自分の居場所。
自分の繋り。
それを見つけた。
この頃は。
皆が離れていってしまうような。
そんな怖い夢も。感覚も。
減りつつあって。
悩みなんて何もない。
そう言いたいのに。
悩みがあるんだ。
知らない気持ち。
初めての気持ち。
この気持ちは、何なのかな。
*
青い空の下。
風が運ぶ。
とても優しくて甘い香り。
それを感じて、茶イーブイは息を深く吸い込んだ。
鼻腔を刺激するその香りは。
眼前に広がる野花の香りらしい。
小さな小さなその野花は。
一面に咲き誇り、まるで白の絨毯のよう。
顔を近付けて見やれば。
小さな小さなその大きさに。
思わず笑みがこぼれる。
―――かわいいなぁ……
けれども自分は。
もっと可愛い白を知っている。
もっと元気な白を知っている。
それは。
思わず目で追ってしまうほどで。
その白が笑うと。
ぽっと、心があたたかくなって。
その白が名を呼んでくれると。
心が震える。
いや。
弾む、という表現の方が近いのかもしれない。
野花から顔を上げると。
―――まてーっ、ちょうちょさんっ!
野花を飛び舞う蝶を捕まえようと。
必死な様子の白イーブイの姿。
懸命に前足を伸ばしては。
蝶を捕まえようとしている。
けれども当の蝶は。
ひらりと優雅に避けてしまう。
それでも諦めない白イーブイは。
とても真剣な表情だ。
ああ、可愛いな。
そう思うと。
とくん、と何かが鳴るのだ。
そっと胸を抑える。
これは何なのだろうか。
―――もうっ!まってよ、ちょうちょさんっ!
今度は白イーブイが跳躍した。
それでも蝶は、ひらりと避ける。
むっとして、口を尖らせる白イーブイが。
何度も何度も跳躍する。
それでも、それら全てを避ける蝶に。
白イーブイはその顔を。
ますます不機嫌に染めて行く。
そんな姿に、茶イーブイは小さく笑った。
真剣な顔も可愛い。
怒った顔も可愛い。
もちろん、笑った顔も可愛い。
ころころと表情を変える。
そんな彼女が好き。
この頃、ふとした瞬間に。
そう感じることが増えた気がする。
それに。
そう思うと。
無性に彼女を。
―――えいっ!
という声と共に。
茶イーブイは地を蹴りあげた。
そんな彼の向かう先には。
白イーブイがいて。
―――わあっ!
と、驚いた声があがる。
彼女に飛び付いた彼が。
そのまま彼女を押し倒す。
小さな小さな、白の花弁が舞い上がって。
そして。
ぎゅうっと、抱き付く。
―――カフェ、どしたの?
彼女の問いかけに。
―――んー、わからない。いま、ラテのことをぎゅうって、したくなったの
そんな返答をして。
彼女の問いの答えには。
なってはいない。
いないけれども。
彼らにとっては。
それで十分なのだ。
―――じゃあ、ラテもぎゅうってするっ!
そう笑い返して。
白イーブイも。
ぎゅうっと。
茶イーブイを抱き返した。
ぎゅうぎゅうと。
抱きしめ合戦の始まりだった。
◇ ◆ ◇
少し離れたところ。
木陰の下で。
そんな彼らを眺める者がいた。
「純粋過ぎて眩しい」
目元に手をかざして。
言葉を口にする。
「あの子達、純粋過ぎて尊い」
―――尊い……?
つばさの言葉に疑問を投げ掛けたのは、ファイアローだ。
《あまり気にするな。こいつがおかしいだけだ》
くわあっと、呑気に欠伸をするブラッキーに。
「ちょっと、それ。どういう意味?」
少々怒気を含めた声音で。
つばさは彼を睨む。
だが。
《そのままの意味だが?》
と、臆することのないブラッキー。
そのまま彼は、身を丸めて瞳を閉じる。
「私がおかしいって、聞捨てならないよねっ」
彼に詰め寄ろうとするつばさだが。
尾をひょんひょんと揺らすだけで。
彼はそれ以上、反応を示さなかった。
こうなってしまっては。
もう。彼は暫くは動かないだろう。
何だか逃げ切られた感じがして。
とても悔しい。
はあ、と。
重い息を吐き出したつばさに。
今度はファイアローが近寄る。
―――つばさちゃん、僕はどんなつばさちゃんでも大好きだよっ!
そしてそれを体現するように。
彼は自身の頬と、つばさのそれを重ねて。
すりんすりんと、擦りよせる。
満面の笑みの彼なのだが。
つばさは、何かに引っ掛かりを感じて。
ちょっと、待て。
それは、つまり。
「…………イチ?」
思ったよりも、低い声音が出た。
つばさの、その声の低さに。
ファイアローがぴたりと動きを止めた。
おそるおそる、彼はつばさの顔を見て。
文字通りに震えた。
―――つばさ、ちゃん……?
そこには。
笑顔を張り付けたつばさがいて。
ゆっくり、口を開いた。
「つまりそれって。イチも、私がおかしいって、思ってるってことなのかな?」
―――え、あ、その……
言葉が紡げなくて。
ファイアローは瞳をさまよわせた。
そしてすぐに、まずい、と思った。
ここで、瞳をさまよわせてはいけなかった。
「そう、そういうことね」
つばさは笑う。
笑顔を張り付けた上から。
さらに笑顔を張り付けて。
ファイアローは久しぶりに。
つばさを怖いと思った。
だから。
ばさりと両翼を広げて。
―――どんなつばさちゃんでも、僕のつばさちゃんだよおおおーーーっ!!
と、言葉を置いて。
彼は逃げた。
大空へと、羽ばたいて。
「…………」
それをつばさは、見送るしかなかった。
ただ、見送るしかなかった。
どんどん小さくなるそれを。
見送るしかなかった。
逃げられた。
その事実が、重く。
ずしりと、つばさにのしかかる。
逃げられたのだ。
つまり、それが意味することは。
《イチもそう思ってたんだな》
声のする方へ、つばさが視線を向ける。
そこには。
得意気に笑う、ブラッキーがいた。
否。嗤っていた。
それはもう、嗤っていた。
「イチ……」
飛び去った彼の名を紡いで。
つばさはくずおれた。
◇ ◆ ◇
何か大きな声を聞いた気がして。
二匹は同時に空を見上げた。
どこかに出かける用事でもあったのだろうか。
ファイアローが飛び去っていくところだった。
―――イチおにいちゃん、どこかにいくのかな?
呟く茶イーブイに。
白イーブイは頬を膨らませて。
―――ラテもいきたかったっ!
むくれる。
そんな彼女に。
茶イーブイは少し。
寂しく感じた。
―――ボクじゃ、だめなの?
首を傾げて彼は問う。
確かにお出かけは楽しそうだ。
それでも。
今、近くにいるのは自分なのだから。
そんな自分ではだめなのだろうか。
そんな彼に対して。
白イーブイの頬の空気が抜けた。
きょとん、とこちらを向く彼の瞳が。
何だか可愛くて。
ずるい、と正直思った。
だから彼女は。
―――ていっ!
と彼を押し倒して。
上から彼を見下ろしてやった。
―――ラテ……?
驚きで瞬く彼の瞳に。
―――ラテのかちっ!
にまっと、彼女は笑ってみせた。
一瞬、そんな笑顔に。
茶イーブイは。
息が詰まったのを自覚する。
そして何とか。
言葉を絞り出した。
―――え、かちってなんのこと?これ、あそび?
と、必死に絞り出した彼の問いにも。
彼女は笑うだけで答えない。
―――へへ、ちがうよぉー
そう言って白イーブイは。
すっ、と茶イーブイから身体を離した。
ゆっくりと身を起こした彼が。
彼女の方を向いた頃には。
先程の蝶追いかけを再開させていて。
―――何かずるいっ……
と、ぽつりと呟いた。
*
さらり。
風が彼を撫でていく。
その瞬間に彼は思った。
ああ、幸せだな。
振り返れば。
少し離れたところに。
自分が出会った運命が在って。
その形ある運命であるつばさが。
どうして。
くずおれているのかは知らないけれども。
ブラッキーが楽しそうに笑っているのかも知らないけれども。
ファイアローはお出かけらしくていないけれども。
それでも。
これが日常。
自分の日常。
手に入れた日常なのだ。
そして、ふと近くに目を向ける。
そこには。
蝶と戯れる白イーブイ。
あの子を見ていると。
ぽっと、心があたたかくなる。
そんなあの子が振り向いた。
―――カフェもおいでよー!
その子が名を呼ぶと。
心が震える。否、弾む。
―――いま、いくよー!
心が弾むから。
駆け出したくなるこの気持ち。
ぎゅうっとしたくなってしまう気持ち。
この気持ちは何なのだろうか。
それが。
この頃の悩み。
それでも、とっても嬉しい悩みに感じるのは。
なぜなのだろうか。