駆け寄った。
彼の視線の先に、ぐったりと横たわっているピカチュウがいた。
傍に浮いているジバコイルが結愛にじろりと目をやって、リリリ、と音を立てる。恵太は振り向かなかった。彼の手の中にはオボンのみがあった。分厚い皮を力ずく剥いて中身を取り出し、ピカチュウの小さな口を開けさせて、果肉を握り潰して汁を飲ませた。それから手の中で潰れた果肉を、ピカチュウの横腹へなすりつけた。ピカチュウは嫌がるような声を漏らした――その場所に、爪で切り裂かれたような、大きな傷口が血を流している。
足元から、恐怖と悪寒がせりあがってくる。
ピカチュウを抱き上げ、ジバコイルの背中に乗せる。事務所へ連れて帰ってチュリに手当てをしてもらって、と恵太が言うと、ジバコイルは再びすうと浮かび上がって、赤い目をてらてらと光らせながら元来た方へ戻っていった。恵太は少しだけ空を睨みあげてから、事務所とは反対側へと視線を移した。
今の、と、結愛は咄嗟に声をかけた。
「今の、ピカじゃないよね?」
やっと結愛の存在に気付いたのか、恵太は驚いたように視線をくれた。それから「分かってる」と言いたげに強く頷いた――その時。
閃光と、爆音に似た雷鳴が、二人を呑みこんだ。
悲鳴を上げた結愛を恵太は一瞬庇ったが、何も襲ってこないと見るや、とにかく待っててと肩を抑えつけて、光と音の方向へ駆け出した。斜めに降りすさぶ雨に霞んでいく恵太の背中が何かを飛び越えた。横倒しになっているものが何なのか、見たことがあったから、結愛はすぐに分かった。オボンの木だ。へし折られている。一本や二本ではない。
恵太の背の向こうが、木々の向こうが、また輝いた。
遠く、電撃の光の中に、シルエットが見えた。とんがった耳。ぎざぎざの尻尾。ピカチュウだ。そして――ぎらりと光る爪をふりあげる、恐ろしく巨大なリングマの影。
くさむすび。きりさく。アイアンテール。アームハンマー。技の応酬は一瞬だった。遠雷の低い轟きを、リングマの咆哮がつんざく。応じるように、チャッピーの頬から、一筋の青白い稲妻が走る。いっそうに強く爆ぜる雨脚が筋になって照らされる。その奥へ、奥へと、恵太は駆けていく。
結愛には、傷だらけのチャッピーが、笑ったように見えた。
「――――やめろ!!」
普段の恵太から想像もつかないような怒鳴り声に、被さって、
――かなり離れていた結愛の体まで吹き飛ばされた。
世界ごと割れたのではないかと思われるような音がした。
声よりも、言葉よりも、何よりも雄弁な稲光が、
まるで誰かの叫びのように、夜空へと、一心不乱に迸っていった。
* * *
両親が死に、一人この世に残されたまま、中学を卒業した年。
何もかも嫌になって、頼るあてもなく、糸の切れた凧のように各地をふらふらと歩き回った。
やつれきった心が山の上を目指したのは、誰もいない、誰にも迷惑をかけない場所に、最後に行き着きたかったからだった。
……はずだった。
そこで、美しい稲光を見た。
真っ暗闇に落ちた世界を、一閃、叩き割る、光。頬を打つ雷鳴。きっとあの時、何かにとりつかれたのだ。藪の中を、一心不乱に掻き分けて進んだ。
ちりちりと青い静電気をまとっている、ちっぽけな電気ネズミが一匹、不思議そうにこちらを見ていた。
* * *
一階の、恵太の部屋のベッドに、チャッピーをタオルにくるんで寝かせた。
電撃をうまくコントロールできないというチャッピーの放った壮絶な『かみなり』は、リングマを追い払う代償として、チャッピー自身を感電させた。恵太が抱き上げたチャッピーは身動ぎもできぬほど憔悴していて、けれど大事にまでは至らなかったそうだ。
オボンの絞り汁と薬で看病し、ゆっくり休めば元気になる、とチャッピーを寝かせてから、恵太はぽつりと話しはじめた。
「最初はさ、この森に、ピカを帰してやるつもりだったんだ」
結愛はそっと横顔を伺う。
恵太は、瞼を閉じたチャッピーの目の奥を、しんとした目で見つめていた。
「バトルができない体にまでして、もう、人間の生活に付き合わせちゃいけないと思って。……でもそれ以上に、こんなにひどいことをして、一緒にいるだけの勇気がなかったんだろうな。一緒にいると、甘えさせてくれるから、こいつ。トレーナーを諦めて、イッシュからこっちに戻ってきて、一番最初にこの森に来た。逃がして、お別れをして、山を下りようとしたとき、ピカが追いかけてきて、森の中におれを連れていこうとする。言うとおりに進んでいったら、オボンの木がたくさん生えている場所があって、オボンをひとつ焼いて、おれに食わせてくれた。それが、びっくりするほど、うまくって……」
信じられないだろうけど、そのとき、ピカが喋ったように聞こえて。
と、恵太はかすかに声を震わせた。
「ここでもう一度、一緒に頑張ろうよって、言ってくれたような気がしてな」
野生の子を見てくる、と言って恵太が出ていった後も、結愛は部屋の隅の椅子に座って、チャッピーの様子を見ていた。雨は次第に小降りになって、窓の外には、雲の切れ間から、大きな月が見え隠れしていた。
目を閉じて、口を横に結んで、チャッピーはじっと動かなかった。ドアの向こうにまで聞こえないように、結愛は小さな声で話した。
「……チャッピーは、けいちゃんに文句を言うために、言葉を覚えたんじゃなかったんだね。本当は、もっと一緒にいたいって言いたくて、だから、言葉を覚えたんだね」
――閉じていた瞼が、ゆっくりと、諦めたように持ち上がっていく。
チャッピーの表情は、なんだか、うんと子どものようだった。森の夜空みたいにきらきらとした真っ黒の瞳は、何もない天井を見ていたけれど、まるで違う景色を映しているように思えた。
いつもの小生意気さを失った、途方に暮れたような顔で、ぼそぼそと独り言を言う。
それから、真上を見つめたまま、結愛にあの質問を投げかけた。
「さあ、三回目の答えを教えてよ。ぼくがなぜ人間のために働いているか」
消え入りそうな声が、迷子の子どもみたいに繰り返す。
「ぼくはなんで、恵太のために働いているの?」
見つめる目の中に、稲光が残っている。
鮮烈な光。チャッピーが恵太のオボンを守るために、無茶を分かって放った光。それは、結愛と、きっと恵太の胸の中でも、一生涯消えない光だ。
結愛は、静かに、お腹に力を込めるようにして、そっと最後の答えを言った。
「『ピカ』は、けいちゃんのことが、大好きだからだよ」
「……違う」
チャッピーは、瞼をわななかせながら、次第に目を見開いた。
「違う。違う、違う、違う、」
感情と一緒に電気が漏れ出していっているように、うっすらと、体が光を帯びて見えた。止めたくなかった。同じことを繰り返しながら、耳を震わせ、ふつふつと起き上がるピカの姿を、きつく手を握りしめながら、結愛は座ったまま見つめていた。
「違う! 違うッ!! 全然違うよッ!!」
もがくようにして立ち上がり、頭を振りながら叫ぶ。
結愛は必死に堪えて見守った。
「残念! はずれも大はずれ! ほんっと人間ってさあ、馬鹿で! 勝手でッ! どうしようもない自己中ばっかりなんだよね!! ねえなんでそうなの? なんでそうやって自分の都合の良いように解釈することしかできないの? ぼくはあの緑色のボールのせいで、恵太のことを好きにならざるをえなかったんだ。ぼくは操られてたんだ、ずっと、洗脳されてたんだよ」
「でも、チャッピーは、もう逃がされてる」
「今更逃がされたってなんだって言うんだよ何年も何年もあのボールにつかまってたんだよ、生まれてからほとんどの時間、ずっとずっと、ずっとずっとずっと一緒にやってきたんだよ。ぼくはこんなに、努力だってしてきたのに。バトルだって最初は別に好きでもなんでもなかったけど、恵太が、恵太がバトルをするって言うから、だったらどうせなら恵太を勝たせてあげたくて、一緒に一番強くなりたくて、でもぼくはすごく弱かったし、進化できなくて、ちゃんと電気も撃てなくなって、なんでだよって、これじゃ恵太がチャンピオンになるのを諦めちゃうよって、でもねほんとはねチャンピオンなんかなれなくたってぼくはほんとは構わなかったんだよ、ぼくはただずっと一緒にバトルしていたくて、みんなで一緒に、楽しく旅をしていたくて、一生懸命、努力してきたのに……それなのに、なのに、諦めて、なんで」
涙をこらえる真っ黒な夜空に、いっぱいの星が震えていた。
「逃がすなんて、ひどいよ……」
一気に稲光が降り注ぐように吐き出され続けた言葉たちが、結愛の中に吸い込まれていく。
懸命に暴れて、ぐるぐるとまわって、体のなかをぶつかって弾ける。けれどその乱暴な言葉たちは、とってもきれいに澄んでいて、結愛の胸を満たしていく。まるでそれは宝物のように、きらきらと、ぴかぴかと、輝いている。
ぎゅっと抱きしめて、絶対に離さないように、結愛は拳を握りしめた。
「けいちゃんがトレーナーをやめたのは、きっと、チャッピーが弱かったからじゃないよ」
「でも実際そうでしょう!? ぼくがもっと強ければ、恵太は今だって旅を続けていられたんだ!!」
ゆがんだ目元から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「ぼくのせいだ。ぼくのせいなんだよ……」
また、どこかで、遠雷が鳴った。
稲妻のような、夏の嵐のような。たくさんの声を乱気流に乗せたチャッピーの目の中には、けれどその嵐の終わりのような、そこに訪れる晴れ間のような、瑞々しい光が満ちていた。それが結愛のエゴだとしても、そうであってほしかった。力尽きてとさりと倒れたチャッピーの体を、結愛はタオルでくるみ直してやった。チャッピーは朦朧とした様子で、ここでないどこかへ、ここにはいないだれかへ、思いを馳せているようだった。
「……チャッピーは、せっかく喋る練習をしたのに、それをけいちゃんに話してみたことはある?」
「うるさいよ。きみに何が分かるんだ」
小さな両手で両方の目元を覆いながら、チャッピーが言う。ねえ、教えてよ。
「ぼく、なんで人間のために働いているんだろう。なんで恵太のために働こうって思ってるんだろう。教えてよ。教えてくれるって言ったじゃないか。ぼくはどうして、つまんない人間の、つまんない仕事の手伝いなんかしているんだ? ぼくは、何がしたいんだよ」
ぼく、ぼく。夢とうつつを彷徨って、すうと眠りについたチャッピーは、最後に、こんなことを言い残した。
「ぼく、ちゃんと、人間が嫌いなピカチュウみたいに、ふるまえてたかな? ……」