最終話 “光の中で夢を見る”

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 ここは、どこだ。



 俺は、誰なんだ。



 生まれ持って得た知性――科学者達によって植え付けられた知識で、俺は無限のような時間をひたすら思考にあて続けていた。
 己のアイデンティティーに始まり、果てには科学、社会学、哲学思想を独自に構築した。それが俺の誕生からたった1週間の間に起きた事だと気付いた時は、大層驚いたものだ。

 嘔吐を誘い、噎せ返るような死臭に満ちた暗闇が俺の生まれた場所だ。人はその場所を『ロケット団極秘遺伝子研究センターの廃棄物処理場』と呼んでいる。
 文字通り、遺伝子操作の過程で生まれた失敗作を捨てる場所だった。

 地獄の中で俺は声を聞いた。2人、3人……いや、4匹と1人。遠くから聞こえてくるその声に、俺はなんとか応えたかった。
 身体を動かしたくとも動けない。身体の感覚すら分からない。それでも声が聞こえてくる。コミュニケーションに飢え、孤独感ばかりが増していく。
 やがて、声は消えていった。

 声が欲しい。
 コミュニケーションへの飢えは、やがて俺に“口”の感覚を与えた。

「あ……あっ……」

 暗闇に自分の声が木霊する。かつて聞いた声より聞こえ方が大分違い、驚いた。
 それもその筈、かつて聞いた声は口から発するものではなかったのだ。俺はテレパシーを知った。

 テレパシーを声が聞こえた方角へ送ろうと思った。しかしやり方が悪かったのか、どうにも送れた気がしない。ただ思い浮かべるだけでは駄目らしい。
 俺はテレパシーの習得を諦めた。

 言語の知識はあったから、あとは発声の問題だった。
 文法の規則に従って単語を並べ、文を作り、声に出す。文までは簡単だったが、声は存外難しい。発声に体感時間で1年かかった。実際には半日だったが。

 後に分かった事だが、俺の学習速度は凄まじいものだったようだ。さすがはフジ博士とでも言おうか。
 ともかく、喋れるようになってからは俺は饒舌になった。とにかく暗闇の中で喋り続けた。木霊でいい、もはや音なしでは孤独感で気が狂いそうだったのだ。

 友達が、仲間が、話し相手が欲しい。何でもいい。人間、ポケモン、宇宙人でも微生物でも構わない。
 3日経ち、孤独はついに極限に達した。きっと速過ぎる思考の回転は、精神を狂わせ蝕む速度すら促してしまうのだろう。

 俺の力は、高まりきった俺の願望を叶える為に、己を生かす力を周りにも与えた。




「なぁッ……!」

 無精ヒゲを生やした白衣の中年男性は、廃棄物処理場に続くダクトの蓋を開き、絶句した。金髪のポニーテールを揺らす白衣の女性も、その中を覗こうと弾性の背後からピョンピョン跳ねている。
 そこには腐敗した死体しかない筈だった。定期消毒のために月1で焼却処理される前に、個人的に生じた失敗作をこっそり捨てようと思っていた時の事だ。
 なんと暗闇の中、開いた蓋から差し込む光に照らされて、フジ博士の“失敗作”が好奇心に目を輝かせてこっちを見上げているではないか。

「うわああぁぁぁああああ!!」

 男性はまるでゾンビでも見たかのように腰を抜かし、背後の壁まで飛び退いて、悲鳴をあげながらズルズルと床に崩れた。恐怖に目がくらみ、心臓が早鐘のようにバクバクと鳴る。身体中からびっしょりと嫌な冷や汗が駄々漏れる。
 口をパクパクさせている男性を見て、女性は更に興味を抱いた。荒っぽく閉じたダクトの蓋をもう一度開いて、暗闇に目を細めながら見回した。

「こんにちは」

 女性は明るく挨拶した。
 恐怖心はまったくなかった。科学的好奇心が、彼女の恐怖を押し潰したらしい。

「こんにちは」

 返事が返ってきた。女性の表情がグラデーションのように、活き活きとした笑顔に変わっていく。

「フラァ」
「ビリリッ」
「アブルルル……」
「ミロー」

 返事はひとつだけではなかった。
 優しい鳴き声、機械的な鳴き声、敵意に満ちた鳴き声、他にもいくつものポケモンの鳴き声が聞こえた。
 1匹じゃない。
 それらの事実は男性を余計に混乱させたが、何故だろうか、女性はにんまりと博士に振り返った。

「全部で7匹いますよ」

 男性は暫く空いた口が塞がらなかった。




 * * *




 モチヅキ博士は空いた口が塞がらなかった。
 ――今、この目の前で私に敬意を示している“恐怖の対象”は何て言った?

「……信じられない話だ」
「失礼ながら――」

 “彼”は口をもごもごさせ、言い難そうに改めて開く。

「科学者らしくない台詞です、だから貴方はフジ博士に勝てなかった」
「何をッ……」

 思わず本気になって言い返そうとしたが、何だか恥ずかしくなってきた。
 科学者とは事実を重んじるものだ。確かに少し冷静になってみれば――この状況下で本当に冷静になれたか自信は無いが――少しばかり、仮定の話に怯え過ぎたのかもしれない。
 思っていた復讐者の像と、目の前の“彼”は一致していない。もちろん演技の可能性もある。しかしミュウツーがそんなまどろっこしい復讐をするだろうか。完成体のミュウツー2匹は、どちらも研究所を破壊して研究者の皆殺しを図ったというのに。

 事実の認識は、安全を確信するまで続けるとして、目下このミュウツーをどう取ればいいのか分からなくなってきた。

「お前は本当に私や、ロケット団を憎んでいないのか? テクノロジーで人工的にお前を生み出し、しかもお前を死体と思い放置していた我々を……」

 その質問が来る事は分かっていた。
 しかし予想と本番は違うものだ。いざ答えようと口を開いても、その回転の速い頭をもってしても、すぐに答えることができなかった。
 “彼”が口を開けたまま数秒の間を置いて、プラズマ・フリゲートに衝撃が走った。先の爆発のせいで船体に亀裂が広がり、今にもバラバラになりそうだったプラズマ・フリゲートが、ついに限界に達したのだ。

「話は後で、行きましょう……!」

 律儀にもモチヅキ博士の同意を待ってくれるらしい、“彼”は博士に手を伸ばした。
 この手を掴めば、一緒に超能力で浮遊し、ブリッジにパックリと空いた亀裂から外に脱出できるだろう。トルネロスの猛攻を避けて、遠くへ遠くへ逃げるのだ。

 不思議な、奇妙な感覚がした。疑いは残っているものの、今まで抱いてきた目先への恐怖が消えて、霧が晴れたように周りが見えて来始める。
 未だ“彼”のサイコキネシスに捕らわれて動けないプラズマ団員たち。“彼”の肩から至極怪訝そうにこちらを見つめてくるビクティニ。ビュウビュウと風が入り込んでくる亀裂。破片で散らかったブリッジ。警告の文字と共に100%と表示が出ているコンソール……。

 気付いた時には、モチヅキ博士は“彼”の細い手を握っていた。

「――ま、待て!」

 思わず口から飛び出た言葉は、大層“彼”を驚かせた。きょとんとして、停止している。
 荒れた息を整えながら、モチヅキ博士は先ほどまで自分が操作していたコンソールに目をやった。

「トルネロスが、暴れている……このままにしてはいけない」
「あれは人間同士の問題です、我々には関係――」
「私に関係あるんだよ、ミュウツー。私のせいなんだ」

 すがるようにモチヅキ博士は繰り返した。
 テスラの命令に湧き上がる違和感、そして今、霧が晴れた思考ではっきりと罪悪感を感じる。モチヅキ博士は力が抜けたように“彼”の手を離した。

「アクロマの研究データを基に、私があの覚醒技術を完成させた。いずれ私に復讐しに来るであろうミュウツーや、報復を企むロケット団との戦いに備えて。愚かな話だよ、自分が安全だと分かって初めて罪悪感に襲われるとはね」

 ふう、とモチヅキ博士はため息をついた。おそらくこの場の誰もが呆れ返っているに違いない。
 誰との顔とも合わせたくなくて、モチヅキ博士は視線を泳がせたまま続けた。

「あの技術のせいで、何十人も死んだ。ポケモンもたくさん死んだ。今もたくさん傷ついている。だが一度100%まで覚醒状態を引き上げてしまっては、私にはどうする事もできないんだ」

 もしかしたら今、自分はとんでもなく愚かな間違いをしているのかもしれない、そんな考えが頭を掠めた。
 せっかくミュウツーが自分をここから助け出そうと言っている。しかもどうやら敵意は欠片も持っていない上、恩義を感じているらしい。
 これを利用しない手があるものか。大人しくこの場から立ち去ろうではないか。人里離れて、ひっそりと隠れて暮らそうではないか。
 何も自分の罪を認め、暴露して、ミュウツーを失望させる事はない……。

「頼む、ミュウツー……奴を止めてくれ」

 己に「やめろ」と繰り返し頭の中で思いながら、僅かに勝った罪悪感のままにミュウツーにすがった。
 呆れ果てて見捨てるだろうか。それとも嘲笑うだろうか。
 潰れそうなほどに怯えて縮こまる自分に情けなさを感じながら、モチヅキ博士はミュウツーの顔をおそるおそる見やった。

 目は、穏やかだ。感心すらしている。

「見直しました……姑息なだけかと思っていましたが、責任感も持っておられるとは」
「クティッ」

 肩のビクティニには笑われたものの、“彼”は手を下ろした。くるりと亀裂に振り返り、モチヅキ博士に背を向ける。
 モチヅキ博士は疑いを忘れ、心の底から安堵した。

 なんだかよく分からない関係だけども、ミュウツーは博士の事が好きなのね。ただ、貶しているのか褒めているのか分からないけど。
 ビクティニも同様に安堵しながら、肩から“彼”の横顔を見つめる。

 酷く冷たい目に、思わずゾッとした。

「待っていてください、すぐに終わらせてきます」

 それだけ言い残して、“彼”は亀裂から外に飛び出した。




 カウントダウンは既に始まっていた。
 もはや浮かぶ鉄屑と言っても過言でないほどに、見た目からしてリベンジャーの機体は酷いダメージを負っている。千切れた主翼、抉られた機体、あちこちから立ち昇る煙。残された問題は動力炉が爆発を起こすのが先か、トルネロスが破壊し尽くすのが先かだった。
 ポケモン達もトルネロスの周りに群がり、攻撃する。しかしどんな攻撃も嵐の核に居るトルネロスに届かず、数は減る一方だった。

 トルネロスの関心は破壊にしかなかった。
 ちまちまと小さいポケモンを潰すのも良い。しかし最も破壊によって爽快感が得られるのは、巨大なものを破壊した時だ。
 それに気付いた途端、トルネロスはリベンジャーへの攻撃に集中した。

「ドォォー!!」

 喉が枯れ、血の味が口に広がっても叫ぶことをやめない。やめられないのだ。
 身体のコントロールは意思から離れ、ただそれぞれの器官が狂ったように暴れることを主張する。体力は既に限界を越えていた。

 誰か、誰か……誰か誰か誰か誰かワシを止めてくれ――。

 口に膨大な風のエネルギーを溜めながら、軋む身体の内にある僅かに残った意思でトルネロスは祈った。
 天は、祈りを聞き届けた。

「苦しそうだな」

 冷酷な声。何度も聞いた、敵の声。幾度となく対峙してきたライバルの声。
 奴ならば止めてくれる。奴ならばワシを倒せる。何度か戦いを挑みながら、先ほど軽くいなされたのはショックだったが。
 トルネロスは天に浮かぶ敵を見上げ、激しく昂ぶり嘶いた。

「ドォォーアァァアー!!」

 口に溜めた破壊的な風の塊を天に向けて放った。激しい風の塊はトルネロスから離れた途端、一気に膨張し、まるで嵐が丸ごとそこに詰まっているような暴風攻撃を仕掛けた。
 迫る嵐の塊は、直撃すれば身を引き裂かれ、微塵の痕も残らないだろう。嵐の通った道に何も残らないのと同じように。

 ビクティニは戦いにもはや恐怖を抱かない。ただミュウツーを信じ、力を貸せば良い。
 絶対負けっこないもんね、ミュウツーは強いんだ。
 ただひとつだけショックだったのは、“彼”が自分を呼ばなかった事だ。

「行くぞ、ミスト」

 ミストって誰よ!
 そう噛み付く前に、目の前に見覚えのある黒い炎が広がった。
 “彼”の念波が形を持ち、具現化する。四足の獣の形で現れた巨大な“サイコブレイク”は、嵐の弾に向けてぱっくりと口を開け、まるで獲物を喰らう獣のように嵐を噛み砕いた。

 ビクティニがジト目を向けている間に、トルネロスは黒炎の中を強引に突っ切って“彼”に迫る。身を焼かれる事すら理解できぬまま、トルネロスは刃のように鋭いエアスラッシュと一体になって飛び掛かった。

「フラン!」

 またしても“彼”は知らぬ名を叫んだ。霧のように霧散する黒炎ではなく、“彼”の背中から翼のような黒炎が生えて、包容する。実体を持ったエネルギーと化した翼は、トルネロスの懇親の一撃と衝突し、エネルギー同士が大爆発を引き起こした。
 広大な空を爆発が焼き尽くし、衝撃が広がっていく。その様子を、リベンジャーの乗組員たちや外のポケモン達は見つめるしかできない。
 やがてもくもくと立ち込める煙から4つの影が飛び出した。
 黒い竜と、黒い獣。ミュウツー、そしてトルネロスと続く。

 “彼”が手を振るえば、まるで指揮に応じるように竜と獣が動いた。

 ビクティニは気付いていた。
 “彼”が酷く疲弊している。まだ表に出してはいないが、さっきまで落ち着いていたのに今や肩で息をしている。
 決着は今すぐつけるべきだろう。後の問題を、今は置いておこう。
 “彼”とビクティニは視線を交わし、互いに頷いた。

「……レイン」

 奇妙な感じがする。“彼”の名の呼び方に、愛着を感じているかのような優しい心が見える。
 何でだろう。ビクティニは蛇のような――水中を泳ぐように優雅に舞う黒炎を見上げて、ふと思った。
 ――ねえ、ミュウツー。これは君にとってただの技じゃないの……?

「お前と戦うのはまあまあ楽しめたが、終幕だ」

 姿勢制御を取り戻し、こちらに吠えるトルネロスを見つめながら、“彼”はそう呟いた。
 中途半端な一撃では倒せない。痛覚すら忘れて暴走するポケモンを止めるには、身体が悲鳴をあげて機能する事を拒絶するほどの強烈な一撃を叩き込むしかない。
 “彼”は己に残る念を全て――あえて憎悪も込めて、3匹のサイコブレイクに命じた。

「やれ」

 まるで冷たい死刑宣告のように響いた。
 死刑囚は牙を剥き、その強大な風の力を全てこの嵐に集中させた。吹き荒れる暴風が、既にかなりの距離を置いている筈の飛行ポケモン達すら吹き飛ばし、リベンジャーとプラズマ・フリゲートを酷く軋ませる。トルネロスを核とした嵐は、もはや己の力の制御を越え、かつてない史上最大のハリケーンを生んだ。
 もはやトルネロスの咆哮すら誰の耳にも届かない。風はただ、全てを破壊する為に吹き付けた。

 それらが全て、とんだ茶番劇に変わった。
 嵐の中をただ一筋。たった1本に集約された黒い光線が、音もなくあらゆる暴風攻撃を貫き、トルネロスを呑み込んだ。
 竜、獣、蛇、3匹から繰り出された攻撃はひとつに合体し、嵐の中を突っ切り、海に刺さった。未だに音も無い。
 しばらくして、轟音と共に海が弾けた。音波が海への直撃地点から爆発的に広がり、まるで衝撃波のように皆を襲った。ビリビリと震え、鼓膜に、全身に響く。
 プラズマ・フリゲートは、その衝撃に耐えられなかった。

「む……しまったな、博士が危ない」

 光線が過ぎ去り、サイコブレイクの3匹が霧散して消えた後も、トルネロスは空中に座していた。
 しかし“彼”にとってもはやソレは敵でなく、眼中に入っていなかった。モチヅキ博士が危ないと見るや否や、身を翻し、ついに船体が割れたプラズマ・フリゲートへと急いだ。

 トルネロスは光線の衝撃でかなり落とされはしたが、未だ浮いてそこに居た。
 身体はもう動かない。しかし覚醒技術によって暴れる事を命じられた身体は、既に瀕死を遥かに越えて尚も戦いをやめないのだ。
 やがてエネルギーをリチャージしたリベンジャーによって捕縛されるまで、トルネロスは黙してそこに浮いていた。




 * * *




 空の旅は経験がある。鳥ポケモンの背中に乗って風を感じるのは、最高に気分が良い。
 だが最後に空を飛んだのは半世紀も昔の話。今のモチヅキ博士にとって、地に足がついていない感覚は酷く不快なものだった。

「お、落ちないだろうね」

 さすがに10回目の同じ質問にはうんざりするが、“彼”はその都度丁寧に「落ちませんよ」と返した。
 プラズマ・フリゲートから博士をサイコキネシスで浮遊させ、今はトキワの森の空を通過した頃だ。
 マサラタウンの空でロケット団の軍艦と思しき飛空艇の傍を過ぎてから、最初は怯えきっていたモチヅキ博士も大分落ち着いてきた。高所恐怖症を除いて、「大丈夫なのか」はもう来ない。

 少し日が傾きかけた頃。
 速度を落とし、“彼”はモチヅキ博士と共に森の中へ降りた。鉄の床や空中散歩ばかりだったが、久方ぶりの生い茂った土の地面にモチヅキ博士は安堵した。

「本当に、ここですか?」

 “彼”の疑問に「あぁ」と答えて、モチヅキ博士は辺りをキョロキョロと見回した。
 ビクティニはふと自分達に注がれる視線に気付いて、真上を見上げた。枝の上にキャタピーがいて、こちらを見下ろしている。見慣れぬポケモン達に、キャタピーは興味を持っているらしい。ビクティニは笑顔で手を振った。

「あった、ここだ」

 モチヅキ博士が近くの木の窪みに手を突っ込むと、ガコン、と重い金属の音が聞こえた。
 地面のほんの一角が割れて、マンホールほどの大きさの穴が姿を露わにした。“彼”がひょいと覗き込んでみると、奥はコンクリートか何かで固められた深い穴が続いている。

 梯子のような取っ手に捕まりながら、モチヅキ博士を先頭に深い穴を下りていく。
 10メートルは下っただろうか、穴の底に降り立ち、モチヅキ博士は古く錆びたハンドルを回して、シェルターのようなハッチを開いた。

「入ってくれ」

 さあどうぞ、とモチヅキ博士に促されて、“彼”はハッチをくぐり、中へ足を踏み入れた。
 埃が立ちこめている以外、真っ暗なだけで何も見えない。少しひんやりするが、それは地下のせいだろう。
 続いて入ってきたモチヅキ博士が入り口近くのパネルに触れて、ようやくその部屋の全貌が見えた。

「ここは……!」

 思わず目を丸くした。
 埃をかぶっているものの、リベンジャーのブリッジに引けを取らないぐらいに立派な機材が並び、いくつもの光インターフェースが浮かんでいる。まさに最新式の科学ラボだ。
 モチヅキ博士に振り返ると、彼は自慢げに笑っていた。

「ロケット団本部の近くに、こんな秘密基地があるとは意外だろう。ここはフジ博士と私しか知らない研究施設だ。万が一ロケット団から支援を断たれた時に備えて、我々の研究だけは続行できるようにこの基地を造った。ロケット団の会計帳簿を誤魔化すのに苦労したよ」
「まさか、ロケット団から離反したのは」
「その嘘が経理部にバレてしまってね」
「彼らが怒る訳だ……」

 呆れ返るも、怒る気にはなれなかった。ここのおかげで自分も治療してもらえる上に、さっきからビクティニが好奇心をむき出しにしている。

「……本当に良いのか?」

 モチヅキ博士は一転し、真剣な口調で語りかける。

「私を信頼して、お前の身を預けても。お前を恐れて、私は途中で投げ出すかもしれないんだぞ」

 キャッキャッと周囲をキョロキョロするビクティニをよそに、“彼”は静かに首を横に振った。
 それは信頼の表れだと、モチヅキ博士も気付いた。
 内心、疑いもまだ抱いていた。何故こんなにも私を慕うのだろう。少なくとも私は、ミュウツーに親しく接した覚えは無い。

 答えを聞いてしまおうか――そんな考えが頭を掠めて、すぐに消えた。
 今そんなことをしても信頼を損なうばかりだ。幸い考える時間だけはたっぷりとある。“彼”が治療を終え、再び目覚める時までに自分で見つけ出そうではないか。
 モチヅキ博士は穏やかに微笑んだ。

「今日はもう疲れただろう、おいで。薬液の中は心地良いとは言えないかもしれないが……」

 そう言って、モチヅキ博士は準備のために奥の部屋へと潜っていった。

 治療にかかる期間は約1年。自ら生命活動を行うことを放棄して長く立ち過ぎた肉体に、慎重に、ゆっくりと、生きる事を馴染ませていくためだ。
 その間ずっと眠る事になるだろう。きっと一瞬の出来事のように感じるかもしれない。
 しかし普通に生きる者にとって、それはお別れの期間でもある。

 “彼”は奥の部屋に続いて眠りに入る前に、肩のビクティニをそっと手に抱いて、赤ん坊をあやすように見下ろした。

「暫しの別れだな」

 ビクティニは普段と違う“彼”の見え方に多少どぎまぎしながら、フフッと笑った。

「クティ」
「お休み……それだけか?」
「ティニー?」

 にんまりと嫌な笑みだ。

「寂しいのはお前だろう。俺には一瞬だ」
「クティク」
「お前の夢など見ないさ」
「ティニ!」

 ゴスッ。
 小さな火を額に灯した、ミニ“Vジェネレート”が胸部を焼く。
 既にトルネロス達との戦いを経てボロボロの身体なのだ。吐血寸前で留まったのは偉いと言えるに違いない。

「ぐッ……分かった、良いだろう、見るかもな。お前の夢を」
「ティーニ!」

 それで良い!
 ビクティニは満足げに“彼”の腕から飛び出し、距離を取って浮いた。

 きっと、ビクティニの笑顔が輝いて見えたのは、その真上にある照明のせいだろう。

「クーティ!」

 可愛らしい鳴き声に、思わず魅了されそうになった事を悟られなかったのは幸運だった。危うく眠るのを放棄し、傍に居たいと思うところだ。
 ビクティニに背を向け、一歩踏み出し、二歩と進む。これから死ぬ訳でもないのに、ビクティニを攫った最初の日からの出来事が頭を駆け巡る。



 奴と出会うまで、俺は闇に居た。闇の中で幾つもの声に押し潰されそうになって、俺も闇に染まっていた。
 いつからだろうか、他人を想うようになったのは。
 そんな疑問が浮かぶ度に、はっきりと答えを自答する。



 (ビクティニ)に出会ってからだ。



「あぁ、お休み」

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