第6話 目覚めの刻
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ルーナメア(ラティアス♀):スターライトの艦長
タリサ(女性):不思議な雑貨屋さん
サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒だが…?
キズミ(男性):美青年にして警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒だが昏睡が続く
マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ
タリサ(女性):不思議な雑貨屋さん
サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒だが…?
キズミ(男性):美青年にして警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒だが昏睡が続く
マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ
昼と夜は失われ、この世界は動かない深紅の太陽が永遠に照らし続ける。それでも時間は過ぎていく。タリサたちは船の居住区に割り当てられた個室で、それぞれ眠りについたが、ルーナメアは薄暗い照明の中、ひとり食堂に残っていた。
タリサから借りた懐中時計だけが時間を告げる。深夜の二時半を回る頃、チラリと時計の針を読んで、ルーナメアはポリゴンにコーヒーを頼んだ。
「こんな真夜中にコーヒー?」
「うぉぅ!」
急に背後からタリサに声をかけられ、ルーナメアは危うく飛び出るところだった心臓を押さえた。
ごめんごめん、と悪戯っぽく笑い、タリサは同じテーブルについた。
「わしがテレパシーを使えんと知ってて脅かしたな?」
「なるほど気配を読むのも苦手か、その点ではあたしよりもよほど人間らしいね」
「皮肉にしか聞こえんぞ」
ルーナメアは疎ましげに睨んで言った。
そのうちポリゴンがコーヒーを頭に乗せて運んできた。磁力かなにかでひっついているのか。タリサが頬杖ついて見守る中、ルーナメアはタブレット端末を片手に、湯気の立つカップを取った。
「復旧計画を見直さねばならん。おぬしの言ったことが本当なら、一ヶ月では長すぎる」
「今さら嘘を吐くとでも?」
「赤い太陽がすべてを呑み込んで、世界の時が巻き戻る……まるで古代の予言書みたいな物言いじゃ」
「それにしては、君が真剣に取り組んでいるように見える。ひょっとして口ではそう言いながら、心の底ではあたしを信じてる?」
「根拠がある。おぬしが見せた『思い出の小瓶』、あの瓶をスキャンして調べたら、船の外郭塗料と同じ成分が含まれておった。耐時間構造を持った『ディアニウム』塗料じゃ」
「おや、聞き覚えがあるね」
「船が光速を超える瞬間に生じる時間的圧力を防ぐため、船体はこの特殊な塗料で覆われておる。船が時間をループせず、何十年も経過していたのはこのせいじゃな。そして加工方法を知っておるのは、この世界ではわしを置いて他におるまい」
それが小瓶にも使われていた。その理由は、ひとつしかない。
気づいてたか。タリサは懐かしい目つきで、コーヒーカップを見つめた。
「……町を夢映しで覆うというアイディアはあたしが出した。小瓶を役立てようとしたのは、この世界に来たばかりの頃の君だ」
「船の技術を渡すほど、前のわしはおぬしを信頼しておったのじゃろうが、いったい何故? おぬしとわしの間でなにがあった?」
「それは……」
タリサの脳裏に浮かぶ、地獄の光景。
かつてルーナメアがこの世界に墜落したばかりの頃、赤い太陽に狂わされた廃人か狂人しかいなかった。互いに互いを疑い、身を守るためと言いながら、嬉々として目に留まった『敵』を痛めつけていた。
かろうじてタリサは正気を保っていた。ここにいるのは、おびただしい数の『迷い星』だ。自分を見失い、ただ欲求の赴くままに衝動だけで動いている。それを正しく導く希望さえあれば、人間もポケモンも、この地獄を変えることができるはずなのだ。
だが日を追うごと、死体が大地を埋めていくにつれて、かつて信じていた希望が見えなくなっていった。
人は所詮獣と同じ。あたし如き小さな声がなにを言ったところで、彼らの本質が変わらないのなら。
あたしの信じた人間の可能性という奴は、最初からどこにもなかったのかもしれない。
倒れたあたしに、力強い声が告げた。
――見上げるのじゃ、タリサ。
「……内緒」
「おのれ肝心なことに限って……ふん、まあよいわ」
拗ねてタブレット端末に視線を戻すルーナメアの横顔を、タリサは茶目っ気のある上目遣いで見やった。
今の君は知る由もないが、すべてを始めたのは君だ。あたしは時間と空間に別たれた迷い星たちを繋ぎ止め、そして君という星を信じただけ。たとえ何年、何十年掛かっても、君たち人間とポケモンは再び立ち上がる。
改めてそう信じさせてくれた君への、これはほんのお礼だ。
「あっ!」
ルーナメアが止める間もなく、タリサは他人のコーヒーを取り上げた。
「頭痛起こした後でこんなもの飲んじゃダメ、ドクターストップならぬ雑貨屋ストップだ」
「意味が分からん! 返せ!」
けらけら笑いながらタリサの姿が幽霊のように消えていく。あとはただ、宙に浮いたカップが食堂の外へ飛び去っていくのを、ルーナメアはただ呆然と見送るしかなかった。
「……ええい、あの女狐め」
はあ。ため息を吐いて、端末に視線を落とす。
――寝るか。
*
航界日誌
地球暦不明
記録者、ルーナメア
タリサの助言を元に、スターライトの修復計画を立て直した。不要な区画の修理を後に回し、主要電源と航行システムの復旧を優先する。
その間、タリサ、キズミ、サンの三名にはポリゴン・ユニットの手伝いと、メインシステムの操作方法習得を頼むことにした。
意外にも、三名の中で最も古い時代から来たと思われるサンの習熟度が高く、皆驚いている。
一方で町の様子をポリゴン探査機に探らせたが、やはりタリサの言った通り、町の者は廃人同然と化し、全滅していた。
彼らを救えなかったのは心苦しいが、死んだ訳ではない。彼らに何が起きたのか、救えるのかどうか、確かめるためにも赤い太陽の調査を急がなくてはならないだろう。
「コンピュータ、シミュレーションをもう一度! 最初から!」
ブリッジ。サンの命令で制御盤が一斉に表示を切り替える。
いわば動作確認のテストだ。こちらの入力した通りにシステムが反応しているかを確かめる……のだが、キズミとタリサはしきりにマニュアルを読みながら、たどたどしい指使いでパネルを押しているのに対し、サンは何も見ずにすらすらと入力を進めている。ブラインドタッチも会得するほどだ。
「やりぃ、また一番!」
「なにかの冗談だと言ってくれ」キズミは唸りながら零した。
「やっぱり子供は新しいものに対する順応が早いね、あたしもまだサッパリ分かんない。なにこれ、押していいボタン?」
「ダメ!!」サンが叫んで止めた。「それ発進ボタン。まだ慣性ダンパーが起動してないじゃん。そのまま船を発進させたら、みんな壁に叩きつけられてペシャンコになっちゃうよ」
「何言ってるのか全然分かんないけど、触る気がなくなったよ。ありがと、お嬢ちゃん」
「外よりもこっちの方が悪夢だ……」
あの悪ガキが、どうしてここまで。頭を抱えるキズミに、タリサが囁いた。
「あたしらも早く憶えないとまずいよ、このままだとルーナメアやマナに何かあったとき、サンちゃんが皆の命綱になる。見てよあの慣れた手つき、もう大人顔負けだ」
「俺は警官だ、宇宙飛行士じゃない。そもそも船がどういう仕組みで動くのかも想像がつかないのに、動かせと言う方が無理だろ」
「雑貨屋にも無理だよ」
「じゃあどうする、悪ガキに宇宙船を飛ばすコツを教えてもらうのか? ああもう、自分で言ってて目眩がしてくる」
「社会人のプライドにしがみつくのと、ウルスラちゃんを助けるの、どっちが大事か考えてみたら?」
「おい、その言い方は卑怯だぞ」
悪態を華麗に流して、タリサはにこにこ笑顔でサンに尋ねた。
「サンちゃん凄いねー、お姉さんたちじゃ敵わない! 偉いねー! コツとかあったら教えて欲しいんだけど、どう?」
「へへっ、実は毎日ルトーとめっちゃ特訓してるんだよねー! ほんとはあたしの手柄にしたいんだけど、ルトーったら凄いんだぜ。分からないところ全部教えてくれてさ。やっぱこれはそう、友情の力……かな」
「ルトーも賢いんだねぇ!」
怪訝そうな顔をするキズミに振り向いて、タリサは「何も言わないで」と言いたげに人差し指を立てた。
サンが言う『ルトー』を、実は誰も見たことがない。いわゆるイマジナリーフレンドという、空想の中だけの存在と思われるのだが、サンは存在を信じて疑わない。
このままそっとしてあげるのが一番良い。タリサの進言に、誰も異論はなかった。
「これは?」タリサがパネルを指して尋ねると。
「左舷エンジンの出力調整。ワープライドを使わないときに飛ぶ推進エンジンの勢いを操作する奴だよ」
「じゃあ、この赤いのは?」
「レーザーアレイの発射ボタンだね。破壊光線が出るんだって!」
「うわあおっかない」
なにやら楽しそうに船の操縦を学ぶふたりを、キズミは退屈そうに眺めていた。
ちょうどその時、彼のもとに報せが入る。
『医療室よりブリッジ』マナフィの声だ。『ミスター・キズミ、医療室までお越しください』
ピクリと眉が動いた。ウルスラのことか。
呼ばれたとたん、キズミの頭から宇宙船のことは吹き飛んだ。タリサたちを見向きもせず、足早にブリッジから出ていった。
医療室では、小さな白衣を羽織ったマナフィが待っていた。
そのコスプレに突っ込むよりも先に、キズミは部屋を訪れるなり用件に入った。
「ウルスラに何かあったのか?」
「良い報せと悪い報せがあります」
どっちから聞くのが定番だったか、と考える余地もない。
「重要な方から話せ」
「では良い報せから。彼女を治療できます」
その言葉を聞いた瞬間、全身から緊張が抜けていく気がした。心の底からの安堵だ。ウルスラが倒れてからずっと、こんな気持ちになったことはなかった。
マナフィは医療モニターの数値を見上げながら言った。
「精密検査を重ねて、昏睡の原因がやはり特性『シンクロ』によるものと確認しました。望ましいのは負の感情の根源を除去することですが、当面は期待できません。そこで代替的に、彼女の特性を無力化します」
「シンクロがなければ、負の感情による影響を受けることもない」
「その通りです」
特性を変える、確かそんな薬があることをどこかで聞いたような。無力化ではないが、似たようなものか。
「なら、すぐにやってくれ」
「ここからが悪い報せです。特性はそのポケモンの生理機能と非常に密接に関係しています。我々ミラージュ・ポケモンと違って、生身のポケモンにオン/オフのスイッチはありません」
「つまり?」
「特性を無力化する期間が長引くほど、元に戻すのが難しくなります。それまでに原因を除去できれば良いのですが、明確に期限を断言できません。経過次第では数日でそうなる可能性も」
「……二度とテレパシーを使えなくなるかもしれないってことか」
「ご明察です」
「ただ特性を変えるだけではダメなのか?」
「ラルトスのもうひとつの特性『トレース』も、元を辿ればテレパシー能力の派生です。症状の改善は見込めません」
キズミは額に手を当て、医療ベッドで眠り続けるウルスラを見やった。呪文のようなテレパシーを垂れ流している以外は、とても穏やかそうに見える。
「……なぜ、今なんだ」キズミはマナフィに振り向かず尋ねた。「その選択肢はウルスラをここに運び込んだとき、既にあったはずだろう。もう何日も前の話だぞ」
「最も優先すべきは患者の現状維持です、これ以上悪化する恐れのある治療は推奨できませんでした。しかし量子スキャナーが復旧したことで、彼女の脳に微細な傷が生じていることが判明しました」
「命に関わるのか?」
「今のところはまだですが、昏睡を続けると傷は拡大していきます。その進行速度は緩やかですが、今後さらに加速度的に悪化することが予想されます。いずれにせよ、治療方針を確定しなければ手遅れになりかねません。その決定権を握っているのは、ミスター・キズミ、あなたです」
キズミは肩で深呼吸をした。
ウルスラの命運を握っている。相棒である俺が。
……この焦りは何だ。ふたつある道のどちらかを選ぶだけでいい、言葉でイエスかノーと答えるだけで、ウルスラの生死が決まる。その軽さが、余計な不安を抱かせる。
俺がすべてを憶えていたら、俺はこのとき迷いなく答える自信があったか? 言葉に詰まるのは、何も知らないまま彼女を失うのが怖いからのか?
考えても答えなど出てくる訳もない。医療に関わる知識は、マナフィはもちろん、専門外のルーナメアにすら敵うまい。
いっそルーナメアに相談してみるか。そう思いかけて、キズミは小さく首を振った。それで奴が選んだ結果、ウルスラに何かあったら俺はその責任を人のせいにするのか。
選ぶのは俺だ。他人でも、記憶があった頃の俺でもない、今の俺だ。その責任は俺が負うべきなんだ。
キズミはマナフィを見据えて、言った。
「……処置を頼む、ウルスラの特性を消してくれ」
*
航界日誌
地球暦不明
記録者、ルーナメア
タリサが予言した時間ループの発生まで残り六日に迫った。
船の主要電源は無事に復旧し、メインシステムの大半が起動した。推進システムは既に稼働しているが、長年整備されていなかったため最終点検を念入りに進めている。それが終われば、いよいよ空に戻るときだ。
昏睡状態のウルスラは手術を受け、医療室で今なお眠り続けている。マナの報告では、いつ目覚めてもおかしくない状態だという。彼女と直に話をしたことはないが、無事を祈るばかりだ。
手術から何日も経ったというのに、キズミはずっと医療室に張りついていた。食事の時だけは、他の面子と顔を合わせて船の修理状況を教えてもらうのだが、それ以外は寝泊まりさえ医療室で過ごした。
ウルスラの傍で読んだ本がベッドの上で山を築く頃。ルーナメアは久々に医療室を訪れ、煤まみれの顔を見せた。
空いたベッドに座るキズミは、半目でジトリと彼女を見やった。
「……なんだその顔は」
「わしの綺麗な顔がどうした?」
「汚れてるぞ」
「ああ、狭い作業通路を這い回っておったからな。修理はポリゴンたちがやってくれたが、やはり最終確認はこの目でやらねば気が済まぬ」
「じゃあ、いよいよ……」
「発進準備オーケーじゃ。他のふたりはもうブリッジで待機しておる。おぬしは来なくて良いのか?」
「ウルスラの帰りを待つ、今の俺にできるのはそれだけだ」
「そうか」
言って、ルーナメアは相変わらず眠り続けるウルスラの顔をチラリと覗いた。穏やかな寝顔だ。苦しむ素振りもなく、すやすや眠っている。
そしてそのままキズミの隣りに腰を下ろした。
「……戻らないのか?」
「わしはテレパシーこそ使えんが、こう見えて船を指揮する艦長じゃ。知識や経験だけで務まる仕事か? いいや、乗組員にも常に細心の注意を払わねば、問題が起きた後に気づいても遅いのじゃ」
「俺に問題は――」
「聞け、キズミ。わしも大事な人を……正しくはポケモンを、変えてしまう決断をしたことがある。正直言って驚いた、決めることの軽さにな。そこには本や映画で語られるような、ドラマチックな演出などありはしない。まるで目を塞がれたまま、突然さあ選べと言われたような感覚じゃった」
キズミは前屈みになって、息を吐いた。
「それで決めた結果、物事は良い方向へ転がって良かったー、とでも言うつもりか?」
「反対じゃ。結末は最悪、わしは重い十字架を背負う羽目になった。この話の教訓は何かと言うと、どんなに思い悩んだところで、選んだ結果は容赦なく襲ってくるということじゃ」
ますます頭が重くなってきた。キズミはさらに項垂れて返した。
「お前のおかげで元気が出たよ」
「それは何より!」
「今のは皮肉だ、余計に気が滅入ってきた」
「皮肉を言えれば十分じゃ。相棒が回復することを祈っておるよ」
祈りなんて要らないと言いたげに、キズミはひらひらとあしらうように手を振った。
ピッ。
ちょうどルーナメアが医療室を出ていこうと、ベッドから降りた瞬間。
ウルスラのバイタルを監視していた医療モニターに反応が出た。規則正しく、ピッ、ピッ、と鳴り続ける電子音。それに呼応するように、眠り姫の重い瞼が、ゆっくりと開いていった。
「……?」
枕の上で頭を傾け、前髪から僅かに覗く赤い瞳にキズミの顔を宿す。ぱちくり。二度、三度と瞬きをして、ウルスラはハッキリと目を覚ました。
「……! ……!」
華奢な身体を奮い立たせ、嬉しそうに起き上がろうとするので、思わずキズミとルーナメアが彼女の身体を支えに入った。
「ゆっくりでええ、ウルスラ、ゆっくりや」
「……?」
キズミに言われて、ウルスラは首を傾げた。疑問はたくさん湧いてくる。ここはどこなのか。この女の人は誰なのか。それに、どうしてキズミは返事をしてくれないのか。
わしが言おうか?
と、ルーナメアが視線を送ってきた。キズミは首を横に振った。
「ウルスラ、すまない。特性が……おそらくそれに連なるテレパシーも……今は使えないんだ」
「口で喋ってみるとよい」ルーナメアが優しく言った。「翻訳機は作動しておる、試してみよ」
なにを言っているんだろう、ポケモンの言葉は人間に通じないのに。ウルスラは不思議に思いつつも、おそるおそる口を開けて。
「……キズミ様、おはようございます。わたくしの言ってること、伝わってますか?」
その声を聞くまで、ずっと夢の中をコンパスも持たずに彷徨い続けているような気がしていた。それがたった一言、ウルスラの声を聞くだけで、視界を覆っていた霧が晴れたようだった。この瞬間を、おそらく途方もなく長い間、ずっと待ち続けていた。
キズミはウルスラの頭をくしゃりと撫でて、僅かにだが、口角を上げて微笑んだ。
「伝わってるよ。あぁ、確かに伝わった」
「本当ですわ! わたくし、言葉でキズミ様とお話するの初めてです! なんだか……」
「調子が悪いのか?」
「変な感じです、いつもならキズミ様の言葉には……なんていいますか、感情が乗っていたのに、今はなにも感じません」
「最初は不安じゃろうが、じきに慣れる」ルーナメアはウルスラの肩をポンポン叩いて、スッと離れた。「それでは先にブリッジへ戻ろう。キズミ、おぬしはどうする?」
「お楽しみを奪う気か? 後でウルスラと行く、まずは事情の説明からだ」
「あの、キズミ様? ぶりっじって、橋のことですか?」
ウルスラの質問攻めが幕を開けた。キズミは説明に困惑するだろうが、気心の知れた仲らしい、上手いこと理解させてくれるだろう。「では後でな」と、ルーナメアはふたりを残して、一足先に医療室を出ていった。
その間際、彼女は沈痛な表情を浮かべて、すぐに押し殺した。その背中を、ウルスラはジッと見つめていた。
*
見るものすべてが新鮮で。すべてがキラキラと輝いていて、それは未来がどれだけ明るい世界であるかを物語っているようだった。
キズミに抱かれて、ウルスラは初めてスターライトのブリッジに入った。そのときの衝撃たるや、まるで興奮冷め止まぬ白熱怒濤のポケウッド映画に飛び込んだようだ。
「キズミ様、宇宙船! 宇宙船ですわ!」
「長い昏睡から醒めたばかりだぞ、あまり興奮すると身体に障る」
「よく落ち着いていられますわね、ずるいですわ、わたくしが眠っている間にキズミ様ばかり楽しんで!」
「さっき話したことをもう忘れてないか? 俺たちは元の世界から連れ去られてここにいるんだ、なにも楽しくない」
なんて言っている間に、サンが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「うわあ、ちっこくて可愛いポケモンだな!」
「あらこんにちは」ウルスラはにこりと笑って。「わたくし、ウルスラと申します。ええっと……あなたは、サン様ですね?」
「サンでいいよ! こっちはあたしの相棒ルトー、よろしくな!」
「ルトー……」
しまった、とキズミは顔をしかめた。サンのイマジナリーフレンドのことを、まだウルスラに言っていなかった。
「ウルスラ、ルトーというのは……」
「よろしくお願いしますね、ルトー様」
気遣う訳でもなく。まるでサンの横に本当にルトーがいるかのように、ウルスラは当然のごとく微笑んだ。
見えているのか? まさか。ルトーは存在しない。調子を合わせただけか。訝しむキズミをよそに、艦長席からルーナメアが振り返って言った。
「遅いぞキズミよ。いよいよ発進の時じゃ、揺れるから席についてベルトを締めよ」
「今そうするところだ」
また後でね、と手を振り合うサンとウルスラ。席に戻るサンに続いて、キズミも適当な座席に腰を下ろした。
運命の時が来た。
ルーナメアは肘掛けの先を掴み、真っ暗なスクリーンを見据えて告げた。
「マナ、発進しよう」
「了解です、艦長」マナフィは手元の制御盤をリズミカルに打ち始めた。「前方スタビライザー全開。推進エンジン、出力20からスタート」
「慎重にな、直したばかりの船を壊すなよ」
人工知能には当てはまらない心配だ。マナフィはフッと笑って、起動ボタンを押した。
森がざわめいていた。大地を丸ごと巻き上げる程の凄まじい突風が吹き荒び、スターライトの機体が埋もれる地面に亀裂が走る。
少しずつ、少しずつ、地面が砕けて風に吹かれ、飛んでいく。顕わになっていく白銀の機体。スクリーンを覆っていた土が晴れて、ようやく外の赤い景色が見えてきた。
「推進エンジンの出力上昇、30、40……!」
マナフィの報告につれて、船の揺れも増していく。鉄骨が軋むような嫌な音も聞こえてきた。
「ねえルーナメア艦長?」タリサは制御盤にしがみつきながら言った。「これ真っ二つに割れたりしないよね?」
「黙って見ておれ雑貨屋、餅は餅屋じゃ!」
「あいにく餅屋が開店するとこ初めて見たもので!」
言っている間に、急激に重力加速度の壁が襲ってきた。軒並み座席の背板に押しつけられている間、船は埋もれていた大地を蹴散らして、スリングショットのように空へと飛び上がった。
ルーナメアが叫んだ。
「か、慣性……ダンパーは!?」
「ただちに起動します!」マナフィが同じ声量で返しながら、パネルを押した。
瞬間、重力の壁が突然消えて、一斉に勢い余って前に転げ落ちた。
航界船スターライトは無事に空へと飛び上がった。その後方には、長年鎮座し続けた町の成れの果てでもある、巨大な浮島が漂っていた。
今まであんなものの上で暮らしていたのか。と、感傷に浸るよりも、幸先の悪いスタートを切ってしまったばかりに、早くも頭が痛くなってきた。
「……まさか慣性ダンパーを確認せずに船を飛ばしたのか!?」
「いいえ」マナフィは首を振った。「私はミラージュ・ポケモンです、ミスはありえません。確かに出発の瞬間、慣性ダンパーを起動しました」
「あのー」タリサがおそるおそる手を挙げた。「それが起動してないと大変だと思ったから、あたしも出発の時にスイッチ押しちゃった……かも」
てへ、と可愛げに振る舞うタリサに、ルーナメアは何も言えなかった。非常時のためとはいえ、皆に操作権限を与えたのは自分だ。
ミスを防ぐ手順を考えるのも艦長の務め。ルーナメアは「余計な気遣いをさせてすまぬ」と返して、どうしたものかと腕を組んだ。
タリサから借りた懐中時計だけが時間を告げる。深夜の二時半を回る頃、チラリと時計の針を読んで、ルーナメアはポリゴンにコーヒーを頼んだ。
「こんな真夜中にコーヒー?」
「うぉぅ!」
急に背後からタリサに声をかけられ、ルーナメアは危うく飛び出るところだった心臓を押さえた。
ごめんごめん、と悪戯っぽく笑い、タリサは同じテーブルについた。
「わしがテレパシーを使えんと知ってて脅かしたな?」
「なるほど気配を読むのも苦手か、その点ではあたしよりもよほど人間らしいね」
「皮肉にしか聞こえんぞ」
ルーナメアは疎ましげに睨んで言った。
そのうちポリゴンがコーヒーを頭に乗せて運んできた。磁力かなにかでひっついているのか。タリサが頬杖ついて見守る中、ルーナメアはタブレット端末を片手に、湯気の立つカップを取った。
「復旧計画を見直さねばならん。おぬしの言ったことが本当なら、一ヶ月では長すぎる」
「今さら嘘を吐くとでも?」
「赤い太陽がすべてを呑み込んで、世界の時が巻き戻る……まるで古代の予言書みたいな物言いじゃ」
「それにしては、君が真剣に取り組んでいるように見える。ひょっとして口ではそう言いながら、心の底ではあたしを信じてる?」
「根拠がある。おぬしが見せた『思い出の小瓶』、あの瓶をスキャンして調べたら、船の外郭塗料と同じ成分が含まれておった。耐時間構造を持った『ディアニウム』塗料じゃ」
「おや、聞き覚えがあるね」
「船が光速を超える瞬間に生じる時間的圧力を防ぐため、船体はこの特殊な塗料で覆われておる。船が時間をループせず、何十年も経過していたのはこのせいじゃな。そして加工方法を知っておるのは、この世界ではわしを置いて他におるまい」
それが小瓶にも使われていた。その理由は、ひとつしかない。
気づいてたか。タリサは懐かしい目つきで、コーヒーカップを見つめた。
「……町を夢映しで覆うというアイディアはあたしが出した。小瓶を役立てようとしたのは、この世界に来たばかりの頃の君だ」
「船の技術を渡すほど、前のわしはおぬしを信頼しておったのじゃろうが、いったい何故? おぬしとわしの間でなにがあった?」
「それは……」
タリサの脳裏に浮かぶ、地獄の光景。
かつてルーナメアがこの世界に墜落したばかりの頃、赤い太陽に狂わされた廃人か狂人しかいなかった。互いに互いを疑い、身を守るためと言いながら、嬉々として目に留まった『敵』を痛めつけていた。
かろうじてタリサは正気を保っていた。ここにいるのは、おびただしい数の『迷い星』だ。自分を見失い、ただ欲求の赴くままに衝動だけで動いている。それを正しく導く希望さえあれば、人間もポケモンも、この地獄を変えることができるはずなのだ。
だが日を追うごと、死体が大地を埋めていくにつれて、かつて信じていた希望が見えなくなっていった。
人は所詮獣と同じ。あたし如き小さな声がなにを言ったところで、彼らの本質が変わらないのなら。
あたしの信じた人間の可能性という奴は、最初からどこにもなかったのかもしれない。
倒れたあたしに、力強い声が告げた。
――見上げるのじゃ、タリサ。
「……内緒」
「おのれ肝心なことに限って……ふん、まあよいわ」
拗ねてタブレット端末に視線を戻すルーナメアの横顔を、タリサは茶目っ気のある上目遣いで見やった。
今の君は知る由もないが、すべてを始めたのは君だ。あたしは時間と空間に別たれた迷い星たちを繋ぎ止め、そして君という星を信じただけ。たとえ何年、何十年掛かっても、君たち人間とポケモンは再び立ち上がる。
改めてそう信じさせてくれた君への、これはほんのお礼だ。
「あっ!」
ルーナメアが止める間もなく、タリサは他人のコーヒーを取り上げた。
「頭痛起こした後でこんなもの飲んじゃダメ、ドクターストップならぬ雑貨屋ストップだ」
「意味が分からん! 返せ!」
けらけら笑いながらタリサの姿が幽霊のように消えていく。あとはただ、宙に浮いたカップが食堂の外へ飛び去っていくのを、ルーナメアはただ呆然と見送るしかなかった。
「……ええい、あの女狐め」
はあ。ため息を吐いて、端末に視線を落とす。
――寝るか。
*
航界日誌
地球暦不明
記録者、ルーナメア
タリサの助言を元に、スターライトの修復計画を立て直した。不要な区画の修理を後に回し、主要電源と航行システムの復旧を優先する。
その間、タリサ、キズミ、サンの三名にはポリゴン・ユニットの手伝いと、メインシステムの操作方法習得を頼むことにした。
意外にも、三名の中で最も古い時代から来たと思われるサンの習熟度が高く、皆驚いている。
一方で町の様子をポリゴン探査機に探らせたが、やはりタリサの言った通り、町の者は廃人同然と化し、全滅していた。
彼らを救えなかったのは心苦しいが、死んだ訳ではない。彼らに何が起きたのか、救えるのかどうか、確かめるためにも赤い太陽の調査を急がなくてはならないだろう。
「コンピュータ、シミュレーションをもう一度! 最初から!」
ブリッジ。サンの命令で制御盤が一斉に表示を切り替える。
いわば動作確認のテストだ。こちらの入力した通りにシステムが反応しているかを確かめる……のだが、キズミとタリサはしきりにマニュアルを読みながら、たどたどしい指使いでパネルを押しているのに対し、サンは何も見ずにすらすらと入力を進めている。ブラインドタッチも会得するほどだ。
「やりぃ、また一番!」
「なにかの冗談だと言ってくれ」キズミは唸りながら零した。
「やっぱり子供は新しいものに対する順応が早いね、あたしもまだサッパリ分かんない。なにこれ、押していいボタン?」
「ダメ!!」サンが叫んで止めた。「それ発進ボタン。まだ慣性ダンパーが起動してないじゃん。そのまま船を発進させたら、みんな壁に叩きつけられてペシャンコになっちゃうよ」
「何言ってるのか全然分かんないけど、触る気がなくなったよ。ありがと、お嬢ちゃん」
「外よりもこっちの方が悪夢だ……」
あの悪ガキが、どうしてここまで。頭を抱えるキズミに、タリサが囁いた。
「あたしらも早く憶えないとまずいよ、このままだとルーナメアやマナに何かあったとき、サンちゃんが皆の命綱になる。見てよあの慣れた手つき、もう大人顔負けだ」
「俺は警官だ、宇宙飛行士じゃない。そもそも船がどういう仕組みで動くのかも想像がつかないのに、動かせと言う方が無理だろ」
「雑貨屋にも無理だよ」
「じゃあどうする、悪ガキに宇宙船を飛ばすコツを教えてもらうのか? ああもう、自分で言ってて目眩がしてくる」
「社会人のプライドにしがみつくのと、ウルスラちゃんを助けるの、どっちが大事か考えてみたら?」
「おい、その言い方は卑怯だぞ」
悪態を華麗に流して、タリサはにこにこ笑顔でサンに尋ねた。
「サンちゃん凄いねー、お姉さんたちじゃ敵わない! 偉いねー! コツとかあったら教えて欲しいんだけど、どう?」
「へへっ、実は毎日ルトーとめっちゃ特訓してるんだよねー! ほんとはあたしの手柄にしたいんだけど、ルトーったら凄いんだぜ。分からないところ全部教えてくれてさ。やっぱこれはそう、友情の力……かな」
「ルトーも賢いんだねぇ!」
怪訝そうな顔をするキズミに振り向いて、タリサは「何も言わないで」と言いたげに人差し指を立てた。
サンが言う『ルトー』を、実は誰も見たことがない。いわゆるイマジナリーフレンドという、空想の中だけの存在と思われるのだが、サンは存在を信じて疑わない。
このままそっとしてあげるのが一番良い。タリサの進言に、誰も異論はなかった。
「これは?」タリサがパネルを指して尋ねると。
「左舷エンジンの出力調整。ワープライドを使わないときに飛ぶ推進エンジンの勢いを操作する奴だよ」
「じゃあ、この赤いのは?」
「レーザーアレイの発射ボタンだね。破壊光線が出るんだって!」
「うわあおっかない」
なにやら楽しそうに船の操縦を学ぶふたりを、キズミは退屈そうに眺めていた。
ちょうどその時、彼のもとに報せが入る。
『医療室よりブリッジ』マナフィの声だ。『ミスター・キズミ、医療室までお越しください』
ピクリと眉が動いた。ウルスラのことか。
呼ばれたとたん、キズミの頭から宇宙船のことは吹き飛んだ。タリサたちを見向きもせず、足早にブリッジから出ていった。
医療室では、小さな白衣を羽織ったマナフィが待っていた。
そのコスプレに突っ込むよりも先に、キズミは部屋を訪れるなり用件に入った。
「ウルスラに何かあったのか?」
「良い報せと悪い報せがあります」
どっちから聞くのが定番だったか、と考える余地もない。
「重要な方から話せ」
「では良い報せから。彼女を治療できます」
その言葉を聞いた瞬間、全身から緊張が抜けていく気がした。心の底からの安堵だ。ウルスラが倒れてからずっと、こんな気持ちになったことはなかった。
マナフィは医療モニターの数値を見上げながら言った。
「精密検査を重ねて、昏睡の原因がやはり特性『シンクロ』によるものと確認しました。望ましいのは負の感情の根源を除去することですが、当面は期待できません。そこで代替的に、彼女の特性を無力化します」
「シンクロがなければ、負の感情による影響を受けることもない」
「その通りです」
特性を変える、確かそんな薬があることをどこかで聞いたような。無力化ではないが、似たようなものか。
「なら、すぐにやってくれ」
「ここからが悪い報せです。特性はそのポケモンの生理機能と非常に密接に関係しています。我々ミラージュ・ポケモンと違って、生身のポケモンにオン/オフのスイッチはありません」
「つまり?」
「特性を無力化する期間が長引くほど、元に戻すのが難しくなります。それまでに原因を除去できれば良いのですが、明確に期限を断言できません。経過次第では数日でそうなる可能性も」
「……二度とテレパシーを使えなくなるかもしれないってことか」
「ご明察です」
「ただ特性を変えるだけではダメなのか?」
「ラルトスのもうひとつの特性『トレース』も、元を辿ればテレパシー能力の派生です。症状の改善は見込めません」
キズミは額に手を当て、医療ベッドで眠り続けるウルスラを見やった。呪文のようなテレパシーを垂れ流している以外は、とても穏やかそうに見える。
「……なぜ、今なんだ」キズミはマナフィに振り向かず尋ねた。「その選択肢はウルスラをここに運び込んだとき、既にあったはずだろう。もう何日も前の話だぞ」
「最も優先すべきは患者の現状維持です、これ以上悪化する恐れのある治療は推奨できませんでした。しかし量子スキャナーが復旧したことで、彼女の脳に微細な傷が生じていることが判明しました」
「命に関わるのか?」
「今のところはまだですが、昏睡を続けると傷は拡大していきます。その進行速度は緩やかですが、今後さらに加速度的に悪化することが予想されます。いずれにせよ、治療方針を確定しなければ手遅れになりかねません。その決定権を握っているのは、ミスター・キズミ、あなたです」
キズミは肩で深呼吸をした。
ウルスラの命運を握っている。相棒である俺が。
……この焦りは何だ。ふたつある道のどちらかを選ぶだけでいい、言葉でイエスかノーと答えるだけで、ウルスラの生死が決まる。その軽さが、余計な不安を抱かせる。
俺がすべてを憶えていたら、俺はこのとき迷いなく答える自信があったか? 言葉に詰まるのは、何も知らないまま彼女を失うのが怖いからのか?
考えても答えなど出てくる訳もない。医療に関わる知識は、マナフィはもちろん、専門外のルーナメアにすら敵うまい。
いっそルーナメアに相談してみるか。そう思いかけて、キズミは小さく首を振った。それで奴が選んだ結果、ウルスラに何かあったら俺はその責任を人のせいにするのか。
選ぶのは俺だ。他人でも、記憶があった頃の俺でもない、今の俺だ。その責任は俺が負うべきなんだ。
キズミはマナフィを見据えて、言った。
「……処置を頼む、ウルスラの特性を消してくれ」
*
航界日誌
地球暦不明
記録者、ルーナメア
タリサが予言した時間ループの発生まで残り六日に迫った。
船の主要電源は無事に復旧し、メインシステムの大半が起動した。推進システムは既に稼働しているが、長年整備されていなかったため最終点検を念入りに進めている。それが終われば、いよいよ空に戻るときだ。
昏睡状態のウルスラは手術を受け、医療室で今なお眠り続けている。マナの報告では、いつ目覚めてもおかしくない状態だという。彼女と直に話をしたことはないが、無事を祈るばかりだ。
手術から何日も経ったというのに、キズミはずっと医療室に張りついていた。食事の時だけは、他の面子と顔を合わせて船の修理状況を教えてもらうのだが、それ以外は寝泊まりさえ医療室で過ごした。
ウルスラの傍で読んだ本がベッドの上で山を築く頃。ルーナメアは久々に医療室を訪れ、煤まみれの顔を見せた。
空いたベッドに座るキズミは、半目でジトリと彼女を見やった。
「……なんだその顔は」
「わしの綺麗な顔がどうした?」
「汚れてるぞ」
「ああ、狭い作業通路を這い回っておったからな。修理はポリゴンたちがやってくれたが、やはり最終確認はこの目でやらねば気が済まぬ」
「じゃあ、いよいよ……」
「発進準備オーケーじゃ。他のふたりはもうブリッジで待機しておる。おぬしは来なくて良いのか?」
「ウルスラの帰りを待つ、今の俺にできるのはそれだけだ」
「そうか」
言って、ルーナメアは相変わらず眠り続けるウルスラの顔をチラリと覗いた。穏やかな寝顔だ。苦しむ素振りもなく、すやすや眠っている。
そしてそのままキズミの隣りに腰を下ろした。
「……戻らないのか?」
「わしはテレパシーこそ使えんが、こう見えて船を指揮する艦長じゃ。知識や経験だけで務まる仕事か? いいや、乗組員にも常に細心の注意を払わねば、問題が起きた後に気づいても遅いのじゃ」
「俺に問題は――」
「聞け、キズミ。わしも大事な人を……正しくはポケモンを、変えてしまう決断をしたことがある。正直言って驚いた、決めることの軽さにな。そこには本や映画で語られるような、ドラマチックな演出などありはしない。まるで目を塞がれたまま、突然さあ選べと言われたような感覚じゃった」
キズミは前屈みになって、息を吐いた。
「それで決めた結果、物事は良い方向へ転がって良かったー、とでも言うつもりか?」
「反対じゃ。結末は最悪、わしは重い十字架を背負う羽目になった。この話の教訓は何かと言うと、どんなに思い悩んだところで、選んだ結果は容赦なく襲ってくるということじゃ」
ますます頭が重くなってきた。キズミはさらに項垂れて返した。
「お前のおかげで元気が出たよ」
「それは何より!」
「今のは皮肉だ、余計に気が滅入ってきた」
「皮肉を言えれば十分じゃ。相棒が回復することを祈っておるよ」
祈りなんて要らないと言いたげに、キズミはひらひらとあしらうように手を振った。
ピッ。
ちょうどルーナメアが医療室を出ていこうと、ベッドから降りた瞬間。
ウルスラのバイタルを監視していた医療モニターに反応が出た。規則正しく、ピッ、ピッ、と鳴り続ける電子音。それに呼応するように、眠り姫の重い瞼が、ゆっくりと開いていった。
「……?」
枕の上で頭を傾け、前髪から僅かに覗く赤い瞳にキズミの顔を宿す。ぱちくり。二度、三度と瞬きをして、ウルスラはハッキリと目を覚ました。
「……! ……!」
華奢な身体を奮い立たせ、嬉しそうに起き上がろうとするので、思わずキズミとルーナメアが彼女の身体を支えに入った。
「ゆっくりでええ、ウルスラ、ゆっくりや」
「……?」
キズミに言われて、ウルスラは首を傾げた。疑問はたくさん湧いてくる。ここはどこなのか。この女の人は誰なのか。それに、どうしてキズミは返事をしてくれないのか。
わしが言おうか?
と、ルーナメアが視線を送ってきた。キズミは首を横に振った。
「ウルスラ、すまない。特性が……おそらくそれに連なるテレパシーも……今は使えないんだ」
「口で喋ってみるとよい」ルーナメアが優しく言った。「翻訳機は作動しておる、試してみよ」
なにを言っているんだろう、ポケモンの言葉は人間に通じないのに。ウルスラは不思議に思いつつも、おそるおそる口を開けて。
「……キズミ様、おはようございます。わたくしの言ってること、伝わってますか?」
その声を聞くまで、ずっと夢の中をコンパスも持たずに彷徨い続けているような気がしていた。それがたった一言、ウルスラの声を聞くだけで、視界を覆っていた霧が晴れたようだった。この瞬間を、おそらく途方もなく長い間、ずっと待ち続けていた。
キズミはウルスラの頭をくしゃりと撫でて、僅かにだが、口角を上げて微笑んだ。
「伝わってるよ。あぁ、確かに伝わった」
「本当ですわ! わたくし、言葉でキズミ様とお話するの初めてです! なんだか……」
「調子が悪いのか?」
「変な感じです、いつもならキズミ様の言葉には……なんていいますか、感情が乗っていたのに、今はなにも感じません」
「最初は不安じゃろうが、じきに慣れる」ルーナメアはウルスラの肩をポンポン叩いて、スッと離れた。「それでは先にブリッジへ戻ろう。キズミ、おぬしはどうする?」
「お楽しみを奪う気か? 後でウルスラと行く、まずは事情の説明からだ」
「あの、キズミ様? ぶりっじって、橋のことですか?」
ウルスラの質問攻めが幕を開けた。キズミは説明に困惑するだろうが、気心の知れた仲らしい、上手いこと理解させてくれるだろう。「では後でな」と、ルーナメアはふたりを残して、一足先に医療室を出ていった。
その間際、彼女は沈痛な表情を浮かべて、すぐに押し殺した。その背中を、ウルスラはジッと見つめていた。
*
見るものすべてが新鮮で。すべてがキラキラと輝いていて、それは未来がどれだけ明るい世界であるかを物語っているようだった。
キズミに抱かれて、ウルスラは初めてスターライトのブリッジに入った。そのときの衝撃たるや、まるで興奮冷め止まぬ白熱怒濤のポケウッド映画に飛び込んだようだ。
「キズミ様、宇宙船! 宇宙船ですわ!」
「長い昏睡から醒めたばかりだぞ、あまり興奮すると身体に障る」
「よく落ち着いていられますわね、ずるいですわ、わたくしが眠っている間にキズミ様ばかり楽しんで!」
「さっき話したことをもう忘れてないか? 俺たちは元の世界から連れ去られてここにいるんだ、なにも楽しくない」
なんて言っている間に、サンが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「うわあ、ちっこくて可愛いポケモンだな!」
「あらこんにちは」ウルスラはにこりと笑って。「わたくし、ウルスラと申します。ええっと……あなたは、サン様ですね?」
「サンでいいよ! こっちはあたしの相棒ルトー、よろしくな!」
「ルトー……」
しまった、とキズミは顔をしかめた。サンのイマジナリーフレンドのことを、まだウルスラに言っていなかった。
「ウルスラ、ルトーというのは……」
「よろしくお願いしますね、ルトー様」
気遣う訳でもなく。まるでサンの横に本当にルトーがいるかのように、ウルスラは当然のごとく微笑んだ。
見えているのか? まさか。ルトーは存在しない。調子を合わせただけか。訝しむキズミをよそに、艦長席からルーナメアが振り返って言った。
「遅いぞキズミよ。いよいよ発進の時じゃ、揺れるから席についてベルトを締めよ」
「今そうするところだ」
また後でね、と手を振り合うサンとウルスラ。席に戻るサンに続いて、キズミも適当な座席に腰を下ろした。
運命の時が来た。
ルーナメアは肘掛けの先を掴み、真っ暗なスクリーンを見据えて告げた。
「マナ、発進しよう」
「了解です、艦長」マナフィは手元の制御盤をリズミカルに打ち始めた。「前方スタビライザー全開。推進エンジン、出力20からスタート」
「慎重にな、直したばかりの船を壊すなよ」
人工知能には当てはまらない心配だ。マナフィはフッと笑って、起動ボタンを押した。
森がざわめいていた。大地を丸ごと巻き上げる程の凄まじい突風が吹き荒び、スターライトの機体が埋もれる地面に亀裂が走る。
少しずつ、少しずつ、地面が砕けて風に吹かれ、飛んでいく。顕わになっていく白銀の機体。スクリーンを覆っていた土が晴れて、ようやく外の赤い景色が見えてきた。
「推進エンジンの出力上昇、30、40……!」
マナフィの報告につれて、船の揺れも増していく。鉄骨が軋むような嫌な音も聞こえてきた。
「ねえルーナメア艦長?」タリサは制御盤にしがみつきながら言った。「これ真っ二つに割れたりしないよね?」
「黙って見ておれ雑貨屋、餅は餅屋じゃ!」
「あいにく餅屋が開店するとこ初めて見たもので!」
言っている間に、急激に重力加速度の壁が襲ってきた。軒並み座席の背板に押しつけられている間、船は埋もれていた大地を蹴散らして、スリングショットのように空へと飛び上がった。
ルーナメアが叫んだ。
「か、慣性……ダンパーは!?」
「ただちに起動します!」マナフィが同じ声量で返しながら、パネルを押した。
瞬間、重力の壁が突然消えて、一斉に勢い余って前に転げ落ちた。
航界船スターライトは無事に空へと飛び上がった。その後方には、長年鎮座し続けた町の成れの果てでもある、巨大な浮島が漂っていた。
今まであんなものの上で暮らしていたのか。と、感傷に浸るよりも、幸先の悪いスタートを切ってしまったばかりに、早くも頭が痛くなってきた。
「……まさか慣性ダンパーを確認せずに船を飛ばしたのか!?」
「いいえ」マナフィは首を振った。「私はミラージュ・ポケモンです、ミスはありえません。確かに出発の瞬間、慣性ダンパーを起動しました」
「あのー」タリサがおそるおそる手を挙げた。「それが起動してないと大変だと思ったから、あたしも出発の時にスイッチ押しちゃった……かも」
てへ、と可愛げに振る舞うタリサに、ルーナメアは何も言えなかった。非常時のためとはいえ、皆に操作権限を与えたのは自分だ。
ミスを防ぐ手順を考えるのも艦長の務め。ルーナメアは「余計な気遣いをさせてすまぬ」と返して、どうしたものかと腕を組んだ。