この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
──曇り空の黄昏時は、やけに慌ただしく過ぎていった。
「バドレックス様! 各々、もう少しで準備が終わりそうです」
「分かった。 ならば10分後に全員集めろ」
「はっ!」
バドレックスを初めとしたポケモン達は塔の前に陣を構え、粛々と戦闘の準備を始めていた。 幸いにもあのヒョウセツの演説のお陰でポケモン達の士気も上がっていて、準備はとんとん拍子で進んでいく。
しかしだ。 世界の滅びに、最早一刻の猶予もない。 空を見上げると、雲が夜の色へと変わりだしているのがよくわかる。 この先にあるのは、繊細な光を放つ夜明けか、それとも無限に続く虚無か。
......あの氷の薙刀が指し示した先が、前者であればよいけれど。
「......さて、あとは待つだけか......」
「バドレックス」
噂をすればなんとやら。 指示出しが少し落ち着いたところで、バドレックスの背後から聞き慣れた声がした。 彼はすぐに振り返ってそれに応える。
「......ヒョウセツ、準備はどうだ」
「大丈夫です。 ほら、薙刀も元々使っていた物により近づけてくれたわけですし」
「そうか......どうだ、何か不具合は無いか」
「全くです。 完璧と言って差し支えない」
そう言って、彼女は少し誇らしげにその氷の薙刀を掲げてくれる。 最初はただ即席で作っただけのものだったのに、氷を操って修正を重ねた結果、今やその薙刀は彼女のその手にとてもよく似合っていた。 完璧という言葉は、決して誇張ではないのだろう。
「......そういえば、ですけどね」
「何だ? 他に不具合でも」
「いえ、そういう事ではなくて......集落を出る直前に、子供がわたくしに話しかけてくれたんです。 あの白いニューラ、覚えてますか?」
「ああ」
覚えていないわけがない。 ヒョウセツが提示した希望を真っ向から信じて、直接声を上げてくれたポケモンだから。
......それに、あの柚子の皮の件。 思えば、あれが全ての始まりだったのかもしれない。
「前に皮と一緒にあげた柚子の種、少し前に近くの村の親戚にあげたらしくて。 それからは今は彼らが種を育ててくれているらしいんです。 まだ芽すらも出てはいないらしいんですけど......いつか実が採れるのを、とても楽しみにしているみたいで。
この状況で、と思われるかもしれませんが......少し、嬉しかったのです。 希望がまだ残っているのだと、実感できたから。 だから、バドレックスにもそれを伝えたくて」
「......そうか」
「ええ。 ......それと、バドレックス。 色々心配してくれて、本当に有難う」
「は? どうした、急に」
「だって、この前からずっと助けられっぱなしでしたもの。 ロアのことから、何から何まで。 貴方がいなかったら、わたくしはずっと蹲っていたままでしたから。
でも、わたくしはもう大丈夫です。 皆さんから、そして貴方から、沢山希望を貰いましたし.......あとはもう、やるべきことをやるだけですから」
そう言って顔を少し綻ばせた彼女の眼差しは、どこか夏の日差しのように眩しく輝いている。 きっと彼女は、ニューラから希望を貰った、そんな風に思っているのだろう。 その希望を大事に、とても大事に抱きしめているのだろう。
......でも、実際はどうだろうか?
「......別に、礼には及ばない。 寧ろ、礼を言うべきは我らの方だ。 ニューラも、お前から貰った希望を返したいだけだろう」
「え? でも、わたくしだって何も大したことは」
「ヒョウセツ。 お前は大層な願いは抱くくせに、自己評価はあまりに下手なようだな。 ......いいか。 我らにとって、お前は既に太陽なのだよ。 唯一無二の、な」
「え......」
「忘れたのか? 最初に我らの脆さに気づいたのはお前じゃないか。 お前がいなければ、我らはとうに虚無に呑みこまれていた。 住む世界が違うのにもかかわらず、お前はずっと我らに寄り添っていてくれた。 お前が、我らに希望を、勇気を、光を与えてくれたのだ。
......ほら、向こうを見てみろ。 もしお前が自分のやったことを否定するのなら、世界の終わりを前にしても尚希望を抱いているあのポケモン達の姿は、どう説明するつもりだ?」
バドレックスが指さしたのは、今なお戦いの準備を進めるポケモン達。 物資を細かく確認して、また最後に技の練習をして。 その姿には、確かにヒョウセツが初めて集落に来た時感じたような諦めはどこにも見られなくて。
ポケモン達の目は、誰も彼も強く輝いていた。
「......けれど」
しかしヒョウセツの胸の中には、それだけでは片付かないわだかまりがひとつ。
だがバドレックスはどうやら、その反応すらも折り込み済みのようだった。
「......分かっているさ、ロアのことだろう?」
「っ!?」
「どうした? まさか、気づかれないとでも思っていたのか?」
「......どうして」
「舐めるなよ。 お前の考えることぐらい簡単に分かる。 ......確かに、お前は奴の心を照らすことは出来なかった。 だからこそ、奴は魔狼に呑まれたのだろう」
「......」
「でも」
項垂れるヒョウセツを前にして、バドレックスは毅然と返す。
「それは、これからだろう。 チャンスがあるのなら、それに賭ければいい。 余も手は貸してやる。 ......これ以上、誰も死なせてたまるものか」
バドレックスは、その細く小さな手を強く握りしめる。 誰も死なせない。 その中には当然、ロアのことも含まれている。 出来ることなら......いや、絶対に救いたかった。 これ以上、こんなことで犠牲者を増やすのなんて御免だった。
......それにもしも、ヒョウセツの希望を返すという役目のバトンというものがあったとしたならば。
その役割を最後に背負うのは、紛れもなく自分だろうから。
「......ええ」
ヒョウセツが頷き、彼らは自然に目の前にそびえる塔を見上げる。 黒い塔に咲く、見覚えのある白い花。 思うところがないといったら嘘にはなるけれど。
でも、きっと。 あの日、ヒョウセツがあのニューラに柚子の皮をあげた時のように。
希望を胸に対峙すれば、きっと奇跡は起こるだろう。 無論、偶然の奇跡ではない。 この手で引き寄せる奇跡だ。 無様だとしても足掻き続けていれば、きっと。
「ヒョウセツ、覚悟は、出来ているな」
「──無論です」
......絶対に、これをただの異世界の生物との出会いと片付けてはならない。 そう、バドレックスは心の中で誓った。
偶然かそれとも必然か。 神の気まぐれか、それとも前々から仕組まれていたものか。 何はともあれ、世界が自分達にくれた、もしかしたら最後かもしれない救いなのだ。 あまりにもお膳立てされたこのチャンスだけは、絶対に逃してはいけない。
そして、ヒョウセツも誓いを立てていた。 絶対に、このまたとないチャンスを無駄にはしない。 そして、今まで見てきた全ての闇を、ここで清算してみせる。
やることはとうに決まっている。 魔狼を、ロアを止めて、塔を消滅させる。 そして今度こそ、魔狼を葬り去る。 ──彼の心を照らしだす、光となる。
だから、狼狽える理由も、迷う理由も、彼らにはもう存在しなかった。
「──バドレックス様、お話中失礼します。 全員集まりました。 いつでも行けます!」
「......よし、ヒョウセツ!」
「はい!」
ふたりは今一度顔を見合わせて、共に一歩を踏み出した。
全ては、信じる未来のために。
整理しよう。 目的地はこの塔の頂上。 見込みが正しければ、そこに魔狼はいる。 塔が宿主の意思によって現れるのならば、説得でもなんでもして、塔があるべき理由を彼の中から消し去れればいい。 彼の心が完全に呑みこまれない限りはまだ間に合う、それがバドレックス達の考えだった。 しかし、彼も──魔狼も、当然そこまで来させまいとあらゆる手を使って妨害してくるはず。 だから、それを掻い潜りながら上を目指さなければならない。
そして、大勢で頂上に立つというのもまた危険が伴う。 万が一間に合わずにロアの身体が使い物にならなくなった時、魔狼が「代えの器」に乗り移る可能性だってゼロではないのだ。 それを回避するべく、頂上にはバドレックス、ザシアン、ザマゼンタ、そしてヒョウセツの4名だけで向かうことになった。
では他のポケモンの使命はというと、彼らが確実に頂上まで行けるようにするための援護だ。 特にヒョウセツ。 彼女こそ、あの塔の頂点まで向かうべき存在だから。 そうバドレックスは最後に全体に向けて念押しした。 ヒョウセツもそれを自覚していて、黙ってそれに頷いていた。
そして、最後の確認の後。 塔を見回し、全員で入口を探していると。
「......ここから、入れそうだな」
「ええ」
すると、バドレックス達がポケモンが入れそうな隙間──入口と呼ぶには少々小さいが──を見付けた。 そこは白い花に覆われていて、周りの黒とは一線を画している。
中を覗いてみたいとも思ったが、不思議なことにそこは墨のような黒で塗りつぶされていて、それは叶わなかった。 入ってみなければ分からないということだ。
......でも1つだけ、分かることはある。 そしてその分かることというのは、過去も未来もさして変わりはないようで。
「......心のようだな」
先頭に立っていたバドレックスは、ぼそりとそう漏らした。 その声を隣で聞いていたヒョウセツも無言で頷く。 バドレックスがそう言った意味を、彼女が察せていない訳がない。
......白い花に覆われたこの入口は、真っ暗な絶望の中に咲く一輪の小さな希望のようにも思われた。
「行きましょう」
それでも、行くしかない。 ヒョウセツが先陣を切り、その墨へと身体を浸す。 真っ暗な心と正面から向き合わなくては、彼の心を真に救う事なんて出来やしないのだから。
ロアに向けて、呟く。 彼の心の中に勝手に潜り込む事への謝罪と、あと。
貴方の心を教えてほしい、と。
「......ここは一体......?」
入口をくぐって目を開けてみれば、そこは黒い廻廊のような迷路だった。 それでいて塔の外見にはそぐわない程広く、どこかが歪んでいる感触を受ける。 少し遅れて追いついたバドレックスが、辺りを見回して1つ頷く。
「......なるほど、不思議のダンジョンに形は近いか」
「不思議のダンジョン?」
「......ああ、そういえばお前には説明していなかったな。 我らの世界には、各地にこういう場所が点在しているのだよ。 ポケモンの幻影が襲いかかってきたり、時には罠が設置されていたり、摩訶不思議な現象が多く起こる。 用心しておけ」
「は、はい」
後に続く全員が揃ったところで、先に進む。 バドレックスの説明からして、明らかに危ない場所なのには違いない。 だから、彼女は時に挙動不審な振る舞いを見せながらバドレックス達と上階へと昇っていくけれど......。
「......案外、何もありませんね」
そう、意外なことに、何もなかった。 目立った敵すらも現れず、道中は平和そのもの。
拍子抜けとでも言うべきか。 彼女は不思議そうに首を傾げた。
「バドレックス。 その不思議のダンジョンとやらは、油断した時に急に牙を剥くとでもいうんでしょうか?」
「いや、普通はそんなこともないはずだが......変だな」
普通なら、辺りをうろつくポケモンの気配を感じたっていいはずなのに、階層が上がっていっても一切幻影ポケモンは出てこない。 それに加えて、ポケモンの数自体は少なくないにも関わらず罠に誰も引っかからない。 林檎のような道具すら落ちていない。
──自分達以外の命の気配が、しない。
(......何なんだ、ここは)
かえって、彼は警戒の姿勢を強める。 その雰囲気の異様さは、決して見た目だけで片付けられるものではなかったから。
だが、思索に耽る暇を与えてくれないという意味では、「油断を突く」という彼女の解釈は正しかったらしい。
「バドレックス様! 左前方に敵です!」
「っ!?」
危ない、仲間のかけ声で気づくことが出来た。 彼は急いでレイスポスを呼び出し、その相手に対峙する。
左前方。 向こうの壁の辺りで燻る、紫色の霧──
「......なっ!?」
その霧を捕捉した瞬間のことだった。一カ所にかたまっていたその霧は、あっという間に広がりバドレックス達を取り囲む。 ザシアンやザマゼンタの形にも似た、中くらいの大きさの闇の塊だった。
それを見て真っ先に連想するのは、今まで嫌なほど見てきたあのアメーバ状の負の感情の使者なのだけれど。
「虚無の影......いや、違う!」
そう、見た目からしてどこか虚無の影とは違う感触。 虚無の影には虚無の影ならではの違和感があったように、その霧にはその霧にしかない異質さがあった。
それに加えて不可解だったのは、あちらから積極的に攻撃を加えてくる気配が無いこと。 しかし、相手は未知の物体だ。 攻撃してこないからといって、1歩動けば何をしてくるかも分からない。
だが、このまま黙ってやり過ごすことなんて......
「出来るわけが......」
「ないでしょうね!!」
もう一度言う。 世界の危機に時間の猶予など無いのだ。
バドレックスとヒョウセツが、率先して相手に立ち向かう。 どの技が効くのかすらも見た目からでは判別がつかないから、火力重視でぶつかっていく以外に道は無いと見ていた。
「[てだすけ]!!」
「はあっ!!」
バドレックスの技により強められたヒョウセツの技が、相手を一発で消し飛ばす。 見た目とは裏腹に、案外あっけないものだった。 黒い残り滓が辺りに漂う中、彼女の顔に一瞬の安堵が浮かぶ。
(──良かった、倒せる。 この程度なら、早く前に進める!)
はやる心のままに、彼女は霧を切り裂いた後も歩を進める。 黒い霧が辺りに群がってきても、構う理由はなかった。 もし害を与えてくるなら、切り裂けばいいだけの話なのだ。
そうだ、急がなければならない。 早く頂上まで着かねばならない。
そして魔狼を、
ロアのこと、を──
「──っ!?」
......がらん。
ヒョウセツのいる方向で、何かが滑り落ちる音がした。
「っ、ヒョウセツ!?」
まさかと思い、バドレックスはそちらに振り向く。
しかし、そこには果たして何か深刻なものがあるわけではなかった。 ただ、薙刀が地面に転がっただけ。 彼女の手から落ちただけ。
視界に映るヒョウセツ自身にも、傷はどこにも見られない。 別に中身の気配が特段変わったわけではない。 あの霧から何か攻撃を受けたとは、思えない。
......なのに、何故?
「......」
どうして、その顔も、足も、手も。
そんな吹雪に打たれているかのように、震えているんだ?
「バドレックス様、後ろ!」
「っ!!」
ザマゼンタの呼びかけでバドレックスは我に返る。 彼も彼で、目の前に立ち塞がる影をサイコキネシスで打ち払った。 ......そして、その周りにも、黒い残り滓が群がる。
反射で目を閉じた瞼の先。 そこで、バドレックスは一つの光景を見た。
......恐らく、さっきヒョウセツが行き当たったであろう光景を。
「......これは」
嗚呼、なんて。
嫌になるくらい、懐かしくて、愛おしい。
(白い、花──?)
──さて、ここからは、説明なんて不要だろう。
......ここは、どこだろう。
どうして、こんなに虚しいんだろう。
どうして、こんなに空っぽなんだろう。
寒い。 毛布はどこかな。 藁布団も、ないのかな。
......いや。 無いに、決まってるよな。 こうしてただ凍えるしかないんだ。
他に目の前にあるもの......いや、見たくない。 感覚で分かってしまう。 どうせ何もないって。
日は沈んだ。 綺麗な月や星の気配も感じない。 あるのは闇だけ。 静かな、闇だけ。
そしてその闇が永遠のもののように思うと、どうしても息が詰まってしまう。 空気すらも、抜かれたみたいに。
何もない。 自分の側にはもう、何もない。
こんな汚れた手を合わせて、何かを祈る資格すらも、ない。
......いや、でも。
ひとつだけ、願うことがあるとすれば──
「ロア」
「......」
塔の最上部。 その中心にある、黒い霧が編み出した牢の中。 そこで、白いゾロアークは目を覚ます。 ......本当は、このまま無視すればよかったのかもしれない。 でも、どうしてもそれは出来なかった。 心が、自分の本質が、どうしてもその声に反応してしまう。 そちらに、反射的に目が向いてしまう。
──ああ、どうして。
「......」
ロアが目を見開く。檻の向こう側。 そこに、ザシアン、ザマゼンタ、バドレックス、そしてヒョウセツが立っていた。
彼が檻の中から彼女達を見つめるのと同じように、彼女達は檻の外から彼のことを見つめていた。
......憂いを、湛えた目で。
「ロア。 怪我などは、ありませんか」
ザシアン達を制止して、まずはヒョウセツが1歩踏み出し声をかける。 最初の質問が怪我について。 彼女らしいといえば彼女らしいけれど、効果が無いのかロアから返事は返ってこない。 だが、それに逡巡している暇などなかった。
「わたくし達は、貴方を助けに来たのです。 もしかしたら、まだチャンスはあるかもしれない」
「......」
「あの時、呼んでくれましたよね? わたくしのこと。 お姉ちゃんと、呼んでくれましたよね?」
呼んでくれた。 その言葉に、ロアの身体が疼く。 それを返事ととり、更にヒョウセツは前に歩みを進めた。
初めて出会った日と同じように、片手を差し伸べる。 今度は瓦礫ではなくて、檻の隙間だけれど。
「ごめんなさい。 あの時、応えられなくて。 あんな一生懸命に、手を伸ばしてくれていたのに」
「......」
「でも、まだきっと間に合います。 この塔は、貴方の自分の意思を基にして作ったんですよね? ということはまだ、貴方の意思は生きているのでしょう?」
「......」
声と手が、小刻みに震えている。 きっと届いている──そう信じて、ヒョウセツは言葉を紡いでいく他なかった。 必死になって、でも感情的になりすぎないよう訴えかける。
しかし、語りかける方に夢中になりすぎたせいか。
「......テ」
ロアの方から聞こえるかそけき声を、彼女は聞き取ることが出来なかった。
「だから、ロア......」
ロアが手をひくつかせる。 それを肯定の合図と、ヒョウセツは受け取りかけたけれど。
でも。
「ロア?」
「......」
......でも、実際は。
「......ガ」
「っ! ヒョウセツ、一旦離れろ!」
「!?」
バドレックスが唐突に叫び、ヒョウセツの背中が跳ねた。それとロアの腕が動いたのは、ほとんど同時だった。
彼はその手を下から差し出すのではなくて、上の方に振り上げて。
「っ!!」
──紫色の、斬撃が走る。
爪と氷。 硬いもの同士がぶつかり合う、鈍い音が響く。
「......そんな」
なんとか防御したヒョウセツ。 鋭い爪を前にして、その表情が悲しげに歪む。 ......そう、彼が選んだのは、彼女が与えた一時の優しさなどではなくて。
......目の前に立ち塞がる「妨害」を、打ち砕くための力だった。
「ガ、アアッ......!!」
檻の外へと彼は足を踏み出す。 でもそれは、決して解放を意味する訳ではない。 そもそもよく考えてみれば、この塔自体が1つの巨大な檻なのだ。 彼は未だ囚われている。 寧ろその圧力はより強まっている、ように見える。
そのせいか、彼は高らかに、しかし苦しげに咆哮し、またヒョウセツにその力を向けた。
「──グアアアッ!!」
......ヤメテクレ。
誰のものかも最早分からない、その心の叫びのままに。
ロアの爪──シャドークローが、絶え間なく襲いかかり続ける。 ヒョウセツは見事な武器捌きでそれを相殺し続けていた。 しかし、彼の攻撃を受ける度に、彼女の表情にはどんどん焦りが浮かんでいく。
重い攻撃に、薙刀が、身体が、心臓が軋む。 ロアの残った心すらも軋んで、崩れていってしまうのを感じる。
それがただただ、ヒョウセツには恐怖でしかなかった。
「......ロア、暴れないで!! 話を聞いてください!! このままでは、貴方も死んでしまうのよ!!」
「グルアアッ!!」
心なしか、辺りを覆う黒い霧も濃くなってきている。 もしこれが、生命力が抜き取られている合図だとしたら......残された時間は、そう多くないだろう。
ヒョウセツは歯を食いしばる。 どこまでも湧き上がる焦燥が胸を食い破ろうとする中、ザシアンやザマゼンタの手助けを受けながらも耐え続ける。
......耐えているのに、決定打はいつまで経っても現れない。 時間がないのに。
「お願い......ロアっ!!」
「ガアアッ!!」
それでも彼女はなお叫ぶが、これもまた届かない。 ロアは再びその右手を振り上げるが、一瞬のうちにそれは凍りついた。
技の源は背後──ブリザポスに跨った、バドレックスだ。
「......この、馬鹿者がっ!!」
叫びと共に放つのは氷柱落とし。 狙いをわざと外したのか、その氷柱がロアの身体を傷つけることはない。 だが、動きを怯ませるには充分な威力だった。
「聞こえないのか!? ヒョウセツが、お前が守り抜くと言った人間が、こんなにも叫んでいるんだぞ! お前のために、叫んでいるんだぞ!!
......それなのに、この様は何だ! お前がしようとしていることは何だ!!」
もう一撃。 これは全て避けられ、接近されてしまう。 だが、爪を振り上げられてもなお、彼は怯まなかった。 彼も氷の槍を構え、その爪から身を守る。
互いに刃を重ね、押し合う音。 至近距離で向き合い、彼自身の思いの丈をぶつける。
「本当にいいのか!? このままではお前は全てを壊すんだぞ!? お前が1番やりたくないことをさせられるんだぞ!? 本当に、皆を......ヒョウセツを殺して良いのか!?」
「......!!」
瞳孔が見開かれる。 バドレックスは決してその瞬間を見逃さなかった。
だがロアは、ひとつ息を置いた時にはまた遠ざかっていってしまった。 氷の槍が、勢いよく弾かれる。 これまた一瞬の間。 しかし、そこでバドレックスは確信する。 きっと声自体は、「聞こえている」のだと。
そして、気づいてしまったことがもう1つ。
その聞こえるはずの声を、妨げているのは。
ロアが、こんな見境もなく暴れるしかないのは。
......きっと、今まで呑まれていった、ポケモン達の──。
「......ああ、くそっ!」
感情のままに、再び氷柱落とし。 全弾避けられ、またも接近を許す。 しかし今度は刃をぶつけ合う余裕はなく、その攻撃をいなすことしか出来なかった。 憎悪に塗れた攻撃を直接受けることが、急に怖くなってしまった。
──現実が、絶え間なく彼を殴りつける。 防ぐ壁などこちらにはない。 魔狼という器に蓄積されていったポケモン達の苦しみが、淀み、渦を巻き、こちらに襲いかかってくる。
でも、耐えなければいけない。 自分がそれに呑まれてはいけない。 今目の前にいる「彼」こそ、それに呑まれかけている最中なのだ。
(頼むよ......頼むから)
絶え間ない謝罪と懇願が、その表情にも表れる。 彼はただ祈っていた。
こんな災厄を生み出して、お前達を沢山苦しめて、済まないと思っているから。
いっそ、自分は殺してくれたって良いから。
......せめて、彼女の話にぐらいは、耳を傾けさせてやってくれ。
「......はああああっ!!」
次に放つのは、床を這う吹雪。 これもロアを傷つけるためのものではなく、足元を凍り付かせてその動きを止めるもの。 しかし、彼の願いとは裏腹にこれはすぐに破られる。 これは予想外で、バドレックスの身体は一瞬強張ってしまった。
そしてその隙が命取り。 氷から解き放たれたロアは、仕返しとばかりに突っ立ったままのバドレックスを強襲する。
「バドレックス!!」
ヒョウセツが守りに向かおうとするが、距離的に間に合いそうにない。 バドレックスは思わず目を閉じるが、覚悟していた痛みはいつまで経ってもやってこなかった。
「っ......!?」
恐る恐る目を開けると、目の前にいたのは。
──ずっと前から彼に付き添ってきた、剣と盾。
「......お前達!!」
「バドレックス様......我らも!!」
「思いは、同じです!!」
バドレックスの前に立つザシアンとザマゼンタは、それぞれ力を込めてロアの爪を弾き返す。 そこでよろけたところに、ザシアンの巨重斬が襲いかかる。 ロアはなんとか躱すが、それが更なる隙を生んだ。
「前々から気づいていました。 分かっていました。 我らが為したことの安直さも、考えのなさも......そして、私より、誰よりも苦しんできた貴方様のお気持ちも!」
「ザシアン......!」
その隙をヒョウセツが狙おうとするが、今度は遠くからでも放てる悪の波動が彼女に襲いかかる。 これを防いだのは、ザマゼンタの大きな盾だった。
「我らはバドレックス様の従者。 王の命令に従い動く者。 王がひとりで抱えたいと願うなら、それに従う他なかった。 そして我らもそれに追随するしかなかった。
......だが、それを変えたのも、お前なのだろうな。 人間!」
「......ザマゼンタ!!」
バドレックスとヒョウセツの顔に、微かな希望が宿る。 彼女らの思いに、2匹の思いが重なっていく。 絵の具を重ねていくのと同じように、希望は色濃いものになっていく。 ......それが、特にバドレックスにとって、どれだけ心強く嬉しいことか。
彼らは同時に駆け出し、飛び上がる。 彼らの象徴たる剣と盾が、美しい青と赤の光を帯びた。
「......バドレックス様、ヒョウセツ、お前達が全ての鍵だ!!」
「だから......頼みます!!」
響く金属音。 2匹は一糸乱れぬ動きで、自身の剣と盾をそのままロアにぶつけていった。 技名がないのとその必死な表情からすると、これが技と呼べるかは少し怪しいかもしれない。
──だが、決してこれは悪あがきなどではない。
「ッ......!?」
ロアは[まもる]でその場を凌ごうとしたけれど、それだけで終わりではなかったのだ。
防がれて尚、防壁越しに2匹の伝説は力を込め続けていた。 みしりと音を立て、防壁が軋む。
『......うおおおおっ!!!』
ここで、ただ叫びおらぶだけだったロアの表情に、微かな焦りが見え始めた。
──今だ。 ヒョウセツ達は顔を見合わせる。
これが、「頼む」という言葉の真意。
今までで1番、大きな隙だ!!
「ヒョウセツ!!」
「はい!!」
この機を逃すまいと、ふたりはロアの元に詰め寄る。 飛び上がり、それぞれ氷の刃を構え、振り下ろす。
今のままでは無理だというのなら、峰打ちで一度気絶でもさせれば。 そうすれば、落ち着いて話を聞いてくれるはず......!!
「......ガアアアッ!!!」
「ッ!?」
──しかし、そう思った矢先だった。
冷たい風が、耳元を通り過ぎていく。 気のせいかと一瞬考えたけれど、どうやらそうではないらしい。 自然に、全員の顔に冷や汗が浮かびだしたから。
ロアの周りに、紫色の霧が一瞬で集まる。 収縮した闇は、「その時」を待つように、一瞬その場に留まって......
(しまった!!)
一気に、しかも全員で突っ込みすぎた。 そうバドレックスが気づいた時には、最早手遅れだった。 「止められない」と、本能が悟った。 そんな彼が、ここで取った行動といえば。
ブリザポスの背から跳ね、そして必死の形相で。
今最も無防備な人間の元へ──
「......ヒョウセツっ!!」
「ガアアアアアアッ!!!」
しかし、バドレックスにとっては長い時間に思えても、実際は瞬きする程の暇でしかない。
......ここから遥か先の未来で、キラリ達を大いに苦しめたあの衝撃波。 それと同じものが今、ヒョウセツ達の元に襲いかかっていった。
──視界が暗転する。
「......ハッ......ハアッ......」
辺りに煙だけが立ち込める。 ロアはその中心で、揺れながらもなんとかその場に立ち続けていた。しかし生命力が削られ続けている中で全力を出したためか、その佇まいに余裕は見られない。
咳と息切れの音だけが響く、星も見えない夜の静寂。 少しだけ煙が晴れると、呻きながら倒れたザシアンとザマゼンタが見えた。彼は一瞬そちらを見た後目を逸らして、自分自身の手を見つめる。 今丁度、自分と向き合おうとしてくれた者達を薙ぎ払ったその手を。 混濁する心が、また1つ揺らぎを見せ始める。
......薙ぎ払って、しまった。 この手で。 自分の、この手で。
「............」
止めでも刺しに行けばよかったかもしれない。 邪魔をされたくないなら、そうするべきだった。 だが、身体はまるで動かない。 薄赤く汚れたままの彼の手は、寒さに凍えるかのように震えている。
いや、寒さというよりは──
「......ロア」
「ッ!?」
唐突な声に、ロアは思わず振り向く。振り向いた先には、ヒョウセツが立っていた。バドレックスが庇ってくれていたらしく、致命的な傷は見られない。
......しかし、人間の身体はあまりに脆い。 服はぼろぼろで、頬や手には擦り傷も見える。 声も、弱々しく掠れている。
「ぐっ......ヒョウセツ、待て......」
バドレックスの制止も聞かない。 彼女はロアの元に歩み寄ろうと、ゆっくりゆっくり歩き出す。
「......ロア、言いましたよね。 最初に、会った時。 『悲しむことを、恐れないで』と」
「......ッ」
「あれは、出任せの言葉じゃない。 わたくしなりの信条が元にある。あの時、貴方はちゃんと泣いてくれた。 悲しんでくれた。 わたくし達に、思いを共有してくれた。 不謹慎かもしれない。 でもそれが、とても嬉しかった。
貴方の心さえ分かれば、わたくしは貴方の未来を照らせる。 そう思ったんです。 そういえば、貴方に言ったことはあったでしょうか......わたくしは、皆を照らす唯一無二の光になりたかったのです。 太陽のような存在になりたかったのです。 だから、貴方のことも照らしてあげたかった」
「......」
「......でも、ごめんなさい。 わたくしは、たったひとりの子供の心すら守れなかった。 貴方の苦しみを沢山、本当に沢山見落としていた」
ロアが1歩ずつ後ずされば、ヒョウセツがまたその距離を詰める。 その繰り返し。 だが、それもいずれは終わりを告げる。 頂上の端の塀にぶつかったところで、彼の歩みは止まった。 どうすればいいか分からない。 そんな様子の彼の頬に、ヒョウセツは静かに手を当てた。
硬い、ごつごつした頬。 でも、毛に残る微かな柔らかい感触は、明らかに自分の知る子供のものだった。
「......ヤメ、ロ......」
「......ロア」
その掠れた拒絶は、誰のものだろう。 何に対するものだろう。 それはヒョウセツにもわからないし、きっと彼自身もわかっていなかった。
......そもそも、頬にそっと触れてやったところで、こんなもの気休めでしかない。
こんなことで、全てを分け合えるはずがない。
時に、悪夢を見て魘されて。
時に、無理をして目眩がして。
そして、時に見るだけで寒気がする冷たい夜空に嘲笑われて。
みんなが戦っているのに、自分は何も出来ていないと。 貰ったものを、何ひとつ返せていないと。
折角、生き延びた命。 それを漫然とただ消化することなんて、許されないはずなのに。
彼の闇は、そういうものだ。 ただ優しく触れてやるだけで、この闇を全て追い払えるわけがない。
......あの塔の中で見た、彼の記憶に眠る闇を。
「......ねぇ、ロア。 もう一度、言わせて欲しいの」
だけど、それでも。
そうですかと諦めることなんて、彼女にはどうしても出来なかった。
「いいんです。 泣いたって、悲しんだっていいんです。 どうか、恐れないで。 これを恐れてしまったら、貴方は本当に壊れてしまうわ」
「......ッ」
「......だって、だって全部魔狼のせいじゃないですか。 貴方は何も悪くないじゃないですか。 だから、素直に泣いたっていい。 嘆いたっていい。 恨んだっていい。 全部、わたくしが受け止めてみせるから」
彼の記憶を知っても尚、彼女の願いは変わらなかった。 未来において、キラリがユズに対してそうだったように。
......結局、1番大事な相手というのは。
「......ヤメ......」
「そうよね、ごめんなさい。 こんな遅くなって、ごめんなさい。 気づけなくて、ごめんなさい。
でも、まだ間に合うから。 まだきっと遅くないから。 ......だって」
例え、その裏に何が隠されていたって。
「わたくしは、貴方と一緒にいたいのです。 笑ってほしいし、そんな苦しい顔をしてほしくない。 貴方の輝いた目が、もう一度見たいの。 わたくしは、貴方のことが大切なんです。 だからどうか、生きてほしいんです。 このまま終わりなんて、嫌に決まってる!
だから......だから......!!」
どんな闇があったって。
それが、どんなに深いものであっても。
「だか、ら......っ!」
見捨てること、なんて──
......頬の辺りを、温かいものが伝う。
「──え?」
目の前にいた大事な人が、微かに目を見開いた。 暫しぽかんとした後、少しだけ柔らかな表情がその顔を覆う。
「ロア......」
何故だろう。 気づかれると、更に目の辺りに何かが込み上げてくる。
そしてここで、やっと分かった。 理解できた。 この温かいものが溢れ出してくる感覚を、どう言葉で表すべきか。
──泣いていたのだ。
「ロア」
「......っ」
止まらなかった。 止められなかった。 自分の意思とか、誰の意思とか関係なく、駄目だった。 背丈はこんなに大きくなったのに、やっぱり心は子供だった。 小さくて弱い、子供だった。
......そういえば、初めて出会った時もこうだったけ。
指を思い切り噛んでしまったのに、彼女は笑ってそれを流してくれて。 泣いていいのだと、言ってくれて。 居候を始めてから、謝ったりもしたけれど。
(いいんですよ、こんなもの擦り傷です。......そんな事より、貴方の名前を聞いてなかったですね。 なんていうんですか?)
(へぇ......綺麗な名前ですね。 貴方によく似合う)
こんな風に、また軽々と流してくれて。 寧ろ、怒られるつもりが逆に褒められてしまって。
......そして、それだけじゃない。
一緒にご飯を食べたことも。
戦いの練習をしたことも。
眠れない夜に一緒に寝てくれたことも。
体調が悪い時、用事がない時は本当につきっきりでいてくれたことも。
その用事も、緊急のものでなければどうにか先延ばしにしようとしてくれたことも。
全部、全部覚えている。 ちゃんと、覚えている。
「......ちゃん」
「え」
......聞こえているよ。 全部。
「お姉、ちゃん......」
──やめろ。
お願いだ。 もうやめてくれ。
こんなこと、ボクも望んでない。
世界を壊せるなんて、聞いてない。
お姉ちゃん達を殺してしまうなんて、聞いてない。 そんなの、知らなかったんだ。
ボクの願いは、こんなものじゃない。
こんなやり方じゃ、叶えられない。
もう、誰も、傷つけないで。
──消えて。
その時。
唐突に、塔の輪郭が融け出した。
「......きゃっ!?」
「うおっ!?」
まるで今まで見ていた光景が蜃気楼であったかのように、足元にあったはずの床が霧散する。 さて、そうすれば上に飛び上がることもできない身体は、ただ重力に囚われるだけ。 そして1つ間を置けば、それはもうお手本のような自由落下。ヒョウセツ達はは立っていようが倒れていようがお構いなく、そのまま上空へと投げ出されてしまう。
一番最初に感じたのは、高所から落ちるという生き物として当たり前に存在する恐怖感。 でも、風に髪がなびくと同時に、心にもう1つの明るい感情の光が昇ってきていた。
......塔が、消えた。 これで世界が壊れることは、なくなった。
(......やった!)
喜びが、風と共に心を爽やかに吹き抜けていく。 ひとまずは、ということに彼女は安堵すらも覚えた。 でも、それだけで終わりではない。 目的は塔を消すことだけではないのだから。
自分の体勢が不安定になるのも構わず、彼女は周りを見回した。 向こうにバドレックスがいる。少し下にはザシアンとザマゼンタ。 周りと下を見たなら、上は──
「......ロア!!」
その姿を捉えるなり、考えるよりも先にヒョウセツは叫んでいた。 少し暗いけれど、上の方でロアも自分と同じように落ちているのが見える。 彼女は少しでも上に近づきたいと身体をばたつかせ、右手を伸ばしていた。
「来て、掴んで! 手を!!」
彼女は必死の形相。 ロアは、気づいたように口をあんぐりと開ける。
「帰りましょう、一緒に! ふたりなら大丈夫!! だからっ......」
「......」
「お願い、早く!!」
ふたりの距離は、中々縮まらない。 じれったさに、ヒョウセツの心はかき乱されていた。
一方、ロアはいつまでも冷静だった。 寧ろ、落ちていくことで冷たい風を浴びて、頭が冴えていくような。
「......」
自分が今どうするべきか。 彼の理性は、心の中ではっきりとした道筋を示していた。
「......お姉ちゃん」
ロアは、ヒョウセツの元へと近づく。 そして。
その胸元に、優しく手を押し当てた。
「......ごめんなさい」
夜明けもまだ程遠い、暗い闇夜の中。
そこで、彼女は何を「見た」だろうか。
眼下に広がる黒い森?
淀んだ雲で覆われた空?
なびいた自分の髪?
大切な者に差し伸べた手?
そのどれもが合っている。 実際に見た景色と自分の知覚は、しっかり一致している。
ただ、2つだけ。 あとの2つだけはどうしても、感覚に知覚が追いつかなかった。
「......え」
まずは、一瞬だけ向き合ったふたりの表情。 彼らの顔は、少しだけ似た色を示していた。 闇に覆われる光と、光にも似た闇。 しかし、相手側のそれの理由を知るには、あまりにも時間が足りなすぎた。
そしてもう1つ。
──突き放された。ヒョウセツがそう頭で理解したのは、彼の目の中が窺えなくなってからだった。
黒い夜だからこそ、その白い身体はよく映える。
だからこそ、彼女は信じることが出来なかった。 このまま離れていくなんて、嘘だろうと。 あまりにも信じられなさすぎて、この事実こそが夢であるかのように思えてしまう。 きっと、悪い夢でも見ているのだと。
だがここは悪夢の中などではなく、紛れもない現実である。
「まって」
反射的に口を突いて出てきた言葉は、しかし彼には届かない。 彼は空中で身を翻し、ヒョウセツに背を向けてしまった。 そして自分自身の霊力の応用なのか、飛ぶように遠くへと行ってしまう。 予想外の事態に、彼女はただ呆然とすることしか出来ない。
だって、近づいてくれたってことは、てっきり。
「......待って」
......おかしい。 前も、あんな風に空を飛んだことはあったけれど。 あの時は、自分のところに舞い降りてくれたのに。
どうして今は、そうではないの?
「待って......行かないで!!」
その後ろ姿を追おうと、彼女はやっと必死で身体を動かす。 だが、それは端から見れば何の意味もない挙動だ。 寧ろ安定性を失った身体は、より速く地面へと向かっていく。 人間の身体には、飛ぶなんて奇跡──いや、不可能な行為は、なし得なかった。
もしこのまま落ちればどうなるのか。 そんな思考は今の彼女にはなかった。 あったのは、遠ざかっていく影への思いだけ。 止まない混乱と、願いだけ。
これで終わると思っていたのに。 どうして、遠ざかっていってしまうの?
もし時計を巻き戻せるなら、すぐにでも貴方の手を取るのに。
自分の胸元に当てたあの手のぬくもりを、逃すまいとつかみ取れるのに。
──貴方のことを、抱きしめてあげられるのに。
「お願い......!!戻ってきて!! ねぇ!!」
ああそうだ、あの時。
頬に触れるだけではなくて、抱きしめてあげられていれば。
そうしたら何か、変わったのだろうか。
「......ロアっ!!!!」
その後、ヒョウセツ達はバドレックスのサイコキネシスによってどうにか助けられた。
塔は跡形もなく消えていて、残るのは焼け野原とどこか歪んだ風。 ......そして、あの塔に巻き付いていた白い花。 こうして、ひとつの危機が去ったのだ。
ポケモン達は皆喜んでいた。 犠牲者もおらず、世界の危機もひとまずは去ったのだ。 彼らは未だどこかに潜んでいそうな虚無の影を吹き飛ばすような、そんな笑みを見せていた。
しかし、一部の者達は、叶わなかった希望の余韻が残る中、その白い花を呆然と見つめることしか出来なかった。
焼け焦げたまま、散らばった花弁を。
──その後、何日経っても、ロアは一向に見付からなかった。
もう一度、チャンスがあったなら。
未来はきっと変わるのだろうか。