第3話 我の力を求めるか
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:24分
ルーナメア(ラティアス♀):今はなぜか子供になっている
ラティアス:ルーナメアの世話役だが血縁なし
タリサ(女性):町の雑貨屋さん
サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒
キズミ(男性):美青年にして町の警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒だが昏睡が続く
マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ
ラティアス:ルーナメアの世話役だが血縁なし
タリサ(女性):町の雑貨屋さん
サン(少女):好奇心溢れる活発な女の子
ルトー(ルチャブル♂):サンの相棒
キズミ(男性):美青年にして町の警官
ウルスラ(ラルトス♀):キズミの相棒だが昏睡が続く
マナ(マナフィ♂?):スターライトに搭載された人工知能ホログラムのひとつ
ケトルに水を入れて、お湯が沸くのを待っている間に、タリサは茶菓子用にと取っておいたクッキー缶を開けた。五、六枚ほど皿に出すと、お次は本棚に向かう。狭い本棚に敷き詰められた古書の数々。どれもタリサの目を引くタイトルではないが、その中で一番マシなものを選ぶと、ちょうどケトルから湯気が沸き立っていた。
アールグレイの茶葉を金の匙でひとすくい。ティーポットにお湯を注いで蓋を閉じ、蒸らして待つこと三分間。懐中時計で正確に図ると、お待ちかねの紅茶をカップに注いだ。
リンゴのようにフルーティな香りが、雑貨店のテント小屋に充満する。この悪夢みたいな世界の中で、紅茶は残された唯一のお楽しみだ。
香りをたっぷりと堪能していると、無粋な声が割り込んできた。
「歯車は動き出したぞ」低く、腹に響くような声。
「……うるさいな、今はこっちに集中したいんだけど」
「そうやって呑気に興じている間にも、運命の刻が迫っている。それは我の望むところではない」
「そしてこう続けるんだろう? 我が剣を、かの少女に委ねよ。さすれば悪夢を退ける力を授けよう」
声がおとなしく黙り込んだので、タリサは待ちに待った紅茶をゆっくりと味わった。舌から喉へ、ほどよい熱さの風味が流れていくのを感じる。そして腹の奥から、じわりと暖かいものが全身に広がっていくのだ。
至福のひとときだった。長くは続かなかったが。
「貴様の望みはなんだ? 迷い星のタリサよ。我には透けて見えるぞ、貴様の思念から流れ出る、耐えがたい苦悩の波導が」
「おや、幼い少女のかわりに、あたしを口説く気かい? 嬉しいけど悪いね、お前さんはタイプじゃないんだよね」
「そうやって軽薄に振る舞うのは、もう後がないことの裏返しだろう。この二ヶ月、貴様を観察し続けてきた。なればこそ、貴様が過ちを犯していると分かる」
「どんな過ちを?」
「数多の少年少女が通ってきた道、己の過信だ」
タリサはカップに映る自分の顔を見下ろした。熱い水面に、冷たい顔が映っている。
天に浮かぶ星々は膨大な熱量を有しているが、その輝きは無限ではない。時とともに少しずつ光は失われ、やがて悠久の果てに、冷たい岩の塊となる。まさに今の自分そっくりだ。
奴の言うことは一点においてのみ正しい。あたしには熱が必要だ。星々を明るく照らす、新たな太陽が。
「……せいぜい知恵を絞ってあたしを揺さぶるがいい、雷電。ただしいくら言葉を並べ立てても、お前さんにあたしを変えることはできないのさ」
「なぜ言い切れる?」
「あたしは同じ過ちを、決して繰り返さない」
この最悪なお茶会を終わらせるため、タリサは残った紅茶を一気に飲み干した。さあ、見回りの時間だ。懐中時計を懐にしまい込んで、店の外へ通じるカーテンを開けた。
一陣の風が舞い込んできた。店の奥へ通じる幕をなびかせ、風の辿りついた小さな間には、稲妻を帯びた剣が床に刺さっていた。
剣は思案し、模索し続ける。この忌々しい封印を解いて、早々に在るべき場所へ戻らねば。
そのために剣は囁き続ける。この声を唯一聞くことができる少女の下へ。熟れた果実よりも甘い、神にも通ずる力を、心から求めるように。
――汝、我の力を求めるか――
*
木漏れ日が射す森の中で、ふと、サンは振り向いた。何かに呼ばれた気がして。
このところ気味の悪い感じが何度も続いている。誰もいないのに、誰かの声が聞こえるのだ。
こんなこと両親には相談できない。大嫌いな病院に連れていかれるだろう。なんでもないと自分に言い聞かせ、今日もルトーを連れて『秘密基地』に向かった。
いつものように割れた窓から船内に侵入すると、昨日と違って中には明かりが点いていた。それどころか、たくさんのポリゴンがあちらこちらから通路を往来しているではないか。危うくぶつかりそうになると、ポリゴンは止まってくれたが、後ろに続くポリゴンたちも止まって、瞬く間に渋滞を起こした。
「ご、ごめん」
サンが避けると、ポリゴンは挨拶もなく、再び円滑な交通を始めた。
なにやら金属の板や箱を運んでいる者もいれば、通路の途中、小さな光線を床や壁に当てている者もいた。何をしているのかはサッパリだ。
最奥の扉を開けようとレバーに手を伸ばすと、触れるまでもなく、ドアがひとりでに開いたので、サンとルトーは揃ってビクリとした。
「うわっ……魔法みてえ」
「なんだ、今日も来たのか?」やれやれ困った奴だな、という顔をして、マナフィが出迎えた。
「見てのとおり修理中だ。損傷程度はレベルE、まあギリギリ廃船を免れる程だが、この調子でいけば一ヶ月もあれば飛べるようになるだろ」
「……これ飛ぶの?」
「どうやってここまで来たと思ってんだ。早く入れよ、邪魔になる」
サンの後ろでは、またポリゴンたちがきれいに並んで列を作っていた。
おそるおそるブリッジに入ると、ルトー共々、その光景にひたすら圧倒された。
照明はすっかり直り、埃なんてひとつもなく、電気の通った制御盤には、青い光のラインが走っている。鉄の床、鉄の壁、そして真正面の大きなガラスには、未だ外を見ることはできないが、機体の地図が浮かび上がり、ポリゴンたちが修理中の場所を無数の記号で示していた。
「なにコレ、すっげえ……」
「昨日も言ったろ? これが航界船『U.I.S.スターライト』のブリッジだ。改めまして、当艦へようこそ」
偉ぶるマナフィの横を過ぎて、サンは光る制御盤におそるおそる近づいた。
「なあ、この光ってるの何? さわってもいい?」
「その辺はセンサー・ステーションだ。触ってもいいが、意味ないぞ」
人差し指で制御盤のパネルに触れると、「ビビーッ」と警告音が鳴った。
瞬間、サンはギョッとして飛び退き、ルトーは威嚇のために諸手を広げて唸った。
「DNA認証式だから、乗員に登録されていない奴が触っても反応しねぇよ」
「さっきから何言ってるのかよく分かんねえけど、面白いな! もっと触っちゃえ!」
好奇心とは恐ろしいものだ。マナフィやルトーが止める間もなく、サンは思うがままにブリッジを駆け回った。戦術、通信、操舵、様々な制御盤を片っ端から触って触って。
まあ本人が楽しいのなら、とマナフィは放っておくことにした。所詮自分は対話型ホログラム、修理できる知能がある訳でもなし、子守でもするかと気持ちを切り替えたときのこと。マナフィに奇妙な報せが届いた。
『警告、艦内に異常なテレパシー信号を検知しました』と、艦の応答システムが告げた。
マナフィは艦長席に座り、宙を見上げた。
「誰かの呼びかけか? 信号の発信源を特定せよ」
『特定不能。外部センサー、オフライン』
「まだそこまでポリゴンの手が回ってないもんなぁ。しかしこんなオンボロ船に対して、いったい誰が声を掛けるんだ。乗組員もいないのに……」
いた。テレパシーに影響を受けるであろう存在が、一名のみ。
さっきまで賑やかだった子供の笑い声が聞こえない。飛び上がって見回すと、制御盤の影でサンが意識を失っていた。
「こちら対話型ミラージュ・システム! 医療用ポリゴン・ユニット、至急ブリッジへ!」
*
冷たい雨に打たれて、凍えるように寒い。
激しい太鼓のように鳴り響く雷鳴で、体が飛ばされそうだ。
あたしはそこにいた。
いや違う、あたしはここにいる。なのに、目の前であたしが泣いている。なにかを強く抱きしめて。音は聞こえないけど、大きな声で叫んでる。
足下に溜まった雨水に滲む赤。そうだ、あたしはここで大事な何かを失った。でも何を? それが思い出せない。思い出そうとすると、頭が割れるように痛い。胸が焼けるように熱くなる。息が苦しくてたまらない。
「嫌だ、あたし見たくない……こんなもの、見たくない!!」
顔を背けられない。足が動かない。目も閉じることさえ許されない。
稲光が走る度、薄暗い豪雨の下で泣き崩れた少女の姿を鮮明に照らす。
サンは見てしまった。少女が抱いたものの片鱗。少女の腕からはみ出した、力なき小さな手を。
――汝、我の力を求めるか――
「ウアアアアアアアアアアアア!!!!」
雷鳴と悲鳴が重なった瞬間、サンは跳ねるようにして飛び起きた。心臓がバクバク早鐘のように鳴り、手足が嫌な冷や汗でびっしょりと濡れていた。
息が落ち着くまで少し掛かった。ようやく周りを見れば、先ほどまで遊んでいたブリッジとよく似た光景だった。ベッドが壁沿いに並んで、サンはその中のひとつに横たわっていた。
「そうだ、ルトー……ルトーは!?」
慌てて姿を探すと、彼はすぐ傍にいた。椅子に座って、ベッドに顔を乗せたまま、すやすやと寝息を立てている。
心の底から安堵して胸を撫で下ろす。まったく、変な夢を見るから。ルトーの頭に触れて、ほのかな体温を感じると、サンは思わず綻んだ。
「目を覚ましたか」
すぐに白衣を着たマナフィが奥から出てきた。小さな機械をサンにかざして、ベッド脇のモニターに目をやった。
「悪夢を見た直後にしては上々じゃねえか。気分は?」
「最悪……あたしいつから寝てた?」
「寝てたとはずいぶん控えめな言い方だ、ありゃ気絶だよ。誰かにテレパシーで攻撃されたんだ。心当たりは?」
「攻撃? てれぱしー?」
「その様子じゃ無さそうだ」
「あたし……あたし、家に帰らないと」
ベッドから降りようとするサンを、マナフィは慌てて止めた。
「どこ行く気だ? また襲われるかもしれないんだぞ」
「大丈夫だって!」
「出たよ人間の『大丈夫』、これほど信用ならねえ言葉は他にないね。いいから寝てろ、ここなら何があってもすぐに対処できる」
「本当にいいって、大丈夫、問題なし! ルトーがいるから安心!」
マナフィは半目でジトリとサンを見つめた後、こりゃダメだと首を振って諦めた。
「せめて通信バッジを持っていけ。俺たちは船から出られないが、これを押せば離れた場所でも通話できる。何かあったら、相談ぐらいには乗ってやるぞ」
差し出されたバッジを、サンは一瞬ためらった。ひょっとしたら、彼らが悪夢を見せたんじゃないか。そんな疑いが胸をよぎる。
ルトーは首を横に振っていた。やめた方がいい、と。きっととうさんとかあさんも同じように言うだろう。そう思うと、反抗心のおかげで決心がついた。サンはバッジを受け取った。
またな、とサンは別れの挨拶をして船から出ていった。昨日ほどの勢いもないが、悪夢にうなされた後で元気が出ないのは分かる。
だが腑に落ちないこともある。マナフィは彼女の後ろ姿を見送りながら、腕を組んで顔をしかめた。
「あいつ昨日も言ってたが……ルトーって誰だ?」
*
町の警察官と言えば聞こえはいいが、実際の仕事は退屈なもので、信号のない交差点に立って交通整理をすることもある。それも朝から夕方まで。休憩は挟むが、それ以外はずっと誰かが交差点を歩いて横切る間、笛を吹きながら旗を振るばかりだ。
車が多い訳でもなし、人もポケモンも少ないので、やることも殆どない。キズミはうんざりした顔で、とにかく無心で突っ立った。
さて、業務の中には町の変人を相手にすることも含まれている。とても悲しいことに。
「忙しい?」
人通りのない交差点の角、ベンチに座った怪しげな占い師じみた恰好のタリサが声をかけた。
キズミは振り向かずに言った。
「ああ、忙しいね」
「嘘が上手いね。でも顔は退屈そうに見える。もっとやりがいのある仕事を探せばいいのに」
「こんな辺鄙な町に、そんな仕事があるのか?」
「目指せIT長者。うちって最近そういう商品も扱い始めたんだよ。ほらその、真空管とか、ハンドウタイとか……ハイテクな廃品を、お客さんのご要望でいろいろと」
「噂は知ってる、妙なラティアスが妙な物を作ってるとか」
「彼女なら、ひょっとすると病気の相棒を治す機械を作れるかも」
キズミはフッと笑った。
彼女に悪気はないのだろう。むしろ彼女ほど堂々と傷口に触れてくれた方がやりやすい。どうも最近は周りから腫れ物扱いされているようで、気が滅入りかけていた。
彼の手が、振り向くと同時にタリサの胸倉を掴んでいた。
「ええか、一度しか言わんからよう聞けや。二度とウルスラのことを口にすんな。そうせんと……」
「殴る前に聞いて、どうか少しだけ。彼女を救いたいのは私も同じなんだ」
「……なんで町の雑貨屋ごときがウルスラを知っとんのや」
「それは、彼女が病気になった原因が私にもあるからだよ。だから私には彼女を、ウルスラちゃんを治す義務があると思ってる」
嘘を見抜く目には多少なりとも自信がある。表情筋の微細な動き、目線の先、瞳孔、汗、これだけ近づけば見落としようもない。
タリサの顔に嘘の気配はない。声色にも。だが信じられるだろうか、ある日偶然ウルスラの病を知る者が現れると。
あまりにも都合が良すぎる。が、それは全容を掴んでから判断すればいい。少なくとも眼前の雑貨屋は、この二ヶ月で初めて掴んだ手掛かりなのだ。
キズミは胸倉を掴んだまま続けた。
「詳しく話せ」
「ここで? それよりも良い場所がある。そうだね、君の家がいい」
「そりゃ口説いとんのか?」
「冗談抜き。応急処置もしたいから。ね、そろそろ離してくれてもいいんじゃない?」
言われてようやくキズミは彼女を離したが、かわりに手は拳銃へと伸びた。用心に越したことはない。
「俺の家は知ってるだろ? 先に行け、妙な真似をしたら」
「後ろからズドン。分かってますって」
「……ならさっさと行け」
こんなところを隣人に見られたら、またどやしつけられるところだ。幸い交差点からアパートまで数人とすれ違っただけで、大した注目も浴びなかった。(強いて言えば、雑貨屋の出で立ち自体が目を引きやすいが、皆して見慣れたものだった)
キズミが鍵を外してドアを開けると、タリサへ「先に行け」と促した。
薄暗い廊下を平然と歩きながら、タリサは語りだす。
「ほんと、驚かせて悪かったね。今まで何度か試したけど、君へのアプローチはこれが一番効果的だったんだ。自らの運命を誰かの手に委ねるのが苦手でしょ? どう接触しても、最初の二ヶ月はウルスラちゃんに近づけてすらもらえなかった」
「……何を言ってるんだ?」
「話の続きは、彼女に処置を施してからにしよう」
閉じられたカーテンを開けて、タリサは部屋に光を招いた。そしてソファの前に跪き、横たわる眠り姫の髪をそっと掻き上げた。
キズミは銃を抜き、撃鉄を起こした。いつでも撃てるように。
銃口を向けられてもタリサは怯むことなく、ウルスラのこめかみを挟むように両手を置いた。目を閉じ、なにかを呟く。その声は次第に大きくなって。
(森の中へ……木の間で……)
「目覚めの刻を待つ……逆子が生まれる……」
(繰り返す輪……何度も、何度も……)
目の前でなにかが起きている。それが良いことなのか、悪いことなのか、キズミには判断ができなかった。
ただ見守ることしかできない。焦って引き金を引きたがる衝動を、抑えることしか。
「渦巻く闇が空を覗いて……」
(玉座を失くした星が落ちる……)
「その先を、君は覚えてる? 星が落ちる、その後は……」
(その後は……炎が空を覆って……)
「また再び、町が蘇る。それはまるでホウオウが」
(ホウオウが聖なる灰を振りまいて、ゼルネアスが生命の息吹を吹きかけたように……)
二度と開くことのなかった瞼が、ピクリと動いた。そしてゆっくりと開いて、滲んだ赤い瞳が、キズミの顔をはっきりと捉えた。
(……キズミ、様?)
「ウルスラ……!」
再会の瞬間に、タリサは背を向けて廊下に出た。今ひとときは彼らだけの時間だ。そこに割って入りたくはない。声も聞こえないようにと、玄関のドアを閉めて外に出た。
壁に背を預けて、天を仰ぐ。
大きな雲がひとつ流れてきた。ただそれだけ、なんの味気もない。
雷電に言われた言葉が頭を過ぎる。迷い星。あたしもあの雲のように、ただひたすら今という瞬間を流され続けているのだろうか。
今まで何度も空から落ちてきた流れ星を、星の海へと還してきた。夢を見失った人間、ポケモン、しかし彼らは不安なだけだ。本来持つべき輝きは、どんな苦境でも決して失われることがない。限りある命、短い人生を、彼らは懸命に生きていた。
では、あたしは?
この先どこへ流れ着くのだろう。その問いを自らに投げても、答える術を未だに持たない。
あたしがやっていることは、ひょっとしたら意味がないことかもしれない。それでも……。
「雑貨屋」
ドアを開けて、キズミが出てきた。暗く、冷たい面持ちで。
「分かってる。また眠ったんでしょ?」
「なぜだ、どうして分かる? ウルスラに何が起きている、お前は知っているのか!」
「それを君にこれから話す。たとえどんなに信じられなくとも、どうか最後まで聞いてほしい」
並々ならぬ気配を感じて後ずさるキズミに、タリサは迫り、その頬に手を添えた。妖しく、不敵に微笑んで。
*
「地球連合艦隊へ、こちらU.I.S.スターライトの艦長、ルーナメア大佐。応答せよ」
雑音まみれのスピーカーから期待した応答はない。
家の庭に立てた大きなアンテナの下で、ルーナメアは錆びたマイクに向かって二度、三度と繰り返したが、結果は変わらなかった。
やはり通信の届くところに艦隊の船はいないのか、それとも部品が壊れているのか。それを確かめるだけで何日もかかる。なにせ中古部品の寄せ集めだ、こうして動くところまで組み立てられただけでも奇跡と言える。
「……もう諦めたら?」
その様子を、ラティアスは縁側に寝転がって眺めていた。何日も何日も、ルーナメアが苦心する様を傍で見続けてきた。今まで口出しすることはなかったのに、そう言われると思わず甘えたくなってしまう。
ルーナメアはがっくりと翼を下ろしてため息を吐いた。
「本当に艦隊はわしを見捨てたのじゃろうか……そんな筈はないのじゃ、特にミオの奴はな。あれは執念深い女じゃった。地位も家庭も、何もかもを犠牲にして、仲間を救いに行く奴じゃ。はよう帰らねば、また奴が無茶をしてしまう」
「そのミオって子がそんなに大事? あなたにとって、元の世界はここよりずっと価値があるの?」
「……姐さんの前で当然と言っても、どうせすぐにバレるじゃろうな」ルーナメアは自嘲気味に笑って。「正直に言おう、姐さんや。ここでの生活は好きじゃ。小さい頃はこうやって姐さんと穏やかに暮らすのが夢じゃった。もちろん、ガミガミうるさい母様や父様は抜きでな」
「この後は、でも、って続くんでしょ?」
「でもわしは艦隊が好きじゃ。かつて姐さんが後押ししてくれた夢を叶えて、今やこの翼で世界を超えることだってできる。だからわしは……」
ルーナメアは、その先を口にしなかった。
きっと共感力(エンパシー)で考えは筒抜けだろう。ラティアスに対して抱く敬愛。それゆえに、お願いされたら帰還を諦めても良いとさえ思っていることまで。
答えを待ったが、同時に期待もしていた。そして彼女の返事は、まさにその通りであった。
「……さっきのは取り消し。やっぱりあなたは、ずっと諦めないでいる姿が一番輝いて見えるわ」
「ふしっ、そうじゃろ」
思わず笑って答えた。
*
サンは焦っていた。
日が暮れる前に家へ帰るのは久しぶりのことだった。いつもなら絶対こんな時間に帰ったりしない。家にいても、居心地が悪いだけだ。
なのに今日はどうもおかしい。外の方が落ち着かない。気を抜けば、また妙な声が聞こえたり、悪夢を見たりしてしまいそうだ。ズボンのポケットに入れたバッジをお守り代わりに握って、もう片方でルトーの手を引いていた。
自分の荒れた呼吸が、鼓動が、やけに大きく響いてくる。家はもう目の前だ。すれ違う人やポケモンを避けて、サンは家のドアを開けた。
「ただいまー!」
早く両親の顔が見たいと、今日ほど強く願った日はない。いつもなら鬱陶しいと思って、ずっと目を背け続けていたのに。
あの悪夢を見てから、どうしてだろう、とうさんとかあさんの顔を思い出せない。まるで最初からそんなもの存在していなかったみたいに。馬鹿げた話だよ、そんな訳ないのにさ。
廊下を駆け抜けて、母親のいる台所に飛び込んだ。その背中を見つけて、サンは心底安堵した。
「か、かあさんさ……その、ごめんね、いつも心配かけて。これからはちゃんと夕方までに帰る、から……」
コンロの火を消し、振り向いた母親の顔を見て、サンは絶句した。
顔がない。首から上が黒い霧に覆われていた。いや違う、かあさんの顔はいつもこうだった。あたしがずっと見ていなかっただけで……!
「とうさん……とうさん!!」
二階に駆け上がりながら、サンは引きつった笑みを浮かべていた。違う。そんな訳がない、あたしは今までずっと家族三人とルトーとで暮らしてきた。ちゃんと覚えてるんだ、覚えているはずなんだ!
書斎で本を読んでいた父が振り向いた瞬間、それが幻想だったと悟った。サンの表情から笑顔が消えた。
「どうしたんだ、サン。そんなに慌てて」
そう尋ねる父の顔も、霧に覆われていた。
「なんでもない……あの、さ、疲れたから……もう寝るね」
「分かった……大丈夫か?」
「うん、平気、ありがと」
そう言ってサンはルトーを連れ、自分の部屋に戻っていった。
ドアを閉じて、サンはルトーから手を離した。心配そうに鳴く彼の傍で、サンはドアに背を預けたままずるずると崩れ、声を押し殺したまま泣き出した。
両親なんていなかった。あたしはずっと独りぼっちだったんだ。
サンは涙をぽろぽろ流しながら、堪えきれずに笑った。
「じゃあ、これは一体なんなのさ……あたしは誰の家に住んでるわけっ……!?」
ルトーには答えられない。分かっている、だけど彼がいるだけまだマシだ。必要なのは誰かの助け。警察に言っても聞いてもらえないに決まってる。
サンの手は、自然とポケットに伸びていた。おもむろに取り出したバッジのボタンを、カチッと押した。
「……お願い、助けて……助けて……」
絞るように小さな声で、何度も何度も繰り返した。
声はスターライトに届いていた。
対話型ホログラムは文字通りコミュニケーションに特化した人工知能である。相手の動作、声色、表情など、あらゆる情報を分析して、最適な返答を算出する。
聞こえたのは小さな声だが、それはマナフィを衝き動かすのに十分なものだった。
「コンピュータ、ただちに転送装置を起動しろ! 通信シグナルに照準ロック、一名を転送!」
『実行不能、転送に必要なエネルギーが不足しています』
「ポリゴン・ユニット、A-13からD-47まで作動停止! 余剰エネルギーを転送装置に回せ!」
『ターゲット、捕捉しました』
「ブリッジに転送!」
マナフィの目の前に光の渦が現れた。
転送とは、ポケモンの『テレポート』を応用した技術だ。相手の正確な位置さえ掴めれば、魔法のように引き寄せたり、送り出すことだってできる。
たとえどんな悪夢の中で彷徨っていようとも、科学の手は、ひとりの少女の手をしっかりと掴んで……引き寄せた。
アールグレイの茶葉を金の匙でひとすくい。ティーポットにお湯を注いで蓋を閉じ、蒸らして待つこと三分間。懐中時計で正確に図ると、お待ちかねの紅茶をカップに注いだ。
リンゴのようにフルーティな香りが、雑貨店のテント小屋に充満する。この悪夢みたいな世界の中で、紅茶は残された唯一のお楽しみだ。
香りをたっぷりと堪能していると、無粋な声が割り込んできた。
「歯車は動き出したぞ」低く、腹に響くような声。
「……うるさいな、今はこっちに集中したいんだけど」
「そうやって呑気に興じている間にも、運命の刻が迫っている。それは我の望むところではない」
「そしてこう続けるんだろう? 我が剣を、かの少女に委ねよ。さすれば悪夢を退ける力を授けよう」
声がおとなしく黙り込んだので、タリサは待ちに待った紅茶をゆっくりと味わった。舌から喉へ、ほどよい熱さの風味が流れていくのを感じる。そして腹の奥から、じわりと暖かいものが全身に広がっていくのだ。
至福のひとときだった。長くは続かなかったが。
「貴様の望みはなんだ? 迷い星のタリサよ。我には透けて見えるぞ、貴様の思念から流れ出る、耐えがたい苦悩の波導が」
「おや、幼い少女のかわりに、あたしを口説く気かい? 嬉しいけど悪いね、お前さんはタイプじゃないんだよね」
「そうやって軽薄に振る舞うのは、もう後がないことの裏返しだろう。この二ヶ月、貴様を観察し続けてきた。なればこそ、貴様が過ちを犯していると分かる」
「どんな過ちを?」
「数多の少年少女が通ってきた道、己の過信だ」
タリサはカップに映る自分の顔を見下ろした。熱い水面に、冷たい顔が映っている。
天に浮かぶ星々は膨大な熱量を有しているが、その輝きは無限ではない。時とともに少しずつ光は失われ、やがて悠久の果てに、冷たい岩の塊となる。まさに今の自分そっくりだ。
奴の言うことは一点においてのみ正しい。あたしには熱が必要だ。星々を明るく照らす、新たな太陽が。
「……せいぜい知恵を絞ってあたしを揺さぶるがいい、雷電。ただしいくら言葉を並べ立てても、お前さんにあたしを変えることはできないのさ」
「なぜ言い切れる?」
「あたしは同じ過ちを、決して繰り返さない」
この最悪なお茶会を終わらせるため、タリサは残った紅茶を一気に飲み干した。さあ、見回りの時間だ。懐中時計を懐にしまい込んで、店の外へ通じるカーテンを開けた。
一陣の風が舞い込んできた。店の奥へ通じる幕をなびかせ、風の辿りついた小さな間には、稲妻を帯びた剣が床に刺さっていた。
剣は思案し、模索し続ける。この忌々しい封印を解いて、早々に在るべき場所へ戻らねば。
そのために剣は囁き続ける。この声を唯一聞くことができる少女の下へ。熟れた果実よりも甘い、神にも通ずる力を、心から求めるように。
――汝、我の力を求めるか――
*
木漏れ日が射す森の中で、ふと、サンは振り向いた。何かに呼ばれた気がして。
このところ気味の悪い感じが何度も続いている。誰もいないのに、誰かの声が聞こえるのだ。
こんなこと両親には相談できない。大嫌いな病院に連れていかれるだろう。なんでもないと自分に言い聞かせ、今日もルトーを連れて『秘密基地』に向かった。
いつものように割れた窓から船内に侵入すると、昨日と違って中には明かりが点いていた。それどころか、たくさんのポリゴンがあちらこちらから通路を往来しているではないか。危うくぶつかりそうになると、ポリゴンは止まってくれたが、後ろに続くポリゴンたちも止まって、瞬く間に渋滞を起こした。
「ご、ごめん」
サンが避けると、ポリゴンは挨拶もなく、再び円滑な交通を始めた。
なにやら金属の板や箱を運んでいる者もいれば、通路の途中、小さな光線を床や壁に当てている者もいた。何をしているのかはサッパリだ。
最奥の扉を開けようとレバーに手を伸ばすと、触れるまでもなく、ドアがひとりでに開いたので、サンとルトーは揃ってビクリとした。
「うわっ……魔法みてえ」
「なんだ、今日も来たのか?」やれやれ困った奴だな、という顔をして、マナフィが出迎えた。
「見てのとおり修理中だ。損傷程度はレベルE、まあギリギリ廃船を免れる程だが、この調子でいけば一ヶ月もあれば飛べるようになるだろ」
「……これ飛ぶの?」
「どうやってここまで来たと思ってんだ。早く入れよ、邪魔になる」
サンの後ろでは、またポリゴンたちがきれいに並んで列を作っていた。
おそるおそるブリッジに入ると、ルトー共々、その光景にひたすら圧倒された。
照明はすっかり直り、埃なんてひとつもなく、電気の通った制御盤には、青い光のラインが走っている。鉄の床、鉄の壁、そして真正面の大きなガラスには、未だ外を見ることはできないが、機体の地図が浮かび上がり、ポリゴンたちが修理中の場所を無数の記号で示していた。
「なにコレ、すっげえ……」
「昨日も言ったろ? これが航界船『U.I.S.スターライト』のブリッジだ。改めまして、当艦へようこそ」
偉ぶるマナフィの横を過ぎて、サンは光る制御盤におそるおそる近づいた。
「なあ、この光ってるの何? さわってもいい?」
「その辺はセンサー・ステーションだ。触ってもいいが、意味ないぞ」
人差し指で制御盤のパネルに触れると、「ビビーッ」と警告音が鳴った。
瞬間、サンはギョッとして飛び退き、ルトーは威嚇のために諸手を広げて唸った。
「DNA認証式だから、乗員に登録されていない奴が触っても反応しねぇよ」
「さっきから何言ってるのかよく分かんねえけど、面白いな! もっと触っちゃえ!」
好奇心とは恐ろしいものだ。マナフィやルトーが止める間もなく、サンは思うがままにブリッジを駆け回った。戦術、通信、操舵、様々な制御盤を片っ端から触って触って。
まあ本人が楽しいのなら、とマナフィは放っておくことにした。所詮自分は対話型ホログラム、修理できる知能がある訳でもなし、子守でもするかと気持ちを切り替えたときのこと。マナフィに奇妙な報せが届いた。
『警告、艦内に異常なテレパシー信号を検知しました』と、艦の応答システムが告げた。
マナフィは艦長席に座り、宙を見上げた。
「誰かの呼びかけか? 信号の発信源を特定せよ」
『特定不能。外部センサー、オフライン』
「まだそこまでポリゴンの手が回ってないもんなぁ。しかしこんなオンボロ船に対して、いったい誰が声を掛けるんだ。乗組員もいないのに……」
いた。テレパシーに影響を受けるであろう存在が、一名のみ。
さっきまで賑やかだった子供の笑い声が聞こえない。飛び上がって見回すと、制御盤の影でサンが意識を失っていた。
「こちら対話型ミラージュ・システム! 医療用ポリゴン・ユニット、至急ブリッジへ!」
*
冷たい雨に打たれて、凍えるように寒い。
激しい太鼓のように鳴り響く雷鳴で、体が飛ばされそうだ。
あたしはそこにいた。
いや違う、あたしはここにいる。なのに、目の前であたしが泣いている。なにかを強く抱きしめて。音は聞こえないけど、大きな声で叫んでる。
足下に溜まった雨水に滲む赤。そうだ、あたしはここで大事な何かを失った。でも何を? それが思い出せない。思い出そうとすると、頭が割れるように痛い。胸が焼けるように熱くなる。息が苦しくてたまらない。
「嫌だ、あたし見たくない……こんなもの、見たくない!!」
顔を背けられない。足が動かない。目も閉じることさえ許されない。
稲光が走る度、薄暗い豪雨の下で泣き崩れた少女の姿を鮮明に照らす。
サンは見てしまった。少女が抱いたものの片鱗。少女の腕からはみ出した、力なき小さな手を。
――汝、我の力を求めるか――
「ウアアアアアアアアアアアア!!!!」
雷鳴と悲鳴が重なった瞬間、サンは跳ねるようにして飛び起きた。心臓がバクバク早鐘のように鳴り、手足が嫌な冷や汗でびっしょりと濡れていた。
息が落ち着くまで少し掛かった。ようやく周りを見れば、先ほどまで遊んでいたブリッジとよく似た光景だった。ベッドが壁沿いに並んで、サンはその中のひとつに横たわっていた。
「そうだ、ルトー……ルトーは!?」
慌てて姿を探すと、彼はすぐ傍にいた。椅子に座って、ベッドに顔を乗せたまま、すやすやと寝息を立てている。
心の底から安堵して胸を撫で下ろす。まったく、変な夢を見るから。ルトーの頭に触れて、ほのかな体温を感じると、サンは思わず綻んだ。
「目を覚ましたか」
すぐに白衣を着たマナフィが奥から出てきた。小さな機械をサンにかざして、ベッド脇のモニターに目をやった。
「悪夢を見た直後にしては上々じゃねえか。気分は?」
「最悪……あたしいつから寝てた?」
「寝てたとはずいぶん控えめな言い方だ、ありゃ気絶だよ。誰かにテレパシーで攻撃されたんだ。心当たりは?」
「攻撃? てれぱしー?」
「その様子じゃ無さそうだ」
「あたし……あたし、家に帰らないと」
ベッドから降りようとするサンを、マナフィは慌てて止めた。
「どこ行く気だ? また襲われるかもしれないんだぞ」
「大丈夫だって!」
「出たよ人間の『大丈夫』、これほど信用ならねえ言葉は他にないね。いいから寝てろ、ここなら何があってもすぐに対処できる」
「本当にいいって、大丈夫、問題なし! ルトーがいるから安心!」
マナフィは半目でジトリとサンを見つめた後、こりゃダメだと首を振って諦めた。
「せめて通信バッジを持っていけ。俺たちは船から出られないが、これを押せば離れた場所でも通話できる。何かあったら、相談ぐらいには乗ってやるぞ」
差し出されたバッジを、サンは一瞬ためらった。ひょっとしたら、彼らが悪夢を見せたんじゃないか。そんな疑いが胸をよぎる。
ルトーは首を横に振っていた。やめた方がいい、と。きっととうさんとかあさんも同じように言うだろう。そう思うと、反抗心のおかげで決心がついた。サンはバッジを受け取った。
またな、とサンは別れの挨拶をして船から出ていった。昨日ほどの勢いもないが、悪夢にうなされた後で元気が出ないのは分かる。
だが腑に落ちないこともある。マナフィは彼女の後ろ姿を見送りながら、腕を組んで顔をしかめた。
「あいつ昨日も言ってたが……ルトーって誰だ?」
*
町の警察官と言えば聞こえはいいが、実際の仕事は退屈なもので、信号のない交差点に立って交通整理をすることもある。それも朝から夕方まで。休憩は挟むが、それ以外はずっと誰かが交差点を歩いて横切る間、笛を吹きながら旗を振るばかりだ。
車が多い訳でもなし、人もポケモンも少ないので、やることも殆どない。キズミはうんざりした顔で、とにかく無心で突っ立った。
さて、業務の中には町の変人を相手にすることも含まれている。とても悲しいことに。
「忙しい?」
人通りのない交差点の角、ベンチに座った怪しげな占い師じみた恰好のタリサが声をかけた。
キズミは振り向かずに言った。
「ああ、忙しいね」
「嘘が上手いね。でも顔は退屈そうに見える。もっとやりがいのある仕事を探せばいいのに」
「こんな辺鄙な町に、そんな仕事があるのか?」
「目指せIT長者。うちって最近そういう商品も扱い始めたんだよ。ほらその、真空管とか、ハンドウタイとか……ハイテクな廃品を、お客さんのご要望でいろいろと」
「噂は知ってる、妙なラティアスが妙な物を作ってるとか」
「彼女なら、ひょっとすると病気の相棒を治す機械を作れるかも」
キズミはフッと笑った。
彼女に悪気はないのだろう。むしろ彼女ほど堂々と傷口に触れてくれた方がやりやすい。どうも最近は周りから腫れ物扱いされているようで、気が滅入りかけていた。
彼の手が、振り向くと同時にタリサの胸倉を掴んでいた。
「ええか、一度しか言わんからよう聞けや。二度とウルスラのことを口にすんな。そうせんと……」
「殴る前に聞いて、どうか少しだけ。彼女を救いたいのは私も同じなんだ」
「……なんで町の雑貨屋ごときがウルスラを知っとんのや」
「それは、彼女が病気になった原因が私にもあるからだよ。だから私には彼女を、ウルスラちゃんを治す義務があると思ってる」
嘘を見抜く目には多少なりとも自信がある。表情筋の微細な動き、目線の先、瞳孔、汗、これだけ近づけば見落としようもない。
タリサの顔に嘘の気配はない。声色にも。だが信じられるだろうか、ある日偶然ウルスラの病を知る者が現れると。
あまりにも都合が良すぎる。が、それは全容を掴んでから判断すればいい。少なくとも眼前の雑貨屋は、この二ヶ月で初めて掴んだ手掛かりなのだ。
キズミは胸倉を掴んだまま続けた。
「詳しく話せ」
「ここで? それよりも良い場所がある。そうだね、君の家がいい」
「そりゃ口説いとんのか?」
「冗談抜き。応急処置もしたいから。ね、そろそろ離してくれてもいいんじゃない?」
言われてようやくキズミは彼女を離したが、かわりに手は拳銃へと伸びた。用心に越したことはない。
「俺の家は知ってるだろ? 先に行け、妙な真似をしたら」
「後ろからズドン。分かってますって」
「……ならさっさと行け」
こんなところを隣人に見られたら、またどやしつけられるところだ。幸い交差点からアパートまで数人とすれ違っただけで、大した注目も浴びなかった。(強いて言えば、雑貨屋の出で立ち自体が目を引きやすいが、皆して見慣れたものだった)
キズミが鍵を外してドアを開けると、タリサへ「先に行け」と促した。
薄暗い廊下を平然と歩きながら、タリサは語りだす。
「ほんと、驚かせて悪かったね。今まで何度か試したけど、君へのアプローチはこれが一番効果的だったんだ。自らの運命を誰かの手に委ねるのが苦手でしょ? どう接触しても、最初の二ヶ月はウルスラちゃんに近づけてすらもらえなかった」
「……何を言ってるんだ?」
「話の続きは、彼女に処置を施してからにしよう」
閉じられたカーテンを開けて、タリサは部屋に光を招いた。そしてソファの前に跪き、横たわる眠り姫の髪をそっと掻き上げた。
キズミは銃を抜き、撃鉄を起こした。いつでも撃てるように。
銃口を向けられてもタリサは怯むことなく、ウルスラのこめかみを挟むように両手を置いた。目を閉じ、なにかを呟く。その声は次第に大きくなって。
(森の中へ……木の間で……)
「目覚めの刻を待つ……逆子が生まれる……」
(繰り返す輪……何度も、何度も……)
目の前でなにかが起きている。それが良いことなのか、悪いことなのか、キズミには判断ができなかった。
ただ見守ることしかできない。焦って引き金を引きたがる衝動を、抑えることしか。
「渦巻く闇が空を覗いて……」
(玉座を失くした星が落ちる……)
「その先を、君は覚えてる? 星が落ちる、その後は……」
(その後は……炎が空を覆って……)
「また再び、町が蘇る。それはまるでホウオウが」
(ホウオウが聖なる灰を振りまいて、ゼルネアスが生命の息吹を吹きかけたように……)
二度と開くことのなかった瞼が、ピクリと動いた。そしてゆっくりと開いて、滲んだ赤い瞳が、キズミの顔をはっきりと捉えた。
(……キズミ、様?)
「ウルスラ……!」
再会の瞬間に、タリサは背を向けて廊下に出た。今ひとときは彼らだけの時間だ。そこに割って入りたくはない。声も聞こえないようにと、玄関のドアを閉めて外に出た。
壁に背を預けて、天を仰ぐ。
大きな雲がひとつ流れてきた。ただそれだけ、なんの味気もない。
雷電に言われた言葉が頭を過ぎる。迷い星。あたしもあの雲のように、ただひたすら今という瞬間を流され続けているのだろうか。
今まで何度も空から落ちてきた流れ星を、星の海へと還してきた。夢を見失った人間、ポケモン、しかし彼らは不安なだけだ。本来持つべき輝きは、どんな苦境でも決して失われることがない。限りある命、短い人生を、彼らは懸命に生きていた。
では、あたしは?
この先どこへ流れ着くのだろう。その問いを自らに投げても、答える術を未だに持たない。
あたしがやっていることは、ひょっとしたら意味がないことかもしれない。それでも……。
「雑貨屋」
ドアを開けて、キズミが出てきた。暗く、冷たい面持ちで。
「分かってる。また眠ったんでしょ?」
「なぜだ、どうして分かる? ウルスラに何が起きている、お前は知っているのか!」
「それを君にこれから話す。たとえどんなに信じられなくとも、どうか最後まで聞いてほしい」
並々ならぬ気配を感じて後ずさるキズミに、タリサは迫り、その頬に手を添えた。妖しく、不敵に微笑んで。
*
「地球連合艦隊へ、こちらU.I.S.スターライトの艦長、ルーナメア大佐。応答せよ」
雑音まみれのスピーカーから期待した応答はない。
家の庭に立てた大きなアンテナの下で、ルーナメアは錆びたマイクに向かって二度、三度と繰り返したが、結果は変わらなかった。
やはり通信の届くところに艦隊の船はいないのか、それとも部品が壊れているのか。それを確かめるだけで何日もかかる。なにせ中古部品の寄せ集めだ、こうして動くところまで組み立てられただけでも奇跡と言える。
「……もう諦めたら?」
その様子を、ラティアスは縁側に寝転がって眺めていた。何日も何日も、ルーナメアが苦心する様を傍で見続けてきた。今まで口出しすることはなかったのに、そう言われると思わず甘えたくなってしまう。
ルーナメアはがっくりと翼を下ろしてため息を吐いた。
「本当に艦隊はわしを見捨てたのじゃろうか……そんな筈はないのじゃ、特にミオの奴はな。あれは執念深い女じゃった。地位も家庭も、何もかもを犠牲にして、仲間を救いに行く奴じゃ。はよう帰らねば、また奴が無茶をしてしまう」
「そのミオって子がそんなに大事? あなたにとって、元の世界はここよりずっと価値があるの?」
「……姐さんの前で当然と言っても、どうせすぐにバレるじゃろうな」ルーナメアは自嘲気味に笑って。「正直に言おう、姐さんや。ここでの生活は好きじゃ。小さい頃はこうやって姐さんと穏やかに暮らすのが夢じゃった。もちろん、ガミガミうるさい母様や父様は抜きでな」
「この後は、でも、って続くんでしょ?」
「でもわしは艦隊が好きじゃ。かつて姐さんが後押ししてくれた夢を叶えて、今やこの翼で世界を超えることだってできる。だからわしは……」
ルーナメアは、その先を口にしなかった。
きっと共感力(エンパシー)で考えは筒抜けだろう。ラティアスに対して抱く敬愛。それゆえに、お願いされたら帰還を諦めても良いとさえ思っていることまで。
答えを待ったが、同時に期待もしていた。そして彼女の返事は、まさにその通りであった。
「……さっきのは取り消し。やっぱりあなたは、ずっと諦めないでいる姿が一番輝いて見えるわ」
「ふしっ、そうじゃろ」
思わず笑って答えた。
*
サンは焦っていた。
日が暮れる前に家へ帰るのは久しぶりのことだった。いつもなら絶対こんな時間に帰ったりしない。家にいても、居心地が悪いだけだ。
なのに今日はどうもおかしい。外の方が落ち着かない。気を抜けば、また妙な声が聞こえたり、悪夢を見たりしてしまいそうだ。ズボンのポケットに入れたバッジをお守り代わりに握って、もう片方でルトーの手を引いていた。
自分の荒れた呼吸が、鼓動が、やけに大きく響いてくる。家はもう目の前だ。すれ違う人やポケモンを避けて、サンは家のドアを開けた。
「ただいまー!」
早く両親の顔が見たいと、今日ほど強く願った日はない。いつもなら鬱陶しいと思って、ずっと目を背け続けていたのに。
あの悪夢を見てから、どうしてだろう、とうさんとかあさんの顔を思い出せない。まるで最初からそんなもの存在していなかったみたいに。馬鹿げた話だよ、そんな訳ないのにさ。
廊下を駆け抜けて、母親のいる台所に飛び込んだ。その背中を見つけて、サンは心底安堵した。
「か、かあさんさ……その、ごめんね、いつも心配かけて。これからはちゃんと夕方までに帰る、から……」
コンロの火を消し、振り向いた母親の顔を見て、サンは絶句した。
顔がない。首から上が黒い霧に覆われていた。いや違う、かあさんの顔はいつもこうだった。あたしがずっと見ていなかっただけで……!
「とうさん……とうさん!!」
二階に駆け上がりながら、サンは引きつった笑みを浮かべていた。違う。そんな訳がない、あたしは今までずっと家族三人とルトーとで暮らしてきた。ちゃんと覚えてるんだ、覚えているはずなんだ!
書斎で本を読んでいた父が振り向いた瞬間、それが幻想だったと悟った。サンの表情から笑顔が消えた。
「どうしたんだ、サン。そんなに慌てて」
そう尋ねる父の顔も、霧に覆われていた。
「なんでもない……あの、さ、疲れたから……もう寝るね」
「分かった……大丈夫か?」
「うん、平気、ありがと」
そう言ってサンはルトーを連れ、自分の部屋に戻っていった。
ドアを閉じて、サンはルトーから手を離した。心配そうに鳴く彼の傍で、サンはドアに背を預けたままずるずると崩れ、声を押し殺したまま泣き出した。
両親なんていなかった。あたしはずっと独りぼっちだったんだ。
サンは涙をぽろぽろ流しながら、堪えきれずに笑った。
「じゃあ、これは一体なんなのさ……あたしは誰の家に住んでるわけっ……!?」
ルトーには答えられない。分かっている、だけど彼がいるだけまだマシだ。必要なのは誰かの助け。警察に言っても聞いてもらえないに決まってる。
サンの手は、自然とポケットに伸びていた。おもむろに取り出したバッジのボタンを、カチッと押した。
「……お願い、助けて……助けて……」
絞るように小さな声で、何度も何度も繰り返した。
声はスターライトに届いていた。
対話型ホログラムは文字通りコミュニケーションに特化した人工知能である。相手の動作、声色、表情など、あらゆる情報を分析して、最適な返答を算出する。
聞こえたのは小さな声だが、それはマナフィを衝き動かすのに十分なものだった。
「コンピュータ、ただちに転送装置を起動しろ! 通信シグナルに照準ロック、一名を転送!」
『実行不能、転送に必要なエネルギーが不足しています』
「ポリゴン・ユニット、A-13からD-47まで作動停止! 余剰エネルギーを転送装置に回せ!」
『ターゲット、捕捉しました』
「ブリッジに転送!」
マナフィの目の前に光の渦が現れた。
転送とは、ポケモンの『テレポート』を応用した技術だ。相手の正確な位置さえ掴めれば、魔法のように引き寄せたり、送り出すことだってできる。
たとえどんな悪夢の中で彷徨っていようとも、科学の手は、ひとりの少女の手をしっかりと掴んで……引き寄せた。