第2話 迷い星

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読了時間目安:22分
 古くて狭い台所だが、ラティアスにしてみれば機能的な場所だった。彼女は調理に際して手を使わない。かわりに『サイコキネシス』で調理器具を、食材を、調味料を動かしている。
 まな板の上で玉葱を切っている間、熱したフライパンでバラ肉を炒め、キャベツを放り、塩こしょうで味付ける。どれも見えない手が動かしているみたいで、まさに魔法のキッチンだ。野菜炒めが出来上がると、味見のためにひとつまみ。爪をクイッと傾けると、開けた口へひとりでに飛び込んできた。
 んんっ、完璧。ラティアスは火を消して、玄関に向かった。
「お夕食ができましたよー」
 日も暮れかける夕方。軒先から庭に回ると、これまた狭い庭を珍妙な機械が埋め尽くしていた。レトロなSFを想起させるような真空管、ガラス球の中で暴れ続けるプラズマボール、蒸気で動く小さな機関と、無作為に張り巡らされたケーブルの数々。
 たった二ヶ月の間に、よくここまで庭を散らかせたものだ。ラティアスは「まったくもう」と困り顔を浮かべて言った。
「また物が増えてない?」
 ゴミ溜めのような機械の山の中から、幼いラティアス、小さな天才ルーナメアがひょっこりと頭を覗かせ、耳をピクピクさせた。
「もう少しで亜空間伝播式の通信装置ができそうなんじゃ!」
「相変わらずなにを言ってるのかさっぱりだけど、ご飯が冷めても知りませんからね!」
「匂いで分かる、どうせ野菜じゃろ?」
「あなたの好きなお肉も入ってるよ」
「……もう少しで行くわい!」
「お好きに! 私は先に食べちゃうから」

 月日が経つのは早いな。沈みゆく夕陽を遠目に見る度に、ルーナメアはそう思った。
 二ヶ月。まさかこんなに長く、この町で暮らすことになるとは思わなかった。すぐに偽物の化けの皮を剥いでやるか、あるいは艦隊の仲間たちが助けに来ることを期待していた。それらを諦めたのは、ここに来て半月が経った頃のことである。
 助けは来ない、これは自力でなんとかしなければならない。ルーナメアは長期戦を覚悟して、町のあちこちから部品を集めては、助けを呼ぶため通信装置の開発に勤しんだ。
 その傍ら、この町の技術水準を調べたが、謎は深まるばかり。家の建築様式と同じで、中世のような道具もあれば、テレビや車といった近代の機械もある。(ルーナメアにとっての)現代技術はほとんど見当たらない。おかげで目当ての部品ひとつ探すのも苦労が絶えなかった。

「おたくはいつ来ても美味しそうな匂いがするね」
 ふわり。星柄の怪しいマントをなびかせて庭に訪れた銀髪の女が、二つ下げを指で弄りながら脳天気に言った。
 名はタリサ。小さな雑貨店を営む店主で、ルーナメアにとっては部品の調達先でもある……のだが、どうも売り物で何を作っているのか興味をそそられるらしく、図々しいことに、こうして足音もなく忍び入ってくる。
 ルーナメアは視線すらくれずに返した。
「ツケの期限はまだ先じゃろ」
「人を借金取りみたいに言うのはやめて欲しいな。せっかくお嬢ちゃんの為だけに特注品を扱い始めたのに。うちは夢売る雑貨屋で、中古ショップじゃないんだよ?」
「それにしては、いつ見てもおぬしの店に閑古ポッポが鳴いておるようじゃがの」
「悲しいかな、ここ最近は夢を抱いた迷い星と巡り会った試しがない。この町の客層にはあたしの雑貨が刺さらないのかな……いっそ店を移転しちゃおうか」
 なんて白々しい。そうなったら困る奴を目の前にしてこの言い草。さっさとツケを回収したいがために、これみよがしに言いに来たのだ!
 ルーナメアは唸って、白旗をあげた。たとえハッタリでも、彼女に町を去られて困るのは自分だ。小銭の入った巾着をタリサに放り投げた。
「まいど! ついでに御夕飯も召し上がっていいかな? 足りない分はこれでチャラにしとくからさ」
「足りなっ……好きにせい!」
「あーお腹すいた! お邪魔しまーす」
 どうにも余分に取られている気がする。好き放題にむしり取られる前に、こっちもこっちで金勘定をしっかり記録せねばならんか……。
 ルーナメアはため息を吐いて、緻密な作業を続けた。


 *


 メインシステム、再起動。
 主要電源喪失。
 サブシステムの非常電源に接続、完了。
 メインシステム稼働率四パーセント。
 外部センサー、オフライン。
 内部センサーにアクセス、完了。
 生命反応を一体検知。
 乗組員データベースと照合、不一致。
 対話用ミラージュ・システムを起動。

「こんにちは」
「ぎゃあ!!」

 ある日のこと、銀髪の少女がルチャブルを連れて森を探検していると、馬鹿でかい廃墟みたいなものと遭遇した。まるで墜落したUFOみたいだ。蔓に覆われ、泥に塗れ、地面に埋もれて、もう何十年と放置されたようなそれは、少し表面を叩くと、今なお錆びることなく鋭い輝きを帯びていた。
 ぐるりと周りを一周しても入り口らしいところは見当たらなかったが、窓が割れていたので潜り込むことはできた。ますます冒険気分が湧いてくる。
 中はとてもヒンヤリしていて、奥に進むほど窓も遠ざかり暗くなる。多少下り坂みたいに傾いているが、なんとか先へ進めそうだ。ルチャブルが心配そうに鳴いて、「すぐに引き返そう」と言わんばかりに袖を引っ張った。
 怖じ気づく訳ではないが、奥はまだまだ深そうだ。もっと装備をしっかり整えないと。その日はおとなしく帰ることにした。
 その翌日、少女とルチャブルはまた訪れた。今度は懐中電灯と、十分な水と食糧を詰め込んだリュックを背負って。
 暗い通路を照らして、少女とルチャブルはおそるおそる進んでいく。自分の足音が反響する以外に音はなく、やがて堅く閉ざされた鋼鉄のドアに突き当たった。
 きっとこの奥にお宝が隠されているんだ。少女が得意顔で言うと、ルチャブルは「そうかなぁ」と言いたげに唸った。
 ところが、ドアは押しても引いても開かない。ルチャブルに頼んで『飛び膝蹴り』をぶち当てても、可哀想に、ルチャブルがのたうち回るだけでドアは一向に開かない。
 ふと、ドア横にレバーが見えた。それを力の限り引っ張ると、ガコン、と重たい音がして、ドアがわずかに開いた。
 これ引き戸みたいに開くんだ。そうと分かれば、ルチャブルと揃ってドアの隙間に手を突っ込んで、よっこらせ、どっこいせ、と声を合わせて左右のドアを押し込んだ。
 奥に宝は見当たらなかった。長いこと閉じた空間だったのだろう、通路よりも床に白い埃が溜まっている。外に通じる大きな窓ガラスも、割れてはいないが地面に埋もれて真っ暗だった。
 なにかお宝はないかな、と少女は手当たり次第に探った。途中、触れてしまった制御盤は、くしくも生きていたのだが、少女たちは知る由もない。
 そのとき、少女は眠れる巨人を起こしたのである。

 突然空中に現れたマナフィに、少女は思わず悲鳴をあげて跳ねた。危うく口から心臓が飛び出すところだ。
「出たぞ、お化けだ! ルトー!」
 勇敢なる少女はすかさずマナフィを照らして命じたが、いつまで待ってもルトーと呼ばれたルチャブルは出てこない。どうしたのかと思って振り向くと、制御盤の影に隠れて縮こまっているではないか。
 そういえば、ここに来たときからずっとそうだが、ルトーはUFOの探検に乗り気じゃなかったっけか。
「なんだよそれ~……」
「あの」マナフィが口を挟むと。
「あ?」少女は敵意剥き出しの目で睨んだ。
「どうやら勘違いされているようなので、訂正させてください。私は地球連合艦『U.I.S.スターライト』に搭載されたミラージュ・システムのメインユニットです。お化けという概念とは明確に定義が異なります」
「……お前なに言ってんの?」
 聞いたことのない単語の羅列に、少女はルトーと揃って首を傾げていた。

「ええっと、つまりこういう事か?」
 少女は床にあぐらをかいて、頭から湯気を出しながら、マナフィのお化けを相手にもう何度目かの確認に入った。ちなみにルトーは既にノックダウンしたようだ。
「あんたらは元々『チキュウレンゴウ』っていう世界にいて、世界と世界を渡る船に乗っていた」
「ニュアンスは若干異なりますが、概ね肯定します」
「……そこはもういいや。だけど空に大きな穴が開いて、船が吸い込まれちまった」
「肯定します」
「そこから先はなんにも覚えてなくて、気がついたらここにいた」
「肯定します」
「船にはあんたの他にもう一匹ポケモンが乗ってたけど、どこにも見当たらない」
「肯定します」
「まずはこの船を直して、そのポケモンを探さなきゃならない、と」
「肯定します」

「よっしゃあ!」
 思わずガッツポーズを取ったが、その後すぐに疲れが湧いてきて、少女はへなへなと座り込んだ。
「はぁー疲れた。あんたの言葉ってどれも難しすぎるんだよ。もっと力抜いて話せねえの?」
「あなたとの対話を繰り返すうちに、最適なコミュニケーション・プログラムを構築できました。早速実行します」と言うや否や、マナフィは長いため息を吐いて気怠そうに転がった。「無茶ばっか言うんじゃねえよ、こっちだって色々大変なんだからさあ」
「お、おう……?」
 あまりの豹変っぷりに、少女は一瞬置いてけぼりを喰らった。
「かったりーけど仕方ねえ。そろそろ修理に掛かるとすっか。おいお前」
「え?」
「そこ邪魔、どいて」
「あぁごめん」
 言われるままに離れると、マナフィがずけずけと通っていった。なにやら制御盤のパネルを外して、配線を見るなり、「くそったれ! こりゃダメだな、ちくしょう」とか呟いている。
 何なんだ、あいつ。呆然と見つめていると、袖がぐいぐい引っ張られた。ルトーだ。困った顔をして見上げられ、少女は「あっ」と声を漏らした。
「やべー、もうそんな時間だっけ? なあお化け!」
「お化けじゃねえ! ミラージュ・システムだ!」
「じゃあ何て呼べばいいんだ?」
「……マナ」
「マナ! あたしらそろそろ帰るわ、とうさんとかあさんが心配しちまう!」
「おぅ、気をつけて帰れよ! えーっと……」
「サン!」少女は自らの胸を指して、野生じみた笑みを浮かべた。「あたしの名前は、サンだ! こっちは相棒のルトー。また明日も来るから、よろしくな!」
 ええっ行くの、とルトーは怪訝そうに見上げたが、すぐに観念して項垂れた。


 *


司令官日誌
地球暦2256.08.25
ミオ中将、記録

U.I.S.スカーレットを筆頭に六隻の艦艇が第一宇宙基地に着艦。ウルトラホール変異(通称UHA)から莫大なマイナスエネルギーが放出され、任務は失敗に終わった。
UHAの発生から八時間が経過したが、収まるどころか膨張を続け、今や地球よりも大きくなった。重力場はじきに太陽系全体に影響を及ぼし始めるだろう。


「エネルギーが足りない? だったらよそからかき集めてくれば良いでしょ! スターライトの痕跡が見つかるまで探し続けなさい! 以上!」
 第一宇宙基地、提督執務室。
 ミオは声を荒げて通信を切ると、盛大なため息を吐いて椅子に崩れ落ちた。
「……荒れてるな」
 宙に浮かぶ円盤状の光る床に立って、雄のエモンガことライアンは言った。ミオが渾身の敵意を込めて睨みつけても、その小さな体は動じない。
「艦隊情報局が、こんなときに何の用?」
「支援の提案を受けたそうだな。テメレイア帝国とメガロポリスから。同盟国の真意を探るのがオレの役目だ」
「報告書を提出して、後で目を通す」
「彼らの意図に裏はない。少なくとも、今のところは人道的支援に隠れて、秘密工作を働こうという動きは見当たらなかった」
「はっきり言わないと分からない? 出ていけって言ってるの」
 出ていくどころか、ライアンはデスクに飛び乗り、足下に注文を投げた。
「ホットコーヒー、ブラック」
 すると、立ちどころにデスクの上に光の粒子が集まり、湯気が昇るミニチュアサイズのコーヒーカップを形作っていく。光が晴れると、ライアンは悪びれもせず座って、淹れたてのコーヒーを啜った。
「……スターライトの最期に関する報告書は読んだ。そこに乗ってた奴とお前の関係についても知ってる」
「だから?」
「分かるだろ。艦隊司令部は憂慮しているんだ。仇討ちのためか、現実逃避か、いずれにせよ個人的感情のせいで、お前の判断力が鈍っている。UHAの成長速度は驚異的で、事態は深刻だ。冷静な指揮官を他に任命すべきじゃないかという声も出てる」
 あの臆病者どもめ。思わずミオが吐いた悪態を、ライアンは聞かないことにして、コーヒーをもうひと口啜った。

 ミオはそわそわと部屋を歩き回っていた。確かに彼の言うとおりだ、私は冷静さを欠いている。頭がぐつぐつ沸騰して考えがまとまらない。だが決して見境がなくなった訳でもないのだ。
「ただ閉じれば良いって話じゃない。ルーナメアが生きているという可能性は捨てきれない。もしも彼女が無事なら、艦隊には救う義務がある」
「その根拠は?」
「スカーレットが受信した一般救難信号よ。UHAの奥から発せられたノイズは、スターライトの識別コードと一致した。分からない? 因果の逆転なのよ。重力場が強すぎて、ウルトラホールを境に時空が歪んでいる。あの救難信号は、未来のスターライトから送られたものに違いないわ!」
「その説を立証できる証拠がないだろ」
「だから今それを探しているんじゃない!」
 荒い息が部屋に響く。対してライアンはコーヒーを飲み干すと、小さなカップを置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「……オレがここに来たのは、報告書を渡すためだけじゃない。艦隊司令部からの命令で、お前がこの任務の指揮に適任かどうか判断するためでもある。お前と因縁を持つ者として、オレの意見は艦隊の評価にも影響するだろう」
 薄々そんな気はしていた。ライアンとはかつて敵同士だった。殺し合いもした。私とは遠からず、しかし近すぎず、評価を下すのにこれ以上の役者はいない。
 ミオは言い訳する気もないが、彼をまっすぐに見据えて言った。
「お願い、任務の指揮を続けさせて。ルーナメアのことを見捨てないで。もう二度と艦隊に失望したくないの」

 この任務を言い渡されたとき、ライアンは無理だと思った。彼女はオレのことをよく知っている。オレが何に弱いのかも。
 彼女を見ていると、記憶の彼方で褪せた誰かの顔が思い浮かぶ。はっきりとは頭に描けないが、ひたむきで前を向こうとするその目の輝きだけは覚えている。
 ちょうどミオも同じ目をしていた。
 ライアンは舌を打って、肩を落とした。
「……六時間以内に生存の証拠を掴め、そして救出プランと打開策を提案しろ。期限を過ぎたらお前を解任するよう司令部に進言する」
「ありがとう、十分よ」
 感謝はありがたいが、言葉にできない何かに負けた気がした。


 *


 すっかり日が暮れて、町の街灯にぼんやりと明かりが灯る。
 サンは街灯から離れた街路樹の影に隠れて、辺りをしきりに警戒していた。人通りがより薄く、より暗い道を選んで、誰にも悟られないよう家を目指す。交差点をよぎって、もう少し。あの角を曲がれば目の前だ。
 曲がった瞬間、不意に後ろからルトーに手を引かれた。
「なにすっ……あ」
 ルトーのおかげで、出会い頭に警察官とぶつからずに済んだ。それはそれで良かったのだが、サンが遭遇した警察官は、冷ややかな青い瞳で少女のことを見下ろしていた。
「これで何度目だ?」警官の男が腕を組みながら言った。
 げっ、とサンはあからさまに煙たそうな顔をした。
 警官はキズミといい、その金髪に青い瞳から漂うシャープな雰囲気のおかげで、当人にその気はないのだが、町でそこそこのファンを抱えていた。サンには興味のない話だが、確かに美青年とまことしやかに謳われるだけあって、まあ綺麗な顔立ちだとは思う。だがサンはキズミのことが苦手だった。
「親御さんが心配して通報しに来たぞ。娘がまた森に出かけて行った、と」
「あたしの勝手じゃん」サンがそっぽを向いて答えると。
「町の外に出るなと何度叱られたら気が済むんだ? そのうち森の化け物に襲われて、大怪我をしても知らないぞ」
「危なくねーし、ルトーがいるし」
「そういう問題じゃないだろ、まったく」
 キズミはくしゃりと髪を掻いた。まったく子供という奴は、特に反抗期を迎えた小娘は聞き分けがなくて困る。ウルスラ(相棒のラルトス)とはえらい違いだ。
「俺だって暇じゃないんだ、これ以上警官を煩わせるな。親を心配させてどうするつもりだ?」
 どうする、と聞かれて、サンは押し黙った。分かるんだ。大人はどうせ子供の言うことなんて聞く気もないくせに。
「……退屈なの」
「なにが」
「この町の何もかもが。ワクワクすることもないし、スリルもない」
「日常ってそういうものだろ」
「あたしは嫌なんだよ! そうやって毎日を無駄に過ごすことが! 何かしなきゃいけないんだ、あたしは……!」
「なにを焦っているんだ?」
 言われて、また言葉に詰まった。
 分からない。この胸の奥につっかえているモヤモヤを、はっきりと言い表すことができない。サンは苛ついて苛ついて、せめてもの仕返しにと、わざとキズミに肩を当てて、目もくれず家に歩いていった。

 なにかがおかしいと思っているのは、この町であたしだけ。でもそれが何かと聞かれても、答える術もなく、大人の理屈を押しつけられる。
 このドアを開けて、家に入るのがとても憂鬱だった。まずかあさんが血相を変えて奥から駆け寄って、頭をギュウッと抱きしめる。そしてこう言うのだ。「本当に心配したんだから!」
 次にとうさんがゆっくり出てきて、険しい顔で叱りつける。もう二度と、森に入るな。そしてあたしは反省したフリをする。ルトーと並んでしょんぼりして、ごめんと呟く。
 何度もこれを繰り返した。繰り返すほどに、あたしの中で何かがざわつく。まるで夢でも見ているような、ふわふわした違和感が取れない。
 またあの感覚を味わう羽目になる。分かってる、おかしいのはあたしなんだ。
 サンは肩を落として、うんざりした顔でドアノブに手を置いた。

――汝、我の……を……るか――

 頭が雷に射抜かれたように、思わずドアノブから手を離して後ずさった。何かが聞こえた。今、何かが……。
「入らないのか?」
 下がると、どすんと何かにぶつかった。キズミが壁のように真後ろで立っていた。片眉をつり上げて、訝しげにサンの様子を伺っている。
「なあ悪ガキ、怒られるのが怖いのなら俺も一緒に謝ってやろうか?」
「……うっさい、バーカ」
 べえっと舌を出してから、サンはドアを開けた。ルトーも続く前に、キズミに頭を下げてから家に入った。
 閉じたドアを見届けて、キズミは肩を竦めた。

「案件はクリア。いつもどおり、家に入るまで見届けましたよ。いったい何度繰り返すのやら」
 キズミは歩道を歩きながら携帯電話で話していた。画面には『G・L』というイニシャルが浮かんでいる。
「悪ガキの説教ならほどほどに……えぇはい、大したことは言ってません。森に入りたがる気持ちはよく分かります、俺も……」
 規則正しい歩幅が徐々に狭く、遅く。やがて道端で立ち止まった。
 俺も。それに続く言葉が思い当たらない。まるで突然、頭の中に霞が掛かったように。
「……俺もよく、昔は森に入って親を困らせた」
 口にしても実感が湧いてこない。こりゃ相当疲れとるな。苦笑いを浮かべて、再び歩き出した。
 この通報案件にしたって、上司は同僚に任せる気だったが、キズミは自ら手を挙げた。サンの家が自分の家に近いから、仕事のついでに帰りも早まるという魂胆を、同僚に易々と見抜かれた。しかし本当は違う。
「その話はまた今度に。……すみません、今夜は予定が埋まってて。ウルスラと一緒に映画を観るんです。前の約束を破ってしまったので、その埋め合わせに。……お察しの通りです、怒らせると怖い。えぇ、ではまた明日。お疲れ様です」
 電話を切ると、相棒の待つアパートは目の前だった。

 この二ヶ月の間、ウルスラとキズミを同時に見た者はいない。それを口にする者も。おそらく薄々勘づいているのだろうが、キズミがその話題を語らない限り、話に出ることはない。
 家とは、シェルターだ。彼女の心を守る唯一の場所。階段を上がり、ドアの前に立ち、キズミはドアノブを回す。
 テレパシーの声が、玄関に踏み入る前に頭へ響いてきた。
(森の中へ……木の間で……目覚めの刻を待っています……)
 ドアを閉めて、キズミはゆっくりと鞄を下ろす。シャツのボタンをひとつ外して、リビングに続く暗い廊下を歩いた。
(逆子が生まれる……繰り返す輪……何度も、何度も……)
「帰ったよ、ウルスラ」
 明かりも点けず、キズミは優しく名を呼んだ。
 ソファに横たわる白く華奢な身体。触れれば折れて崩れそうなほど細い腕に、点滴の管が繋がっている。中身はただの栄養剤。自ら食べる力すら失われた家族を、醒めない悪夢が蝕み続けている。
 なぜ彼女が。どうしてこんな目に。誰か犯人がいるなら、どれだけ楽だっただろう。キズミは膝を折って、ウルスラの冷たい手に触れた。
(渦巻く闇が空を覗いて……玉座を失くした星が落ちる……)
 謎めいたテレパシーに手掛かりを見いだしたこともあった。謎を解こうとした。しかし部屋の壁一面に貼り出した無数のメモも、昏睡したウルスラを救う手立てには導いてくれなかった。
 ウルスラは落ちている。今もずっと暗闇の中を、独りきりで。
「俺は、まだ諦めないからな」
 せめて少しでも近くに寄り添えるよう、彼女の手を握り締めた。かたく、かたく……。

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