うれしい。……うれしい。
怒る。……怒る。
悲しい。……悲しい?
……さみしい?
……怖い……?
一つずつ、指を折る必要もないほどあっけなく答えが出て、少女はふと、その手から力を抜く。
その心に棲む心はうすっぺらで、すかすかで。「さみしい」が育つより先に「怒り」が芽生え、「悲しい」が育つには彼女は諦めすぎた。
それは今も変わらずに。彼女は向けられた笑顔に返せる思いさえなく。
――ほとんどの感情は、彼女の理解の外にある。
* * *
笑い声が、ひどく耳に障る。訳もなく心が波立つ。
無意識に足を向けた先は、静かな場所。
百十番道路を少しはずれた場所にある森の中で、シェーリは投げ出すようにして木に体を預けた。
「……うるさい」
うるさい。
人の声が。
彼らが作った光が。音が。
気配、そのものが……。
ぐったりと体の力を抜く。短い下生えに手を落とすと、ふわりと草のにおいが鼻をくすぐった。
ポケモンの声が響く、彼らをうるさいとは思えない。
今まで彼女の周りにいたのはウィルゼ一人を除いて皆、マグマ団員だった。警戒すべきもの。心を赦すべきでない、そしていずれ排除する、――敵。
けれども、今は違う。ほんの数時間外を歩いただけで、姿が見えない、いるかどうかも分からない敵にシェーリの心は疲れ切っていた。
ウィルゼやクウたちの存在の大きさを今更ながらに思い知らされて、シェーリはふがいない思いでいっぱいになる。たった数日しかいなかった彼らにこんなに心を許していたことも、自分が実はこんなにも弱かったことも。
目をつむる。心は休息を欲している。けれどもシェーリは眠れない。警戒をやめない頭が、眠ろうとしないのだった。
* * *
「……最近、シェーリが冷たい」
コドラの体のチェックをしながら、ウィルゼは不満そうにぶつぶつと呟いた。
「そりゃミナモでのことは悪かったと思うけどさー……それにしたって、この三日間顔を合わせようともしないのは八つ当たりだよなー、コドラ」
狸寝入りを決め込むコドラ。絶対になめられている。お前のトレーナーだぞ、俺は。
「第一顔合わせないんだよな、うん。一体いつ眠ってるんだか……」
夜は眠ったあとで帰ってくる。朝は目覚めたときにはもういない。気配に敏感なはずな自分が夜中に全く起きないので、そもそも本当に帰ってきているのかもはっきりしないが、荷物がそっくり残っているところを見ると帰ってくるだけはしているのだろう。だけは。
「……いつ出て行かれるかと思うと気が気じゃないんだよなー……」
自分は一度シェーリを裏切っている。
その命を危険にさらしたことがある。それは今も彼女の体に刻印となって残っていて、だからウィルゼは怖い。置いて行かれるのが。
シェーリは一度これと決めたものを翻しはしない。
でもまだマグマ団を潰したいと、心底願っているのだろうか?
そうしたら「自分」が取り戻せると、本気で思っているのだろうか?
「……小さすぎたんだよ、俺達……」
コドラから手を放し、顔をうつむけて隠す。
せめて、もう少し大きければ。
そうすれば、記憶のかけらなりとも残っていたかもしれないのに――。
* * *
その夜、ウィルゼの意識はふと眠りから浮かび上がった。
ぼんやりと差し込む町の灯り。なんとはなしにそれを見ながら、ウィルゼはコドラのボールを確かめた。そっと握る。
何か、音がしたはずなのだ。自分が夜中に目が覚めたとなると。
けれども静かな部屋の中に、暖かいベッドから出ることを躊躇していると、突然毛布にぽすっと何かが乗った。
ここで飛び起きないのがシェーリとの違いだ。ウィルゼはしばしの後、それが目の前に降りてきてやっと身を起こした。
「なんだよ、イヴ……」
まだよく回転しない頭を抱える。待てよ、イヴがいるならシェーリが帰ってきたのか。
イヴはしきりに、切羽詰まったように繰り返し鳴いた。ウィルゼは部屋の中を見回して眉を寄せる。シェーリの姿がない。
……まさか。
疑問と不安は瞬時に恐怖に取って代わった。
「イヴ、シェーリはどこだ?」
待ってましたとばかりにイヴはベッドから跳び降り、駆け出した。
迷わずウィルゼは追う。ポケモンセンターを飛び出し、夜の町を駆け抜けるイヴは、時々振り返って彼がちゃんと付いてきているかを確かめながら、ある建物の扉の前で止まった。ウィルゼが大して息も切らせずに追いついたとき、彼女はかりかりと木製の扉をひっかいていた。
「……酒場……?」
「HIDE」と書かれた看板を見上げてウィルゼは呟いた。浅く吐く息が凍る。少しの間を置いて、もしかしてとウィルゼが思い至ったとき、閉じられていた扉が開いて少年が顔を覗かせた。
ダークブラウンの髪に青紫色の目。ウィルゼは確信する。ここは、シェーリが世話になった情報屋だ。
「来たね。イーブイ、お疲れ様」
声をかけられたイヴは小さく鳴いて、足下をすり抜けた。リーンはウィルゼにも入るように促す。
「こんばんは、初めまして。僕はリーン。シェーリから聞いているかな? オーラン達の……」
「ああ、聞いてる。俺はウィルゼ。リーン、シェーリはどこだ? どうしてイヴはここに来たんだ?」
「彼女、イヴっていうのか……そりゃもちろん、シェーリがここにいるから」
「…………だから、また、なんで」
うろんげに横目で見ると、リーンは肩をすくめた。頭一つ分は下にある彼の顔には、心配そうな、かつ呆れたような表情が浮かんでいた。
「シェーリが倒れたからさ」
「なにっ!?」
弾かれたように顔を向ける。
「正確には森の中で倒れていたのを、ヒノアラシが知らせてきた。そしてここまで連れてきたあと、イヴが君を呼びに出て行ったんだよ」
仲間の自分より情報屋のリーンの方を頼りにしたのか、クイン……。
ちょっとだけ恨めしげな顔をしてしまったウィルゼである。
「バトルの跡が残っていた。だいぶ激しくやり合ったんだろうね、ヒノアラシ達の怪我も結構なものさ。……でもシェーリのダメージも大きい。体中に裂傷と打撲、骨折こそなかったけど、僕とエヴィーの見立てでは一カ所は縫わなきゃいけないと思う。一日二日たってる傷もあったけど、まともに手当てもしてないらしくって、とりあえずエヴィーが応急処置をしている。でも、僕らも本業じゃあないからね……」
「倒れたのは、傷のせいか?」
リーンは顔をしかめた。
「違うよ。過労と睡眠不足。あれは、四日はまともに眠ってない顔色だ。気付いてなかった?」
責められているようで、うっとウィルゼがひるんでいるすきに、リーンは言葉を継いだ。
「とにかく、ここには器具はあっても使える人がいない。って訳で勝手ながら、僕らの方で専門家を呼んだからね」
「専門家? ちょっと待て、病院に知らせるのは……」
すごく、まずい。警察に連絡されるのがオチだ。
慌てたウィルゼの肩にぽん、と手を置いて、脱力したリーンはぼそっと呟いた。
「シェーリ、苦労してるなあ……」
「え、なんだって?」
「……なんでもない。病院に連絡するなんて馬鹿はしないよ、僕がノワールの専属ってのは伊達(だて)じゃないんだからね。呼んだのはノワールの医者……」
と、言い終わる前に外で大きな羽音がして、ウィルゼが振り向いたとき、ドアが彼を奇襲した。
「あっ、危ない」
ごん。どかっ。
「っ…………――!」
襲撃した方もされた方も、無言でしゃがみ込む。その後ろで何とも言えない顔をしている青年に向けて、リーンは言った。
「ああ、久しぶり。早かったね?」
「…………ああ」
その足下でもだえている人影など完璧にその意識から消しているリーンの普通の挨拶に、「ノワールの医者」ユーリーはそう返すしかなかった。