第73話:心の迷宮――その3

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

「セナを呼び戻せなかった。ボクらも心の迷宮に閉じ込められちゃう。もう、全部、おしまいだ……」

  のこりわずかな砂が落ちゆくのを見つめながら、ヴァイスは静かに呟いた。セナと救助隊を始めたこと、ホノオやシアンと出会ったこと、父親の行方を知ったこと。これまでの冒険が、一瞬のうちに頭の中を駆け巡る。辛かったけど、楽しかった思い出。それらが全部、跡形もなく、なかったことになってしまう。くらりと、ヴァイスの意識が遠のきそうになった。
 が、直後。 目を疑う光景がヴァイスの意識を引きつける。

「よいしょ」

 平然とのんきな声を出しながら、シアンが持っていた砂時計をひっくり返したのだ。ほとんど満タンになっていた砂が、上から下へと落ちてゆく。

「えっ」
「な、何やってんの、オマエ」

 予想外の事態に、ヴァイスとホノオは引きつった笑顔でシアンに話しかけた。深い絶望を薄れさせる戸惑いに、混乱すらしている。

「こうすれば、砂時計が終わらないカナって思ったノ」
「いや、そりゃそうだけど、そういうことじゃねーだろ……」
「じゃあ、どういうことナノ?」
「うーん、えっと……」
「砂時計って、あくまでもホーリークリスタの力が持つ時間の目安なんでしょ。ひっくり返しても、制限時間が伸びるわけじゃないよね」

 違和感をうまく言葉にできないホノオに代わり、ヴァイスがシアンに説明する。しかし、ヴァイスの言葉は素通り。悲観的な予測を跳ね除けるような、シアンのニコニコ笑顔が向けられた。

「そうナノ? でも、“砂時計をひっくり返しちゃダメ”なんて、クリスタに言われなかったよネ」

 しばしの沈黙。沈黙……。
 砂時計が終われば、クリスタの力が尽きれば、全てが終わる。ヴァイスもホノオもそう思っていた。それでも、自分たちの時間は続いている。この空間から出られるかどうかは分からないが、それでも、淀みなく時間は流れ続ける。命も心も、続いている。
 セナのためにできることは、かけられる言葉は、諦めない限りあるのだ。

「……ふっ。あははははは!!」

 突然、暗い空間を裂くようにホノオが大きな笑い声を上げた。シアンに近寄り頭をガシガシと撫でる。

「シアン、最高! オマエ最高だよ!!」
「ありがとうシアン! ありがとう!!」

 ヴァイスもシアンに駆け寄り、シアンにぎゅっと抱きついた。緊張やプレッシャーから一気に解放され、ヴァイスとホノオは数日分笑う。初めはキョトンとしていたシアンだが、久々に楽しい時間が流れていることが嬉しくなる。つられて甲高い声を上げて笑い始めた。


「はあ、はあ……ふう」

 笑いすぎた3人の目には涙が波打っている。乱れた呼吸を整えると、ホノオが諦めていた本題に入った。シアンが気づかせてくれた。セナと過ごす時間は、まだ終わった訳ではない。届けたい言葉を伝えないと、気が済まない。既に取り返しのつかない時が過ぎていたとしても、その地点から、前に進むしかないのだ。

「まずはヴァイスとシアンに言いたいことがある。ありがとう。それと、本当にごめん。
 オレさ、ただでさえ罪悪感を抱えていたセナが、一時的に記憶を失ったことでさらに自分を追い詰めてしまった……こんな現状を何とか変えてやりたいって、ムキになってた。だから、7度目の世界とやらに頼って、セナがポケモンになって記憶を失ったことも、全て無かったことにすればいいのかなって、迷っちまった。でもそれって、目の前で苦しんでいるセナを見捨てているってことになる。お前たちが、そう気づかせてくれたんだ。
 そもそも、もしも今ガイアが滅びたら、お前たちと出会ったこともなかったことになるんだろ? それだけは、嫌だ。セナにとっても、お前たちは良い友達だと思うしね。だからオレも、この6度目の世界でやれることは全てやる。そう決めたんだ」

 ヴァイスとシアンの大きな目がキラキラと輝く。ホノオが“帰ってきた”。ヴァイスはそう感じた。ホノオは恥ずかしそうにヴァイスとシアンから視線を逸らすと、セナを見つめる。うつ向いていたセナは、ホノオの視線を感じビクリと目線を上げた。

「なあ、セナ。仲間に頼れなかったり、ミュウツーに勝てなかったり、自分を好きになれなかったり……。お前のそういうところも、全部まとめてオレは好きだぞ」

  シアンはともかく、セナもヴァイスも目を丸くしてホノオを見つめた。
 自分が嫌いで、嫌いな自分を直したい。勝てない――目的を果たせない強さには、意味がない。
 そんな言葉を繰り返していたセナに、短所を認める言葉を投げかける。その発想は、視野の狭まったヴァイスにはたどり着けないものだった。先程まではあれほどヴァイスの言葉に反論していたセナが、硬直して何も言えなくなっている。ホノオの言葉が想定外だったようだ。
 ――オイラの醜い短所が……好き? 意味が分からない。

「もちろんオレたちとしては、もっと仲間を頼って欲しいさ。でもお前は、仲間に頼れないからこそ、困難を自分で乗り越えようとしてきた。そうやって得た力もあるだろ。仲間に頼れないことは、必ずしも悪いことばっかりじゃない。
 お前はミュウツーに勝てないから、自分のことを弱いとか無力とか、生きる意味がないとか言うけどさ。でもさ、お前が一人でミュウツーに勝てるようなら……オレたち、必要なくなっちゃうじゃん。ちょっとくらい弱いからこそ、友達や仲間ができるんじゃない? そんで、独りで戦うよりも、みんなで戦った方が戦力が大きいってことくらい、お前は分かるでしょ」

  ここでヴァイスはハッとする。――仲間を頼れないセナ。弱い自分を責めるセナ。そのどちらも、この心の迷宮で確実にボクが向き合ったセナだった。ボクはそのセナを“偽物”だと思って、冷たい言葉を投げつけてしまった。でも、それは違う。今まで迷宮で会ってきたセナは、どれも本物だったし、本音を曝け出してくれていたんだ。明るいセナもいる。マイナス思考のセナもいる。セナの中には色んなセナがいるけど、どれも、切り離すことのできない本物だったんだ。
 気づいた瞬間、涙が溢れた。セナ、ごめん。ヴァイスは涙を拭うと、必死に震えを抑えながらセナに訴えかけた。

「ボクは、自分を責めるセナを見ると、すごく悲しくなるよ。すごく心が痛くなって、セナの悲しい気持ちを認めるのが怖くて……。弱虫で、本当にごめんなさい。でも、自分のことを好きになれないセナも、ボクの大好きなセナなんだ。セナってどんなピンチでも、仲間を責めたりしないで、前を向いて戦うよね。だからボクたちは、ピンチの時でもやる気を出せるんだ。セナの優しいところが、ボクは大好きだよ」

 好き。大好き。そんな幸せな言葉を自分が受け取る資格はないと、強く思っていた。しかし、目の前のホノオとヴァイスの視線は真剣で。言葉の信憑性をこれでもかと補強してくるのだ。幸せな言葉を浴びせられ、セナは混乱する。心に延々と流れ込む薄暗い呪いが、消え去りそうになる。頬が赤くなり、頭がぼーっとする。が、呪いのかけらが幸せへの拒否反応となる。ふるふると首を振ると、セナは3人に背中を向けた。

「お前たちがオイラを……す、好き、だったとしても。悪いけど、そんな気持ちは、この世界にとっては何の意味もないものだろう。好きって気持ちじゃ、ガイアと地球の衝突は――ミュウツーは、止められない。どんなにみんなが好きって言ってくれても、その気持ちを役立てられないオイラなら、世界に戻る意味はない」

 この反論に、ホノオとヴァイスは言葉を詰まらせた。確かに、自分たちはセナに戻ってきてほしい。それはもちろん、純粋な自分たちの望みである一方、ホウオウやミュウやスイクンたちの期待でもある。ガイアに戻るからには、セナはその責任を強く強く認識するだろう。だからこそ、無責任な言葉はかけられない。ホノオも、ヴァイスも。
 そんな時こそ、シアンの出番だ。

「でもでも。シアンたちはセナがだーいすきだから、一生懸命セナと一緒に戦おうって思うんだヨ。セナを好きって気持ちは、シアンたちの力になるノ。セナが持っているのは、ひとり分の力だけじゃないんだヨ。セナがそばにいてくれるだけで、もっともっと、いーっぱい、がんばる力が生まれるノ!」
「シアン。やっぱりお前、意外と天才だな! オレもそう言おうと思って、いい言葉が見つからなかったんだよ」
「そうだね、シアンの言う通り! ミュウツーを止める責任は、セナだけのものじゃないよ。ボクらの責任だ。独りだけで戦って、傷ついて戦えなくなっちゃって……そんなセナを、ボクたちはガイアに連れ戻そうとしている。もう一度戦わせようとしている。これは、ボクとホノオとシアンのエゴだ。キミともう一度、平和な世界で笑いたいっていう、ボクのわがままなんだ。だから、キミが感じている責任もプレッシャーも、全部ボクらと一緒に背負わせてよ」

 シアンの言葉を借りながら、ヴァイスが丁寧に言い聞かせてくれる。独りで抱え込まないこと。そう説得されたのは、これで何度目かわからないけれど。なんだか少しだけ、「独りで抱え込まないこと」が具体的にイメージできるような気がしてきた。——そうか。ヴァイスは別に、今までオイラに困難なことを押し付けていたつもりはなかったのだ。ただ、オイラが勝手に「独りで抱え込まないこと」を難しく考えすぎて、怖がっていただけなのだ。正直なところ、経験が少ないこともあって、今もまだまだ怖いのだけれど。理解はできても、すぐに「うん、そうするね」と言えないのだけれど。

「いいぜ。ゆっくり考えな。オレたちはずっとここにいるから。お前がこれからどうしたいのか、じっくり考えて決めてくれ」

 ホノオはセナの背中をポンポンと叩きながら、どかっと腰を下ろしてニッと笑う。ヴァイスはセナの肩を押さえて座らせ、シアンはセナの両足の上にちょこんと座った。身を寄せ合って、ゆったりとした時間を過ごす。セナだけが、その空間に心を馴染ませられずにいた。ソワソワと、落ち着かない。申し訳ない。その思考のかけらが消えない。

「……みんな。どうして“ぼく”の……オイラなんかのために、そこまでしてくれるの?」
「それがオレの——オレたちのためだから、だよ。そばにいたいし、役に立ちたい。お前がそう思わせる奴だから、そうしたい。それだけのことじゃん」
「みんなに優しいシアンやヴァイスと違って、ホノオがそう言うと説得力があるよネ」
「そうだね。全く、ずるいなあ、ホノオは」
「へへん。オレだからこそ言えること、まだまだあるもんね。オレは、救助隊ボルトを殺したけどさ。その罪を一生懸命、一緒に背負おうとしてくれたのは、お前だぞ、セナ。ささやかな恩返しくらいさせてくれよ」
「ボクも、セナに恩返ししたい。独りぼっちのボクとお友達になってくれたお礼を、まだちゃんとできていないもん!」
「シアンも、シアンも! シアンの分までしっかりしてくれるセナに、恩返しするヨー!」

 次第にヴァイス、ホノオ、シアンの言い合いが賑やかになる。どこまでも深く自分を否定して深淵に堕ちても、こうして3人がかりで追いかけられては闇から引き上げられるのでは——敵わない。オイラは温かな光の中で、生きるしかないのだ。少なくとも、今は。
 セナは思わず、クスッと笑った。瞬間、無限に広がる灰色に光が灯る。柔らかな黄色い光が、セナを中心に広がってゆく。

「あっ、セナが笑った! かーわいいっ!」
「ふふふ。負けたよ。お前ら、執念深すぎ」
「執念深いって……。もーちょっと言い回しに気を遣えよな」
「だって。諦め悪いとか粘り強いとか、そういう言葉じゃ足りないもん。オイラなんかにそこまで固執して、絶対に逃してくれなくてさ。ダメ元でももう一度頑張ってみようって、嫌でも思わされちゃうよ」
「もう一度、一緒に頑張ってくれるノ?」
「……うん。オイラなんかで良ければ。オイラなんかにできることが、少しでも、あるのなら。みんなと……一緒に、ミュウツーを止めたい。もう一度、一緒に戦ってくれる?」

 はにかみながらのセナの言葉に、ヴァイスとホノオとシアンは、それぞれの言葉で力強く返事をした。その瞬間、セナの身体が澄み切った青色に輝く。セナ自身もしばし驚いたが、4人は同時に悟り、脱力したように笑った。

「そっか。“心の力”、すっかり忘れてた」
「よかったぁ! クリスタの力がなくなっても、セナの力でここから——心の迷宮から出られるんだ」

 脱出できない絶望をシアンが忘れさせてくれて、ただ目の前のセナと向き合い続けた。迷宮の闇で陰るセナの心を、3人がかりで力を合わせて照らし続けた。結果、心の力でここから出られ、全てが解決してしまった。拍子抜けしつつも、4人のうち誰が欠けても辿り着けなかった結末と気がつくと、ヴァイスは愛おしそうに笑った。つられてセナも幸せそうに笑った。
 4人の身体が青い光に包まれて、ふわふわと上空に浮遊する。意識がとろけ、しばし4人は幸せな夢を見る。

 ——心にまとう罪の意識を振り払って、今はただ、仲間と前に進むことを選んだ。それで果たして、自分は成長しているのだろうか。きっとたぶん、これは一種の現実逃避の結果で。罪の意識で息苦しくなることは、これからも何度もあるのだろう。オイラの記憶と、それに紐づいた性格がある限り、その運命からは逃れられないのだろう。
 でも、今はそれで充分なのだ。きっと。
 生きることをやめないこと。未来を諦めないこと。どこまで堕ちても仲間がついてきてくれることを、温かいと思えたこと。そうして重大な分岐路で、命を繋ぐ選択ができたのだから。それに勝る収穫はないと、心の底から今は思えた。これから待ち受ける困難は、その時に考えれば良いのだ。

 ——ああ、そう言えば。人間の、小学生の頃に、テストでミスが続いて酷く落ち込んだことがあった。確実に満点が取れる内容だったのに、必ずと言っていいほどにつまらないミスで点数をこぼしてしまったのだ。自分は欠陥品。科学者になんかなれっこない。水輝の代わりに生きているのに、この体たらく。自分を責めて呪う言葉で、心が苦しくなった。
 そんな時に父さんがかけてくれた言葉を、オイラはまだ正確に覚えている。とても丁寧に言い聞かせてくれたから。

 ——この世界にある発明品には、偶然や大失敗からできたものがたくさんあるんだよ。失敗は悪いことじゃない。“良いもの”の悪いところや、“悪いもの”の良いところを見つけること。科学を人々の役にたつものにするためには、そういう考え方がとても大切なんだよ。
 頑張り屋でおっちょこちょいな瀬那なら、いつかすごい発明ができるかもね。完璧なだけでは実現できない奇跡にたどり着く、素晴らしい才能を秘めていると思うんだ。

 ——そうか。完璧じゃなくても良い。それって決して新たな発見ではなくて、遠い昔から言われ続けた言葉だった。きっと、ぼくに、オイラに、いつも必要な言葉だったのだ。夢中で生きていると、どうしても水輝の分まで完璧に生きなきゃって思っちゃうんだけど。100点満点じゃなくても良いと思えたから、オイラは今生きられているんだ。
 ヴァイス。ホノオ。シアン。……父さん。命を繋ぐ言葉を、ありがとう。

 心の迷宮から抜け出すまで、セナは甘く幸せな夢に浸っていた。

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