第一話:少女の名はアイビー

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読了時間目安:32分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください







 ロロロロロという独特なアラームの音に、アイビーは目を覚ました。目を覚まして、深く息を吸い込んで、自分が今自室のベッドに居ることを認識する。寝転んだまま身体を横に向けて枕元を確認すれば、そこには昨晩と同じように相棒であるメタモンがぬいぐるみに[へんしん]したまま眠っていた。メタモンを抱き寄せて、その体温が腕の中にあることを確認して、やっとアイビーは、先程までの光景が“悪夢”であったことを理解できた。

 相変わらずロロロロロとアラームを発しているスマホロトムに「起きたよ、ありがとう」と声をかけてアラームを止めて、アイビーは身を起こす。

 酷い悪夢だった。昔から何度も見た悪夢だ。あんな夢、もう見たくない。そう思いながら眠るのに、否、思いながら眠るからこそ見てしまうのだろうか。背中を厭な汗が伝い、アイビーはそれが不愉快で仕方無くて、ベッドから降りた。

 寝巻きとして着ているのは、養父であるロイバという男のお下がりのTシャツだ。180cmを超える身長のロイバと150cmに漸く届いたアイビーの体格は大きく違っているので、このTシャツは太腿の辺りまでの丈のワンピースのようになっている。唯一、肩幅が違いすぎるために鎖骨辺りの肌がぶかぶかと顕になるのが難点だが、このダボッとした緩い服装をアイビーは気に入っていた。

 アイビーはベッドを降りたその流れのまま、ベッドサイドのテーブルに置きっぱなしにしていた煙草とジッポーを乱暴に掴み取ると、昨日脱いで揃えておいたスリッパをつっかけながらベランダへと歩いて行く。掃き出し窓を開きベランダに出れば、春だというのにまだ冷たい風が剥き出しの四肢を撫でて身震いした。

 ヤマブキシティの住宅街の一角に建てられたこのマンション。そのマンションの二十三階にアイビー達の暮らす部屋はある。見下ろす街には既に日が登り、人々やポケモンが活動を始めていた。アイビーは煙草に火をつけて、煙を吸い込む。幼い頃覚えた煙草は、すっかりアイビーの中では習慣となってしまっていた。それこそ、“ヤニカス”と揶揄される程度にはアイビーの生活の中に溶け込んでいる。煙草を摘む指の爪を見て、そろそろネイルチップを付け直さなくていけないかもなと思いながら、鬱屈と共に煙を吐き出す。

 丁度眼下、マンションの出入口ではワンリキーと共に作業着姿の人間がマンションのゴミ捨て場に集められたゴミを回収してパッカー車の中に放り込んでいる。ああして回収されたゴミは、リサイクルをされるか、もしくは集積場にいるヤブクロンやダストダス達の餌となる。その道路を、朝の散歩をしていたらしいワンパチとその主のトレーナーが挨拶をして通り過ぎていく。なんてことのない朝の風景。これが、アイビーを取り巻く日常。

「——アイビー」

 ふと、隣に立つ人物がいた。紫色の癖っ毛が印象的な、同い年ぐらいの少年だ。アイビーより少し背が高い彼の姿に、アイビーは警戒を抱かない。彼はヒノアラシを象った灰皿をアイビーに差し出した。ヒノアラシの背中の炎の部分が受け皿となっているこの灰皿は、以前ジョウトシティを訪れた時に土産屋で購入したもので、アイビーはこれを非常に気に入り専ら寝室の灰集め係として使っていた。アイビーはそれを受け取り煙草の灰を落としてから、寄りかかるようにして少年に身を寄せる。

「おはよう、メタモン」

「おはようアイビー。また悪夢か?」

「……キミは、なんでも分かっちゃうんだもんなぁ」

 アイビーは少しだけ俯いて、苦笑した。

 この少年は、メタモンである。先程までぬいぐるみに[へんしん]していたメタモンは目覚めて、アイビーがベランダで朝の一服をしているのを見て、人間の姿に[へんしん]し直し、灰皿を持って同じようにベランダにやってきたのだった。

 アイビーの相棒ポケモンであるメタモンは他のメタモンと一線を画した知能を持っており、彼の記憶にある存在ならば自由に[へんしん]を使って姿を変えられる。ぬいぐるみの姿にも、ポケモンの姿にも、人間の姿にも、変幻自在だ。オマケに人間の言葉を話す能力も識字能力もあるときた。これ程までに賢いメタモンは他に居ないと、アイビーは考えている。長年の相棒であるという贔屓目を抜きにしても、このメタモンはおそろしく賢い。賢いから、アイビーが朝、ベランダで煙草を吸っている姿を見て、それが悪夢を見た時のアイビーの行動だと今迄の行動から察して、灰皿を持ってきてくれた。賢くなければ出来ない行いだ。

「——またアイツ・・・の夢を見たんだ」

 アイビーは、素直に夢の内容を告白した。賢いメタモンの前では、隠し事をしたって無駄なのだ。だからこそ、アイビーは素直に心の内を彼に話すことが出来る。

「怖かったよ。だってキミがいないんだから。キミがさ、いないと、ボクは本当に怖くて怖くて仕方無いんだよ。怖くて……震えてる。嗚呼、怖いなぁ……ねぇメタモン。ボクのこと、見捨てたりしないよね?」

 アイビーは灰皿に煙草を置き、そんな灰皿をベランダに設置してあるテーブルに置いて、メタモンの首に腕を絡めた。真っ直ぐ彼を見上げれば、彼の紫水晶の双眸がアイビーを見下ろす。メタモンはいつでも、アイビーより少し背の高い人間へと[へんしん]する。アイビーは同じぐらいの身長がいいのに、彼はアイビーの背が伸びるのに合わせて必ず10cmは高い人間に[へんしん]するのだ。その意図は分からないが、きっと何か意味があるのだろう。

「ボクがどんなに愚鈍で、間抜けで、屑な救われない阿呆だったとしても、キミは見捨てたりしないよね? この世界の創造主だってボクを見捨てても、キミだけはボクを救ってくれるよね? そうじゃないと……ボクは息をするのが苦しいんだ」

「当たり前のことを何度も確認するのは、お前の馬鹿な所だ」

 メタモンは呆れたような口調で言った。だがその瞳は優しかった。

「俺がお前を見捨てることなど無い。例え空が落ちてきても、海が割れても、天地がひっくり返っても、世界中が敵となっても、俺はお前だけを愛しているし、俺の持ち得る頭脳も力も全てをお前のために使う。それはあの日、お前と誓いを立てたあの時から変わらない」

「嬉しい……! 大好きだよ、メタモン。ずっと、ずぅーっと、一緒だ」

「当たり前だ。俺達は、“共犯者”なんだから」

 アイビーはメタモンを抱きしめ、彼の胸の中に入った。その温もりに縋るように、細い腕で必死に彼を抱きしめるのだ。メタモンは抱きしめ返すことはしなかったが、優しくアイビーの頭を撫でてくれた。それだけでアイビーは幸せだった。

 ふと、スマホロトムがまたロロロロロと鳴き声を発する。手元まで浮遊してきたスマホロトムの画面を覗けば、どうやら電話が掛かってきたらしく、液晶画面には【ROIBA】の文字。アイビーの養父の名だ。

 アイビーはスマートフォンの液晶をスイッとなぞり通話を開始すると、ビデオ通話の画面に映った養父と顔を突き合わせた。

《ようアイビー。ちゃんと起きれたみたいだな》

 スマートフォンのスピーカーからは、聞き慣れたテノールボイスが響いた。画面には、黒髪を短く切り揃えた若い男が映っている。シャワーを浴びた後らしく、普段はワックスで撫で付けている前髪は少し湿ったまま癖っ毛の片鱗を見せている。齢は既に二十代後半であるが、カントー地方の血故か前髪を下ろしていると随分幼く見える顔をしている男。

 彼はロイバ。アイビーの養父であり、宝石商を営む男であった。各業界の著名人とのパイプも太く、世界各地のお得意様へと宝石を売るために方々へ出張販売に向かう彼は、二人の住処であるこのマンションをよく留守にする。だからアイビーは実質一人暮らしだった。

 アイビーはもう今年で14歳になるというのに、“きちんと起きることが出来たか”なんていう質問を投げ掛けてくるあたり、まだ彼の中ではアイビーは幼子という認識なのだろう。しかしこの地方でも成人年齢は10歳と定められていて、アイビーはもう立派な大人だった。納税だってしているし、煙草も酒も合法である。一体いつになったら、アイビーは養父の中で“大人”と認識されるようになるのだろうか。

 アイビーは苦笑しつつ、ベランダから室内に入りながら答える。

「ああ、問題無くね。それより、ボクはキミが起きていたことの方が驚きだよ。カロスは今真夜中だろう? 眠らなくていいのかい?」

《眠る前に可愛い愛娘の顔を見てから眠ろうと思ってな。今日から学校だろ? ビビってんじゃねぇかって心配してたんだ》

 養父ロイバの言う通り、アイビーは今日からこのカントー地方にある学校に通うことになっている。入学するのは14歳以上の子供が就学できるポケモンスクールで、名前を【フェニクスフィア学園】と言った。齢14から学問を学び、四年間で基礎学力を、その後二年間でそれぞれの分野への学力をつけ、最終的に仕事に就職させるところまで面倒を見るのがこのフェニクスフィア学園である。10歳からポケモンを持つことが許され、“ポケモントレーナー”として旅に出る子供が一定数存在するのはたしかだが、そうやって夢を抱き旅立った子供の9割は1年もしないうちに家に帰ってくる。10歳児がこの世界でたった一人で生きていくのは難しいのだ。“ポケモントレーナー”という職業だけで生きていける人間は世界人口の一割にも満たず、子供達は生きるために学ばなければならない。だからこういう学校に通うのだ。

 アイビーも世間一般的な子供達と同じように、就学し就職するために学園に入学する。その入学に際して、アイビーが不安に感じていないかを推し量るために電話をかけてきたのだというのがロイバの主張であった。ロイバは現在カロス地方に出張に出ていて、カロス地方とカントー地方では約七時間の時差があるので、あちらは深夜の一時である。それでも睡眠時間を削って電話をかけてきたのは、偏に彼の“愛”だろう。

 だが、この問いは愚問である。ふわふわと周りを浮遊するスマホロトムを引き連れてキッチンに歩いて行ったアイビーは、三人分の冷凍弁当を冷凍庫から取り出して、それを一つずつ電子レンジで解凍しながらも画面越しの養父に笑いかけた。

「そうだね、ボクは怖がりだから、キミの心配は正しいよ父さんdaddy。でもね、ボクは怖がりだけど、それ以上に強くて賢いポケモンが傍に居るから、何も心配はいらないよ」

 そう言って、見せつけるようにメタモンの腕に抱きついた。それを見て、画面越しにロイバが笑う。

《そうかそうか! そうだよな、アイビーにはもう最高の相棒がいるもんな!》

「ああ勿論さ。だから心配しないでね父さんdaddy。それでも、万が一どうしようもなくなったら頼りにするから、その時はよろしくね」

《ああ勿論だ! 早め・・に頼るんだぞ!》

 念を押されて、アイビーは頷いた。それを最後に電話は切った。

 温め終えた三つの冷凍弁当をテーブルに並べ、噴き出す湯気で火傷をしないように気を付けながら蓋を開ける。そうしていれば、部屋の中にもう一人人間が入ってくる。毛先が赤く染まっている薄灰色の髪をした、背の高い狐目の青年。彼は真っ直ぐアイビーの所まで来ると、ギュッと背後からアイビーを抱き締めた。

「おはようゾロアーク。お散歩はもういいの?」

「おはよぉアイビー。飯食いに帰ってきた♡」

 引き攣ったような独特な声の持ち主であるこの青年、彼もメタモンと同じく、人間に擬態しているポケモンである。その正体はゾロアーク、しかもただのゾロアークではなく、太古の昔ヒスイ地方と呼ばれていた地方に存在したとされるゾロアークだ。現在のゾロアークは黒毛が印象的な狐のポケモンだが、ヒスイゾロアークは薄灰色の毛色をしている。この存在は稀有であり、コレクターや研究者からしたら喉から手が出る程欲しいポケモンである。

 金色の瞳をニンマリと細めた彼は、何度もアイビーの項にキスをしてから、弁当の容器を乱暴に掴むとグワッと口を大きく開いてそれを食べ始める。

「お行儀悪いよ? スプーン使いなよ」

 アイビーはそう言いながら、食器棚の中から銀製のスプーンを差し出したが、ゾロアークはそれを受け取ることは無かった。冷凍弁当の中身はハンバーグと白米と漬物という、手掴みで食べるには不向きな内容であるが、ゾロアークに気にした様子は無い。アイビーは肩を竦め、それ以上は言うこと無く席について両手を合わせてから朝食を食べ始めた。

 四人がけのダイニングテーブルに、向かい合うように座ったアイビーとメタモン。メタモンは器用なので、箸を使って食事を摂ることが出来る。

 アイビーは特段家事が苦手なわけではなく、料理ができないわけでもなかったが、面倒くさいという理由で冷凍弁当を利用することが大半だった。人間の食事は、時としてポケモンには毒となる。故にポケモンにはポケモン用に作られたポケモンフーズや無農薬の果実のみを与えることが推奨されていて、人間用の手料理を食べさせるなんて以ての外だった。よってアイビーが料理を作っても、それはアイビーしか食べることが出来ず、自分だけのために食事を作るだなんて馬鹿らしくてアイビーはやる気が起きない。となると、レトルトなどの出来合いで済ませるのが合理的である。

 宅配サービスも充実したこの冷凍弁当は、人間もポケモンも食べられるという謳い文句で売り出している。宣伝文句通り、メタモンやゾロアークが食べても何も問題が無い、素敵な食事だった。同じテーブルにつき、同じ食事が食べられる。アイビーは単純なので、こんな行動一つで幸福感を得られる。

 ゾロアークは既に朝食を食べ終え、人型のまま大きく伸びをしていた。基本的に夜行性であるゾロアークは、夜間に散歩をして朝と昼は眠り夕方に目を覚ますという生活をしている。彼はいつも通り自分に与えられたベッドで眠ろうと寝室に足を向けるが、そんな彼にアイビーが待ったをかける。

「今日はボールの中で眠っていておくれ」

「あァ? どーしてだよ」

「今日から学校なんだ。説明しただろう? キミも行くのさ。でもキミを抱っこして連れていける身体能力フィジカルはボクには無いから、ボールに入ってもらわないと困っちゃうんだよ」

「あー、そういやそんなこと前言ってたな」

 ゾロアークは頷いて、ふむと値踏みするようにアイビーを見る。朝食を食べ終え容器を重ねてゴミ箱に捨てる自分の主人を見ながら、ゾロアークは首を傾げクツクツと笑った。アイビーはその笑い声をBGMに、歯磨きをするために風呂場の脱衣所へ向かう。

「わざわざ子供ガキの巣窟に行くなんて、オレのご主人様は殊勝な女だなァ? あんな所に行って、良い事あんのか? テメェみたいな毛色の違うキチガイは、ただ迫害されて怠い思いするだけだろ」

「残念ながら、その“殊勝な女”がキミの選んだ女だよ。それに、仕方無いだろう? 目立たず、堅実に、人間社会に溶け込むなら、“学校”という社会の中でその方法を学ぶのが一番手っ取り早いんだ。それに、入学さえしてしまえば就職まで面倒を見てくれるんだよ? こんな能無しでも仕事に就かせてくれるんだから、従っておかないと。ねっ?」

「就職ねぇ〜……ンな面倒なことしなくたって、オレが楽にバトルで稼がせてやるってのに。前みたいに、“地下”でな」

「……嫌だよ、あれ目立つし」

 脱衣場に設置された洗面台で食後の歯磨きをしながらゾロアークの話を聴いていたアイビーは、“地下”という言葉を聴いて顔を顰めた。

 このカントー地方には、“地下闘技場”と呼ばれる施設が存在する。その名の通り地下に設営されたその施設ではポケモン同士の殺し合いが娯楽として提供され、敗者には死が、勝者には名誉と莫大な富が与えられる場所だ。ロケット団が元締をしているその施設で、ゾロアークは無敗を誇った記録があった。無敗でなければ今現在五体満足でここにはいないので当然と言えば当然なのだが、彼はその圧倒的な強さと相手の命を奪うことへの躊躇いの無い無慈悲さで随分とファンと富をアイビーに齎したものだ。あの日々はゾロアークにとっては楽しかったようだが、アイビーとしてはただただ嫌な記憶である。

 そもそもアイビーがその施設に出入りするようになったのは、馬鹿げた話借金返済のためであった。その借金を作ったのも諸々理由があったのだが、自称小心者のアイビーにとっては地下闘技場で出場者グラディエーターとして戦う日々はストレスが雪崩のように身に降りかかる嫌な日々として記憶に残っている。女であるアイビーが地下闘技場で負ければどういう目に遭うか、それをアイビー自身よく理解していた。むしろアイビーが女であったからこそファイトマネーも大きく動き、アイビーは多額の富を得られたのだ。そして借金返済とはまた別の、本来の目的も果たすことが出来た。だから全体結果としてはアイビーとメタモンの勝利であるが、あの日々は本当に生きた心地がしなかった。

 明日、自分のポケモンが殺されるかもしれない。

 明日、自分のポケモンが他人のものになるかもしれない。

 明日、自分の命が他人のものになるかもしれない。

 明日、自分は殺されるかもしれない。

 様々なもしもifが頭の中を錯綜して駄目だった。夜は上手く眠れず、睡眠導入剤と精神安定剤で眠りにつき、一日一箱を吸いきるほど喫煙量も増えた。メタモンが居なければ、きっと気が狂っていただろう。そんな場所に、再び身を投じようとは思えない。

 強い拒絶を示すように、口を濯いだ水を洗面器に吐き捨てたアイビーは、もう一度口の中をうがいして、歯磨きを終えた。

「兎も角、これは決定事項だから。眠るならボールの中に入って眠って。学園にいる間にキミを呼び出すつもりは無いけれど、キミが傍に居ないと不安だから。いいね?」

「へいへい。可愛いご主人様の言う通りにしてやるよ」

 ゾロアークはケタケタと笑い、モンスターボールで眠るために置いてある寝室に消えて行った。アイビーはそれを見送り、同じように寝室に入る。

 クローゼットの中、まだ一度も袖を通したことの無い学生服のハンガーを取り出し、姿見の前でそれに着替え始めた。

 寝間着がわりのTシャツを脱げば、自分の裸体が鏡に映る。凹凸のない、酷く痩せた身体。同い歳の子供よりも発達の悪いこの身体は、薄く骨が浮いていて女特有の胸の膨らみも無ければ男特有の男根も無い。アイビーは自分の身体を見て、鼻で笑った。

「——気味の悪い身体」

 ぽつりと呟いて、それから下着を着ることにする。

 眠る時に下着を身につけないのは、昔からの習慣だった。クローゼットの中の引き出しから引っ張り出した安っぽいショーツを履き、それからシャツに袖を通す。素肌に触れる糊の利いた白いシャツは、襟首が固くて居住まいが悪い。

 フェニクスフィア学園の制服は、金色に縁取られた襟の黒いブレザーと白いシャツ、灰色のベストに赤色のネクタイが基本だ。女子はスカート、男子はスラックスを着用することが原則として定められているため、ロイバはアイビーにスカートを買い与えた。

 しかしこの学園では、あくまで規定の着方こそあるものの『個々の個性を尊重する』という信念の元制服のアレンジが自由となっているため、制服をその通り着用しなくても構わない。実際学校見学として校内を訪問した時は、シャツやベストを着用せずパーカーの上にブレザーを着ている生徒や、女生徒がスラックスを着用している場面も目撃した。そして殆どの生徒がネクタイをキチンと締めることはなく、緩めていたりリボンのように結んだりとアレンジしている。多様性が求められる社会に応じた結果がアレらしい。アイビーは少しだけ笑ってしまった。

 シャツのボタンを全て留めて、ネクタイをキュッと引き結ぶ。タイツを履き、スカートを履いて、ベストを着て、ブレザーを羽織って、新品の匂いのする服にやはり居心地の悪さを感じて苦笑した。

「ねぇメタモン、ボク可愛い?」

 くるりと振り返り、背後にいるメタモンを見る。彼はベッドに座っていて、退屈を凌ぐように本を読んでいた。彼はチラリとアイビーを見て、「服に着られてるな」と肩を竦めまた本に目を落とした。

「うん、キミの言う通りだ。これじゃあんまり、可愛くないね」

 アイビーは少し悩んでから、シャツの第二ボタンまで外してその位置までネクタイを緩めた。ベストは邪魔だから迷わず脱ぐ。ブレザーは生地が固くて動きづらいので、生地の柔らかいカーディガンを着ることにした。ロイバが昔買ったが着ずにタンスの肥やしにしていたという黒いカーディガンは、アイビーには少し大きくて指先までスッポリと入ってしまうほど袖が長い。しかしその柔らかい着心地が丁度良い。

 姿見の前で、くるりと一度回ってみる。膝上の丈のスカートがふわりと広がり、可愛らしい。袖で覆われた掌で口元を押さえてみれば、テディベアのように可憐な様子に見える。

「うん、これでいいや」

 アイビーは一人頷いて、それから顔面に化粧を施すために書物机の椅子に腰掛けた。この部屋唯一のテーブルであるそれは、勉強に使うこともあるが化粧台としても使う。アイビーは卓上に置きっぱなしにしていたメイクポーチを開いて、機嫌良く化粧を始める。

 最初に長い前髪をおざなりにピンで留めると、メイクポーチの中に入っていたウェットティッシュで顔を軽く拭い油分を拭き取る。このウェットティッシュは野宿中でも洗顔をしたいと思っているトレーナーの為に作られたものであり、これで拭うだけで洗顔剤で洗顔したのと同じような効能が得られるのだから素晴らしい。顔を洗うという所作が面倒臭いアイビーはこのウェットティッシュを重宝している。

 安価で購入したスタンドミラーを立たせて、アイビーは下地を取り出しながら自分の顔を見た。

 人形のような、無機質な顔。良く言えば端正で愛らしい、悪く言えば人間味が無く気味の悪い顔。青白い肌が人形らしさを助長しているのがいけない。長い睫毛に守られた白目の中には光の入り加減によって色の変わる瞳が、鏡越しにジッとこちらを見つめている。この瞳、原色は灰色に近い白であるはずなのに何故か見る角度や光の加減によって色が変わるのだ。養父ロイバはオパールのような七色の瞳だと褒めたが、アイビーはこの眼球が嫌いだった。色が変わったって、良いことなんて無い。それでもカラーコンタクトを付けるのが下手くそだから、この眼球のまま生きている。

 自分の顔を見つめる、困ったように眉尻の下がった幼い顔立ちの少女、それがアイビー。

 アイビーは下地を手に出して、それを顔に塗り始める。日焼け止め効果を含んだピンクの下地は、アイビーの血色を良く見せてくれる。ペンタイプのコンシーラーでくまを消せば、より人間らしさが増す。

 “化粧をする”といっても、アイビーは眉や睫毛を弄ることはない。面倒臭いからだ。アイビーが行う化粧はアイシャドウと口紅である。

 いそいそとメイクポーチから、お気に入りのアイシャドウパレットを取り出して開く。チョロネコをモチーフにして作られたアイシャドウパレットは、アイビーの年齢の子供が持つには少し高いブランドの化粧品だった。10歳の誕生日にプレゼントされてから、ずっとこのブランドのアイシャドウを使っている。パレットに付いているブラシで目の周囲を彩って、瞼の頂点にラメをのせる。これだけで、随分印象が変わる。

 血色の良く見える口紅を塗りもごもごと唇を擦り合わせ色を整えて、そうして鏡を見れば、メイク前より少し利口そうな女がそこに居た。アイビーはそれを見て、にんまりと笑ってしまう。

「ねぇ見てメタモン。ボク、可愛くなったよ」

 アイビーはベッドに座るメタモンを振り返った。彼はチラリとアイビーを見て、「よかったな」と返す。おざなりなその答えに、アイビーはムッと眉を顰めた。そして大きく一歩踏み出してベッドに歩み寄ると、そこに座る彼の膝の上に跨るようにして首に抱きつく。そうすれば、メタモンは本を読み続けることも出来ずアイビーを見た。

「ねぇねぇ、ちゃんと見てよ。キミと同じ色だよ? ほら、紫色。キミの色だ」

「……アイシャドウパレットのモチーフはチョロネコだろ」

「でも紫はキミの色だ。キミの身体の色。ねぇ可愛い?」

「ハイハイ、可愛いよ」

 メタモンはやれやれと言いたげに肩を竦め、ポンポンとアイビーの頭を撫でた。アイビーはパァッと花が咲いたように顔を輝かせ、嬉しくなって上機嫌で彼の膝から降りてやる。

「俺に可愛いと思われて楽しいのか?」

 呆れたようなメタモンの声に、アイビーは「勿論さ」と即答する。

「女の子は“可愛い”って言われれば言われる程、可愛くなるんだよ」

「なら適当な男でも作って可愛いを言わせるbotにしてしまえばいいだろうに」

「わかってないなぁ。キミに言われるから、効果があるんじゃないか。それに恋人なんていらないよ。キミがいるのに恋人なんて作ったら、浮気になるだろう?」

 フフンと自慢げに笑えば、メタモンはまた肩を竦めた。しかしその表情はどこか満足そうであるから、彼とてアイビーに“恋人”と思われていることを悪くは思っていない様子である。

 アイビーはまた書物机の方に行き、メイクポーチの中から持ち運び用の小さなベビーパウダーの丸カンを取り出すと、パフパフとパウダーを顔にはたいた。それからメイクポーチの中の霧吹きをシュッと顔に吹きかけて、ティッシュペーパーを一枚手に取りソッと顔に化粧を押し付けるようにして馴染ませる。こうすれば、炎天下の中を歩いて汗だくになってもメイクが落ちにくくなるのだ。現役女優に教えてもらったこの術には、随分とお世話になっている。

 アイビーは使用した化粧道具をメイクポーチにしまい始めた。前髪を留めていた大きなピンとアイシャドウパレット、水入りのアトマイザーに口紅、化粧下地とベビーパウダーもしまって、チャックを締める。

 アイビーはそれから、書物机の上のブラシ立てに立てていたヘアブラシを手に取った。そして全身の映る姿見の前で、歌を歌いながら毛先まで梳かし始める。化粧した顔を『可愛い』と褒められ、気分が高揚して楽しくなってきたのだ。メタモンがチラリとアイビーの方を見た。しかし歌に参加することはなく、だが歌を止めることもなく、変わらずまた本に目を落とす。

I dream of you, I'm so in love with you.ボクはキミに恋し夢を見て

 I dream of you, your eyes fascinate me.ボクはキミの目に魅せられまた恋をする♪」

 腰まで伸びた亜麻色の髪。その毛先は脱色したように白くなっているが、染めているわけではない。毛先の色が変わるのは、アイビーの意図は含まない自然現象だった。

With just one word from you, I can fly.キミの言葉に揺蕩い踊る♪」

 アイビーは梳かし終え不必要となったブラシをテーブルに戻し、くるりと回りながらメタモンの方を向く。

Yeah i'm in love with youそうボクは愛してる、キミだけを

 I swear that I will live with you.息をする、キミと共に♪」

 スッと芝居がかった優雅な姿で手を差し出せば、メタモンはそれを鼻で笑った。そしてアイビーの手首を掴み引き寄せると、彼女にキスをする。アイビーは逃げることなく、彼の口付けを受け入れた。

「可愛い?」

「最高だ」

 アイビーはニンマリと笑って、メタモンの頬にキスをすると身支度を終えた。

 後は、学校に持って行くためのリュックサックの用意だけだった。といっても、大体の用意は昨日のうちに済ましている。そのリュックサックの中に、化粧ポーチと財布を入れて、ジップを閉じる。それからリュックサックのショルダーハーネスに引っ掛けておいた、モンスターボールを取り付けておくためのベルトを手に取り腰に巻いた。ベルトにはモンスターボールが二つ付いていて、一つはゾロアークのもの、もう一つはメタモンのものである。アイビーの手持ちポケモンはこの二匹だけだ。トレーナー登録をする時にポケモンリーグから与えられるポケモンのモンスターボックスも空っぽである。入学前にされた説明会によれば、学園に入学すると同時に一匹学校からポケモンが配布されるという話であるが、はたしてどんなポケモンが自分の元に訪れるだろうか。考えながら、アイビーはベルトをしっかりとしめて誰にも奪われないように努める。

 最後にアイビーは、書物机に取り付けられたダイアル式ロックのかかった引き出しを解錠し、中から円形のポーチを取り出した。そのポーチのボタンを外して、中身が入っていることを確認する。色がバラバラである17枚の円形のディスクが、その中にはキチンと揃えてしまわれていた。アイビーは無意識に、自身の左耳の後ろを触る。亜麻色の髪に隠れて見えないそこには、僅かであるがこのディスクが一枚入りそうな溝がある。

 これを、捨ててしまおうかと何回も考えた。捨ててしまえば一つ現実逃避が出来る。しかし捨てることは出来なかった。それはアイビーが臆病だから。

 アイビーはそのポーチの先に付いたフックをベルトに引っ掛ける。リュックサックを背負えば、準備は万端だった。

「メタモン、そろそろ行くよ」

 声を掛ければ、彼は本に栞を挟み、ぐにゃりと姿を変えた。ベッドの上に居た少年は、みるみるうちに片耳イヤリングへと変わる。アイビーはイヤリングに[へんしん]したメタモンを持ち上げそれを左耳に付けて、スマホロトムをポケットにしまい部屋を出た。

 この日のために数週間前に購入した履き心地の良いスニーカーを履き、玄関扉から廊下へと出る。オートロックマンションであるため、背後で扉が閉まると同時にガチャリと施錠音が鳴った。アイビーはそれを聞き終え、そのままエレベーターのある廊下の端へと歩き出す。

 春風が亜麻色の髪を揺らして、身震いした。その震えが、新しい生活を始める緊張を助長させるようだった。





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