16杯目 月は何を想う

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 あの頃のあの日から。
 意識は静かに浮上する。



   ◇   ◆   ◇



 瞑目から、そっと開く。
 覗くは、煌めく一つの金の星。
 本来二つある煌めき。
 うち一つは、縦に刻まれた一文字で閉ざされて。
 夜闇色に包まれた身体に刻まれるは、凛として静かなる青の輪模様。
 それが呼応するように明滅を繰り返す。
 今宵の夜空に浮かぶ月は。
 普段よりも、一層眩しい。
 月を仰いで、彼はその金の瞳を細めた。
 眩しいというより、煩い。
 煩いくらいに、輝くそれ。
 否。月は輝かない。
 月は。太陽の恩恵を得てして、初めて輝くのだ。
 決して、己だけでは輝けない。
 それは、自分も同じ。
 自分も、あいつの恩恵にあやかっているだけの存在。
 強くはないのだ。
 それは、あの頃のあの日から。
 よく知っている。
 月に照らされながら、彼の口元に自虐的な笑みがもれる。
 冷たい夜風が、彼を撫でて行く。
 それは優しいようで、冷たい。
 冬の半ばを過ぎた頃だが。
 やはり外の寒さはまだ厳しい。
 吐息が白く、それは夜闇に呑まれて消える。
 石畳が敷き詰められた歩道に。
 ぽつりと無感動に光を落とす街灯。
 その下に、彼はいた。
 月から街灯へ、視線を移す。
 無感動の光りには、無感動な瞳で。
 吐く息は変わらず白くて。
 その白が、夜闇に呑まれて行く様を。
 ただ、無感動に見ていた。
 つばさは、何を言いたいのか。
 この、自分に。
 侮蔑の言葉か。罵りの言葉か。
 つばさの夢を奪った自分に。
 言うべき言葉。それは。

《…………っ!》

 無感動だった瞳に、感情の色が滲んだ。
 瞳が歪み、荒んだ感情を抑え込む。
 それを可視化する様に、輪模様が激しく明滅を繰り返す。
 つばさに拒まれたら。自分は。
 それに耐えられるのか。
 答えは、否。
 そこまで考えて、はっとした。
 息を飲む。
 激しく明滅を繰り返していた輪模様が、大人しくなる。
 待てよ。待て。
 つばさがいつ、自分を拒んだのか。
 その素振りを見せたのか。
 いや、むしろつばさは。その逆を。
 自分に手を差し伸べた。
 それを拒んだのは。
 紛れもなく、自分。

《…………はっ》

 呆れて息がもれた。
 その衝動で、声までもがもれて。
 思わず、天を仰いだ。
 天には相も変わらず、煩いくらいの月があって。
 相も変わらず、吐息は白く、夜闇に呑まれて行く。
 このまま自分も、呑まれてしまいたいと思った。
 つばさをまたも、傷付けた。
 それをやっと自覚する。
 差し伸ばしてくれた手を弾いた。拒んだ。
 向き合うのが怖くて。
 その手を掴むということは、認めるということで。
 突きつけられた事実を、認めるのが怖かった。
 けれども、つばさが。
 それを突きつけたからといって、自分を拒むはずなどないのに。
 自分はつばさが大切で。
 つばさも、それと同じくらいの想いを。
 自分にも向けてくれているというのに。

―――つばさちゃんが大好きだから、かな

 そう紡いだ、ファイアローの声がこだまする。
 聞いたのは、それほど遠くはない時間。
 ようやく、その意味が理解出来た気がした。
 吐いた息は相変わらず白くて。
 けれども今度は。
 夜空に吸い込まれて行った。
 自分の馬鹿さに目眩がしそうだ。
 簡単なことだったのに。

《それでも、つばさも…》

 やっと覚悟を決めたということは。
 つばさだって、それに気付くのに。
 かなりの年月を要したことになる。
 少し自分の方が、要した時間が多かっただけなのだから。
 ま、引き分けのようなもので。

《月が、丸いな》

 今夜は満月だったのか。
 そこにようやく、気が付いた。
 幾度目かの吐息。
 その白の中に、違う白が混ざったのを。
 視界の端で、確かに見た。
 それはとても小さく。
 注意しなければ気付かない程で。
 今宵は満月。
 彼の神経が、より冴え渡る時。
 だから、それにも目敏く気付いた。
 同時に、その白の正体にも気付いて。
 一気に面倒くさそうな気配を醸し出す。

《……………》

 月を仰いでいた金の瞳が、ついっと細められて。
 一つ、息を吐いたのち、静かに瞑目する。
 そして。
 闇夜に紛れて聞こえる軽快な足音に。
 気付かないふり。
 足音は、彼が気付いていないと思っている。
 にへらっと笑う音に。
 闇夜に呑まれることがない、白銀を散らして。
 静かに、否。
 賑やかに、元気よく地を蹴りあげて。

―――えーいっ!

 と、興奮気味な声ももらす。
 が、それを彼は。
 ひょいっ。
 そんな軽い音が聞こえそうな要領で、身を沈めてしまうから。
 ぽすっ。
 と、これまた軽く、可愛い音が聞こえそうな感じで。
 地に抱き着く結果となる。
 大地よ、ありがとう。
 そう感謝を述べるように、地へと接触した白の毛玉が。
 むくりと起き上がれば。

―――パパのばかっ!

 ぷくっと頬を膨らませてみせた。

―――せっかくラテが、なぐさめてあげようとしたのにっ!

 さらにぷくりと、破裂しそうなまでに膨らませて。
 きらきらと。小さな怒りで、その瞳を煌めかせて。
 自身の父へと向けた。
 きっと睨み付ける。
 だが、当の彼は。
 片目を薄く開き、その痒くもない睨みを受け止めた。

《なぜ、ここにいる?》

 次いで問うた声音は鋭く、咎めるような響きを持って。

―――だって、パパがしょんぼりしてるから

 臆する必要のない響きを。
 白イーブイは、不貞腐れた響きで弾き返す。
 そして。

―――ラテがなぐさめてあげようと思ってっ!ラテ、いいこだからっ

 誇らしげな響きを持って、ふんすっと、胸を張る。
 いわゆる、どや顔。
 そんな白イーブイに、彼の片眉が確かに跳ねた。
 彼女に向ける金の瞳に、感情の色はない。

《お前は》

 子供のくせに、と。
 妙に知った風情のその態度が。
 自分で何とか出来ると思うその態度が。
 何だかとても、不愉快に感じた。
 彼の声に、弾かれたように瞳を向けた幼子。
 それとそれが交わった刹那。
 幼子が笑った。
 にひっと、その小さな白い歯をみせるように。

―――パパ、こっちみた!

 ただ、それだけ。
 それだけだったのに。
 細かった彼の金の瞳を、見開かせるだけの効力はあって。

《…………っ》

 そこに、何かが疼いて。
 瞬くと、見開かれた瞳を覗きこむ幼子がいて。

―――おほしさま、みっけ

 ふふっと、今度は小さく笑う。
 その幼子の姿に、息が詰まった。
 それは反則だ。
 もう、見ていられない。
 そう思った彼は、静かに白イーブイを引き寄せて。
 ぽすっと、懐へ閉じ込める。

―――パパ…?

 突然のことに、理解が追い付けない様子の白イーブイ。
 だが、そんなことなど。彼には関係がなかった。
 見てはいられないと思った。
 同時に、見せられないと思った。
 懐に閉じ込めた幼子が、あの日のあいつと重なって見えた。
 それを意味するのは、つまり。
 わずかな頬の火照りを自覚して。
 そんなもの、見せられない。
 そう、思ったのだから。
 あいつと別れる間際に、あいつがみせた仕草、表情。
 別れる間際。
 今思い返せば。
 自分はおそらく、たぶん。
 不貞腐れていた。
 そんな自分に。
 そんなに寂しそうにしないでよ。
 あいつはそう言った。
 そう言われたのが何だか不愉快で。
 そうは思っていない、と。
 鋭い視線を投げかけた。
 そしたらあいつは。
 やっとこっち見たね、と。
 星、みっけ、と。
 ふふっと小さく笑って。
 その時に、初めて知ったのだ。
 自身の奥底に在った。
 まだ、見つけていなかった感情の存在を。
 その記憶が、呼び起こされる。

―――パパ……?

 身じろぐ幼子に。

《黙れ》

 そう、呟いて抑え込む。
 小さな、ぐえっという潰れた声が聞こえたが、そんなものなど知らない。
 だから、不愉快に感じるのだ。
 子供のくせに。
 子供らしくない、その鋭さ。
 それを、妙に知った風情で語る様。
 その一つ一つが、不愉快だ。
 なぜ、いちいちこの幼子は思い起こさせるのか。
 あいつという存在を。
 この、懐かしいあたたかな感情を。
 だから、不愉快なのだ。
 そのあたたかさが、つきりと痛んでいた奥底に染み込んで行くから。

《…………ふう》

 そっと、小さく紡いだ名は。
 誰の名か。
 会いたくはないけれども。
 それでも、会いたいと思ってしまう存在の名。
 それを紡ぐ。
 紡がれた名は闇夜に溶けて行くが、その一欠片は幼子の耳に溶ける。
 ぴくりと跳ねた幼子の耳。
 勢いよく上げられた幼子の顔。
 そして、驚きで丸くなった幼子の瞳。
 沈黙が幼子を支配し、彼は固まる。

―――ぱ、ぱ

 と、口を開かれて。

《黙れ》

 ぎゅむっと。
 彼は前足で幼子の頭を押さえ込む。
 そのまま、そっぽを向く。

―――へへっ、パパのおかおがまっか

 にへらっと笑う幼子の顔など、見れるはずもなく。
 彼はさらに顔を背けて。

《………っ、黙れっ》

 だから、見られたくはなかった。
 あの時のあいつと。
 同じ笑顔を浮かべるのが、分かっていたから。
 暫く、その場に沈黙が降り積もった。
 けれども、降り積もったのは沈黙だけでなく。
 冬の寒さも降り積もって。
 それは、彼を冷やしていくのには十分で。
 頬の火照りが冷めてきた頃。
 ようやく、白イーブイを見ることができた。
 が、その頃にはもう。
 彼女は、うつらうつらとしていて。
 夢の世界へと誘われる手前。
 傾きかけた彼女の身体を、彼が寸前で受け止める。
 穏やかな寝息をたてる幼子に、彼は呆れの息を吐く。
 夜更けに出歩くからだ。まったく。
 そのまま幼子を背に乗せ、歩き始める。
 そこで、ふと思い至る。

《…………おい、まさか勝手に出歩いて……》

 一気に彼の瞳が不機嫌で煌めく。
 それはとてつもなく、面倒くさそうな展開だぞ。
 苛つきを隠そうともせずに、尾が揺れた。
 すると。

―――おこられるの、パパだから……いいかなって……

 むにゃむにゃと言いながら、背の毛玉が言う。

《…………お前》

 このクソガキ。
 瞳に物騒な光が灯った。
 父親にあるまじき思考の持ち主。
 それが彼である。
 確かに白イーブイの言う通りだ。
 ここで帰ってから。
 間違いなく、怒られるのは彼で。
 白イーブイは悪くて注意だ。
 つばさはそういう奴である。
 白イーブイが勝手に抜け出したことを承知の上で、だ。
 尚更納得がいかない。
 だが、幼子の言葉はそれだけでなく。

―――……でも、そしたら………

 むにゃむにゃ。

―――つばさ、おねえちゃんに…ごめん……なさい、する……こと、できるよ……

 幼子の言葉に。
 歩みを進めていた足を止めた。
 幼子なりの気づかい、というものなのだろうか。

《…………本当に、似てる。あいつと……》

 ぽつりと呟いた言葉は。
 小さくて小さくて、けれども。
 とても優しい響きを含んでいて。
 それを大切に拾った幼子は。

―――それって、ママのこと?

 とても眠気の含んだ言葉を、ぶつけてきた。
 視線を落とした彼の瞳。
 それが、優しく細められた。
 どこか、懐かしむような光を宿して。

《ああ》

 短く返した言葉。
 背の幼子が、小さく動いた。
 その動きで、嬉しそうに笑ったのが分かった。

《………………!》

 胸が小さく、鳴った。
 自身の奥底を、小さく震わせる。
 その小さな音は。
 そこからあふれる、あたたかな感情が。
 一体、何なのかは全く知らないけれども。
 それでも。今、自分は。
 幼子に、あいつの面影を重ねている。
 過ごす日々の中で、一つ一つ見つけていく。
 あいつと同じところを。
 それを重ねて、日々、想いを積んで。
 実感する。
 背の幼子は、確かに自分とあいつを繋げる。
 唯一の、存在。
 この子のことを頼むね。
 そう言って、自分の元を離れたあいつからの。
 大切な預かりもの。
 再び足を動かし始める。
 向かうはあそこ。
 つばさが待っている、場所。
 怒られて、そして。
 そのときに謝るのだ。
 背の幼子が、与えてくれた機会。
 そのときふいに。
 背の幼子が身じろいだ。
 先程よりも、とろんとした響きで。

―――………ぱ…ぱって、…ままの………こと、いつから……す、き…なの………?

《…………っ!?》

 一瞬息を詰まらせ、ごほごほと彼は咳き込む。
 妙な汗を浮かべ、ちらりと背に視線を向ける。
 虚ろな瞳を向ける、背の幼子がいた。
 その幼子が。
 にやり、と小さく笑った気がして。
 わざとか、と思った。
 的確に突いている。分かっている。
 自分が動揺する、的確なところを。
 そしてその様を見ては、楽しむように眺める。
 思えば、あいつへの気持ちを認めたのも。
 この幼子の言葉による、誘導ではなかったか。
 そんなところも、あいつと。

《子供は寝ろ》

 視線を戻し、冷たく突き放す。
 もう、付き合ってはいられない。
 ざわつく奥底を鎮めるのに努める。
 背の幼子は、それでも粘っていたのだが。
 耳元で囁く睡魔には逆らえなかったようで。
 すぐに眠りの深淵へと堕ちていった。
 耳をすませば、規則正しい寝息がした。
 そっと息を吐き出す。
 相変わらずの白い息。

《いつからか、だと?》

 白い息と共に、言葉が飛び出た。

《そんなものは》

 言葉にするのを、ずっと避けてきた。
 言葉にしてしまえば、それは。

《もう》

 認める、ということで。
 でも、もう。決めたのだ。

《ずっと、前から》

 逃げないと。
 言葉にするということは。

《好きだった》

 覚悟を決めるということ。
 知らない感情の存在を知ったのは。
 あいつが傍から離れたとき。
 その感情を自覚したのは。
 あいつが傍から離れたと実感したとき。
 それからそれを認めるのに。
 それなりの月日を要した。
 そしてそれを、やっと認めたのは。
 つい最近のことで。
 背の幼子の、見事な誘導尋問による。
 そして、そう想うことの覚悟を決めたのは。
 たった今で。
 おそらくその想いは。
 自分が気が付かなかっただけで。
 もう、ずっと前から。
 ずっと前から。
 確かにそこに在ったものなのだと、思う。
 そう思ったことへの答えは。
 今、自分の背で眠る幼子。
 その存在そのものが、答え。
 想いがなければ、成さなかった形なのだから。
 吐く息は白く。
 見上げる月は丸く。
 冷たい石畳の上を歩き、向かう先は。
 つばさの待つ、あの場所。
 そして。
 またね、と傍を離れたあいつを。
 待つと決めた、あの場所。



   *




 大切なものが待つ場所。
 大切なものを待つ場所。
 道の方向を教えてくれた。
 道しるべ。それが。

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