遠くで音がする。
それはまるで。
何かが、崩れて行くような音に。
とても似ていた。
*
どっ、と。それは一瞬。
自分に覆い被さったファイアローの重さを感じた。
次いで聞こえた。
「――――っ!!」
耳をつんざくような声。
それが、彼からもれでた声なのだと。
理解するのに少し時間を要した。
まるで悲鳴のような。
そんな声を、彼から初めて聞いた。
それから。それから、どうしたのか。
彼の下から這い出て。
懐の白銀の存在を確認して。
覆い被さる、彼を見た。
見たら。苦しそうな声が。
絶えず、彼の口からもれていて。
間もなく、荒くなっている呼吸に気付いた。
そんな彼の背後。
そこに、アリアドスの存在を知った。
もう一匹いたのだ。
そのアリアドスの牙から垂れた、それ。
それは、紫の色をして。
それで、分かってしまった。
“どくどく”だ。
慌てて彼を探す。
探すなんておかしな言い方だ。
だって、すぐ傍にいるのに。
彼の身体に触れたら、熱かった。
熱を持ったそこから、じわじわと。
じわじわと、彼の身体を蝕む。
どうしよう、どうしよう。
思考がぐるぐると回って。
思考することを、思考から奪われる。
そんな様子に気付いたのか。
彼がちらりと、こちらに瞳を向けた。
うっすらと、細く開けられた瞳。
そこ宿る光は弱々しくて。
けれども。
力強かった。
「……い、ち?」
名を紡げば。
くるるっと、弱々しく鳴いて。
何だか少し。
苦しそうだけれども、嬉しそうな。
そんな雰囲気だった。
でも、すぐに。
くるるっと、鳴いたそのあとすぐに。
そのまま、彼のまぶたは落ちてしまった。
一気に、彼の重さを感じた。
意識が、ない。
その事実に気付いて。
気付いてから、どうした。
真っ黒になる思考。
怖かった。
何が。
失うのが。
何を。
みんなを。
何の反応も、声もしない。
握りしめた赤と白の丸いもの。
無機質な冷たさ。
それに、無情を感じた。
抱えた白銀の冷たさに。
覆い被さった橙に。
真っ黒になる思考。
怖かった。
何が。
失うのが。
何を。
何を、なんだっけ。
真っ黒になる思考。
怖かった。
何が。
なんだったっけ。
真っ黒になる思考。
怖かった。
何が。
何だろう。何だろうね。
あれ。
怖いって。
怖いって、さ。
なんだっけ。
◇ ◆ ◇
ここまでくるのに、何があったのか。
今となってはあまり覚えていない。
だから、思い出しようもなかった。
ただ、あとから聞いた話では。
あのあとすぐに。
騒ぎを聞き付けた人々が呼んだそうだ。
警察を。
それなりの距離があると思っていたのだが。
案外、あの場から街道とは。
それほど距離があったわけではなかったらしい。
たまたま見かけた人がいたようで。
街道をそれる自分達を。
それを不審に感じたその人が、警察を呼んでくれたらしかった。
警察が駆けつけた頃には。
あの人間も、二匹のアリアドスも、ニューラも。
その姿はなく。
ただ。
ただ、虚空を見つめる少女がいただけだったと。
それが、あとから聞いた話。
*
壁に背を預けて、つばさはただ見ていた。
赤く灯るランプを。
そこにある、治療中、の文字。
今いるのは、もともとつばさ達が目指していたあの街。
そこのポケモンセンター。
ここらでは一番を誇る設備を持つ、ポケモン医療機関。
ランプを掲げ、閉ざされた重そうな扉。
その向こうで、ファイアローが治療を受けている。
言われたのだ。
ここに勤務する、唯一の医者だと名乗るお姉さんに。
自称、スマートなお姉さん。
赤ふちの眼鏡を光らせ、その奥の、灰白の瞳を揺らしながら。
言われた。
今夜目覚めなかったら。
その先は言葉にしなかった。
それだけで、事の重さを感じた。
“どくどく”は、“どくばり”や“どくのこな”で受ける毒とは違う。
それはより強力な毒。猛毒なのだ。
時間の経過と共に、身体を蝕む度合を増す。
ファイアローの身体は。
それに耐えられるか分からない。
言われたのだ。
もともと彼の身体には、負荷がかかっていた。
それは、あの場の話だけでなく。
少しずつ、少しずつ。
時間をかけて、負担がかかっていた。
塵が降り積もるように。
知らない間にそれは。
いろんなものを奪っていた。
それは、猛毒に耐えうるための体力だったり。
いろんなものを。
だから、耐えきれるか分からない。
そう、お姉さんに言われた。
それでも、お姉さんは最後まで手を尽くすと言ってくれた。
だから今も、あの扉の向こうで。
ファイアローの解毒作業が行われている。
「…………イチ」
名を呼んでは、赤く灯るランプを見つめる。
それだけを、先程からずっと繰り返す。
イーブイには先程会ってきた。
会ってきたと言っても。
彼もまた、未だに意識はない。
それでも、命は助かった。
片目と引き替えに。
左目は完全に潰れてしまった。
そう、スマートなお姉さんに言われた。
ごめんね。
そう最後に謝られた。
なぜそうなってしまったのか。
お姉さんは医者なんでしょ。
そう、詰め寄られたら楽になれたのだろうか。
けれども、そんなこと出来ない。
全部、自分が招いたことなのだから。
それをお姉さんに押し付けるのは違う。
今もこうして、ファイアローの処置に全力を尽くしてくれている。
感謝してこそで。
自分の中の黒い感情なんて、押し付けるべきではない。
してはいけない。
では、これをどうすればいいのか。
分からない。
ただ、ぼんやりと。
赤く灯るランプを。
治療中の文字を。
ただ、ぼんやりと。
眺めているだけ。
そこに、感傷だとか。
もう、何もない。
ただ、ぼんやりと。
眺めているだけ。
そんなとき。
「つばさっ!!」
焦燥を滲ませた声が、名を呼んだ。
つばさはゆっくり、その方向へ瞳を向ける。
息をきらして、つばさへ駆けてくる人物を見つけた。
つばさと同じ金の髮。
違うとすれば、それが短髪ということ。
耳も隠すことなく短いそれは、どこか活発な印象を与える。
その耳元では。
小太りの丸形ピアスが、無機物な蛍光灯の光を弾く。
傍まで駆けてきた彼女は、一瞬その瞳を揺らすと。
つばさが声を発する前に。
とすっ、と。
手でつばさの身体を引き寄せた。
次いで、自身を締め付ける力を、つばさは感じる。
「ああ、よかった……。つばさ、無事だね、怪我はないね」
つばさを抱いて、肺が空になるほど息を吐き出した彼女に。
「レモ、おばさん……?」
つばさはそっと名を紡いだ。
彼女の腕の中で顔を上げると。
枯草色の瞳が、つばさを見ていた。
ああ、父の瞳の色とそっくりだ。
場違いにそう思った。
彼女は父の妹なのだから、それも当たり前だ。
「警察から連絡が来たときは驚いたけど」
レモはつばさの両頬に手を添えて。
「怪我がなくてよかったわ」
指の腹でその頬を撫でた。
枯草色の瞳に安堵の色を見つけて、つばさは橙の瞳を歪ませた。
自分が無事なのは。
自分に怪我がないのは。
全て、全て。
「…………っ」
吐息がもれて、橙の瞳が揺れた。
そしたら。
くいっと、服の裾を引っ張る何かを感じて、視線を落とす。
その先にいたのは。
大丈夫なのか、そう問いかけるようにこちらを見上げる存在。
黄色い身体に、赤いまんまる頬。
くりんと丸くて愛らしい瞳が、心配そうに揺れていた。
レモのパートナーである、ピカチュウだった。
「……ばなな」
そっとピカチュウの名を紡ぎ、つばさはレモの腕から離れる。
しゃがみこんで、ピカチュウの頭に手を置く。
「ばななも、つばさのこと心配してたのよ」
レモの言葉に、彼は一つ頷いた。
その頭を優しく撫でてやり、手を離すと。
もっと撫でろと言わんばかりに。
ピカチュウは小さな手を懸命に伸ばして、つばさの手を引き寄せる。
それに、くすりと小さく笑い。
つばさは要望通りに撫でてやるのだが。
その姿が、ファイアローと重なってみえて。
彼も撫でられるのが好きで。
特に、首筋を撫でられるのが好きで。
撫でる手をとめると。
もっと撫でてくれないのか、と。
問うような瞳を向けるのだ。
ピカチュウを撫でていた手がとまる。
込み上げてくるこの想いは何なのか。
ピカチュウが顔を上げ、小首を傾げる。
つばさの様子を伺うように、その顔を覗きこむ。
彼はみた。
橙の瞳からあふれているものに。
だから、その小さな手で。
懸命に伸ばして、そっとそれを拭った。
「イチが、イチが目覚めなかったらどうしよ」
震える唇から、震える声がもれた。
拭ってくれようとするピカチュウを、咄嗟につばさは抱き締めて。
ぐえっと、潰れた声が彼から聞こえても。
それでも、つばさは彼を抱き締めて。
「りんだって、りんだって」
命は助かった。
そう言われても。
イーブイは、片目をその引き替えに失ってしまった。
それはもしかしたら、命を失うよりも惨くはないだろうか。
そんな一生の重荷を。
あの小さな身体に負わせてしまった。
震えが止まらない。
止められなかった。
もう、分からない。
どうすればよかったのかなんて。
もう、分からない。
◇ ◆ ◇
「落ち着いた?」
そっと問いかけるレモの言葉に、つばさはこくりと頷いた。
通路に配された長椅子に腰をかけ、ほっと息を吐き出す。
手には、飲みほしたカフェラテのペットボトル。
落ち着けるようにと、先程レモが自動販売機で買ってくれたものだ。
「ばななもごめんね」
つばさの隣に腰かけるレモ。
その膝上に座るピカチュウに声をかける。
先程抱き締めてしまい、危うく絞めてしまうところだった。
ピカチュウは全くだと言うように頷き、レモは苦笑を浮かべる。
「大丈夫……なんて、無責任なことは言えない。けどね」
レモはピカチュウの頭を撫でながら続ける。
「こんなときだからこそ、あんたが大丈夫でなきゃだめよ」
「え……」
「皆が気が付いたとき、あんたがそんな顔してたら」
レモがつばさの方を向いた。
「心配、させちゃうでしょ」
枯草色の瞳が、ふっと和らいだ。
「だって、りんちゃんもイチちゃんも、あんたを心配させる子達?」
そんなレモの問いに、つばさは頭を振る。
「違う、そんなことない。りんもイチも、私に心配かけない。むしろ、むしろ……」
つばさの橙の瞳が揺れた。
むしろ、こちらの心配してくれる。
だから、彼らは今。
「だったら、あの子達を信じなさい。つばさにそんな顔、させるわけがないんだから」
ふわり、と。
レモはつばさの頭へ手を置き、続ける。
「だから、あんたは大丈夫でいなさい」
ぽんぽん、と。
つばさの頭を撫でるレモの手は優しくて。
あたたかくて。
つばさの中で、何かが。
音をたてて弾けたのが分かった。
橙の瞳からあふれた熱いもの。
それが、あとからあとから。
あふれてきて、止められなくて。
何かを求めて、つばさは手を伸ばす。
レモにすがり付く。
レモは一瞬、そんなつばさに目を丸くするのだが。
そっと彼女を受け入れて。
嗚咽をもらすその背中に、そっと手をまわした。
突然のことで脱出の機会を失った電気ネズミが、ぐえっと潰れたのには、気付かないふりをして。
その背中を撫でた。
「あんたは頑張ったよ、出来ることをした」
そんなレモの言葉に。
「でも、私、私。りんとイチを、結局傷つけて」
「ん?」
「りんとイチに、取り返しのつかないことした」
レモの腕の中。
つばさは声を震わせる。
取り返しのつかないことをした。
イーブイには。
あの小さな身体には重すぎるもの。
隻眼という、一生の重荷を。
ファイアローには。
もしかしたら、もしかしたら。
そんなことは、考えたくはないけれども。
最も大切なものを、失わせてしまうかもしれない。
そう考えるだけで、震えが止まらない。
彼らが大好きだから。
その分だけ、大切だから。
これだけは抑えられない。
どれだけレモに言葉をもらっても。
言葉を、もらっても。
言葉、を。
そのとき、つばさは目を見開いた。
言葉の重さを、改めて感じたのだ。
そう、言葉は重い。
つばさがイーブイに言った。
追って、と。
だから彼は追って、結果的に片目を失った。
もしかしたら、ファイアローは。
そんな結果になることを、どこかで分かっていたのかもしれない。
だからあの時。
道をふさいだのだろうか。
もしあの時、歩みを止めていたら。
違う結果になっていたのだろうか。
彼の言葉に耳を傾けなかったのは。
つばさの判断。その結果。
ファイアローまでも傷つけて。
もしかしたら、もう、あの笑顔に二度と会えないかもしれない。
そんな今の現状。
自分が彼の言葉を聞かなかったから。
否。それを承知で。
いや、言葉を変えれば。
彼が逆らわなかった、とも受け取ることができるではないだろうか。
そこまで考えて、恐ろしくなった。
ファイアローの中の自分は、それだけの存在なのだと。
言葉一つで、光にも、闇にもなる。
言葉はなんて、重いのだろうか。
そんな中で、レモが口を開いた。
「確かに、正しくなかったのかもしれない」
つばさが身を固くする。
「でもね、間違ってもないと思うの」
その言葉で、つばさは弾かれたように顔を上げた。
「な、なんで?」
「だって、ライちゃんはここに居るもの」
そう言うと、レモは懐から一つのモンスターボールを取り出してみせた。
それはとても、見覚えのあるもので。
「結果がでどうであれ、ライちゃんがここに居るってことも、結果の一つ。それを、忘れないで」
ね、つばさ。
と、彼女の濡れた頬を、指の腹で拭う。
だが、つばさは別のことに気が付いて。
「ライ、ラ……」
動けないでいた。
橙の瞳が震えだし、見開かれる。
「ん、どうしたの?」
つばさの様子に、レモが問いかける。
だが、それに対しての返答はなく。
ただ、つばさの視線が。
レモが手にするボールへと、向けられていることにだけ気が付く。
「もしかして、あれの心配?」
レモの言う、あれ。
連絡を受け、センターへと駆け込んだ際に。
スマートなお姉さんの助手的存在である、ハピナスから受け取った。
ラプラスの入っているボールを。
そこに添えられた紙に、その内容は書かれていた。
「特殊な方法でプログラムが書き換えられていたから、ボールが開かなかったみたいだけど」
そこに、つばさはぴくりと反応する。
「プロ、グラム……?」
「そう。でもね、スマートなお姉さんが一瞬で上書き修正してくれたから、もう、大丈夫よ」
だから、安心して。
と、レモは返す。
ああ、そうか。
と、つばさは納得する。
だから、呼びかけたあの時。
彼女は反応を示さなかったのか。
自らの意思で反応を示さなかったのではなく。
示せなかった。
だから、呼びかけを拒んだわけではない。
そうだったのだ。
けれども。今、それを知ったところで。
最早、つばさにはどうでも良かった。
一つの事実に気が付いてしまった。
それは、もう。変わることはない。
つばさはそっとレモの腕から離れ、立ち上がる。
「つばさ?」
つばさの態度に、違和感を覚えたレモが名を呼んだ。
背を向けられたレモからは、つばさの表情は分からない。
再度、名を呼ぶ。
それでも、もう。
その声は、つばさには届かなかった。
否。始めから、届いてはいなかったのかもしれない。
声は届いても。
つばさには、響いていなかったのだから。
「私、忘れてた。存在そのものを、忘れてた」
つばさがぽつりとこぼす言葉。
あまりに小さな呟きで。
それがレモに届くこともなく。
彼女は続けた。
「りんとイチのことしか、考えてなかった」
それは次第に震えだし。
震えた声音に耳を傾けていたのは。
解放されて伸びていた、ピカチュウだけ。
人間よりも、優れた聴力を持つ彼だからこそ。
聞き取れた言葉。
ぴくりと彼の耳が跳ね、つばさを静かに見る。
「私の中でライラは、当たり前の存在じゃなかったんだ」
無意識に作った小さな拳。
それが、震える。
幼少期から傍で見守ってくれていた、彼女という存在。
そう意味では、確かにつばさの中では当たり前になっていた。
けれども。
こうして旅をするようになって。
自身の“手持ちポケモン”としての彼女の存在は。
全然、当たり前ではなかった。
その証拠がこれなのだ。
ここのセンターに来てから。
つばさは、イーブイとファイアローのことしか考えていなかった。
そう、すっかり抜け落ちていたのだ。
彼女の存在が。
今回の騒動の中心だったのに。
よくもまあ、忘れられていたものだと思った。
ならばもう、いっそのこと。
「私といても、不幸しかないんだから」
自分と居たから。
彼女を巻き込み、彼らを傷付けた。
ならば、自分の中で。
彼女という存在が“当たり前”になる前に。
否。
自分の中で“当たり前”になってしまうくらいの存在ならば。
もう、いっそのこと。
「いらない。ライラなんて、いらない」
その言葉は。
自分でも驚くくらいに。
あっさりと。
喉からすべり出た。
*
遠くで、何かが。
崩れて行く音を聞いた。