#33 シズちゃんの提案

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翌日の夕餉後のこと。エプロン姿のシズが、先程コガネシティへの出張から帰ってきたばかりのツクシと共にテーブルを囲んでいる。この場にいるのはシズとツクシの二人だけで、スズとスギナの姿は無い。寛いだ姿勢のシズを、ツクシは微笑ましげに見つめていた。

「ごちそうさま、シズ。さっぱりしてて美味しかったよ」
「お兄ちゃん、これ好きだったよね。豚の冷しゃぶ」
「もちろん。大根おろしとポン酢を和えて、上からネギを散らす。僕の大好物だよ」
「わたしも同じだよ。その食べ方が一番好き。スズが食べてくれたら、もっと作るんだけどね」

シズもツクシも好きな豚の冷しゃぶだったが、スズはこれがどうも苦手なようだった。作ってもほとんど残してしまうのである。今日はスズがスギナと共に出払っているので、その隙を突いて作った格好だ。コップに注いだ麦茶を時折飲みながら、兄妹が静かな時間を過ごす。こうして家族でいる時は、テレビも点けずに語らうのがこの家の常だ。ただ、スズは用が済むとすぐに自室へ引き払ってしまうし、スギナはしばしば帰宅が遅くなるので、この時間を過ごすのはシズとツクシの二人だけ、ということが多かった。

向かい合う兄妹が、互いの顔を見つめる。間もなく、ツクシがシズにこう言葉を掛けた。

「もしかしたら、もういろんな人からも言われてるかも知れないけど」
「わたしの顔つきが変わった、ってことかな?」
「うん。ずいぶん凛々しくなったな、って思ったんだ。母さんと何か話したの?」

シズの表情が変わった、以前に比べてずっと凛々しくなった――ツクシはシズをそう評した。その切っ掛けは母であるスギナとの対話ではないか、ツクシは半ば答えが分かっていて話をしているようだった。シズもツクシに導かれるまま、スギナと話したことをツクシに伝える。

「お母さんにね、励ましてもらったんだ。『シズはシズのままでいい、他の誰かになろうとしなくてもいい』って」
「ずっと『わたしはお兄ちゃんみたいにはなれない』って悩んでたから、そう言ってもらえて、すごく楽になったんだ」
「わたしはお兄ちゃんにはなれない。だけど……自分なりに、わたしなりに、精いっぱい力を尽くしてみよう」
「ジムのみんなを支えていく、みんなを応援するリーダーになりたい。だから、なれるように頑張ろう――そう誓ったよ」
「きっと、いろいろなことがあると思う。辛いこととか、悲しいこととか、苦しいこととか……だけど、その一つ一つから、新しいことを学んで、経験を積んで、少しずつでも前へ進んでいけたらいいなって、わたしは思ってるよ」

穏やかな調子で、ツクシに向けた決意表明を行う。その妹の姿を、兄は誇らしげに見つめていた。深く、大きく、幾度も頷いて、シズの言葉を一つ一つ咀嚼し嚥下していった。

「うん――それでいい、それでいいんだよ、シズ。『こうありたい』『こうなりたい』という理想を持ってる、そのために進むべき道のりを自分で見つけていける、みんなをそこへ連れていくための心遣いもできる。今の志を持ち続ければ、シズはきっといいリーダーになれるよ」
「シズが自分の意志を持ってくれてる。これ以上嬉しいことはないよ。後顧の憂いなんて一つもない。僕は心から安心して、シズにジムリーダーのバトンを渡せそうだよ」
「確かに大変なこともあると思う。今までとは何もかもが変わるから、身体が心に、或いは心が身体に付いていけなくなる、なんてことだってあるかも知れない。そういうときは、遠慮せずに他の人に助けを求めて欲しいんだ」
「僕は来年セキエイへ行くけど、できるだけ多くヒワダへ帰ってくるようにする。シズが悩んでたら、少しでも相談に乗れるようにするよ。母さんともよく話をして、シズが潰れちゃわないようにするからね。約束する。絶対に、シズを一人にはしない。だから、安心してね」

シズにジムリーダーのバトンは渡す、だけどその後もきちんとサポートしていく。ツクシの言葉に、シズは大きな安心感を得ることができた。兄と話ができるなら、これ以上心強いことなどない。なんといっても、兄は先代のヒワダジムリーダーなのだから。迷ったときは、自分の進むべき針路をコンパスのように示唆してくれることだろう。

「そうだ、シズ。出張してた間のジムの様子は、アドバイザーさんからメールで聞いたよ」

おもむろにテンポを切り替えて、ツクシが出張中のヒワダジムについて話題を移した。

「しっかりジムをまとめてくれたんだってね。きっとそうに違いないと思ってたんだ。予想通りだよ」
「みんながよく話を聞いてくれたし、クミちゃんやルミちゃんが手伝ってくれたおかげだよ」
「クミちゃんとルミちゃんに応援に来てもらったんだよね。あれだけ人数がいるとどうしても手が回らなくなるし、人手は多いに越したことはない。いい判断だね、シズ」
「ありがとう、お兄ちゃん。わたしもいい経験になったよ」
「うん、それならよかった。あと、事務作業もきっちりこなしてくれたみたいだね」
「そうそう。お兄ちゃんから教えてもらってたけど、思ってたよりもずっとたくさんあって時間が掛かっちゃった。わたしは細かい作業も好きだからいいけど、苦手な人には辛いよね。あれだけあると、『ジムリーダー』というより『事務リーダー』って感じだよ。『事務作業』の『事務』の方」
「ぷっ……あははははっ! いや、まさかシズがそんな冗談を言うだなんて、僕ちっとも思ってなかったよ」
「ふふふっ。昨日の夜に事務作業をしながら『わたしって、事務リーダー?』みたいなことを急に思いついちゃって、なんだか微妙に笑いが止まらなかったんだよ」
「うんうん。冗談を言える余裕まで出てきたみたいだね。もう完璧だよ」

来年がますます楽しみだよ。ツクシが張りのある声でそう言うと、シズは朗らかな笑みを浮かべて頷いた。しょうもない冗談を言えるくらいなら、気持ちに余裕が持てているのだろうというツクシの見立ては、眼前のシズの様子を見れば分かる通り、正しいもののようだった。

「それとさ。今日、ヒロト君のお母さんと話をしたんだって?」
「うん。お昼頃にジムまで来てくれて、今後のことについて話をさせてくださいって言われたんだよ」
「この時期だと、あれかな。塾に通わせるつもりから、ジムを辞めさせてほしい。そういう話だったんじゃない?」

さすがは兄だ。よく分かっている――シズは思わず嘆息した。伊達に八年間もジムリーダーとして前線に立っていたわけではない。ヒロト。パラスのマッシュを連れた男の子のトレーナーだ。その母親がシズに切り出したのは、まさしく今しがたツクシが口にした内容そのものだった。

強いて言うなら、言い方のニュアンスが少しばかり異なっていた。

「お兄ちゃんの言う通りだよ。ただ、ちょっとだけ雰囲気が違ってて、ジムを辞めて塾に通わせた方がいいのか、このままジムに続けて通うのがいいのか、お母さんも迷ってるみたいだったんだ」
「なるほど。それも含めて、シズと話がしたかったんだね」
「うん。ヒロト君が二年前の夏からジムに通い始めてすぐぐらいから、わたしによく懐いてたみたいだった。だから、わたしの意見も聞きたいって。そう言われて、わたしもちゃんと話をしなきゃって思ったよ」
「ヒロト君は、きっと家でもシズのことをよく話してたんだろうね。それで、シズはどんな風に答えたの?」

ヒロトの母親から意見を求められたシズは、このような答えを述べた。

「わたしは、無理をしてジムを続ける必要は無いと思います。ヒロト君を塾に通わせる必要があるなら、ぜひ通わせてあげてください」
「ただ、できれば……できればでいいです。ヒロト君の意志も尊重してあげてほしい、そう思います」
「無理をする必要はないです。月謝のこととかもありますし、最後の判断はお任せします。でも、ヒロト君が通いたいと言っているなら、無理の無い範囲で、続けさせてあげてほしいです」
「もしジムを辞めても、いつでも遊びに来ていただいて構いません。また通い直していただくのも大歓迎です。ヒロト君とたくさん話し合って、一番いい結論を出してください」
「――ヒロト君のお母さんには、こう答えたよ」

それでね、と前置きし。

「せっかくだから、ヒロト君がジムでどんな風に活動してるか、見ていきませんか。そう誘ってみたんだ。この日はちょうど毎月恒例の『ポケモン二人三脚大会』の日で、ヒロト君も参加してたから」

二人三脚と言っても、紐で足を結ぶのではない。トレーナーとポケモンが並んで走り、一緒にゴールを目指すという競技だ。両者は紐で結ばれていないので自由に動けるが、その分一方が突出してしまったり、片方が置いていかれてしまったりしてしまうことも往々にして発生する。そうなると失格となり、正式な記録としては認められない。お互いの意思疎通が重要な、見た目とは裏腹に高度な要素を備えた競技だった。

「ヒロト君のパートナーはパラスのマッシュだから、速く動くってことができなくて、もちろん走るのも苦手。普段からヒロト君に付いていくのが精いっぱいみたいだし」
「二人三脚に参加しても、やっぱりどうにも遅くて、初めはみんなから笑われたりもしてたっけ。あんまりゆっくりだから、わたしも見てて結構辛かった記憶があるよ」
「でも、ヒロト君はいつもマッシュとしっかりペースを合わせて、必ず一緒に歩いてゴールまで付き添ってあげてた。ヒロト君、今までで一度も失格になってないしね。どんなに遅くてもマッシュを叱ったり叩いたりは絶対しなくて、二人でゴールできただけでたくさん褒めてあげてた。マッシュは、それがすごく嬉しかったみたい」
「そうやって何回も参加するうちに、だんだんマッシュの動きが速くなってきたんだ。ヒロト君を勝たせてあげたい、一緒にゴールテープを切ってみたい。そんな風に思ったみたいで、少しでも速く動けるように、たくさん練習したみたいなんだ」
「昨日は、まだゆっくりだけどヒロト君もちゃんと走るようになってて、終わってみたら初めて四位に入ったんだよ。終わってすぐにヒロト君もマッシュも飛び上がるくらい喜んで、二人で抱き合ってたよ。ちょうどその様子をお母さんが見てて、結構思うところがあったみたい」

母親はパラスのマッシュと共に走る我が子の姿を見て、何を見出したのだろうか。どれほど遅くなろうともゴールまで走り抜き、一緒に駆けた相棒を褒めてやる。練習を重ねて結果を出せれば、共に喜びを分かち合う。ヒロトとマッシュの姿を、母親はいかなる心境で見つめただろうか。

「その後もう一度お母さんと話をしたんだけど、お母さん、ちょっと涙ぐんでてね。わたし、話を聞いてみたの」
「『家ではとてもおとなしくて、私や夫の言うことをよく聞いてくれています。何かが欲しいとダダをこねたこともありませんし、家事の手伝いも進んでしてくれます』」
「『私と夫が共働きで忙しくても、一人で家の留守を守ってくれる。手の掛からない、いい子だと思っていました』」
「『だけど、ジムではこんなに元気に活動して、とても楽しそうにしていたんですね。あんな姿は、家では見た記憶がありません。いつも静かに、一人で本を読んだり、マッシュの相手をしてやったりしているんです』」
「『もしかすると、家では結構無理をしているのかも知れません。私たちが、無理をさせているのかも知れません』」
「『仕事に疲れて帰ってくる私たち夫婦の顔色を見て、気を遣って、欲しい物やしてもらいたいことを、我慢しているのかも知れません』」
「『マッシュと一緒にゆっくり走ってる姿を、初めて四位を取って大喜びする姿を、私はこの目で見ました』」
「『つい先日、ヒロトが算数のテストで七十点を取って、もっと勉強しなさいと叱ったのを思い出してしまって、私は、居た堪れない気持ちになりました』」
「『ジムには、もうしばらく通わせてください。夫も交えて、三人でよく相談します。ヒロトの意見もしっかり聞きます』」

ヒロト君のお母さんは、わたしにそう言ってたよ。シズが静かに話を締めくくる。シズの話を聞いたツクシは、満ち足りた表情をして、感慨深げに頷いていた。

「シズのしたことは、すごくよかったと思う。僕もきっと、シズと同じことをしたはずだよ」
「そうだよね。ヒロト君、ジムにいるときはすごく元気で、楽しそうにしてるから。それを見てもらった方がいいと思って」
「うん。それに――子供だって、まだ未熟だけど人格のある、一人の人間だからね」

麦茶を一口啜ると、ツクシが続けて話をする。

「ヒロト君のお母さんは、多分初めからそれが分かってたんだと思う。自分は塾に通わせたい、けれどヒロト君はどう思うだろう。判断に困って、それで信頼できるシズに相談を持ちかけたんだよ」
「それで、シズは『ヒロト君の意思を尊重してほしい』って言って、ヒロト君がジムでどんな風に活動しているかを見せた」
「お母さんもヒロト君の別の一面を見て、親として気付きを得たんだと思うよ。だから、最後の言葉につながった」
「このままジムに通い続けるかどうかはまったく別の話だよ。それは、ヒロト君と家族で決めればいい。仮にジムを辞めるという結論に達したって構わない。僕は塾でたくさん勉強することだって、すごくいいことだって思ってる。ただ、その前によく話し合ってほしい。十分納得した上で、次に進む道を決めてもらいたいんだ。それで最終的にジムを辞めると言われても、僕はそれを喜んで受け入れるよ。ヒロト君の人生だから、本人の意思を介在させてほしいんだ」
「子供は、親の人形でも、手足でもないからね」

ツクシの「子供は親の人形でも手足でもない」という言葉。それを受けて、シズは自分の親、即ちスギナのことを頭に思い浮かべていた。

スギナはシズに対してもスズに対しても、あれをしなさい、これをしなさいと命令することがまったくなかった。してほしいことがあれば、「これをしてくれると助かる」といった具合に、必ずお願いをする形式で口にしていた記憶がある。シズやスズの意志を前もって確かめていたのだ。そのように言われると、シズは頼まれたことを進んでする気になれた。以前、心が折れてしまったシズに対して掛けた言葉の中に、「シズもスズも、そしてツクシも、意志のある一人の人間だ」というものがあったことも、もちろん忘れていない。

自分は恵まれていたのかも知れない。シズはそう考えた。世の中で一体どれほど、スギナのような考えができている親がいるだろうか。そう多くないに違いない。子供を自分の人形として捉えて、子供を自分の手足だと考えて、思い通りに動くことを要求する、思い通りに行かないことに腹を立てる。いつしか親も子も疲弊して、関係を継続することに疲れてしまう。そのような有様になっている親と子の、いかに多いことか。親の顔色を伺い、一挙手一投足に神経を尖らせている子供の、なんと多いことか。子供に神経を使わせていることに無神経な親の、どれほど多いことか。

「ちょうどね、ジムリーダーの定例でも、そんな話題が出たんだ。他にもたくさんあったけどね」
「そうなんだ……。お兄ちゃん、会議でどんなことを話してきたの?」
「……あまり、いい話題じゃなかったよ。気が重くなることばかりだったかな」
「気が重くなること……もしかして、お兄ちゃん……」
「もう、なんとなく予想は付いてると思う。ポケモントレーナーの起こした犯罪や脱法行為について、だったよ」

シズは、ツクシの顔が一気に曇ったのを決して見逃さなかった。この話をするときのツクシの顔は、普段の覇気のある物とは到底かけ離れた、強い憂いを帯びたものに変貌する。まるで別人のようだと、シズはツクシの表情の変化を見るたびに同じ感想を抱くのだった。

「会議で挙げられた事例、それから僕の知っている事例を、シズにも共有しておくよ」

そうして前置きをしてから、ツクシは淡々とした調子で、トレーナーが起こした事件や犯罪の事例紹介を始めた。

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