第101話 闇の邂逅
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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
天蓋は、崩れ落ちる。 綺麗に、残酷に、そして跡形もなく。
これで終わり。 そう誰かが一つ呟いた後はもう、誰も何も言わなかった。
いや違う、言えなかったのだ。 感想なんて言える次元のものじゃない。 ただただ崩れて燃え尽きていく記憶達を、静かに弔うことしか出来なかった。
そして、完全にそれの残り滓が消えた後。
誰かが話題を切り出すまでずっと黙り続けている、あたかも我慢大会みたいなものが始まりかけてしまった時。
「ねぇ」
その静寂を、誰かが破った。 さっきとは違い、明確に誰だか分かるはっきりとした声。
アカガネの声だ。 少しいつもよりトーンが低いけれど、でも、ちゃんと彼女の声だ。 どこか、安心感を覚える。
「......あたし、こんな御伽噺を知ってるよ」
そうして彼女は顔を上げ、ひとつの御伽噺を諳んじた。
「あるところに、小さな男の子のポケモンがいました。その子はとても臆病で、なおかつずっと独りぼっちでした。 寂しがり屋の男の子は、ずっとえんえんと泣いてばかりでした。
そんな中、男の子の元にひとりの女の子が現れました。 その女の子は、みんなに好かれる憧れの的でした。 男の子を可哀想に思った女の子は彼の友達になることを決め、いつも一緒に遊びました。
けれど、やがて男の子は女の子の元から離れました。 自分みたいな泣き虫は、あんなに優しい子の側にはもういられないと思ったのです。
遠い、遠い場所で、もう絶対に会えないのだと、男の子は息を潜めて泣いていました。
けれど、そこに声が響きます。 吹雪の奥には、男の子をずっと探しつづけていた女の子の姿がありました。 その女の子は、すぐさま男の子を抱きとめました」
「......お前、それって」
聞いたことがあるような。 そのおぼろげな、でも確かな直感に引き寄せられ、レオンは思わず問いただす。 アカガネは小さく頷いた。
「うん。 丁度、ユズちゃん達があのジジーロンに襲われた日に、あたしがのんびり音読してた話。 あの時はレオンちゃんにすぐ取り上げられちゃったけど、でもあの後、ちゃんと続きは読んだの。 ......最後、どんな内容だったと思う?」
レオンの方を、次にみんなの方を見て、アカガネは問いかける。 でも、誰からも答えは返ってこなかった。 寧ろ、元々静かな空気が更に静まりかえってしまったような。 誰かに嬉々として言えるような明るい答えなんて、見い出しようがなかった。
......まだ、整理がつかない。 期待するのが、怖かった。
「......怯えなくていいよ」
でも、アカガネの木漏れ日みたいな言葉が、その凍えた空気を温めてくれた。
実際、ちゃんと覚悟している時に限って、現実は予想よりもずっと優しくなるのだ。
「別に、そんな凝った内容じゃないの。 ふたりは互いに泣き合って、そして一緒に帰って幸せに暮らしたの。 出版数とかそんな多くないっぽいけど、多分世の中では絆の素晴らしさを謳う物語として扱われてると思う。
だけど、なんかこれ、ロア君とヒョウセツさんの......あのふたりの話に似てるなって。 そんでもって、願望みたいだなって。 本当は『こうあって欲しかった』みたいな」
「......」
その言葉にバドレックスが意味ありげに俯くのを、アカガネは見逃さなかった。 間髪入れずに問い詰める。
「ねぇ、バドレックス。 この話、貴方が書いたんじゃない?」
「えっ!?」
「お前、なんで!?」
「だって状況結構似てるじゃん。 臆病とかいう設定とか、話の流れとか。 それに考えてもみなよ。 多分この山の名前だってバドレックス作でしょ? そこら辺の才能とかありそうじゃん。 創作者って結構敏感なんだよ? 嬉しいって感情とか、悪意とか、諸々」
「知った口叩くなぁ」
「しゃーないじゃん。 隠居してる身の楽しみの1つといえば詩とかそういうもんだったんだもん。 ......で、どーなの?」
半ばむぅとした呆れ顔のまま、アカガネはまたバドレックスに視線を移す。 すると彼は、観念したかのように静かに頷いた。
その表情に憔悴がにじんでいたのが、ユズには少し気がかりに思えた。
「......その通りだ。 ヒョウセツを人間の世界に帰す直前に何気なく書いた、小さな話さ。 虹色聖山を出る前に本にして子供に与えたのだが、広まっていたのだな。 恥ずかしいものだが」
「そうだったんだ......」
「ああ。 そんなことも出来るぐらいには、あの件が終わってからは余裕があったよ。 ただ唯一の問題といえば、役目を『終えた』ヒョウセツをどう人間の世界に戻すかだった。 奴が帰ろうとするにも、そもそもの通り道がなかったからな。
だから余は我らの創造神に......アルセウスにも頼み込んで、この世界から人間世界へ通じるゲートを生み出して貰った」
「......ゲート?」
ユズの葉っぱがぴくりと動く。 何か引っかかるものがある。 そう言いたげに。
バドレックスはそれを察して、頷いた後に少し捕捉を加えてくれた。
「言うなれば、現代で言う『マグナゲート』とやらにも通じるものかもしれないな。 伝説の力も絡んでいるから、あれのような純然たる科学の産物ではないが。
そのゲートを用いて、ヒョウセツは向こうの世界に戻ることが出来るようになった。 そしていざ帰る時、もしもの時のために、アルセウスの力を宿した石も一緒に持って行ってもらった。 やはり創造神というのは絶大な力を持っているものでな。 ポケモンのサイコパワーを干渉させれば、またあちらからでも門は開くといった絡繰りになっていた。 要するに、非常手段だな」
「石......」
創造神アルセウス、マグナゲート。 興味深いワードが次々と飛び出してくる。 でも彼女にとって1番気になったものといえば、今呟いた他愛もない、でもただ切り捨てることもできない1つの言葉だった。
記憶が蘇る。 ゲートといえば、人間世界とポケモン世界を繋ぐもの。 それに自分が触れたことがあるとすれば、丁度去年の春だ。 雨の中、ヒサメとこちらの世界に飛び込もうとした時だ。 彼が森の中でこちらの世界への入口を開いた時、確か何かに対して「開いてくれ」と静かに願っていたっけ。
地面に置かれたそれは、丸っこくて、小さくて、でもどこか威厳があって......。
(......あっ)
ぼやけていたユズの──ノバラの記憶の中の映像が、少しだけ鮮明になる。
そうだ、あれは石だったのだ。 彼はきっと、書斎の中に隠されていたのであろうそれを何かのきっかけで見つけて、そして世界を行き来出来るようになったのだ。 そうユズは推理した。 大分拙いけれども。
彼は自分のポケモンを持っていなかった。 でもそのフットワークの軽さをもってすれば、適当なトレーナーにでも頼んでサイコパワーを帯びた物を事前に手に入れることぐらい出来るだろう。
......つまり、本当にあの扉は、古代の遺物だったわけだ。
「バドレックス。 それでヒョウセツさんは、その石を人間の世界に戻った後に使ったの?」
「......いや、一度も無かったよ」
キラリの問いに、バドレックスは少し苦笑した後否定した。
「だからその後のことは、もう余の知るところではない。 こちらがあそこの世界に無為に干渉する訳にもいかなかったからな。 それに、便りが無いのは息災の証だ。 奴はちゃんと魔狼を然るべき場所に封じたのだろうと、余は信じていたよ。 現にそうだったろう? だから、これ以上関わる理由も無かったよ」
「......そうなの」
「ああ。 そして、後はもうお前達にとって想像のつくことばかりなはずだ。 我らはこの集落の復興に専念し、魔狼の、そしてそれを封印した人間の記憶が忘れ去られないように、虹色聖山の内部に壁画を残した。 将来もしも魔狼が復活しこの世界に迫るならば、ヒョウセツのような勇気ある未来の人間がきっと追ってくるはず。 その期待を込めて、人間を手厚く迎えるようにという言葉も添えた。 あとは、書物に残した者もいたよ。 事実を淡々と述べるものもあれば、ヒョウセツを崇め讃えるものもあった。 もう消失しているのかは分からないがな。
そして、あらかた復興を終わらせた後、我らは代わりの長を立てて集落を出た。 魔狼によって起こった犠牲の責任は元々我らにある。 事情を知らない者達からは猛反対されたが、あの場所でポケモン達を治め続けることなど、出来るはずもなかった。
あの戦いを終えた後、我らには魔狼によって葬られた者達の魂を鎮め続けるという使命が生まれたのだ。 そして、その鎮める場所こそが」
「ここ、ですか」
オロルの先読みに対して、バドレックスは強く頷いた。 そしてここで、7匹は事の顛末を完全に理解することになる。
バドレックス達がしたこと、魔狼との戦い、全ての終わり、そして今。 この4つが、1つの線で繋がっていった。
ツンベアーは言っていた。 ここは、魔狼によって失われた命を弔う墓場だと。
ではどうして、実際に戦いが行われたはずの虹色聖山の近辺ではないのか。
どうして彼らは虹色聖山を去ったのか。
どうして彼らはここを選んだのか。
どうして、「ここ」でなければならなかったのか。
(......徒花、か)
ひとつの命が散った場所。 ふたつの心が散った場所。 そしてその事実を知らなくても、ここが全てが終わりを告げた場所というのは確かだ。 虹色聖山を去らねばならないという時になって、彼らが移り先にここ以外を選ぶ理由がどこにあるのだろう。
この山の名前だってそうだ。 魔狼との戦いの最中、実を結ばずに消えていってしまった花が、一体いくつあったのだろう。 無駄に、意味も無く散っていった花弁が、一体何枚あっただろう。
そして、あの時、ここで最後に散ったのは......紛れもなく、ロアの花と。
それと共に自壊した、ヒョウセツの花だ。
「これで終わりだ。 これらが、余が話すべき全てだ」
7匹の反応を見届けて、彼はそう言った。 話に、1つの区切り目が生まれた。
不思議な宝石にも頼った。 そこに、バドレックスの捕捉も加わった。 過去と現在は繋がった。ならば、彼はもう歴史の伝承という役目は果たし終わったのだろう。 どこに不足があるというのだろう。
そう、これが全て。 古代を生きたポケモン達の全て。
これで、彼が話すべき事はもう──
「待って」
──無いはずだった。
全員の目線が、1点に向く。 虹色のたてがみを持った、1匹の少女に。 彼女は1歩前に踏み出し、今しがたもう話すことはないと言ったばかりの伝説ポケモンと向き合う。
「......イリータ?」
「ねぇ、バドレックス。 1つ、質問いいかしら」
これが全て。 これで終わり。 これで全てが繋がった。 そのはずだった。 現に、イリータ以外の6匹はその事実を受け入れかけていた。
しかし、このまだ幼くも抜け目のない少女は、どうやらそれでは良しとしたくないようで。
「......構わんよ」
バドレックスはイリータ相手に子供だからとは侮らず、素直に頷いた。 彼女は軽く礼をして、言葉を続ける。
見るからに聡明そうで、かつ真っ直ぐな瞳だ。 彼は、あることが看破されるのを微かに覚悟した。
そして、彼女は確かに目聡かった。 本当はここで話を終わらせるなんて、あってはならなかったのだ。
「ロアが、ヒョウセツさんの薙刀で自分を刺した時、貴方はその場にいなかった」
「......そうだな」
「そして私達が使った宝石は、あくまで記憶を映す物。 つまり、記憶にない光景は映せない。 矛盾してませんか。 見たこともない光景が、記憶に残っているなんて。
宝石の近くにいたのは、貴方とザシアンとザマゼンタ、そしてユズと付き添いのキラリ。 ザシアンとザマゼンタは山にすら来ていないから論外だわ。 勿論キラリも。 なら残るのはユズだけれど......あれは、ユズの記憶ではないでしょう?」
「「「「あっ!?」」」」
キラリやレオン、アカガネ、そしてオロルが同時に叫ぶ。 自分の方に向けられた突然の大声に、イリータのたてがみがびくりと逆立った。
「な、何よ大声出して」
「あっいやごめん、そういえばそうだなって......あの場にいたの、ヒョウセツさんとロア君だけだったし。 危ない、スルーしちゃうところだった......」
「......そうね。 疑問に思わない限りは、自然に受け流せてしまうかもしれない。 でも、一度考えてみると変でしかないのよ。 ユズがロアの生まれ変わりとかいう訳のわからないトンデモ理論振りかざすぐらいしか浮かばないわ」
「でも、ロア君は確かに魔狼に......ってことは、あれは、私の記憶というより、私の中の魔狼の」
「ご名答だな」
イリータとユズは、そう言うバドレックスに目線を向ける。 彼はイリータの問いに改めて答えようとする。
何故、バドレックスが見ていないはずの光景が映し出されたのか。 その理由を。
「お前達の言う通り、あれは魔狼の記憶だ。 正確にいえばロアの記憶。 この場所にまつわる奴の記憶を、あの宝石が拾い上げたのだろうな」
「なるほど。 ......やっぱり、変だと思ったんだわ」
「えっ」
イリータの返答に、ユズが思わずたじろぐ。 彼女は何故か、少し怒っているようだった。
「わざわざ、ユズにも宝石の近くに寄って欲しいって言った理由。 普通に魔狼の、ロアの記憶が気になると言えば良かったのに、貴方はそうしなかった。 ザシアンは言ったのにも関わらず。 なんだか気にくわない。
それだけじゃない。 貴方が知る魔狼に関する真実は、あのロアの行動を除いたものだった。 だったら別に、そこを見せなくたって貴方の元々言いたいことは伝わったはずでしょ? あの記憶を引き出すためなんだったら、少し悪趣味なんじゃない?」
「あっ......」
イリータの問いが、ユズの頭からさっきのバドレックス達の言葉を掘り返す。
(お前も手伝ってはくれないか? 記憶を映し出すために。 数はきっと、多ければ多いほどいいはずだ)
(──お前は魔狼を宿す者。 それだけでも、真実を深めるべく手伝う価値はあるでしょう)
もし、もしもだ。
もしあの2匹の言葉の意味合いが、少しだけ違っていたのなら。
単純に魔狼の記憶を求めていたザシアンと違って、彼がロアのあの記憶を見たいと思っていたのなら──。
「そうだな」
ユズはバドレックスの方をもう一度見る。 彼は少し申し訳なさそうに俯いた。
「......確かに、小狡い真似だった。 余はやはり愚か者だな。 自分の意思だけで、あの記憶に探りを入れるなんて」
「そんな......小狡いなんて」
「全くだな」
おどおどしたキラリのフォローを、今度はジュリがキッパリと遮った。 バドレックスが微かに項垂れるのを見てキラリが「ジュリさん!」と怒っても、彼は動じない。 彼の顔にも、例の如く苛立ちが見える。
「あの人間は、警告していたんだろう? 終わったのだから、振り向くなと。
......伝説と呼ばれる存在とはいえ、他者に勝手にそういう記憶を暴かれて晒されるほど、無礼なことはないと思うがな」
「うっ」
......そういえば、状況は大分違うとはいえ、虹色聖山で彼も似たようなことをされたのだ。 当事者の台詞が放つ圧力は凄まじく、キラリは返す言葉もなかった。
一方バドレックス。 伝説のプライド故か逃げ出すような真似はしなかったものの、それでもその心には今にも押し潰されてしまいそうな重圧がかかっていた。 自業自得だと何度も自分を律することで、なんとかその場に留まっていられた。
彼はなんとか言葉を探し出し、イリータやジュリの与えた問いに答えようとする。 実際答えになるかは、定かではないけれど。
「......知りたかったのだ」
「え?」
思わずユズは聞き返す。 だがしかし、すぐにそうしたことを少し後悔した。
さっきから気になっていた、彼が憔悴していた理由が、目の前にあったから。
「もう、長い時間が経っている。 記憶が、記憶のままであり続けるとは限らない。 既に魔狼の中で消化され、跡形もなくなっているかもしれない。 1番新しいはずのロアの魂も。 だから、正直賭けのようなものだった。 でも、その賭けにどうしても乗りたかったのだ。 今しかなかろうと、お前に頼った。 勿論魔狼の記憶があった方がよりよいだろうと思ったのもあったが、やはり理由としてはこちらが主なのだ。
非難されるべきなのは分かっている。 でも、どうしても知りたかったのだよ。 あの時、何がどうなったのか。 ヒョウセツの警告を、破ることにはなってしまうがな」
「バドレックス......」
「......済まないな。 何かが起きたことは、分かっていた。 予想はついていた。 でも......少し、くるものがあるな。 伝説として、王として、恥ずかしい限りだ」
「......」
──帰りましょう。 ここにはもう、何も無いのだから。
ユズは、静かに考える。 このヒョウセツの言葉は、どれだけバドレックスを傷つけたのだろう。
彼だって、完全に部外者ではないはずだったのだ。 それなのに勝手に終わりだと言われて、一種の苛立ちを、そして困惑を感じないわけがない。 自分の力を失うまでして大いに手を貸したのに、彼女は結局、全てをひとりで背負い込んでしまったのだから。
そして、彼も勘が悪いわけではない。 ふたりの間に何が起きたのか、そのいきさつぐらいは予想できる。 あの御伽噺だって、きっと予想したからこそ生まれたものなのだ。 ある程度のことは、彼も分かっている。
でも、少なくともヒョウセツは、その痛みを自分に分け与えようとはしなかった。 彼が「知りたかった」というのは、きっとその理由なのだろう。 彼は自ら、心の痛みを受けに行った。
そして、予想を超えたただ1つの事実に今苦しんでいる。 だからこそ、弱っていたのだ。 その表情が、心が。
......だがしかし、バドレックスを慰められる程こちらも心の余裕があるわけではなかった。 出来るだけ彼に寄り添おうとしたユズですら、首を振る程度しか出来ないのだから。 辛い現実を見たのは、互いに同じだから。
互いに話しながら、心を整理するしかない。 少しずつ、確実に。
「......でも、これでロアの記憶が鮮明に残っていることが分かった。 そしてだからこそ、確信を持って言えることもある」
そう、あの地獄を知ったからこそ、ちゃんと面と向かって言えることがある。
バドレックスは顔を上げ、ユズの方を真っ直ぐ見た。 その目にもう一度、光を宿して。
「ユズ。 お前は我らにとって、あまりに特異な存在だ。 魔狼の宿主の中で、お前ほど自我を保てている者を我らはここまで見たことがない。 それに、お前は友と悪戯で祠を開けたと言ったな?」
「はい」
「悪戯で危険と呼ばれるところに足を踏み入れるのは、子供だからこそできることだ。 つまり、お前はロアよりも長い間、魔狼に憑かれていたのではないか? もしそうなら、いつからだ?」
「その通りです。 少なくとも、5年以上は」
「......ロアですら、完全に呑まれるのに1年は経っていない。 他の者はもっと短かった。 それに加えて、お前はロアの時のあの塔に準ずるものも出現させている。 奴と同じ、いや、それより酷い末路を歩んでいてもおかしくないのだ。
それなのに、お前はここにいる。 自分の意思でここまで来た。 ロアと違って、死ぬためじゃない。 真実を知るために、魔狼との因縁を断ち切るために、生きるために。 そうだろう?」
バドレックスの問いが、絡まった糸を少しずつ解いていく。 ユズはこの問いにも確かに頷いた。 彼が紡ぐ考えを、静かに見守る。
「......魔狼に憑かれるということは、お前の中に秘めたる負の感情があったということだ。 しかしお前は、仲間の力を借りて乗り越えてきたという。 これは我らにとっては未だ見ぬ事でもあるし、つまり、魔狼にとっても未だかつてなかったこととも言える。
なおかつ魔狼は、我らが生み出した力は、元々空っぽな器だ。 実際そうであったように、周りの感情に左右されやすいとても不安定なものだ。 ましてや数多くの負の感情を無理矢理詰め込んでいるとなると、それにも拍車がかかるだろう」
「......つまり、そこにユズっていうイレギュラーが生まれれば」
「その通りだ、白きロコンよ。 話が早くて助かる」
オロルはどういたしましての代わりに、小さく礼をする。 彼の物わかりがいいのはいつものことだが、王様と呼ばれたポケモンを前にすると、その姿は小さな執事のよう。
......そういえば、名前言ってなかったや。 当ポケはそんな場違いなことを思いもしたけれど、それも一瞬。 話の歯車は、一気に回転を進めていく。
「感情同士の干渉というものは、時に予期しない結果を生み出すものだ。 お前が塔の呪縛を破り、再び目覚めたそれを押さえ込みながらも己の自我を保とうとしたことで、魔狼自体にある変化が起こった。 端的に説明するとこうなる」
彼は両手を合わせ、そしてまた開く。 まるで、何か1つのものを2つに分けるかのように。
開かれた右手にはサイコパワーによる光が浮かんでいて、左手には小さなエナジーボールが浮かんでいた。 緑と紫、全く違う見た目ではあるけれど、これが意味するものとは。
まず、彼は紫の光が宿る右手を挙げた。
「器の中身にため込まれていた負の感情と」
次に右手を下ろし、今度は緑の光が宿る左手を挙げた。
「その器、つまり、本来ポケモンの感情を駆動力に動くべきだった部分、つまり魔狼の本体」
そして、また右手を挙げる。しかしその2つは再び交わることはなく、その場でふっと消えていった。
......技のタイプは違えど、元々バドレックスの1つの力だったはずのもの達。 しかしそれらは、完全に2つに分かたれたのだ。
「どういうわけかは分からない。 しかし確実なのは、その2つが分離し始めていることだ。 ユズのもつ魔狼の気配は、我らが生み出した力の気配とかなり近い。 つまり魔狼は本来の姿を取り戻しつつあり、負の感情は居場所を失いかけている」
「......分離」
「ああ。 ユズ、思い当たる節はないか? あの城が現れる前と後で、変化はなかったか? 例えば、魔狼の中にある負の感情......その存在か、それかもう何匹かの命の存在を感じるとか」
「え、えっと......」
「あります!!!!」
「えっ!?!?」
喰い気味に答えたのは、まさかのキラリの方だった。 不意を突かれたユズは目を丸くするが、キラリは輝いた目をして尻尾をふりふりしながら詰め寄ってくる。
「キ、キラリそんなノータイムで」
「あるじゃんめちゃくちゃ!! 思い出して!! 私言ったところで説得力ないもん!!」
「ええ......?」
......じゃあなんで、あんな自信満々に言ったのか? ここで答えられないとキラリのプライドをずたずたに引き裂くことになるのでは? というかやめてくれ、そんな尻尾振られても何も出ないって。
そうやってずっと真剣だった思考を思い切り掻き乱されながらも、ユズは必死に記憶を掘り返す。
まず城が壊れた後まで記憶のネジを巻き戻そう、自分はずっと寝ていて。 その後、アカガネに出会って、役所でのごたごたがあって。 いや、待てよ。 そこからちょっとだけ巻き戻して。
役所に行く、前日の夜。
夢の中で微かに聞いた、声──
(あっ!!!)
彼女の閃きを象徴するかのように、葉っぱがぴんと上に伸びる。
そうだ、なんで今まで浮かばなかったんだ!
「──声です! 声! 夢の中で、知らない声が聞こえるようになって!」
「何?」
「......そういや、それがきっかけだったよな。 ここ来たの」
「うんうん。 特徴とかあんま聞いてなかったけど、どんなんだっけ?」
「小さな子供の、男の子の声で。 でも年下の子供にしてはちょっと達観した感じというか、大人っぽいというか。
なんだろう、正直それで苛立ったこともあって。 まるで、こっちを試してくるみたいな。 魔狼がなんで魔狼になったんだとか、問いかけたりもしてきて──」
「待て」
ユズの証言が愚痴のようになってきたところで、バドレックスが言葉をせき止める。 ちらりとその表情を見てみると、その顔は困惑に彩られていた。
「......バドレックス?」
「お前今、子供の男子だと言ったな」
「はい」
「夢の中だというのなら、容姿は? 容姿は分からなかったのか?」
「えと、夢と言っても声が聞こえるぐらいで......あるとしても、黒い霧で覆われてる姿しか見えなくて。 あと、あと......」
ユズは頭の葉っぱを、そして頭を雑巾しぼりにして考える。 何か、あの声の手がかりは他にあっただろうか。 バドレックスが確信に至れるようなものが、他にあっただろうか。
思い出せ、彼の言葉を。 北の雪原、雪山、真実。
その声は、文字通り真実に至るのを願うようで。 だけど少し悲しそうで、それでいて、
──暖かい?
(......あれ)
連想ゲームのように、ユズのおぼろげな夢の記憶が1つ引っ張り出される。
そしてそれは奇遇にも、今さっき見たばかりの光景だった。
......雪が舞い散る、白銀の雪原。
そこに、1匹のポケモンと人間がいた。
互いを抱きしめているかのような1人と1匹。 人間の前に立つ知らないポケモンは大柄で恐ろしい見た目をしていたが、その顔はとても安らぎに満ちたものだった。
そして、言ったんだ。 ありがとうって。 その身体には似合わない、優しい声で。 子供みたいな、柔らかな雰囲気で。
......似合わないと言えば。 さて、何か思い出されはしないか?
(魔狼は、どうして魔狼になったと思う?)
(やっぱり、キミ達って凄いね)
子供なのに、大人みたい。
大人なのに、子供みたい。
そんな声。 どちらの側面も知るからこそ、出せる声、言える言葉。 自分やキラリ、他のみんなにはない。 アカガネだって、ただ無邪気といえば済む話なのだ。 彼女はちゃんと大人で、あれは大人だからこその無邪気なのだ。
もしそんなチグハグなことが起こるとすれば、大人が、子供に若返るか。
それとも、子供のまま時が止まって、長い年月を──
「......そうだ」
「ユズ?」
「記憶」は、残っている。
「感情」として、力の器から分離している。
つまり、やろうと思えば、自分の意思だって伝えられるのかもしれない。
発される言葉と声のチグハグさ。
そして、こちらに声を届ける上で満たさなければならない条件。
その全てが揃う存在なんて、もう1匹しか思い浮かばなかった。
「......ロア君だ」
そう、あの子だった。 あの子しか、いないじゃないか。
ユズは唐突に降りてきたその答えを、半ば驚きと、そして半ば確信と共に迎えていた。
夢の声と、記憶で見た声。2つの声が、重なった。
「やはりか」
バドレックスの表情に、確信が宿る。 誰かに言うとなると少し緊張はしたが、でもユズは確かな声で答えた。
「はい。 一応多分、ですけど」
「えっ......ユ、ユズ本当? 本当にロア君?」
「そう思えば、全部説明つくの。 そもそも、夢で知らない相手がはっきり助言してくること自体イレギュラーだし。 ロア君が1番魔狼に呑まれてから日が浅いなら、1番ありうるのはあの子だよ」
「そ、そっか......じゃあユズ、ロア君のことは記憶見る前から知ってたってことになるんだ」
「そうなるね......正直、私も驚きだけど」
「なるほどなぁ......なんだろ、スケールでけぇや」
レオンがそう言って肩の後ろで腕を組む。 確かに、一種の小説みたいだ。 魔狼の過去を巡る物語が、まさか実際に魔狼に呑まれた者によって始まったなんて。 事実は小説よりも奇なりとはよく言うけれど。
少し呆けた空気感。 そんな中、バドレックスも腕を組み考え出した。
「にしても、ここに来るようにと、ロアが直接声を届けた......か。 一体これには何の意味が......?」
「それは何も......だけど」
「ロア君、何かユズにやって欲しいことがあるのかな?」
そこで口を開いたのはキラリだった。 ユズは間髪入れずに頷き、「だと思う」と続けて同意した。 目的がないなら、わざわざこんなところまで来てくれなんて言うわけがない。
......問題は、そのやってほしいことの詳細はうまく掴めないことだけれど。 ここには、物語の脚本家なんかどこにもいないのだから。
「やって欲しいこと......か。 なんだろう?」
そうやって、ユズ達がずっと頭を捻って考えていると。
「......ユズ」
「はい?」
バドレックスが、そこに割り込んでくる。 何か浮かんだのだろうかと一瞬思ったけれど、実際は違った。
「......その、魔狼以外のことで、さっきから思っていたことがあってだな。 忘れる前に、少し聞いておきたいと思って」
「?」
魔狼以外のこと? それも、自分に関わることで?
何が何だかでユズが首を傾げる中、彼は探りを入れるように質問を投げかける。
「......その、お前は、気づいているのか?」
「え?」
「魔狼じゃない、別のものだ。 何だろうな、暖かい......そうだ、まるで春風のような気配というか。 まだ力が完全に戻ったわけではないから、詳細は分からないのだがな。 とにかくそんなものが、お前の──」
春風。 そのキーワードが耳に届くと同時に、2つの身体が跳ねた。
ユズが見た夢に纏わる、もう1つの謎。 喜ばないはずがなかったし、身体を前のめりにしてでも聞きたい情報なはずだった。 当事者にとっては勿論、彼女から話を聞いていたキラリにとっても。
現にキラリは、微かに目を輝かせてその言葉に耳を傾けようとしていた。
──だけど。
(......ユズ?)
しかし、しかしだ。 その言葉の続きが、ユズに届くことはなかった。
そもそも、身体が跳ねた理由も、キラリとは大分違っていたようだった。
......バドレックスが話し出した、その刹那。
ユズの心臓が、不自然に強く波打ったのだ。
──こ、える......?
──ご......い、も......とめら......
──おさえ......られな......
──これ以上は、私じゃ......!!
──逃げてっ!!
「そんなものが、お前の背中に......ユズ?」
バドレックスが声をかけた時には、もう駄目だった。 平静を保てなかった。
世界が揺れる。 声が歪む。 感覚が途切れていく。
──視界が、暗転する。
「......ごふっ」
「え?」
場に似合わない咳の音に、キラリは咄嗟に横に振り向いた。 レオン達も、同じように1点の方向を見やる。
何か意識したとか、そういうわけではない。 ただ自然にそちらを向いた、それだけ。
けれど自然というのは、時にどうしても侮れない。
ユズが、蔓で口を押さえている。
顔も青白く、ぎゅっと目を閉ざしている。
そして、何より異様だったのは。
その周りに微かに纏わりつき始めた、
「......え」
あの見覚えのある、黒い霧──
「えっ......えっ!? ユズ、ユズ!?」
「貴様っ!?」
「えっ嘘ユズちゃん!?」
「どうしたんだよ、急に! おいってば!!」
「と、取り敢えず回復......!!」
「......[あさのひざし]っ!!」
オロルのその場凌ぎの提案に、イリータがすぐさま応える。 直接回復は出来ずともせめて光合成で回復出来るようにという、彼女なりの応急処置だ。
しかし、今はユズ自身がまともに光合成が出来る状況ではない。 また重い、咳の音がする。 何か嫌なものが混じっているかもしれない。 そんな気配すらも感じさせてしまうその音に、キラリ達は動揺を隠せなかった。
そしてそうこうしている内に、どんどんユズの状態は悪くなる。 遂には立つことすらもままならなくなった。 支えようとキラリがその身体に触れてみれば、硬く強張っているのがよく分かる。
......ひどく、身体が冷たい。 もしかしたら、このまま──
「どうしよう、どうすれば......」
「──任せろ!」
キラリの声に涙が混じりだしたところに、バドレックスが躍り出る。彼はユズの額に触れ、ぎゅっと眉間を狭めて力を込めた。 そこに、優しい緑色の光がほとばしった。 すると、ユズの顔色が本当に少しではあるが良くなった。
かつては豊穣の王とも呼ばれた身だ、誰かを癒やすことすら出来ないようでは、自分のプライドに障る。 少しほっとしたところで、彼はユズに問いただした。
「ユズ、何があった? 何が起こった? 答えられる範囲で」
「......狼が......いや、ちが......」
「何?」
「負の、感情かな......何か、暴れ......」
「──暴れてる!?」
ここで、キラリ達は今の状況をなんとなくではあるが理解した。 丁度分離の話も聞いていたから、腑に落ちるのが早かったのだ。
つまりは器から離れた負の感情が、どういうわけか彼女の中で暴れているのだ。 そして、それは宿主であるユズの身体自体を蝕んでいる。
今まで感じてきた怠さとか、吐き気とか、そんなものを通り越して。宿主自体を、殺そうとでもしているかのように。
......そして、それに対してキラリ達は何も出来ない。 前みたいに倒して止めるのは違うだろうし、回復だって一時凌ぎに過ぎないのだ。
「ねぇバドレックス、これ、もしかしてまずいの......?」
キラリは、震えた声でバドレックスに問う。
しかしバドレックスは、その問いにすぐには答えない。
「......」
目の前で苦しむチコリータを前に、彼は考える。 考え続ける。
確かに、ユズにとってまずい状況であるのには変わりない。 このまま負担がかかり続ければ、命だって危ないかもしれない。 何か手を施さなければ、自分達も危険だ。 どうすればいい。 そう自問自答し続ける。 そして、そうしていると。
ひとつの忘れてはならない事実が、ひょっこりと顔を出してきた。 彼はその事実をすかさず手に取る。
(......もしや)
これこそが鍵。 それに気づいたのは、本当に一瞬のこと。 でもその一瞬が、自分達のこれからを完全に左右するかもしれなかった。
危機的状況なのには変わりない。 しかし、しかしだ。
......今の魔狼が、本当に今までと違うのなら。
「......そういうことか」
「バドレックス?」
何か分かったのか。 そうキラリは問おうとする。 でも、声が喉に突っかかった。 彼の顔を見た途端、言葉を失った。
だって、こんな悪い状況なのに。
こんな、危ない状況なのに。
「......大丈夫だ、キラリ。 我らに任せてくれないか」
──その目から、希望は失われていない。
いや寧ろ、強まっていた。 今までにない程に強く、強く。 記憶の中のものじゃない。 現実のものとして現れたその王の威厳に対して、キラリは何も言えなかった。
そして彼は、手を前に出す。 背後に控える2匹のポケモンに、1つの命令を下した。 その目に、最早迷いはなかった。
「ザシアン、ザマゼンタ! ユズに攻撃を仕掛けろ!」
「えっ!?」
「ちょっと、なんで!?」
「勘違いするな、実際に当てろとは言っていない! ......キラリ、お前は少し離れていてくれ」
「で、でも!」
「大丈夫だ、我らならやれる。 我らがユズを、お前の友を助けてみせる。 ......信じてくれ!」
「っ......!」
バドレックスの有無も言わせぬ語気。 冷静さを失わない気迫。 それらによって、キラリの動揺は静まっていく。 そして、彼女は2つのことに気がついた。
1つは、判断を待つ時間は無いこと。
そして、もう1つは......こんな必死に立ち向かおうとしている相手を信じないなんて、どうかしているということだ。
「......」
キッと顔を引き締める。
意を決して、キラリはユズを支えていた手をそっと離した。
「......お願いします!!」
「うむ!」
キラリはユズをバドレックスに託し、その場から何歩か遠ざかった。
ザシアンとザマゼンタが各々力を溜める中、バドレックスは思い切り息を吸う。 そして叫んだ。頭突きするような勢いで、その顔に詰め寄って。
勿論、相手はユズの方ではない。
「よく聞け、魔狼に呑まれた者達よ!!」
唾が飛ぶほどの勢い。 喉を枯らす程の気迫。 それらは全て、今彼女の中で暴れ回る魂達に対する、最大限の警告を示していた。
「ユズの身体で暴れたところで、お前達は宿主を傷つけているに過ぎない! このまま続ければユズは死ぬ! 魔狼という器から離れ、誰かの身体に乗り移ることも出来なくなった以上、お前達も跡形もなく消えるはずだ!!
......だが、それはお前達は拒むのだろう!? 自らの無力を嘆きながらも、だからといって消える勇気も無いのだろう!? だからこそ苦しみは繰り返す! 消えることもできないと、だからといって生きることも苦しいと、でも死ぬ苦しみは味わいたくないと、生きたいと!! だから、宿主が死ねば、お前達は別の器に乗り移ってきたのだろう!! お見通しだよそんなもの。 何年、何百年、余がお前達に対して心を痛めてきたと思っているんだ!?」
少し離れたところで聞いていたキラリは、その言葉にはっとする。 かつてのユズの姿を、感じずにはいられなかったから。
死にたいと願いながらも、でもそうすることも出来なくて。 寧ろ、希望もあったから。 生きたいとも思っていたから。 だから、苦しいんだ。 自分の力の無さが。 諦めていないからこそ。 ......にしても、少し嫌な脅し文句だけど。
そして、バドレックス自身もそう思ってはいた。 でもやるしかない。 「彼ら」にとっての悪者になってでも、やるしかない。 今はもう、「彼ら」に眠る生存本能を、信じるだけだった。
「......さあ、だがそれももう終わりだ!! お前達、どうする!? ここで我らに殺されるか、それとも返り討ちにするために外に出るか!!」
......自分を巻き込む気で飛びかかれ。 寧ろ自分にだけ当てる気でいけ。 テレパシーで彼はザシアン達に呼びかける。
彼らはそれに応えて無言で頷き合い、力を溜めた武器を手にその場で飛び上がった。 バドレックスと、ユズの方に向かって。
赤と青。 2つの光が迫る中、彼はもう一度叫んだ。
「選べ、生きるか死ぬか、今ここで!! 時間など与えない!! ......宿主ごと死にたくなければ出てこいっ!!!」
2つの光が迫る。 そして、あとは
どうか、どうか、届いてくれ──!!
「......ッアアアアアアアアア!!!」
その叫びは、ユズのものというよりは、ユズの声帯を借りた別の声のようだった。
そしてそれと同時に、黒い霧が溢れ出す。
今まで茨の城などで見てきたものを、何倍にも濃くして煮詰めたような、そんな霧。
ユズを今まで蝕んできた、闇の象徴。
それが今、彼女の中から......
「やった......」
どこから、聞こえたのだろう。
バドレックスが、気の抜けた声でそう言った。
そんな気が、した。
──そして、その霧の噴出はいつしか止まった。
今までユズを蝕んでいた黒い霧は、全て外へと飛び出したようだ。
「......げほっ、げほっ」
辺りにその残り滓が漂い、煙のように漂っている中。 ユズは息も絶え絶えのままその場に座りこみ、キラリが咄嗟に彼女の元に駆け寄った。 もうあの霧は出ていない。 吐き気も消えているみたいだった。
「ユズ、大丈夫!?」
「なんとか......」
まだ少しぼやける視界。 ユズはキラリの支えも得ながらどうにか顔を上げて、状況を把握しようとする。
周りは黒い霧まみれ。 静寂が、辺りを包んでいる。
そして何故か、レオンのような青い影が、少しだけ後ずさり。
「一体、どうなって......」
視界が、段々と鮮明になっていく。大丈夫、みんないる。 何か、怪我をしているわけでもなさそうだ。
彼らはユズではない、どこか一点を見て──
「......え」
彼らの前にいたのは、さっき飛び出したばかりの黒い霧。 ......いや、そう呼ぶには少し語弊があるかもしれない。
幻影かどうかは、分からない。 でも確かに存在する、白と朱色。 そして、それを覆いつくさんとする、黒色の闇。
──負の感情、無力感。
あの記憶の天蓋で見た、白いゾロアーク。
それが溢れんばかりの闇を纏い、現在を生きる彼女らの前に立っていたのだ。