Page 31 : 理由

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読了時間目安:18分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 騒動のあった一日は明け、いつものように朝は巡ってくる。
 清々しくひやりと肌に刺さる朝の空気を一身に受けて、ラーナーは透き通る青い空を見上げた。日光の暖かさが今は心地よいくらいだった。周囲も落ち着き払っている。休日の朝はまだ町全体が眠っているようで、ゆったりとした幕開けだ。これから向かう朝市は早朝から始まる。新鮮な農産物が並ぶとアランがあらかじめ話したが、ラーナーの故郷のウォルタには無かったものだから物珍しさに期待が無いわけではなかった。
 玄関口の扉が開いた音に振り返った。まず目に入ったのは苛々した表情を見せているアラン、すぐにその後ろに手をひかれて出てくるクロ。旅の際にずっと被っていた帽子を身につけ、前髪にほとんど隠れている瞳は半分も開いていない状態だ。
「待たせて悪いなラナちゃん。くっそこいつ案の定まだ寝てやがった。ちゃんと俺は朝市の話をしたにも関わらずなんだこの意欲の低さは。寝なくても平気な体質じゃねえのかよ」
「うるさい、耳に響く。睡眠意欲には勝てないこともある」
「はいはい文句は後で聞いてやるわけないからさっさと行け。これ買い物メモよろしく。ラナちゃんは朝市初めてなんだからお前がしっかりしろよ!」
 そう言って思いっきりクロの背中を叩いた。平手で殴ったという方が表現としては正しい。爽快感すら覚えるような音が跳び、その痛さにクロは思わずその場にしゃがみ込む。無言の悶絶をするクロを無視してアランはそそくさと家の中へとまた戻ってしまった。
 アランというパイプラインを失い、あっという間に二人は取り残される。言い知れない気まずさが辺りを満たす。
 クロは大きな溜息をついて眠たげにメモに目を通す。アランの言った通り種類豊富に書き綴られている。朝市に売り出される食べ物は、普通のマーケットで売られるものと違って生産者と消費者が直接リンクする。生産者本人が売り出すため、売り専門の業者が間に挟まない分値段も安くなり、とりわけ新鮮なものばかりが並ぶ。それを狙って早朝にも関わらず沢山の客が集まる。その人混みがクロは気に入らないのだが、今はもう戻ることはできない。
 ゆっくりとクロは立ちあがる。
「……行くか」
 ラーナーは小さく頷いた。早足で歩きだしたクロの後を慌ててついていく。


 *


 トレアス市街地の中央にある市民会館に隣接した広場に所狭しと屋台やビニールシートが並び、野菜、魚介類、肉類、得体の知れぬ謎の果実まで、様々な食物が売られている。意気の良い声が辺りを跳び回り、ラーナーは目が回りそうになる。あちらこちらで声をかけられ、慣れていないラーナーはその度に視線を行き交わせる。加えて行き交う人々の中にいれば、ぐんぐんと上昇する熱気が一層疲労を誘う。
 一方クロは勧誘の声に惑わされずに淡々と買い物を進めていく。どんどん市場を進むクロにラーナーはついていくだけで必死になり、会話など挟む余地は無かった。仲直りどころか、まともなコミュニケーションをとっているような会話はまだ一度もできていない。
 クロの両腕は大きな紙袋で埋まり、持ちきれない分はラーナーが持っている。気怠さに紛れ、鼻に香る乾いた紙の匂いがラーナーの心をささやかながら和らげた。
 クロの紙袋にまた一つ何かが入って、彼は息を吐き、ラーナーは視線を上げた。その表情には少なからず疲労が見えている。
「大丈夫?」
 思わずラーナーは尋ねる。荷物をもう少し持ってあげるべきだろうかと思いつつも、クロの持っている荷物を自分が持てるとはとても思えないほど、見た目からして重量感がある。
「別に、これくらい」
 ちらと話しただけでまた会話は終了する。確かにそれほど苦労しているようには見えないが、少し前まで歩くのすらままならない状態だったというのに、いつの間にここまで回復を遂げたというのか。
 額からたれる汗を拭うラーナーをちらりとクロは見やると、肩を落として辺りを見回す。と、あるものに目を止めた。方向転換して、人の声を潜り抜け、市場を外れると若干寂れたように店の数は減少する。背後に騒ぎ声を残して、クロが向かった先は朝市が開催されている広場の端にある木のベンチ。丁度良く今は建物の創り出した影がかかっていた。
 クロは向かって右側に荷物をまず一つ下ろすと、その重みでベンチが悲鳴をあげる。少し考えてから、もう片方の荷物は仕方なさそうに地面に置いた。
「座ったら。疲れたんじゃないの」
 ぶっきら棒に言うと、背後で遠慮がちに立ち竦んでいたラーナーは縮こまる。威圧感のようなものがクロから発せられていて、座れと命令されているかのような口調のように受け取った。
 ラーナーはクロの置いた荷物とは反対側にそっと座る。その瞬間足の痛みが雪崩れ込み、頭に熱が昇る。肩の荷が一気におりるようにほっと息をついた。
 クロも身体の緊張を弛緩させるように長い息をついた。日陰の中に入ってくる風は涼しい。
 しばらく沈黙が流れる。ラーナーは持っていた荷物を自分の左隣に置く。その後、クロがようやく座った。その距離は荷物を挿んで近いようで少しだけ遠い。けれど、本当の狙いである仲違いの解消をするためには、他に機会はない。気まずい雰囲気の中で互いに言葉を探す。
 こうしている間にも朝市にはまた人が入っていき、一層騒ぎは大きくなる。家族連れも多く、子供達が黄色い声をあげながら走りまわっている。
 クロ、とラーナーは呟くような声で呼んだ。クロは小さく返事をした。
「……火傷のこと、ごめんね」
 呼んでから数秒置いた後にゆっくりと噛みしめるように話し始め、頭を下げた。
「無神経だったと思う。ごめん。隠したいに決まってるのに、問い詰めようとして」
 クロは視線を漸くきちんとラーナーに向けて、大きな溜息をついた。
「別にもうどうでもいいよ」
 ぶっきらぼうに言い、頭をだらりと後ろに傾ける。やはり本調子ではないのだろうかとラーナーは心配になる。
 空虚だった。ぎこちなさは癒えない。
 また間が空く。クロはその間に朝に寝ぼけ状態の中でアランに言われたことを脳内で噛みしめていていた。この場にアランがいたらどんなに楽だろうと痛感するが、生憎いないし、また同じく二人の橋渡しをしていたポニータもいない。
 自分たちで探っていくしかないのだった。
「……なんていうか」今度はクロが切り出す。「俺も言いすぎたし」
 耳を疑うように、ラーナーはクロを凝視する。一方のクロは逃げるように顔を背けた。
「ここに残ればいいとか、それが一番良いどころか一番危険なのに」
 小さく紡がれるその言葉をラーナーは聞き逃さなかった。そしてその言葉の意味を呑みこむことができず、首を傾げる。
「どういう意味?」
「……どこにいたって黒の団の目にいつか見つかる。あんたがここにいると知られて、でもその場に俺がいなかったらあんたは勿論、アラン達だって皆殺される。誰も戦えないんだから」
 淡々と出てくるが内容は身も凍るほど恐ろしいもので、ラーナーの記憶にまた弟の姿が焼きつく。
 一方のクロの脳裏にも、別の情景が浮かび上がっていた。
「以前、俺が初めてアラン達に会った時」
 クロはゆっくりと話を進める。
「その時はトレアスじゃなくリマっていう町にいた。色々あってオーバン家に身を置いていたんだけど、ある日の夜に黒の団の襲撃を受けたんだ」
 ラーナーは息を呑んだ。
 クロは瞼を閉じた。甦る記憶はいつでも彼を揺さぶる。
 爆発するような悲鳴と興奮が風景を満たし、そして血の飛沫が走る。様々なものが割れ倒れ音が掻きむしる。暴れまわる。全てが引っくり返る。泣き声と叫びの不協和音が金切り声のように響き、やがて訪れる平穏の時。その時クロに残るのは、空虚。手に握られた火閃の炎は小さい。全身に付きまとう血の色と匂いが彼を後悔へと導くと同時に、静かな歓喜に似た衝動で心は満たされるのだ。
「俺しか戦えなかった。無力な誰かを守りながら戦うのは難しい。それでも戦わなければならなかった。あの人達を捨てられなかった」
 閉じていた瞳は姿を見せて、虚空を見つめる。
「その後オーバンの人達は今のトレアスの家に引っ越した。血みどろの家になんか住めないし。……」クロは一度口を噤む。「……もうこれ以上、あの人達を巻き込むわけにはいかない。だから、あんたを置いていくわけにはいかない」
 強い意志が言葉の芯となっている。
 安堵と戸惑いが混在した心中で、うんとラーナーは小さな相槌を打つ。うん、そうだねと続ける。独り言のようで、クロは不意にラーナーを見やり、その顔が俯いているのを確認した。重くなった髪が垂れて、日陰の中で更に影が落ちているようだ。その胸中をはっきりと察することができないクロは、黙って自分も視線を上へと戻した。こうしてどう言ったら良いのか分からない時には黙っておくのが彼にできる最善の手だった。
 ラーナーは目を閉じて思考を整理する。クロが原因であるが黒の団に襲われたアランとオーバンの夫婦。クロのおかげで、生き延びた。そして一カ月程前、黒の団に襲われたラーナーとセルド。セルドは死んだ。そしてラーナーは生き延びた。目の前の人間に救われて。そうして今、ウォルタを離れ、逃亡の旅は再開する。
「また逃げる旅が始まるんだね」
 ラーナーは思わず口を滑らせる。
「いつになったら終わるんだろうとか考えるんだ。未来とか、前も考えてなかったけど、今は本当に不透明すぎる」
「……いつ終わるか、か。それは分からないな」
 ぶっきら棒にクロは言い放つ。
 数秒置いてから突然ラーナーは音を立てて立ちあがった。クロは驚いてラーナーを凝視した。影に包まれたラーナーの身体、その目が光る。その目力は強い。
「……クロ、クロはどうして旅をしてるの?」
 深緑の目が大きく見開かれた。それまでの思考が一度リセットされ、身体が硬直する。その後ぐるりぐるりと脳内が回転して、視線も自然とそれる。
 それは長く深い静寂の時間だった。
 日陰の外を見れば人混みは大きくなり、一層強くなる日差しの元で賑やかさは駆けあがるように増す。
 クロは重い唇をゆっくりと開いた。

「探している人がいる」

 テンポはスローに重々しく。

「生きているかも、死んでいるかも分からない。けど、探さなきゃいけないんだ」

 不安定だったクロの目が定まる。その視線の先にいるのはラーナーではなく、遠い青空を睨みつけているかのようだった。その表情にラーナーの中に息が止まるような恐怖すら走った。険しく、そして決して崩れることはないであろう決意の表れが彼を支配している。ラーナーはウォルタでの騒動時やバハロでブレットと対峙した時のクロの姿を思い出した。それは、その時とどこかしら似ていたからだった。
 声をかけようとするラーナーだが、次の言葉は浮かんでこない。クロはまた自分の世界に浸っているからだ。こうなれば外界からの介入を許さず、しばらくはそっとしておくしかない。
 溜息をついた後に、ラーナーはまた先程の場所に仕方なさげに座った。そうして目を閉じ、自分の思いを整理する。クロの旅の理由は分かった。そして理解できたのは、クロの旅にはいつしか終わりがあるということだった。彼はただ一人を探し求め、いつしか辿りつくだろう、自分の求めているものに。それがどんな形であろうと。そう考えていると、ラーナーは自分の心が締め付けられる感覚に襲われた。
 どれほど経ったろうか、数分の時が流れた頃、待っていたラーナーの耳に音が入ってくる。見ればクロが漸く動き出して、朝に渡された買い物メモに目を通していた。先程の冷たい雰囲気は消え、少し間が抜けたようでラーナーは微笑む。
 時々荷物の中のものを確認しながら、そのうちメモを閉じてまたポケットに戻す。
「用は終わった。早く帰らないと物が腐る」
「あ……うん」
 クロは立ちあがって地面に置いていた荷物を右腕で回すように持つ。
 その様子を見つめていたラーナーは、いつの間にかクロの名前を呼び掛けていた。それにクロは視線を上げた。
「何?」
「……もし、クロの探してる人が見つかったとしたら、クロの旅は終わりだよね」
 押し黙るクロを余所に、ラーナーは力無く笑う。
「ごめん。ちょっと考え事してた。気にしないで」
 歯切れの悪い言葉にクロは目を細める。
 ラーナーは自分の持ち分の荷物を手に取ると、その場を立つ。その一つ一つを確認するようにクロは凝視する。その視線に気付き、ラーナーは首を傾げ、無言で帰ることを促すように歩き出す。
 数歩進んで日陰から出てから、クロが追ってこずに立ち止まっており、ラーナーはまた振り返る。クロは重く何かを考えているように表情を固くしている。
 ラーナーが声をかけようとした瞬間、その顔が上がり思わず押し黙る。が、何を言い出すこともなく荷物を持ちあげて歩き出し、ラーナーの隣までやってくる間際で再び立ち止まる。
「ラーナー」
 出てきた声は低いものだった。
「明日……できれば今日にでも、トレアスを出よう」
 突然の宣告にラーナーからは声も出なかった。
「行先はこの後すぐに決められると思うから」
「ちょ、ちょっと待って」
「いや、もう決めた」
「急すぎない?」
 不信げに顔を歪めるラーナーに、クロは首を横に振った。
「旅は急に始まるものだ。とりあえず帰るぞ」
 さっさと日陰から出て歩き出したクロの後を慌てるようにラーナーはついていく。
 と、またすぐにクロは立ち止まり、ラーナーも合わせて止まる。今度はなんだと言わんばかりにラーナーはクロの表情を覗く。
「あのさあ」
 クロは言いながら左側の荷物を少し下ろす。
「一番上に多分ジュースあるからとって」
「え?」
 戸惑うラーナーだったが急かすようにクロは荷物を動かす。両手が塞がっているためクロは自力で荷物の中身を取り出せないのだ。ラーナーは背伸びをして中を覗くと、確かに上にジュースの入った瓶がある。取り出してラベルを見てみると味はどうやらマンゴージュースのようだった。
「飲んでいいよそれ」
 クロは荷物を持ち直しながら言う。ラーナーは表情を固め、思わずジュースとクロの顔とを交互に見やる。
「あたしが?」
「他に誰もいない。俺はそういうのだめだから」
 その時ラーナーは自分に買ってくれたものなのだと分かり、空の雲が一気に消えるように心が晴れる。
「ありがとう」
 そう言いながら瓶を見て、勿体ないのか開け辛そうにしていたがやがて栓を手で捻って開けてそっと飲む。独特の濃厚な味が口の中に広がって喉が潤う。甘さが幸福感を呼び、表情もやはり笑っている。
 単純だな、とクロは聞こえないように呆れて呟いた。
 きっかけはなんでもいい。単純なことで、修復されるものもある。
 そういえば昨日アランも遺跡に赴いた時にお茶をくれたことをラーナーは思いだした。
 いつもクロは唐突だ。突然黙って外界との関わりを遮断したかと思えば、話を勝手に進めて歩き出す。自分勝手なところがあっていつもラーナーは振り回されている。でもそれがクロらしい部分なのだと受け入れてしまえば、こうして普通になったことはいつものクロに戻ったということであり、ラーナーは少しは仲直りできただろうかと考えて少し笑うのだ。
 人が多くなった朝市を横目に、二人は帰路を辿り始めた。クロが少し前を、ラーナーが少し後ろを。ちょっとずれて歩く、それが旅の間で当たり前になった歩き方だった。


 *


 帰宅後、アランが慌てるように身を乗り出して様子を聞き出そうと迫るのをさらりと流して、クロは荷物をアランに押しつけるように任せた後にアランの部屋に入る。夜中掃除していただけあって二四時間前では想像すらできないほど部屋は整理されていた。
 ベッドの傍にクロはやってくると、置いてある自分の鞄を手にとり中身を探る。すぐに出てきたのは、一カ月程前にアランとの電話に使っていた黒いポケギアだ。少し古いが今でも現役として働き続けている。
 それだけ手に持つとベッドに座り慣れた手つきで操作を進める。
 その途中でぴたと指の動きが止まる。現在の画面を凝視し、唇を噛みしめ、惑うようにベッドが軋む。今彼の置いている親指で強く決定を選択すれば次の段階に進む。それを躊躇うように表情を固くした。迷いを捨て切れずに時間だけが経っていく。
 目を閉じて溜息を吐いた後、決心したように一人頷くと親指でボタンを押した。直後、ポケギアは通信を始めて、すぐに電話のコール音が部屋に響いた。それはしばらく続き、一つ一つの音を聞き流すたびにクロの緊張は高まっていく。五回程鳴った辺りから落ち着きのなさのあまりその場を立ち、固い動きで部屋の窓を片手で開ける。外の風が部屋内に流れ込んできて、ほんの少し気分が楽になる。新鮮な空気は心を多少は沈静化させるが、一方でそれ以上に電話の音が彼を緊張させていく。
 十回目の音が通り過ぎた辺りでクロは一度通信を遮断する。深い溜息をついた後、もう一度電話をかける。二回目は一回目の迷いは一体何だったのかと問いたくなるほどあっさりとしたものだった。が、問題の話し相手はなかなか答えてくれない。
 時間を変えるべきだろうか。一度諦めようとした直後、六回目のコール音がぷちんと切れて静寂が訪れた。クロは息を呑み、画面を見る。目的の相手と通信が繋がっていることを示している。けれどお互い無言のままで、クロは声が出てこない。
『……もしもし』
 小さな声がスピーカーから零れてきた時、クロの心臓は一度大きな鼓動を刻んだ後、不思議と急速に落ち着いていった。聞き慣れた声。けれどしばらく聞くことは無かった声。幼さの残る男の子の声が、クロの耳に届いて懐かしさに彼を浸らせる。
『クロ?』
 尋ねるような口調にクロの口元はいつの間にか緩んでいた。
「……ああ。久しぶり、圭」

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