第1章 10話「急襲、勃起の男」

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読了時間目安:18分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 時を同じくして、クチバシティのコンテナヤード付近では異常事態が起きていた。
 真黒とマニューラのコンビに対し、ダオバオと狛井が二人がかりで戦っていたのだが────その形勢が突如、急変したのである。



 事が起きたのはつい5分前。

「マニューラッ、こごえるかぜだ!」
 真黒の指示を受け、マニューラが“こごえるかぜ”を連続して放ち続けていた。
 初夏であるにも関わらず、周囲のコンテナは次第に霜で覆われ、空中には雪が乱舞している。

 技の影響を受けた狛井とダオバオは、見る見るうちに、動きが遅くなってしまう。
 こごえるかぜ──もとい、寒さによる「筋肉の硬直」が起きたのだ。筋肉の硬直は、全身の血流の滞りを引き起こし、更なる筋肉の強張りへと繋がる。
 気づいた時には、ダオバオと狛井の身体は、マニューラのスピードを目で追うことすら出来ないほど、固まってしまった。

「マニューラ、いくぞ!」
 ここがチャンスだと言わんばかりに、真黒は声を張り上げる。
 マニューラは白く鋭い爪を擦り合わせ、力強く研ぎながら、集中状態に入った。
 これは"つめとぎ”────。
 攻撃力と命中率を上げる、能力変化技だ。

 このままではまずい。強力な大技がくる。
 ダオバオは寒気を感じ、全身を震わせた。
 これは決して、周辺を漂う冷気のせいではない。マニューラと真黒が放つ、恐ろしいほどまでの殺気のせいだ。
 
「放て、渾身のつじぎり!」
 真黒が右手を上げ、レース旗のように振り下ろす。
 それを見たマニューラは、地面を思いきり蹴り、走り出した────。



 ────その時だった。
 ズドン、という着地の衝撃と共に、一人の男が砂埃を立てながら、姿を現したのだ。

 男は、真黒とマニューラを一瞥した後、狛井とダオバオの方に視線を向け、咆哮のような怒鳴り声を上げた。
「ウォイウォイ! お前ら腐っても、ポケモン能力を持った幹部だろうがァ! 何だってんだこの体たらくはよぉ。俺の勃起も萎えちまうぜぇ〜」

「サ、鮫島さン。何でここに来テ……」
 突然現れた男を前にして、ダオバオは明らかに動揺していた。饅頭のようにふっくらし、赤みを帯びていたその顔は、今ではすっかり蒼ざめている。

 男の名は、鮫島深次郎。 
 新人類革命戦線、最高幹部の一人。
 ダオバオや狛井麦よりも、格上の存在である。
 鮫島は、詩語呂一二三のような巨体ではなかったが、筋肉でがっしりとした身体つきだった。喩えるなら、カイリキーやゴーリキーに近い体格だ。
 よれよれのワイシャツに、緩んだネクタイをしており、口周りには無精ひげを生やしている。

「イライラすんぜ。お前ら無能ちゃんの糞みたいな尻拭いを、俺がする羽目になってんじゃねぇか!」
「うぐぁァ!」
 現れるやいなや、鮫島はダオバオに手をかけた。溢れんばかりの怪力で、彼の首を絞める。首周辺は鬱血し、見る見るうちに青紫に変色した。
 その隣にいた狛井麦は、すっかり腰を抜かし、口をパクパクと動かすばかりだった。

「任務もロクにこなせねぇ〜無能ちゃんはさぁ。絶望顔を晒して、無惨に死んでくれっちゅう話よ」
「サ、鮫島サン、離してくレ……息、出来なイ……」
「おっほぉ! ダオバオお前、めちゃ良い絶望顔するじゃん。中勃起を超えちゃったよ、【大勃起】じゃんコレェ!」
 ダオバオの苦しむ顔を見て、鮫島は痺れるような陶酔を味わっていた。ジーンズの股間付近が、むくりむくりと山のように盛り上がっている。
 
「鮫島深次郎! 俺を覚えているか!」
 突然、真黒が声を張り上げた。喉が千切れんばかりの絶叫。それは怒りにも悲痛にも似た、心の叫びであった。
 普段の間伸びした口調、気怠そうな雰囲気はどこへやら。真黒は額に汗をかき、ふーっ、ふーっ、と熱い息を吐いている。

「え〜と、誰でぇすくぁ〜?」
 人差し指でトントンと自分のデコを突きながら、鮫島は考え込むような表情を浮かべた。わざとらしく口を尖らせ、眉を八の字に寄せている。
 そのふざけた態度が、真黒の怒りを更に燃え上がらせる。爪が食い込み、手のひらに赤い跡ができるほど、拳を握りしめた。

「……井上 黒一。井上 真矢。この名前を忘れたとは言わせねぇ!」
 顔を紅潮させた真黒が、興奮気味に言った。
 だが、鮫島はやはり興味なさそうな顔つきで、耳の穴を掻いている。

「だから知らねっての。俺が昔よく行ってたスナック嬢の名前か? あのネーチャンは可愛くて殺し甲斐があったぞ〜。大大勃起ってところだなありゃ」
 
 ────ガンッ!!!!
 横にあったコンテナに、拳を思い切り打ちつけ、真黒は険しい表情を浮かべる。
 絶対に許せない。
 この男だけは、この世にいてはならない!


「黒一と真矢は、俺の両親だ。二人とも、お前に殺されたんだ!!」
 真黒が叫ぶと、鮫島は得心がいったように頷き、成る程と手を打った。
 
「あぁ〜お前の両親、俺に殺されちゃったのかぁ。それで俺に復讐しに来たの? なにそれ勃起じゃぁん!」
 鮫島は声をたてて笑う。
 その拍子に、ダオバオの首から手を離した。
 ようやく首絞めから解放されたダオバオは、ゲホ、ゲホ、と咳き込みながら倒れる。
 すぐさま狛井が駆け寄り、「大丈夫ッスか」と何度も声をかけていた。

「俺はさぁ! お前みたいな奴が必死こいて復讐を遂げようとして────でも結局、俺に勝つことが出来なくて────最後には絶望顔を晒しちゃうって展開が、超絶大好きなのぉ! 想像するだけで神勃起が止まんねぇ!」
 イカれてる──。
 こいつは本当に、人間なのか?

「鮫島勃起号、クチバの港から出港しちゃうぜぇ。シュポー。シュポー。シュッポポポー!! ギャハハハハッ!」
 鮫島は目をキラキラと輝かせながら、満面の笑みを浮かべていた。
 真黒の言葉が、怒りが、まるで伝わっていない。おおよそ生物とは思えない極限の醜悪が、目の前にいる。

 真黒は目を閉じて、自分の中にある殺意を静かに燃やした。過去の記憶が、フラッシュバックのごとく展開する。
 胸を貫かれ、倒れる両親。
 真っ赤な血がトクトクと床に流れ出す。
 血まみれになりながら、鮫島はあの時も高笑いしていた。

 今になっても鮮明に思い出す。
 ぬるぬるとした血の感触。
 掌が真っ赤に染まっていく絶望の場景。
 必死になって、両親の流血を止めようと傷口を抑えたが、駄目だった。目の前で、両親の命の灯火が消える瞬間を見てしまった。




 ────あぁ、憎い。

 いや、憎いなんて簡単な言葉で、この感情を表したくない。



 殺す……。そうだ。殺してやりたい。
 奴がぐちゃぐちゃの肉塊に成り果てるまで、殴りたい。潰したい。抉りたい。引きちぎりたい!
 殺す。殺す殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 ぶち殺してやるッ────!




「マニューラ、戦闘態勢をとれ!」
 真黒は、威圧感のある濁った声を漏らした。
 マニューラはそれを聞き、額から大量の冷や汗を流す。今の真黒が放つ殺気は、1番の相棒であるマニューラですら知らない、異質の気迫だった。

「まぁまぁ落ち着けって。イライラにはカルシウムが効くらしいぞ」
 真黒を静止するように、鮫島が両手を前に突き出した。
 だが、今更そんなことで、真黒が止まるわけがない。

「マニューラ、つじぎり!」
「マニュッ!!」
 真黒が叫び、マニューラが走り出した。
 爪は既に研いである。攻撃力、命中率は十二分。
 これから繰り出すのは、本気の辻斬りだ。
 相手はかわすことすら出来ず、地に倒れる。


 ──はずだった。


「遅えよ」
「何!?」
 真黒は目を大きく見開き、驚愕した。
 マニューラが攻撃を仕掛けようとしたその時。
 既に鮫島は、マニューラの背後に立っていたのである。
 凄まじい速度。信じられない。信じたくない。
 まさかマニューラが、スピード勝負で負けるというのか?

「だから落ち着けって言ったろ? 俺の今日の用事は、オメーら保安局をぶちのめすことじゃねぇのよ」
 鮫島はマニューラの後頭部を掴むと、思い切り地面に叩きつけた。マニューラは短い悲鳴を上げ、そのまま動かなくなってしまう。

「マニューラッ!」
 真黒が悲痛の声をあげる。
 その直後、鮫島はまたも信じられない素早さで、真黒の目の前に立ち、大振りの左フックを彼の腹に打った。
 
「ガフッ!?」
 息が出来ない。腹が熱い。
 骨は……確実に何本か折れた──。

 真黒は白目を剥いて、その場でうずくまる。
 今にも意識が飛んでしまいそうな、強烈な一撃だ。
 気絶こそしなかったものの、途方もないほどの激痛で、真黒はその場から動くことすら出来なかった。

「ま、部外者は一旦寝ててくれっちゅう話よ」
 鮫島は、倒れるマニューラと真黒を見ながら、ニヤリと笑った。
 それからすぐさま、狛井とダオバオに鋭い視線を向けた。

「さてと。チー・ダオバオ、狛井麦。次はお前らの番だぁ!」
 鮫島は笑いながら、首をコキコキと鳴らしている。
 狛井は眉を吊り上げ、緊張した顔つきで鮫島を睨みつけた。

「……本当にオイラたちを殺す気っスか。まさか、星山さんからの命令なんスか!?」
「そうだよぉ。タンカー爆発事故なんか起こして目立ちまくった挙句、犬塚京平を取り逃してんだもん。こんな失態あり得ねぇっちゅう話よぉ」
 あっけらかんとした口調が、逆に不気味だった。
 狛井は額に汗をかきながら、ごくりと生唾を飲んだ。

「待ってくレ。鮫島さン」
「どしたの」
「まだ取り逃したと決まったわけじゃなイ。今かラ、今から犬塚を追いかけるかラ……」
 ダオバオは肩で大きく息をしていた。今にも死んでしまいそうなほど、みすぼらしい表情だ。
 そんなダオバオを一目見て、鮫島は嘲笑し、鼻を鳴らした。

「いやもう無理よ。『犬塚京平は既に出航してしまいました』って連絡が、俺のところに来てンだもん」
「連絡? 誰がそんな連絡をしたんスか!?」
 狛井が、声を振り絞って訊ねる。
 鮫島はわざとらしく肩をすくめた。

「この港にもう一人、俺たちの仲間が来てることをご存知? そいつが色々と報告してくれたのよ。ちなみに俺がクチバに来たのも、そいつが呼んでくれたからなんだけどさ」
「そ、そんな話聞いてないッスよ!」
「んふふ……ま、雑談はここまでにしとこうや」

 一拍置いて、鮫島は興奮気味にまくし立てる。
「なぁなぁ、お前らどうやって死にたい? 扼殺、刺殺、殴殺、斬殺、射殺、焼殺、瞬殺──バリエーションは豊富! その代わりにぃぃぃ〜、とびっきりの絶望顔を見せてくれよぉ〜! 俺を勃起させちくれぇぇ〜!」

 鮫島の肌色が突然、濃青色に変わった。
 よく見れば、全身の表面がヤスリのようにザラザラとしており、腕にはヒレのような物体が生えていた。手は、鋭い一本の爪に変化し、頭の側頭部は、コブのように膨らんでいる。

 鮫島深次郎に混ざったポケモン遺伝子は、ガブリアス。
 この世界において、トップクラスに凶暴だといわれる、ドラゴンタイプのポケモンだ。攻撃力は非常に高く、その他の能力も高いアベレージを誇っている。

 ただでさえ、鮫島深次郎の精神は破綻している。人殺しに快感を覚えるような狂人だ。そこにガブリアスの高い能力が加わってしまえば────並みの生物では、止めることすら叶わないだろう。
 ああ、恐ろしすぎる。このままでは、全員がこの化け物に虐殺されてしまう。

「糞ガ……やってやるヨ!」
 ダオバオはギリギリと歯をきしませた。

 この男に勝てるか分からない。
 だが、戦わなきゃ死ぬ。
 こんなところで死んでたまるものか。
 スラム街で苦しんだ日々を思い出せ。
 腹が減れば生ごみを食い漁った。
 喉が乾けば泥水を啜った。
 狛井麦も、自分も、孤独なスラム街で飢えに耐え続けてきた。
 あんな日々から抜け出すために、ポケモン遺伝子の実験に参加したんじゃないのか。
 もう、負け組にはなりたくない。
 飢えに苦しみたくない。


 ダオバオは覚悟を決め、血を吐くような絶叫をあげた。
「死ぬのはお前ダ、鮫島ァーッ!」

 しかし────
 鮫島はそれを一切気にかける様子はなく、ただただ不敵な笑みを浮かべていた。
「うーむ、お前はそうだなぁ。撲殺が似合うかなぁ!」

 刹那、鮫島は思いきり腰を回転させた。
 右の拳ならぬ、右の爪を、ダオバオの頭めがけて振り抜く。
 これはドラゴンクロー。龍のエネルギーを込めた、強烈な一撃。

 パァン!
 何かが弾ける音がした。と同時に、噴霧器で吹き飛ばしたような血しぶきが、宙を舞った。
 ダオバオの頭がぱっくりと割れたのである。
 ダオバオは一瞬で、ぼろくずのように倒れてしまった。

「チー兄ィ!」
 狛井が絶叫した。彼の目元から、涙がはらはらと崩れ落ちる。

「チー兄ッ……チー兄、生きてるッスか!?」
「む、麦ちゃン、早く逃げ、ろ……」
 微かに息を漏らしながら、ダオバオがささやいた。
 
「あぁ〜……お前らそういえば、同じとこの出身だったっけ? チー兄って呼び方いいじゃん。絆を感じるよねぇ!」
「鮫島テメェ!」
 狛井が突然、鮫島の腕に噛みついた。
 思わぬ反撃を食らった鮫島は口元を歪め、眉間に皺を寄せる。

「痛ぇな! カハハ……だが、今のは良い攻撃だぜ。気合いが入ってる。まだまだ足りねぇけどな!」
「うぐぁ……!」
 鮫島は腕をぶん回し、狛井を無理やり引き剥がした。それから、仰向けに倒れる狛井の腹に、一本そそり立った爪を振り落とす。
 直後、赤い糸のような細い血のすじが、上空に向かって噴き出した。鮫島の──ガブリアスの爪は、狛井に突き刺さり、奥深くめり込んだ。

 鮫島は爪を引き抜くと、べったりと付着した狛井の血液を丁寧に舐めている。
「ケケケッ、人を殺す瞬間はやっぱたまんねぇなぁ。クソデカ勃起だぜェ!」

「麦ちゃン!」
 ダオバオは最後の力を振り絞り、立ち上がった。よろよろとした足取りで、頭から血を流しながら、気絶した狛井を抱き抱える。
 そして、眼光鋭く鮫島を睨みつけると、狛井と一緒に海へ転落してしまった。

「あっ」
 愉悦に浸っていた鮫島が、小さく声を漏らす。人を刺した余韻を味わうあまり、すっかり油断していたようだ。
 出血量と傷の深さからして、二人とも多分、数分後には死ぬはず。
 死ぬはずなのだが……。

「うーん。このまま海の藻屑になってくれれば楽なんだがなぁ。ま、いいや……とりあえず放っとくべ」
「ま、待て……鮫島ァ」
 ボロ雑巾のように薄汚れた真黒が、ゆっくりと這いつくばりながら、鮫島の足元にすがりつく。

 鮫島は肩を揺らし、くつくつと笑いながら、真黒を思い切り蹴飛ばした。
「オメェは今日は殺さねぇ。だが近いうちに、保安局の野郎どもには全員死んでもらう予定だ。その日を、楽しみにしてるんだな」

「チクショウ、何でだよ……。クソがぁぁ!!」
 離れていく鮫島の背中。
 それをじっと睨みつけながら、真黒は、獣のような雄叫びを上げた。
 やがて、鮫島がいなくなった後も、真黒は変わらず、怒声を放ち続けた。


「マニュ!」
 すると突然、マニューラが真黒の左手をぎゅっと握りしめた。ズタボロになった全身を、彼の鼻に押し付けてくる。
 真黒は驚き、身体を石のように硬直させた。

 直後、彼はマニューラの真意を感じ取った。
「まさかお前……俺に匂いを嗅がせようとしてるのか?」

「マニュウ」
 マニューラは優しい声で鳴く。
 真黒は、胸の奥底で熱い何かが湧き立つのを感じた。

「そうか……そうか……ごめん。ごめんな。ごめんなぁ……マニューラぁ」
 泣きたくなかったが、涙がボロボロ溢れて止まらない。まぶたを焼くような、熱い涙だった。
 真黒の顔は今や、失敗した折り紙みたいに、クシャクシャに潰れている。

 ────ああ、そうだ。
 そういえば『あの時』も。
 両親が死んだあの夜も、こうやってニューラに慰められたんだ。
 時々、マニューラの匂いを嗅ぎたくて仕方がなくなったのは、あの事件以来だ。
 大切な記憶のはずなのに。
 何で忘れていたんだろう、俺は────。

「すまねぇ、マニューラ。もっと俺が冷静になるべきだった。次は……次は絶対に、奴を捕まえるから……!」






◆◆◆◆◆◆





「っ……う、う……」
 クチバシティ西の埠頭では、膝を抱えた人吉仁美が、声を出して泣きじゃくっていた。

 京平に別れを告げられたこともショックだったが、何よりも哀しかったのは、彼の「全てに絶望した顔」を見たことだ。
 この3日間、京平に何があったのだろう。どうして彼は、あんな悲観に満ちた顔になってしまったのだろう。
 京平は「死ななきゃいけない」と言っていた。あれは嘘の言葉ではない。彼は本当に、死のうとしている。
 涙なんて流している暇はなかった。
 一刻も早く、京平を追いかけ、止めなきゃいけない────。
 しかし、そのことを意識すればするほど、涙は止まらなくなってしまう。

「ああ、ここにいたのか」
 しばらく泣いていると、じゃり、と靴が地面を擦る音が聞こえた。
 振り返ると、内藤真黒が足を引きずりながら、こちらへ歩いてくる。スーツはすっかりズタボロ。顔は血と泥で汚れており、まさに満身創痍という状態だった。

「犬塚京平は……逃しちまったよな」
「……ごめんなさい」
「立て、人吉仁美」
 真黒の掌が、仁美の肩にそっと触れた。
 温かい──それにとても力強い──。
 
「真黒さん」
「立ち止まってる時間はない。俺もお前も……もっと強くならねぇと駄目なんだ」
 真黒は掠れた声で言うと、西日が沈む水平線を見つめた。
 海はオレンジの光に染められ、宝石のように輝いている。
 その光景はとても美しく、しかしどこか悲しい──。

 遠くからサイレンの音が聞こえた。
 それはまるで、誰かの泣き声のように、仁美の鼓膜に響いた。

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