15杯目 追憶 散るそれは、赤の花弁で

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 生まれたばかりのことは。
 もう。あまり覚えてはいない。
 朧気で、ふわっとしてしまっていて。
 それでも、知っていることはある。
 それは。
 自分はずっと待っていた。
 彼女のことを、ずっと待っていた。
 そのことだけは。
 生まれる前から知っている。
 自分の奥底に刻まれた、その想いだけは。
 今までも、この先も。
 ずっと、変わらないもの。
 どれだけの。
 どれだけの時が流れようとも。



   *



 確かに速いと思った。
 仲間の入ったボールを奪った、黒い何か。
 けれども、追えない速さではない。
 にやり。
 一つ、不適な笑みを浮かべ、イーブイは地を蹴り続けていた。
 雪に足をとられることなく。
 彼は黒い何かを追う。
 雪に完全に沈む前に、それを蹴りあげるものだから。
 蹴りあげられた雪は舞い上がり、光を弾く。
 白銀の毛並を持つ彼だから。
 その様はまるで、雪の精が踊っているようで。
 けれども。彼の纏うものに、そんな幻想的なものは微塵もない。
 彼はただ、目の前のものを追う。
 それだけだったのだから。
 自分は強い。
 すぐに仲間も取り戻してやる。
 だから、もう泣くなよ。
 つばさに泣かれると、奥底がぎゅっと痛くなる。
 それに、つばさがつばさで在るためにも。
 絶対に取り戻す。
 気付いていた。
 ラプラスという存在があるから、つばさはつばさでいられた。
 それが無くなってしまったら。
 どこか、壊れてしまうのではないか。
 そんな不安が、彼を襲う。
 まだ、つばさは自分の足で立てていない。
 自分がその足になれたのなら、よかったのだけれども。
 自分にはまだ、その強さがない。
 その強さを得るには、どうしたらいいのか。
 それを。
 ラプラスに問いかけたこともあった。
 けれども彼女は、ふふっと笑って。
 また今度です。
 そう、答えただけだった。
 その答えをまだ、見つけられていない。
 だから、自分のためにも。
 ラプラスには居てもらわないと、困るのだ。
 目元に剣を滲ませて、前の黒い何かを睨む。
 そのときふいに。
 黒い何かが笑った気がした。
 それがとても気になって。
 気が付いたら、拓けた場所に飛び出していた。
 咄嗟に立ち止まる。
 当にこちらの存在には気付いていたはずで。
 けれども、それを撒くことも。
 追い払うこともせずに。
 それどころか、全く気にする様子もなく。
 そこで、自分の中の何かが。
 警鐘を鳴らしていた気がした。
 視線の先にいた。
 黒い何か。
 否、あれはニューラ。
 それが、長く伸びた白い爪を。
 そこに掴まれた赤と白の。
 彼女が入ったボールを。
 恭しく差し出すその姿。
 誰に向けて。
 黒を基調とした服。
 それに身を包んだ人間。
 差し出す。差し出した。
 それを受け取る人間が、言った。

「ターゲット、回収」

 冷たく、笑った。
 そして。
 ついっと、細められた瞳に。
 こちらに向けられた瞳に。
 自分は射ぬかれた。
 その瞳の奥に、ちろりと灯る炎。
 冷たく、暗い炎。
 それを確かに、見たのだ。

「おまけも連れてくるなんて」

 人間の口が、弧を描く。

「ニウちゃん、えらい」

 人間の足もとにいる。
 ニウちゃん、と呼ばれたニューラが。
 笑った。
 三日月に、笑った。

「雪みたいな白銀の毛並」

 うっとりと目を細める人間。

「綺麗。綺麗だけど」

 瞳を手元のボールに向け。
 ボールを手の中で、くるくると弄ぶ。

「狙いはこれだから、それに用はない」

 冷たく放つ言葉に。
 想いのような欠片は一切ない。
 ただ、冷たいだけ。それだけ。

「でも」

 弄んでいた手が、動きを止めた。

「暇潰しには、なる」

 にたりと嗤う、その口元に。
 再び向けられた瞳は。
 愉しげに、爛々と。光を宿した。
 そして、同じ光を携えた獣が一匹。
 ニューラが、駆け出す。
 ぎらりと光弾く、白の爪が。
 見開かれたイーブイの瞳に映ると。
 躊躇うこともなく、否。
 愉しげに振り下ろされた。



   ◇   ◆   ◇



 ファイアローは、つばさと共に駆けていた。
 陸地を駆けるには不向きな身体の彼。
 空へ舞い上がれば。
 きっと、地を駆けて行くよりも、速く追い付けると思った。
 だから、彼女を背に乗せて。
 そう思ったところで、顔をしかめた。
 小さな軋みを聞いた。
 翼の筋が強ばっているらしい。
 まだ、回復しきれていないようで。
 無理に羽ばたくことも考えた。
 きっと、それは可能だ。
 けれども、もし。途中で力尽きた場合。
 それが空高く舞い上がったときだとしたら。
 つばさと共に落ちて。
 そこまで考えて、やめた。
 だからファイアローは、つばさと共に駆けていた。
 予感がしている。
 つばさが、これから向かおうとしている。
 その道の先には。きっと。
 光なんてものは待っていない。
 だって。自分達にやれることは限られている。
 それを見誤れば。
 その身を、滅ぼすことだってある。
 彼女には笑っていて欲しい。
 それが自分の願いだから。
 だから、先程道を塞いだのに。
 彼女が見せた綺麗な雫。
 それは、自分にとっては。
 最も見たくないもの。
 そして、改めて痛感した。
 自分の中の。彼女の存在の大きさに。
 なぜ、彼女なのか。
 それは自分でもよく分かっていない。
 けれども、彼女でなければ駄目だから。
 自分は彼女と共にいる。
 そう、決めたから。
 彼女が居るから、自分は自分で在る。
 自分は、彼女が笑っていられる道を行く。
 その道を歩んで行くのならば。
 その時にできる最良の手助けをしたい。
 今できるのは。
 彼女の傍で、彼女を支えてあげること。
 だから、どこまでも行くよ。
 一緒に行くよ。
 その道の先に待っているのが。
 光じゃなくとも。



   *



 ただ、道を駆ける。
 彼が残してくれた足跡を追って。
 自分が彼の元にたどり着いたとき。
 きっと、物事は終わっている。
 彼女も無事に戻ってきている。
 彼には、そう思わせる強さを持っていて。
 いつも傍にいてくれる存在。
 頼りになる、なってくれる存在。
 それが彼で。だからさっき。
 追って。
 そんな言葉が、するりと滑りでた。
 彼なら大丈夫。
 そう思えるから。思わせてくれるから。
 だから自分は。
 自分に出来ることをやるのだ。
 今出来るのは、自分も向かうこと。
 他に何が出来るのかなんて、それは分からない。
 分からないけれども。
 向かわないという選択肢は、自分にはない。



   ◇   ◆   ◇



 雪化粧をした風景。そこに。
 鮮やかな赤で、小さな花弁を散らす。
 刻まれた箇所から、それは散らされていた。
 ちりちりと。
 焼けるような小さな痛みが。
 身体を駆け抜ける。
 痛みと共に刻まれるそれは。
 もう、幾重にも。
 雪のように綺麗だった白銀は。
 その鮮やかな赤で、彩られ。
 上下する背は。
 険しく歪む目元は。
 何を現す情景か。

「いいよ、ニウちゃん。きれいに染められてる」

 うっとりと目を細めて嗤う、その人間に。
 同じく嗤うニューラの動きは。
 愉しむような動き。
 ニューラが振り下ろす、白の爪。
 きらりと鋭い光を弾くそれを。
 かわすことの可能な、ぎりぎりのところで振り下ろす。
 否。ぎりぎりかわすことの出来ない、絶妙なところで振り下ろされる。
 振り下ろされる度に。
 白銀の身体から、小さな花弁が散る。
 それは、鮮やかな赤で。
 それはより。
 白銀の身体の背を、上下させる。
 愉しんでいる。
 相手のその余裕が。
 ぎりり、と一つ歯噛みするほど。
 悔しい。悔しいのだ。
 同時に、情けなさも感じて。
 鮮やかな赤で彩られた、己の白の爪に。
 ニューラは舌を這わす。
 ねっとりとしたそれを。
 その感触を、楽しむように。
 そして、そんなニューラの瞳に宿る。
 爛々とした悦びの光。
 それだけで、力量の差というものを思い知る。
 相手は単なる暇潰しに過ぎないのだ。
 こちらが。
 ぎりぎり避けられない程度に、加減をしている。
 ただ、それだけ。それだけなのだが。
 それだけだから、悔しくて、情けなくて。
 強くなどなかった。
 自惚れとは、まさにこのこと。
 そして、何がより悔しいのか。
 それは、己の強さを見誤っていたことか。
 違う。
 そんなことなど、今はどうでもいい。
 では、何か。
 それは。
 それは、彼女の存在を取り戻せないこと。
 ただ、その事実だけが。
 何よりも悔しい。
 任せろと思った。泣くなと思った。
 つばさのそんなものなど、見たくはないから。
 つばさのもとに、彼女を返してやれない。
 それが、これほどまでに。
 悔しく、情けなく。
 ぎりり、また一つ歯噛みする。
 その様を、無感動に見下ろす一対の瞳。
 その瞳に、すでに光はなく。
 代わりに宿るのは。
 興味の失せた、飽きたようなもの。

「ニウちゃん、もういいよ。つまらない」

 人間の。感情のない、冷めた声音。
 ふいっと、鮮やかな赤で彩られた白銀から。
 その瞳をそらした。

「もう、おしまい」

 その一言を合図に。
 爪に舌を這わせていたニューラが。
 嬉々とした光を、その瞳に宿したのを。
 確かに見たのを、覚えている。
 白銀がその瞳を見開いたときには。
 すでにニューラは、眼前に迫っていた。
 息も感じるほどの近さ。
 それはもう、反射だった。
 足を後ろへ一歩引いたとき。
 同時に、振りかざされたニューラの白い爪が。
 勢いよく、振り下ろされるところで。
 振り下ろされた。
 それを理解した頃には。
 左目に、焼けるような痛みが走っていて。
 声も出なかった。
 ただ、覚えていたことは。
 霞んでいく視界の、その端で。
 霞んでいく視界のその向こうで。
 つばさが、手を伸ばしていたこと。
 声にならない声が、耳に。
 ああ、泣いている。
 誰が。
 つばさが。
 何よりも、泣かせたくない存在が。
 ああ、哭いている。
 どこで。
 声にならない声で。奥底で。
 そんなに泣かなくとも。
 きちんと聞こえている。
 そんなに哭かなくとも。
 きちんと聴こえている。
 だから、なくな。





 それを最後に。
 ふっと、まぶたが落ちた。
 ふっと、意識が堕ちた。



 最後に感じたのは。
 あの子の瞳からこぼれおちた。
 雫の熱さだった。

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