生まれたばかりのことは。
もう。あまり覚えてはいない。
朧気で、ふわっとしてしまっていて。
それでも、知っていることはある。
それは。
自分はずっと待っていた。
彼女のことを、ずっと待っていた。
そのことだけは。
生まれる前から知っている。
自分の奥底に刻まれた、その想いだけは。
今までも、この先も。
ずっと、変わらないもの。
どれだけの。
どれだけの時が流れようとも。
*
確かに速いと思った。
仲間の入ったボールを奪った、黒い何か。
けれども、追えない速さではない。
にやり。
一つ、不適な笑みを浮かべ、イーブイは地を蹴り続けていた。
雪に足をとられることなく。
彼は黒い何かを追う。
雪に完全に沈む前に、それを蹴りあげるものだから。
蹴りあげられた雪は舞い上がり、光を弾く。
白銀の毛並を持つ彼だから。
その様はまるで、雪の精が踊っているようで。
けれども。彼の纏うものに、そんな幻想的なものは微塵もない。
彼はただ、目の前のものを追う。
それだけだったのだから。
自分は強い。
すぐに仲間も取り戻してやる。
だから、もう泣くなよ。
つばさに泣かれると、奥底がぎゅっと痛くなる。
それに、つばさがつばさで在るためにも。
絶対に取り戻す。
気付いていた。
ラプラスという存在があるから、つばさはつばさでいられた。
それが無くなってしまったら。
どこか、壊れてしまうのではないか。
そんな不安が、彼を襲う。
まだ、つばさは自分の足で立てていない。
自分がその足になれたのなら、よかったのだけれども。
自分にはまだ、その強さがない。
その強さを得るには、どうしたらいいのか。
それを。
ラプラスに問いかけたこともあった。
けれども彼女は、ふふっと笑って。
また今度です。
そう、答えただけだった。
その答えをまだ、見つけられていない。
だから、自分のためにも。
ラプラスには居てもらわないと、困るのだ。
目元に剣を滲ませて、前の黒い何かを睨む。
そのときふいに。
黒い何かが笑った気がした。
それがとても気になって。
気が付いたら、拓けた場所に飛び出していた。
咄嗟に立ち止まる。
当にこちらの存在には気付いていたはずで。
けれども、それを撒くことも。
追い払うこともせずに。
それどころか、全く気にする様子もなく。
そこで、自分の中の何かが。
警鐘を鳴らしていた気がした。
視線の先にいた。
黒い何か。
否、あれはニューラ。
それが、長く伸びた白い爪を。
そこに掴まれた赤と白の。
彼女が入ったボールを。
恭しく差し出すその姿。
誰に向けて。
黒を基調とした服。
それに身を包んだ人間。
差し出す。差し出した。
それを受け取る人間が、言った。
「ターゲット、回収」
冷たく、笑った。
そして。
ついっと、細められた瞳に。
こちらに向けられた瞳に。
自分は射ぬかれた。
その瞳の奥に、ちろりと灯る炎。
冷たく、暗い炎。
それを確かに、見たのだ。
「おまけも連れてくるなんて」
人間の口が、弧を描く。
「ニウちゃん、えらい」
人間の足もとにいる。
ニウちゃん、と呼ばれたニューラが。
笑った。
三日月に、笑った。
「雪みたいな白銀の毛並」
うっとりと目を細める人間。
「綺麗。綺麗だけど」
瞳を手元のボールに向け。
ボールを手の中で、くるくると弄ぶ。
「狙いはこれだから、それに用はない」
冷たく放つ言葉に。
想いのような欠片は一切ない。
ただ、冷たいだけ。それだけ。
「でも」
弄んでいた手が、動きを止めた。
「暇潰しには、なる」
にたりと嗤う、その口元に。
再び向けられた瞳は。
愉しげに、爛々と。光を宿した。
そして、同じ光を携えた獣が一匹。
ニューラが、駆け出す。
ぎらりと光弾く、白の爪が。
見開かれたイーブイの瞳に映ると。
躊躇うこともなく、否。
愉しげに振り下ろされた。
◇ ◆ ◇
ファイアローは、つばさと共に駆けていた。
陸地を駆けるには不向きな身体の彼。
空へ舞い上がれば。
きっと、地を駆けて行くよりも、速く追い付けると思った。
だから、彼女を背に乗せて。
そう思ったところで、顔をしかめた。
小さな軋みを聞いた。
翼の筋が強ばっているらしい。
まだ、回復しきれていないようで。
無理に羽ばたくことも考えた。
きっと、それは可能だ。
けれども、もし。途中で力尽きた場合。
それが空高く舞い上がったときだとしたら。
つばさと共に落ちて。
そこまで考えて、やめた。
だからファイアローは、つばさと共に駆けていた。
予感がしている。
つばさが、これから向かおうとしている。
その道の先には。きっと。
光なんてものは待っていない。
だって。自分達にやれることは限られている。
それを見誤れば。
その身を、滅ぼすことだってある。
彼女には笑っていて欲しい。
それが自分の願いだから。
だから、先程道を塞いだのに。
彼女が見せた綺麗な雫。
それは、自分にとっては。
最も見たくないもの。
そして、改めて痛感した。
自分の中の。彼女の存在の大きさに。
なぜ、彼女なのか。
それは自分でもよく分かっていない。
けれども、彼女でなければ駄目だから。
自分は彼女と共にいる。
そう、決めたから。
彼女が居るから、自分は自分で在る。
自分は、彼女が笑っていられる道を行く。
その道を歩んで行くのならば。
その時にできる最良の手助けをしたい。
今できるのは。
彼女の傍で、彼女を支えてあげること。
だから、どこまでも行くよ。
一緒に行くよ。
その道の先に待っているのが。
光じゃなくとも。
*
ただ、道を駆ける。
彼が残してくれた足跡を追って。
自分が彼の元にたどり着いたとき。
きっと、物事は終わっている。
彼女も無事に戻ってきている。
彼には、そう思わせる強さを持っていて。
いつも傍にいてくれる存在。
頼りになる、なってくれる存在。
それが彼で。だからさっき。
追って。
そんな言葉が、するりと滑りでた。
彼なら大丈夫。
そう思えるから。思わせてくれるから。
だから自分は。
自分に出来ることをやるのだ。
今出来るのは、自分も向かうこと。
他に何が出来るのかなんて、それは分からない。
分からないけれども。
向かわないという選択肢は、自分にはない。
◇ ◆ ◇
雪化粧をした風景。そこに。
鮮やかな赤で、小さな花弁を散らす。
刻まれた箇所から、それは散らされていた。
ちりちりと。
焼けるような小さな痛みが。
身体を駆け抜ける。
痛みと共に刻まれるそれは。
もう、幾重にも。
雪のように綺麗だった白銀は。
その鮮やかな赤で、彩られ。
上下する背は。
険しく歪む目元は。
何を現す情景か。
「いいよ、ニウちゃん。きれいに染められてる」
うっとりと目を細めて嗤う、その人間に。
同じく嗤うニューラの動きは。
愉しむような動き。
ニューラが振り下ろす、白の爪。
きらりと鋭い光を弾くそれを。
かわすことの可能な、ぎりぎりのところで振り下ろす。
否。ぎりぎりかわすことの出来ない、絶妙なところで振り下ろされる。
振り下ろされる度に。
白銀の身体から、小さな花弁が散る。
それは、鮮やかな赤で。
それはより。
白銀の身体の背を、上下させる。
愉しんでいる。
相手のその余裕が。
ぎりり、と一つ歯噛みするほど。
悔しい。悔しいのだ。
同時に、情けなさも感じて。
鮮やかな赤で彩られた、己の白の爪に。
ニューラは舌を這わす。
ねっとりとしたそれを。
その感触を、楽しむように。
そして、そんなニューラの瞳に宿る。
爛々とした悦びの光。
それだけで、力量の差というものを思い知る。
相手は単なる暇潰しに過ぎないのだ。
こちらが。
ぎりぎり避けられない程度に、加減をしている。
ただ、それだけ。それだけなのだが。
それだけだから、悔しくて、情けなくて。
強くなどなかった。
自惚れとは、まさにこのこと。
そして、何がより悔しいのか。
それは、己の強さを見誤っていたことか。
違う。
そんなことなど、今はどうでもいい。
では、何か。
それは。
それは、彼女の存在を取り戻せないこと。
ただ、その事実だけが。
何よりも悔しい。
任せろと思った。泣くなと思った。
つばさのそんなものなど、見たくはないから。
つばさのもとに、彼女を返してやれない。
それが、これほどまでに。
悔しく、情けなく。
ぎりり、また一つ歯噛みする。
その様を、無感動に見下ろす一対の瞳。
その瞳に、すでに光はなく。
代わりに宿るのは。
興味の失せた、飽きたようなもの。
「ニウちゃん、もういいよ。つまらない」
人間の。感情のない、冷めた声音。
ふいっと、鮮やかな赤で彩られた白銀から。
その瞳をそらした。
「もう、おしまい」
その一言を合図に。
爪に舌を這わせていたニューラが。
嬉々とした光を、その瞳に宿したのを。
確かに見たのを、覚えている。
白銀がその瞳を見開いたときには。
すでにニューラは、眼前に迫っていた。
息も感じるほどの近さ。
それはもう、反射だった。
足を後ろへ一歩引いたとき。
同時に、振りかざされたニューラの白い爪が。
勢いよく、振り下ろされるところで。
振り下ろされた。
それを理解した頃には。
左目に、焼けるような痛みが走っていて。
声も出なかった。
ただ、覚えていたことは。
霞んでいく視界の、その端で。
霞んでいく視界のその向こうで。
つばさが、手を伸ばしていたこと。
声にならない声が、耳に。
ああ、泣いている。
誰が。
つばさが。
何よりも、泣かせたくない存在が。
ああ、哭いている。
どこで。
声にならない声で。奥底で。
そんなに泣かなくとも。
きちんと聞こえている。
そんなに哭かなくとも。
きちんと聴こえている。
だから、なくな。
それを最後に。
ふっと、まぶたが落ちた。
ふっと、意識が堕ちた。
最後に感じたのは。
あの子の瞳からこぼれおちた。
雫の熱さだった。