4 雷鳴

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 夕暮れを見上げながら、疲れてないか、と恵太の優しい声が問うてきたとき、結愛はうっかり涙がこぼれそうになった。
「うん、大丈夫」
「それならいいけど。おれ、あんまし気が利かないから、何かあったら言ってね」
 多分自分は疲れきった顔をしているのだろう。その理由を、恵太は何と想像するだろうか。ホームシックにでもかかっているのかと思われていたとしたら、とても悪いことをしている。唐突に農場に遊びに行きたいと言い出したのは結愛の方だし、一回こっきり会っただけの従妹のわがままなんて、別に迎え入れなくてもよかったのだ。
 きのみプランターに植えたオボンが二日で収穫を迎えたように、きのみの成長は普通の植物よりとても速い。収穫を終えたと思ったら、すぐに花が咲いて、すぐに青い実が太り始める。ずっとこの仕事をしていたら、休んでいる暇も、考えている暇も、恵太たちにはないだろう。つきすぎた実を落としていく作業を手伝っていると、あっという間に日が傾いて、緑と黄色のオボン農場は、じんわりと茜色に滲んでいった。
 形を変えながら音もなく流れる雲の淵は、眩い金色から赤へと少しずつ移ろっていく。一緒に仕事を手伝っていたチャッピーは、ぴいーかあーと大きく手を振って、森の中へと帰っていった。高い位置で跳ねる耳が木々の向こうへ見えなくなるまで、恵太は名残惜しそうな目をして、じっと見送り続けていた。
 背を向け、促されて、二人で事務所へと戻りはじめる。
 麦わら帽子の下、よく日に焼けた恵太の顔は、いつ見ても緩く微笑んで、満足そうな顔をしている。けれど足元から伸びる影は、木々の間に細長く頼りなく揺れていて、そのうちに消えてしまいそうな気がする。それも、もしかしたら、結愛の色眼鏡かもしれないけれど。
「けいちゃんは……」
 どうしてチャッピーを逃がしたの、と聞きたかった。でも答えを聞くのも怖かった。
「……どうしてトレーナーをやめたの?」
 目を瞬かせて結愛を見下ろした恵太は、さくさくと下草を踏み折る長靴の足元へ、気恥ずかしそうに視線を下ろした。
「根性なかったからな、おれ」
 はじめっから、リーグチャンピオンを目指す気なんて、更々なかったのだそうだ。
 十五でピカと出会い、知らない場所に行ってみたくて、海の向こうのイッシュ地方でトレーナーとしての旅を始めた。年下の駆け出しトレーナーたちが二、三年で集めるジムバッジを、六年かけて八つ集めた。トレーナー修行というよりも、放浪と言う方が近いような有様だった。
 それでも、ポケモンたちとの旅は楽しかった。
 ぽつ、ぽつ、と、空にひとつずつ灯りはじめた星みたいに、恵太は静かな声で、そんな話を聞かせてくれた。
「結愛ちゃんは、ポケモンバトルは好き?」
 頷くと、おれも昔は好きだった、と恵太は足元を見ながら笑んだ。
「チャンピオンロードって知ってるか? バッジを八つ持ってないと入ることも許されない。ポケモンリーグに挑む前に、最後にトレーナーが乗り越えなくちゃならない試練」
「カントーの、セキエイ高原のそばにある」
「そう、イッシュのポケモンリーグの手前にもある。おれは、あの恐ろしい山の向こうを一年以上目指し続けて、結局抜けることができなかった」
 各地を旅してバッジを集めて、リーグをいっときも夢見なかったとは言わない。だが、闘志を剥き出しにしたトレーナーやポケモンたちと来る日も来る日も戦っているうちに、恵太も、そして仲間たちも、心身ともにボロボロになっていった。あの長く険しい洞窟の、深い深い闇の中で、一度膝をついてしまったとき、辛うじて持ち合わせていたポケモンリーグへの渇望を、暗がりへ落っことしてきてしまった。静養と称して一度山を離れたとき、仲間たちの穏やかな表情を、本当に久々に目の当たりにした。
 折れた心が、もう二度と元には戻らないだろうことを、恵太はそこで悟ってしまった。
 ……なんと返せばいいのか、すぐには思いつかなかった。結愛は、いつかポケモントレーナーになることをぼんやり夢見続けてきただけで、挫折する日のことなんて、考えようとしたこともなかった。
 両手を揉みながら懸命に言葉を探している結愛のことを、待ってくれているのか、それとも何か考えているのか。恵太もしばらく黙り込んでいた。
「……でも、チャッピーは」どきっとして、すぐに言い直した。「ピカは、それでもチャンピオンを目指したかったんじゃないの?」
 恵太はやはり小さく笑って、長靴の底の泥を落として、事務所の扉を開けた。
 ジムバッジを取り囲むようにして飾ってある写真の中に、チャンピオンロードらしき写真はない。恵太はまっすぐその棚へ向かって、あるものを手に取って結愛に見せた。
 複雑に光を通す透き通った緑青色。鉱物の中に刻まれている、鮮やかな稲妻模様。
「ばあちゃんが死んだ後、どうしてもチャンピオンロードを抜けなくちゃならないと思いつめて、ピカを無理やり進化させようとした」
 ほんの少しだけこわばった声で、恵太は結愛に告白した。
 結愛は石から恵太へ顔をあげた。恵太はどことなく寂しそうな、痛いのを隠すような顔をして、やはり笑っていた。
「無理やり……?」
「ピカ、ずっと進化するのを嫌がってたんだ。前からかみなりのいしは持ってて、あとはタイミングの問題だった。進化するのを怖がるポケモンがいるっていうのは結構話に聞いていたから、いざ進化してしまえば、ピカも納得してくれるだろうと思ってたんだ。けど、ピカは怖がっていたんじゃなくて、自分の体のことを本能的に分かっていたんだろうな。拒絶反応が出て……」
 稲妻の上を指でなぞりながら、恵太はかなり言い淀んだ。
「……凄く苦しめてしまった。石の進化エネルギーにあてられてポケモンが進化するというのは、どうも自然なことではないらしくて、中には体に合わない個体っていうのがいるらしい。ピカは進化することができなかったし、自分の中にある強い電流を、うまく制御できない――つまり、強い電気技を操ることができなくなった。十万ボルトやかみなりを使うと、自分が出した電撃で、自分がダメージを受けてしまうようになったんだ」

『……なんで、けいちゃんは、チャッピーを逃がしたの……?』
『知らないよそんなの、ぼくが使えないからじゃないの。恵太に聞いてみれば?』

 ぼくが使えないからじゃないの。
 チャッピーは、もう、満足にバトルをすることができない体だったのか。それなのに――結愛は、知らないうちに言葉に生やしていた棘で、チャッピーの心を、ひどく傷つけてしまっていたのだ。
「オボン作りの仕事をしていると、ポケモンたちはみんな穏やかな顔をしてる。ここで暮らしていた方が、ポケモンたちも幸せだよ」
 ことん。恵太は元の場所へかみなりのいしを戻した。その隣に飾られている、チャッピーが入れられていたフレンドボール。恵太とチャッピーが、一緒に夢を追いかけていたフレンドボール。ボールの曲面に映る顔が歪んでいる。どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。ライチュウに進化できるからなんて。焦燥感が膨らんでくる。罪悪感で、喉が詰まりそうになる。バトルすることができないなら、チャッピーは、本当に、バトルから離れたこの場所で、オボンを作って暮らしていた方が幸せなんじゃないだろうか。……でも、でも。
「でも、それは、人間のエゴじゃない?」
 顔も見れずに呟いた結愛を、恵太は目を丸めて見下ろした。
「……難しい言葉を知ってるんだな」
 エゴか。エゴかもしれない。
 口の中で、何度か繰り返す。それからいくらも沈黙があった。
 それから、少し熱っぽい声で、でも、と恵太は言葉を継いだ。
「チャンピオンロードを突破するために無理やり進化させようとしたことも、おれのエゴだったよな」
 はっとして、結愛は顔をあげた。
 恵太は笑っていたけれど、ひどく悲しそうだった。
「変な話したな。ごめん」
 すぐメシつくるから、と行ってしまった恵太がどんな顔をしているのか想像すると、心臓がへしゃげてしまいそうだった。何か言わなきゃ。けれど、もどかしい気持ちで唇を開けても、咄嗟に出かかるうわべの言葉を、どうしても言おうと思えなかった。 
 たまらなくなって、結愛は階段をかけあがった。



 じきに日が暮れて、夜が近づいてきた。
 ずっとベッドにうずくまっていた。電気もつけずにそうしていると、たくさんのことが頭の中をぐるぐるぐるぐる駆け巡って、考えなければならないことに、結愛は溺れてしまいそうになった。二度三度、遠雷が聞こえて、ふっと部屋が浮かびあがる。目を閉じていても、明るくなるのは分かるし、耳を塞いでも、ゴロゴロとすすり泣くような雷の声は聞こえてくる。こうしていても仕方ない。結愛は体を起こし、それから、ベッドの柵に引っ掛けていたポシェットをたぐり寄せた。
 美しい景色がちんまりと押し込まれたポストカードを、夕闇の中で、結愛はじっと見つめた。
 傷つき続けるポケモンを見て苦しんでいた恵太を思う。勝てなくて、恵太と夢を見続けたくて、必死にもがいていたチャッピーを思う。かみなりのいしを使ってしまった恵太の背負っていた重圧。電撃が放てなくなったチャッピーの、自身に対する絶望。イッシュを発ち、はじまりの場所に戻ってきて、二人は新しい暮らしを営みはじめた。バトルにあけくれる日々から離れ、忙しくとも穏やかに流れる時間の中で、傷は癒えていっただろう。けれど、かさぶたも剥がれてしまったあとに残り続ける傷跡を、二人とも、ずっと隠し持って暮らしてきたんじゃないだろうか。醜いケロイドになった傷跡が、お互いの目にとまらないように。
 ポストカードを裏に返す。父でも母でもなく結愛自身への宛名の下に、丁寧な筆跡で書きこまれたメッセージ。応援してくれた結愛ちゃんには申し訳が立たないけれど、今はそれなりに楽しくやってる。
 ――この言葉を、けいちゃんは、一体どんな気持ちで書いたの?
 風の吹く草原。心まで晴れ晴れとするような空。重そうに枝をしならせる木々には、黄金色に輝くオボン。甘いとも、酸っぱいとも、苦いとも渋いともつかないオボンの複雑な味わいのように、この景色の裏側にも、複雑な思いがあったのだ。あの美しい景色を一緒につくりあげた二人の、到底書き尽くせないような思いが――


 ――カッ、と部屋全体が照らされて、


 とてつもない雷鳴が、森全体に響きわたった。

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