第10話 終焉

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ルーナメア(ラティアス♀):スターライトの艦長

タリサ(女性):不思議な雑貨屋さん

サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒だが…?
雷電(剣):仰々しく話す稲妻の剣

キズミ(男性):美青年にして警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒

マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ

ミオ(女性):ルーナメアの友人で、地球連合艦隊の提督
 地球上の各地で、ポケモンたちが動き出した。
 かつてオレンジ諸島近海を流れる深層海流が乱され、世界中に異常な気候変動が生じたとき、いちはやく動いたのがやはりポケモンであった。海を渡れる者はオレンジ諸島へ、渡れない者は最も近い海岸や港へと結集した。世界の終焉を前に、まるで自然の意思を体現するかのごとく、ポケモンは脅威に立ち向かったのである。
 いわゆる『ルギア事件』から時は流れて現在。世界各地でポケモンたちは空を見上げた。あるいは、水平線の彼方を見つめた。かつてより変化はささやかであるが、ポケモンは宇宙の彼方から迫る未知の脅威を、確かに感じ取っていた。
 それは当然、ミチーナ神殿に座するアルセウスも同じ。朧気にしか感じ取れない普通のポケモンと違い、これから起こる出来事を、彼はすべて知っていた。
 協力を得られないと悟ったミオが早々に立ち去ってから、アルセウスは神殿に誰も迎えず、独り後悔と懺悔に押し潰されていた。
「おぉぉ、すまない……すまない、愛する我が子らよ……」
 人間もポケモンも、限られた力ではどうにもならない壁に直面したとき、しばしば神に祈ることがある。
 では、神は誰に祈るのか。
 その心を語れる相手は、この場所、この時代にはいなかった。

 神殿を見下ろす夜空の星々。その一画は、地球軌道上に数百と結集した艦船が放っていた。
 旗艦スカーレットに乗船したミオ提督は、足早にブリッジを訪れる。
 彼女を迎えるべく、艦長を務めるミロカロスは台座のような艦長席から降りて振り向いた。
「全艦、発進準備は完了しています。アルセウスの件は残念でした」
「時間の同期は諦めるしかない」ミオは苛立ちを抑えているものの、吐き捨てるように言った。「ひょっとしたら別の時間軸に呑まれて、同じ時代には戻れないかも。全艦に通達して、任務から外れたい者は救助艦隊に移るようにと」
「お言葉ですが提督、第一報を受け取ったときから覚悟はできています。ここにいる艦隊は、愛する家族のため、仲間のため、地球防衛にその身を捧げると誓いました」
 見回せば、誰もが迷いなく引き締まった顔をしていた。すると、不思議とそれまで重くのしかかっていた肩の荷が、ふわりと軽くなったような気がした。責任とプレッシャーでついつい見逃してしまうのだが、彼らも志を同じくした艦隊の仲間なのだ。
「……アルセウスを信用した私の間違いを、まるで皆がカバーしてくれてるみたい」
「全艦艇にご命令を、提督」
 ミロカロスの言葉に甘えて、ミオは彼らの一歩前に出た。

『タスクフォース・オメガの全艦艇に告ぐ、こちらは旗艦スカーレットのミオ提督です。これより艦隊はUHA(ウルトラホール変異)に突入します』
 宇宙空間にずらりと並んだ二百の艦艇が、その船首をゆっくりと傾け、同じ彼方に向きを揃えていく。地球上のあらゆるポケモンたちからの視線を背中に受けて。彼らは希望を託された。
『UHAは今なお拡大を続けている。その動力源は、向こう側の世界に必ずある。これだけ膨大な力を生み出すテクノロジーを持つ相手です、戦いになれば大勢の犠牲が出るかもしれない。けれど私は知っています。皆で力を合わせれば、勝てないシナリオなんてどこにもないってことを!』
 ミオはスクリーンに映る宇宙の彼方を見据えて、指差した。
「全艦、発進せよ!」

 無数の流れ星が一丸となって、巨大な彗星を描き、夜空の果てに消えた。


 *


 枕元の電子時計が示す時刻はAM07時00分。
 サンは目覚めると、ベッドからのそのそと出てきて、顔を洗うために洗面台へ向かう。ふと鏡を見ると、妙な違和感が込み上げてきた。
 あたしってこんな顔してたっけ。毎日のように鏡を見ていたのに、久しく自分の素顔を見た気がした。
 後ろを振り向いても、周りを見回しても、部屋には自分以外に誰もいない。つい昨日まで、どこにいてもルトーが一緒だったのに。
 分かってる、ルトーは最初からどこにもいなかった。あれはあたしが望んでた幻だったんだ。ルトーが死んだっていう現実を受け入れたくなくて。
 それがとても信じられなかった。今でも彼の手を握ったときの温かい感触を覚えているというのに。サンは自らの手を見つめて、握ったり解いたりを繰り返した。少しでもあの感触を思い出せるように。

 気を取り直して、寝癖を整えようと鏡を見た。
 その瞬間、サンは思わず目を見開いた。ルトーが背後を横切り、すうっと幽霊のようにドアを通り抜けていったのだ。
「ルトー!!」
 サンは髪のことを忘れて部屋から飛び出した。亡霊は通路の角を曲がって、再び見えなくなった。
 本当に亡霊なのだろうか。走って彼を追いかけるにつれて、かすかなルトーの匂いを確かに感じた。そうだ。ここは元の世界とは違う、まるで魔法みたいな夢の世界。ひょっとしたら、ルトーはこの世界で生きているのかもしれない!
 もしもそれが本当なら、あたしは復讐を捨ててもいい。ここでお前と楽しく暮らせるのなら……!
 追いかけて、追いかけて、迷路のような通路を駆け抜けて、辿りついた扉の先は、巨大な動力炉の唸る機関室だった。
「ルトー、お前……ほんとに……」
 彼は立っていた。動力炉の前に佇み、そしてゆっくりと振り向いた。
 マスクのような顔が、ふっと微笑んだ。

――また、見つけてくれたね。

 枕元の電子時計が示す時刻は時刻はAM07時38分。
 サンはベッドの上で目を覚ました。のそりと身体を起こして、寝惚けた目で辺りを見回した。
 どこにもルトーは見当たらない。夢か。夢だよね。そりゃそうだ。
「はあ……」
 しばらくベッドでうずくまってから、ほどなくして黙々と朝の支度を始めた。


 *


航界日誌
地球暦不明
記録者、ルーナメア

先の攻撃による損傷は復旧。サンプルを採取した後、無事に氷柱を除去できた。これで当面の脅威は去ったと見ている。
気になるのは、何者かが船に破壊工作を仕掛けた可能性を排除しきれていないことだ。ここまで旅を共にしてきた仲間を疑いたくはないが、あらゆる可能性に備えなければ。
懸念は残っているが、艦はいよいよ赤い太陽に接近した。タリサの予言した終末までおよそ二時間、脱出を急がねば。


 強烈な赤い光が世界を埋め尽くしていた。直視すれば目を焼くほどの閃光。間違って外を覗くことのないよう、航界船スターライトは、あらゆる窓に防護シャッターが降りている。
 唯一景色を拝めるのは、ブリッジのスクリーンのみだ。輝度を抑えるフィルターを通して、スクリーンに映る巨大な太陽は、外をぼんやりと眺めるサンの瞳と、ブリッジを不気味な深紅に照らしていた。
「……太陽、なのか?」
 眩しそうに目を細めて、キズミは訝しげに言った。
 太陽と言えば、灼熱の炎が踊り狂う恒星だ。ところが目の前の太陽には炎がない。巨大な何か、そのものが光り輝いているように見える。
 マナフィは制御盤を操りながら答えた。
「あれは恒星ではありません。直径二百万キロメートルに及ぶ巨大な人工構造物を、ある種のシールドが覆っています。内部は未知の結晶構造です」
「シールドを突破してスキャンできるか?」艦長席に座るルーナメアが尋ねると。
「はい。シールドの構造が極めて不安定になっているため、隙間から内部をスキャンできそうです。少々お待ちを」
「ええっと、それって普通なの?」タリサが首を傾げる。「シールドって、外敵から身を守るためにあるんだよね? ボロボロなのはおかしくない?」
「ご明察です。これは過剰なエネルギー供給が続いたためと推測します、あの異様な赤い光は、処理しきれていない余剰エネルギーによる副産物でしょう」
「ルナ、要約」タリサが早々にパスを回す。
「つまり『電気ショック』で光る電球に、『十万ボルト』を流し続けるようなものじゃ。光は強くなるじゃろうが、電球の寿命が減るのも早い」
「ということは、この太陽には寿命を減らしてでも抵抗すべき敵がいたということかな」
 なんとも。ルーナメアは肩をすくめて、マナフィに報告の続きを促した。
「現在、内部構造のスキャンを進めています。メンテナンス通路と思しき空間を検知、人工重力はないものの呼吸可能な大気があります」
「生命体は? あるいは、氷の人形はおらんか?」ルーナメアは再び尋ねた。
「反応なし、いたとしても個々の活動は見られません。誰もいないようです」

 ルーナメアは太陽を見つめたまま、思案顔を浮かべていた。
 ここでスキャンを待つだけでは非効率だ。それに、タリサの言った終末の気配も未だに見えないのが不気味すぎる。どうにも嫌な予感が拭えない。急いだ方が良いだろう。
「……マナよ、太陽の内部に転送できるか?」
「それはできますが……艦長?」
「内部からシステムにアクセスできれば、敵の狙いと脱出方法が分かるやもしれぬ。乗り込むのはわしと、タリサで足りるじゃろう」
「今なんて?」
 完全に留守番態勢に入っていたタリサがギョッとした。
「無重力で動ける者はわしらしかおらんじゃろう?」
「ああ、夢幻ポケモンであることが今だけは恨めしいよ」
 嫌みったらしく言いながら、タリサはため息を吐いた。それでも一緒に来てくれるのだ。ルーナメアは口角を上げて微笑んだ。
「時間が惜しい。マナ、わしとタリサを太陽内部の空間に転送しろ。できるだけエネルギー回路が集積している場所にな、おそらく司令塔がその近くにあるはずじゃ」
「了解、転送します」
 銃を抜いて立ち上がり、ルーナメアはタリサと並んで転送に備えた。『サイコキネシス』で銃を浮かせ、ともにラティアスの姿へと戻る。
 光がふたりを包んでいく。消える寸前、ルーナメアはキズミと視線を交わして、小さく頷いた。こっそりと交わした合図では、こう言っていた。
 予定通り、捜査を進めてくれ。


 *


 数時間前、艦内時刻の早朝。
 皆が起き出す前に、ルーナメアはキズミを食堂に呼びつけた。ろくに眠れない者同士、ときどき食堂で顔を合わせていたが、今度は単に不眠だからという理由ではない。
 食堂に訪れたキズミを、ルーナメアはホットコーヒーで迎えた。
「……こんな朝からブラック?」
「頭がスッキリするぞ」
「どうだろうな、お前の顔を見てたら頭痛薬の方が良い気がしてきた」

 静かな食堂。窓はシャッターに遮られ、点々と灯るライトがテーブルの一画だけを照らしている。
 キズミはコーヒーをひと口呑んで、そっと置いた。
「おおかた話の中身は想像がつく。裏切り者の件だな?」
 ルーナメアは渋い顔のまま頷いた。
「例の氷柱がシステムに侵入したとき、アクセスできる機能は限られていた。それが前触れもなく破られたということは、誰かが艦のセキュリティを解除したのじゃ」
「証拠が出たのか?」
「マナの調べで、アクセス記録が見つかった」
「記録のIDは誰のだった?」
「おぬしに付与したIDと一致した」
 コーヒーを持ち上げかけた、キズミの手が止まった。
「……なに?」
「按ずるな、既に調査で偽装されたものと分かっておる。あるいは、おぬし自身が自らを容疑者から外すために、わざと偽装したのかもしれんが」
「おい、冗談じゃないぞ。疑わしいから俺を牢屋に放り込むって話じゃないだろうな?」
「それも頭をよぎったがの、もっと良い手を思いついた」
 嫌な予感がしてきた。
 キズミの心配をよそに、ルーナメアは悪そうな笑みを傾けた。
「餅は餅屋という言葉がある。事件の捜査は警察官の十八番じゃろ?」


 *


 五光年という広大な空間を丸ごと囲んだ氷の茨。蒼天の中心には深紅の太陽が輝き、悪夢の世界を赤々と照らしている。
 ところが太陽の中はというと、驚くほど静かで冷たい。量子テレポーテーションで現れたふたりを待ち受けていたのは、極寒の氷に覆われた部屋だった。壁や設備はスターライトの内装に似ているが、所々が崩れて無数のちぎれたケーブルが垂れ下がっている。
 ルーナメアは銃の明かりを点灯させ、辺りを見回して呟いた。
「ボロボロじゃな」
「はじめからこういうデザインで設計されたとは思えない。まるで予期せぬ侵蝕を受けたみたい。そういえば、スターライトを襲った氷柱も船を乗っ取ろうとしてなかった?」タリサは凍えながら震える声で言った。
「侵蝕する氷か……これはそいつに呑まれた文明の末路かもな」

 ふと、分厚い氷に包まれた制御盤に目が留まった。ひょっとしたら、ここから情報にアクセスできるかも。ルーナメアは銃を『熱線』モードに切り替えて、氷にレーザーを撃った。
 じゅわああ、と音を立てて融けていく。その熱が温かくて、タリサは少しでも恩恵に与ろうと両手をかざしていた。
 剥き出しになった制御盤に、ルーナメアは恐る恐る触れた。まだ動けば良いが。祈りが通じたかのように、モニターがパチンと映った。
「よし、まだ端末が生きておった。どこまで探れるか試してみよう」
「すぐできそう?」
「どうかのう、多少時間はかかるじゃろうが」
「それならあたしは外の様子を見てくるよ。怖いけど。せっかく来たんだから、なにか成果を挙げないと。怖いけど」
「……あまり遠くへ行くでないぞ」
 もちのろん。タリサは半開きのまま凍ったドアをこじ開けて、ひょいっと首を出す。
 暗くて静かな通路が、左右にどこまでも続いていた。


 *


 太陽の間近にとどまる航界船、スターライト。
 今は修復されているが、巨大な氷柱が刺さっていた下層デッキに降りて、キズミは歩き回っていた。お供のウルスラは行き交うポリゴンへと律儀に会釈をしながら、彼の後ろをぱたぱたとついて行った。

「キズミ様、何をなさっているんですの?」
「検証だ」
 短く言い切って、近場の制御盤に目を留めた。コントロール・パネルに手を置いて、軽く操作してみる。ふと思い立って、ウルスラを肩に乗せた。
「手伝ってくれ。状況を思い浮かべて、追体験するんだ。俺たちは今、誰にも見つからないように、隠れて船のシステムに侵入している。何を感じる?」
「そうですわね」うーん、とウルスラは唸って。「……とてもドキドキしてますわ。誰かに見つかったり、失敗したときのことを考えてしまいます」
「絶対に見つからない確信があったらどうだ? 気配も消して、姿も見えない透明状態だとしたら?」
「さっきとは違うドキドキですわ。わたくしだけが特別だと思える、これは……高揚感と、万能感でしょうか?」
「それはいわゆる慢心だな。油断を招き、動きが大胆になって、どこかに隙が生じる。だが今度のホシ(容疑者)は、もし今まで俺たちと行動を共にしていたのなら、完璧なまでに隠し通している。疑いを抱くキッカケすら見せない。そんな奴が、果たしているだろうか?」
「いるとすれば、ゾロアークの幻影より凄いですわ」
 だよな。ふーっと息を吐いて、キズミは肩を落とした。

 取っ掛かりが見えない。まるで幽霊を追いかけているみたいだ。
 おそらく破壊工作は必要最小限に抑えている。極めて合理的かつ理性的な行動。これまでのプロファイリングに、ルーナメアたちはイマイチ合致しない。
「他にも可能性はありますわ」
「と言うと?」
「この船で読んだ推理小説、カントー警察の事件簿シリーズを覚えてます?」
「……スリーパーの『催眠術』か、懐かしいな。無意識下に刷り込み、行動を強要する。つまりこういう事か。本人の意思に関わらず、破壊工作を働くよう操られている奴がいる」
「そうなるとアリバイの前提が崩れてしまいますわ。ルーナメア様を除いて、わたくしたちは機械操作に関して素人同然、そもそも何が怪しい行動になるかも分かりませんもの」
「つまり俺でもありうる」
「キズミ様?」
 ルーナメアが言っていた、偽装されたID。それはそもそも本当に偽装だったのか。催眠術で操られていた俺が残した痕跡だったのではないか。
 自らを疑いかけて、キズミは頭を振った。
「いや、いいや、違う。無意識の催眠をかけられたとしても、できるのは当人の能力の範疇に限られる。俺にはこの船に破壊工作を仕掛けられるような高度な技術はない」
「わたくしもですわ」頷いてから、ウルスラはハッと息を呑んだ。「でも……ルーナメア様なら」

 それを聞いた瞬間、嫌な悪寒が背筋を這い上がってきた。無意識の催眠。破壊工作ができる者。その両方に当てはまる人物が、キズミの脳裏に浮かんでしまった。
「……ルーナメアだけじゃない、もうひとりいる。ウルスラ、教えてくれ。お前が初めてサンに会ったとき、誰にも見えないはずのルトーに挨拶したな。テレパシーも使えないのに、なぜだ?」
「ルトー様……えぇ、挨拶しましたわ。でも自信がありませんでしたの。サンちゃんが、その、まるで本当にルトー様がそこにいるかのように振る舞っていましたので、もしかすると、わたくしには見えない霊的な何かがそこにいるのかと」
「実際いなかったんだ、何も! なぜならルトーは!」
「サンちゃんに掛けられた、無意識の催眠の産物……」
 みるみる青ざめていくウルスラの表情が、すべての答えだった。


 *


 ルーナメアが目を見張る中、乱れた画面の向こうから、老いた男がくたびれた顔で語りかけてきた。
『我々は深界探索の果てに、新たなる生命体と遭遇した。それは自らを『氷触体』と名乗り、フリージオのような結晶構造を持ちながら、明確にポケモンと対立する不可思議な存在だった。接触を試みたポケモンたちは例外なく発狂し、やがて自我を失い見境なく襲い掛かってきた。
 多大な犠牲を払ったが、我々はその生命体の捕縛に成功した。倒すという選択肢はなかった。なぜなら、それは奇妙なことに、我々の負の心を吸収し、エネルギーに変換する能力を持っていたからだ。
 もしもこれを活用することができれば、文明は夢のエネルギー源を手に入れることができる。すなわち、ユートピアの実現だ。誰もが心に抱える悩み、苦しみ、怒り、コントロールできない負の感情を、すべて氷触体に移し替えることで、あらゆる苦悩から解放されるだろう。
 かくして発足したユートピア計画は、当初順調に進んでいた。氷触体の核を機械化し、完全な制御下に置くことで、我々は無尽蔵のエネルギーを獲得したのだ』

 タリサは暗い通路を音もなく進んでいた。得体の知れない暗闇が、まるでハブネークに丸呑みにされた獲物のような気分にさせる。
 しばらく飛び続けると、ある扉の隙間から不気味な赤い光が通路に漏れていることに気がついた。誰かいるのだろうか。しかし気配はもちろん、テレパシーでも何の思念も感じない。誰もいないはずだった。
「もしもーし」
 試しに軽く声を掛けてみる。凍てついたドアに手を伸ばして、少し力を入れると、ギギギ、と音を立てて押し込めた。
 中は広いホールのような空間だった。ちょうどスターライトで言うところの、食堂に近い。乱雑に倒れた椅子やテーブルが、かつてここで起きた出来事を物語っている。
 だが、それは大した問題ではない。赤い光を放つ『それ』を目にした瞬間、タリサは宝石に魅入られるような感覚に陥った。
 美しい輝き。しかし、それ以上に恐ろしい。脈動する光。どうして今までこれを感じ取ることができなかったのか。

 映像の老博士は、深い失意のまま頭を垂れてルーナメアに語り続けた。
『我々は『氷触体』を過小評価したつもりはなかった。しかし奴は、我々が講じた幾重もの安全策を乗り越え、ついには制御不能な怪物へと進化した。
 そう、我々は見誤っていたのだ。自身の心がもたらす負の感情、それがどれだけ大きなものか。なればこそ、我々は負の感情を心の内に留め置き、自らを律することで制御しなければならなかったのだ。
 気づいたときには、もう手遅れだった。肥大化した氷触体は惑星ネットワークと同化し、あらゆるシステムに侵入した。
 我々の文明は間もなく消える。脱出できた者はごく僅かだ。後世、誰かがこの記録を発掘してくれることを切に願う。
 この世界が存在した証は、もう記録の上でしか残らないだろう……』

 赤く輝く太陽。その中枢に、無尽蔵のエネルギーが集まっていく。何兆もの生物から掻き集めた負の感情。それをブラックホールのように吸い込んでいく『何か』がいた。
 タリサは食堂の大きな窓から、そのおぞましい光景を呆然と見つめるしかなかった。
 その何かは、ここからでは小さな点のようにしか見えなかったが、確実に胎動し、莫大なエネルギーの波導を発していた。心臓の鼓動に近いリズム。しかし、しばらく眺めるうちに気づいた。
 少しずつだが、間隔が早まっている。
 カウントダウンだ。何の? 分からない。だがこれは、もう秒読み段階だ!
 タリサは大急ぎで引き返した。

 ちょうどルーナメアが先ほどの映像データを携帯端末にダウンロードした時だった。
「今すぐ船に戻ろう!」
 慌てて駆け込んできたタリサに急かされ、思わず武器と技を身構えた。
「どうした、何を見つけたんじゃ?」
「空が燃えるあの光景が、終末が迫っている!」
「まだあと一時間ほど残っておるはずじゃ」
「分からないが早まっているんだ、ここにいると危ない!」
 ルーナメアはすかさず携帯端末を口元に寄せた。
「こちらルーナメア! スターライト、緊急転送!」
 理由の確認は後でいい。タリサが危険だと判断した、それで今は十分だった。ただ想定外だったのは、なんの応答も返ってこなかったことだった。
「……スターライト! マナ、応答せよ! 転送じゃ!!」


 *


『警告、セキュリティ侵害を検知。複数のシステムが動作停止。シールド・ジェネレーター、内部センサー、ミラージュ・システム、自動航行システム、オフライン』
 赤い警告灯が点滅して、けたたましい警報音が鳴り渡る。加えてルーナメアからの緊急通信がキズミたちを急き立てた。
『スターライト、応答せよ!』
 キズミとウルスラは声に答える術を持ち合わせていなかった。ブリッジに行けば、通信を受け取ることができたのだが、転送とやらでルーナメアたちを連れ戻すのが最優先だ。
 転送室に転がり込んだまでは良い。問題は操作方法だ。
「こ、これってどう使うんですか?」制御盤によじのぼって、その複雑なパネルを前にウルスラは慌てふためいた。
「さあな。でもボタンを押す順番は、ルーナメアの操作を見ていたから分かっている」
「見ていたから? お言葉ですがキズミ様、使い方を教わっているのですよね?」
「俺は警察官で、宇宙飛行士じゃない。教わったからって分かる訳ないだろ」
「キズミ様、どうか慎重になさってください、一歩間違えると取り返しのつかないことに……」
「転送!」
 見様見真似でボタンを叩いた。
 瞬間、ビビーッ!と、エラーを示す嫌な音が聞こえた。

 転送装置が唸り声をあげて、光の渦が現れた。転送が始まった。
 テレポーテーションとは川に飛び込むようなものだ。身体の周りが水のような何かで満たされて、その後、穏やかな浮遊感に包まれる。そして数秒のうちに、再び地に足がついて、転送が完了するのだ。
 ところが今度の転送は酷いもので、まるで崖から冷たい川に突き落とされたような感覚の後、世界がグルグルと回って、放り出されるようにルーナメアとタリサが現れた。
 二匹とも、気がつけば転送装置の床の上でひっくり返っていた。
「……なんじゃこれは!?」
 大慌てで飛び起きるルーナメアを前に、キズミは「ふぅ」とひと息ついて腕を組んだ。
「上手くいっただろ?」
「上手くいった……んですの?」

 文句のひとつでも飛ばしてやりたいが、ルーナメアはグッと呑み込んで言った。
「何があった、マナはどうした?」
「俺にも分からん」キズミは首を横に振って。「マナやポリゴンたちが消えて、突然こうなったんだ。しかし誰がやったかは分かっている」
 赤い警告灯に照らされたキズミの顔は、真剣そのもの。冗談ではない。ルーナメアは周りを見渡して、足りない面子の姿を探した。
 そして何かを悟ったように、苦々しく目を閉じた。
「……サンはどこじゃ」
「それを探そうとした矢先だった。船をめちゃくちゃにされる前に、協力して見つけ出すべきだ」
「いや後回しじゃ、今はとにかくここを離れ――」
「ルーナメア」
 タリサはぽつりと零すように言った。自分がこの瞬間の出来事を知っていたとは思えない。だが、分かったのだ。
 声を聞いた。おそろしく苦しみに満ち溢れた何かの産声を、その脳で受け取った瞬間、タリサは悟った。
「……時間切れだよ」

 太陽の中枢に向かって流れるエネルギーが、ある瞬間、完全に止まった。
 それは小さなタマゴのようなものだった。世界中から掻き集めた負の感情を一点に注がれて、中身はすっかりどす黒くドロドロしたものに変わり果てていたが、しかし生命はしっかりと成長を続けていた。そして、孵る時がきた。
 タマゴはヒビ割れ、炸裂し、それまでため込み続けた全てを、まるで烈火の如く怒り狂うように解き放った。
 さながら宇宙誕生の瞬間のごとく。たかが五光年という幅しかない世界は一瞬で焼き尽くされ、あらゆる空間にガラスのような亀裂が走り――砕け散った。

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