第1話 波乱を告げる流れ星
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読了時間目安:21分
「見上げて、ルーナメア」
それは夏を少し過ぎた頃。星々の瞬く夜空へと、穏やかな声が導いてくれた。
水の都アルトマーレに隠された秘密の庭園。ブランコに座った大きなラティアスが、小さなラティアスをお腹に抱えて、まるで姉妹のように仲睦まじく夜空を見上げていた。
「あ、流れ星!」
幼いラティアス、ルーナメアの指差す先に、一筋の光が天を翔る。あっという間に燃え尽きて消えたそれに、大きなラティアスが祈っていた。
「……なにしとるんじゃ?」
「願い事よ。これはニンゲンの風習で、流れ星が消える前に願い事を三回唱えると、願いが叶うと言われているの」
「そんなの無理じゃあ、テッカニンにもできっこないわ」
「心の中で唱えてもいいのよ。それにお星様は優しいから、真剣にお願いしたら本当に叶えてくれるかもね」
けっ、子供扱いしよって。ルーナメアは訝しげに吐き捨てた。
「……姐さんはなにをお願いしたんじゃ?」
「あなたに自由が訪れますように」
罪悪感の針がチクリと刺さる。護神を受け継ぐための作法やら修行やらが嫌で、いつも逃げてばかりのルーナメアのために、祈ってくれているとあっては、嫌味も言えない。
バカバカしい。時間の無駄じゃ。心の底では悪態を吐きながら、彼女に倣ってみることにした。
またひとつ、流れ星が生まれると、ルーナメアは口をへの字に曲げて祈りを捧げた。
ラティアスはにんまりと笑って尋ねた。
「なにをお願いしたの?」
「……内緒じゃ!」
ぷい、とそっぽを向いたルーナメアを、ラティアスは「生意気だぞぉ」と、おどけてくすぐった。
「さあ観念して教えなさい、ルーナメア!」
「……艦長……ルーナメア艦長?」
呼ばれて、赤毛の女は我に返った。
居眠りをしていた。司令室(ブリッジ)の中央、艦長席からスクリーンに映る星々の景色を眺めていると、ふとした瞬間に昔の記憶が蘇る。黒地に赤のラインが走る士官の制服を整えながら、咳払いを加えて誤魔化した。
「報告を」
「もうすぐ本艦は地球の軌道上、第一宇宙基地に到着します。テスト航行のデータを見たところ、システムに問題はありませんでした」
「ミオ提督も満足するじゃろうな」
端的に報告を終えて視線を切ったパイロットの男が、チラリと、どうにも歯切れの悪そうな横顔を見せる。
「……どうした? なにか問題でも?」
「いえ、なんでもありません」
「構うな、率直に言うてみよ」
「恐れながら、その、せっかくルーナメア艦長とご一緒する機会だったのに、何事もなく終わってしまったな、と……」
「自分を売り込むチャンスが欲しかったか?」
ルーナメアがニヤニヤしながら返すと、男は慌てて。
「いえそんな!」
「よい。わしも下士官じゃった頃は、どうやって上級士官に取り入ろうかとあれこれ画策したものじゃ」
「艦長が、ですか?」
「もちろん。あれは初めて乗った船『U.I.S.ファイアレッド』でのこと、同期の誰よりも早く昇進したくて必死にアピールしまくっておったわ。そりゃもうしつこいぐらいにな」
「ご経験から、なにかアドバイスはありませんか?」
「チャンスを待つな、自分で作れ。百発撃てば、少なくとも二、三発は当たる」
「肝に銘じます」
談笑していると、パイロットの手元にある制御盤から電子音が鳴った。
「……メッセージを受信しました、ミオ提督からです。ルーナメア艦長、帰航次第ただちに提督の執務室へ出頭するように、と」
せわしない提督じゃ。ルーナメアは頬杖をつきながら思った。
ミオのことは昔から知っている。彼女は元々現場で大暴れするタイプの人間だった。それが今や提督の椅子に座って、命令を下す側の存在になった。
どうせ自分が設計した新型艦、プロトスター級『U.I.S.スターライト』の乗り心地がどうだったか、知りたくて仕方ないのだろう。はじめは「私が乗ります!」と言って聞かなかったほどだ。
居眠りするぐらい快適だった。そう言ってやろう。ルーナメアはにんまり笑って到着を待った。
時を二時間ほど遡る。
太陽系第六惑星、土星軌道上の天文観測基地は騒然としていた。
『地球連合艦隊司令部へ』男の声が言った。『こちら土星天文観測ステーション・ベータ。太陽系外、およそ四億キロメートルの地点に異常な重力場の変動を検知した』
『こちら第一宇宙基地』女の声が答えた。『データは見たけど、これは本当なの?』
『センサーを三度チェックしました、間違いありません』
『こんな数値ありえない』
『えぇ、だから急いで報告したんです』
基地の天体レンズが射す方角。太陽系から遙か離れた場所。暗黒の宇宙をオーロラのように漂う星雲に囲まれた静かで美しい世界に、不気味な亀裂が走った。それは布地をビリビリと引き裂くように、またたく間に大きくなっていった。
*
「二時間前、巨大なウルトラホールが太陽系のすぐ近くに出現したの。ネクロズマの攻撃、鏡の世界からの侵略、原因はいくつも考えられるけど、どれも決定打に欠ける。ただし観測で得た数値を見る限り、少なくとも自然発生したものでないことだけは確かなようね」
提督の執務室に集められたのは、ルーナメアだけではなかった。
艦船を指揮する艦長がずらりと並んでデスクを囲み、皆一様に白髪の若い女性に視線を注いでいる。この女性こそ艦隊を指揮する提督のひとり、ミオ中将なのだが、驚くなかれ、二十代後半の見た目に反して実年齢は百を超えている。ミュウの遺伝子を組み込んだクローンゆえ、老化はとても緩やかだが、彼女が寿命で死ぬとは誰も思っていなかった。
それだけ奔放で知られる彼女が、このときばかりは深刻そうに説明を続けた。
「艦隊は招集可能な全艦艇を集めているけど、ひとまずここにいる七隻の船で事に当たります」
「恐れながら」厳格なミロカロスが尋ねた。「巨大とは、どれくらいの大きさですか?」
「当初の観測時点で四千キロメートルを超えてる。月より一回り大きいわ」
「バカな。それほど巨大なウルトラホールは、人工的には作れないはずです。サイズを広げるほど必要なエネルギーは指数関数的に増加する。恒星を丸ごとひとつ持ってきても足りるかどうか」
「しかも拡大しつつある、現在進行形で。あなた方には原因の調査と、必要とあらばウルトラホールの破壊を命令します」
「提督」毅然とした中年の男が返した。「お言葉ですが、それほど巨大なウルトラホールを破壊すれば、近隣の星系にも衝撃波が及びます。安全に破壊する方法はただひとつ……」
「パルキアね、分かってる。既にパルキアには支援要請を送り、アルセウスの審議会で承認されました。任務にはパルキアの護衛も含まれます。旗艦スカーレットに乗船させた後、編隊を組んでウルトラホールに向かいなさい」
「了解しました」と、ミロカロスが答えた。
「……質問がなければ以上とします、解散」
ぞろぞろと皆が出ていく中、ルーナメアも続こうとすると、背中から「あなたは残って」と声をかけられた。
すっかり静かになった執務室に、ふたりきり。ミオは窓際に向かい、宇宙の果てを見つめていた。
「……スターライトをどうするか、じゃな?」ルーナメアがデスクに腰を乗せて言うと。
「良い船でしょ」
「さすがは提督が自らデザイン設計を務めただけあるのう。乗組員は最小限で運用可能、短距離調査用で機体は小さいが、小回りが利く上に意外とタフじゃ。新兵器のおかげで火力も申し分ない」
「でも?」
「これはあくまでテスト航行での感想に過ぎん、太陽系をぐるっと一周しただけじゃ。ウルトラホールにすら入っておらん。本番投下には早過ぎる」
「すぐに動ける艦艇の数が少な過ぎるのよ、できればスターライトも任務に加えたいところなんだけど」
「提督としては、迷うところじゃな」
ルーナメアのニヤニヤ顔が窓にうっすらと見えて、ミオはしかめっ面で振り向いた。
「そんなに面白い?」
「昔のおぬしを知っていたら、特にな。プロメテウスの少尉だった少女ミオなら、こういう時はどうしたか?」
「四の五の言わずに飛び乗って行ったでしょうね」ミオはため息を吐いて続けた。「……直感に従うべきだと思う?」
「指揮するのはわしじゃ。どこかに問題があるように見えるか?」
ミオは肩を竦めて、どこか観念したように笑った。
「見えない」
*
「願いは叶うもんじゃな」
スターライトのブリッジに戻ったとたん、ルーナメアが艦長席に座りながら言った。
操舵席の青年士官はその意味も分からず尋ねた。
「なんですって?」
「おぬしの望んだチャンスが向こうから舞い込んで来よった。任務の通達は受け取っておるな? 非常警報を発令、他の艦艇に続いて発進じゃ」
「ぼ、僕が期待したのはこういうトラブルじゃありませんけど、了解です……!」
ガコン、と大きな音を立てて、船と基地を繋ぐクランプ(締め具)が外れ、スターライトはゆっくりと離れていく。
優雅で滑らかな白銀の機体が太陽の光を浴びてキラリと輝く。上面には艦艇の名である『STARLIGHT』の文字が刻まれ、流線型の機体から後方に伸びた二本のシリンダーが、発進の合図を受けて青く発光し始める。船尾から青い光とともに衝撃が排出され、船は大きく首を上げて動き出した。
目指すは他の艦艇たちと同じく、稲妻の嵐を伴う重力の大渦。一様に同じ方角を向いて揃った後、次々と超光速航行技術『ワープライド』で飛び出した。ルーナメアたちの操るU.I.S.スターライトは、伸びていく七つの流れ星の最後尾を飾り、光を超えた。
途方もなく巨大な渦、というよりも宇宙空間に空いた異質な裂け目を前にして、大小さまざまな七隻の艦艇が集まった。
時折迸る稲光が、スクリーンを通してブリッジを照らす。裂け目の縁は青く輝いて、内側の裂け目がより暗く、深く見えた。
青年士官はごくりと唾を呑んだ。
「不気味ですね……」
「自分の感想よりも先に分析しろ、少尉」
ルーナメアが促すと、少尉は慌てて。
「了解! えーと……規模は当初の観測記録よりも広がっていて、今は直径1万キロメートルに達しています。タキオン放射、ニュートリノ粒子ともに増大、これは艦隊の記録において最も巨大なウルトラホールです。毎秒およそ2キロメートルずつ拡大していますが、それ以外の数値は安定しています」
「安定? あれが?」
間近で見ると端から端を捉えきれない。空間の結び目がブチブチと千切れて、今なお端を広げている。明らかに放っておいて良いものの類いではない。
センサーでのスキャンを待ちながら呆然としていると、通信を知らせる電子音が鳴りだした。
「U.I.S.スカーレットよりメッセージを受信しました。彼らのセンサーが奇妙なノイズを捉えたそうです」
「音に変換して聞かせろ。波長をスクリーンに出すのも忘れるな?」
「了解」
ノイズと彼は言ったが、実際に流れたのはまるで歪んだメロディだ。海の底でホエルオーが歌っているような。しかし曲調は歪で、寒気すら感じさせる。ルーナメアは目を閉じて、ひたすら耳を澄ませていた。
「……おそらく重力場で波長が歪んでおるのじゃろう。補正できるか?」ルーナメアが尋ねると。
「お待ちください」
少尉がここぞとばかりに乗り出した。良いところを見せようと張り切っているのだろう、思わずルーナメアの口元が綻んだ。
彼の仕事は早く、しかも的確だ。メロディは少しずつ鮮明に、そして甲高くなっていく。だが未だに聴き取りづらい。喧騒の中で、大勢が一斉に喋っているみたいだ。
「……全部ひとつのパターンじゃ。それが重複しておる、なにかで反響しておるな」
「特定して抽出します」
命じられる前に、少尉が取りかかった。
唯一残った旋律は、規則的に並んだ電子音だった。ルーナメアは驚き、目を見開いた。
「これには聞き覚えがあるぞ、艦隊の一般救難信号じゃ!」
「ということは、この裂け目の奥に艦隊の船が?」
「過去行方不明になった艦艇かもしれん。信号に識別番号が含まれているはずじゃ」
「データベースと照合してみます」
予想は見事に的中していた。それを喜んだり慌てたりするのかと思いきや、少尉は制御盤に示された結果を見て、凍りついていた。
「どうした?」
尋ねても答えない。
「おい、どうしたと聞いておる! 発信元の艦艇は何という名前なのじゃ!」
「スターライトです……識別番号1083、U.I.S.スターライト……艦長、まさにこの船です」
「……なんじゃと?」
なにかの間違いだ。問い質そうとしたそのとき、船が衝撃を浴びて大きく傾いた。
警報音がそこら中で鳴り始めた。他の艦艇も同じ状況なのだろう、穏やかだった通信が乱れ飛んで、少尉はパニックを起こした。
「報告!」ルーナメアは肘掛けにしがみつきながら叫んだ。
「重力場が急激に拡大、全艦艇が裂け目に引っ張られています! 姿勢制御システム停止!」
「ワープライド航行でただちに離脱じゃ!」
「フィールドを生成できません、航行システムはオフラインです!」
七隻の船が重力圏から逃れようと、懸命にエンジンを逆噴射していた。それでも脱出には足りず、少しずつ蟻地獄に引き寄せられていく。
その中央、重力の源である裂け目には、月よりも大きな赤い眼がぎょろり覗き、不気味に光っている。まるで獲物が落ちてくるのを今か今かと待ち望んでいるかのように。
もはや突然現れたあの眼が何かを聞くよりも、とにかく重力場から脱出することが先決だ。
「パルキアは何をしておるんじゃ!?」ルーナメアが喚くと。
「スカーレットからの報告によると、パルキアは既にウルトラホールの縫合を試みていますが、負のエネルギーに相殺されて効果がありません!」
「そんなものどこから湧いてきた!?」
「ウルトラホールの奥からですが、発生源は不明です!」
一隻が裂け目に向かって破壊光線にも似た光子ビームによる砲撃を始めた。二隻、三隻とそれに続く。しかしサイズがあまりにも違いすぎた。コラッタがキョダイマックスしたカビゴンに体当たりするようなものだ。
少尉も砲撃を試みるが、ルーナメアが「待て!」と叫んで止めた。
「他に方法がありますか!?」
懸命に問われて、ルーナメアは「ある」と渋い顔で頷いた。
「裂け目の中心から全艦艇に向けて反重力子ビームを照射すれば、この重力場から弾き出されて助かるかもしれん」
「それって」少尉はすぐに察して、口を開けたまま言葉に詰まった。「……この船なら、犠牲は一番少なくて済みますね」
「勘違いするな、おぬしらを他の船に転送してからの話じゃ」
「でも、少なくとも誰かが残らないと……艦長、私が残って船を操縦します」
「いいや、わしが残る」
「艦長!?」
「説得しても無駄じゃぞ、ミオ提督すらわしの意思は変えられん」
揺れる船の中、少尉は言葉を探したが見つからない。上官の決意を変えるのは無理だと分かっていたが、同時に安堵する自分に罪悪感を抱えていた。
それを見抜いた上で、ルーナメアは微笑んだ。
「時間がないぞ、さあ行くのじゃ」
「……ご武運を祈ります」
見上げて、ルーナメア。
少尉が、乗組員たちが光の粒子に包まれて、ひとり、またひとりと消えていく。残った最後の一粒が、ふっと消えた瞬間、あのときの言葉が脳裏をよぎった。
『転送プロセス、完了』
船に搭載された人工知能が報告する。
ルーナメアは揺れる船をものともせず、空いた操舵席に座った。息を吸って、制御盤を見つめる。そして息を吐いて、エンジンの逆噴射を止めた。
なんとか踏み止まろうとする七隻の中から、スターライトだけが勢いよくデッドラインを超えた。スクリーンに赤い警告の字が灯る。
『警告。船外圧力が増加、構造崩壊まで二十秒』
ご丁寧に死のカウントダウンをどうも。
ルーナメアはお構いなしに操縦を続けた。スターライトから他の六隻に緑色のレーザー光線が放たれ、命中した艦艇が次々と弾かれていく。全艦が重力場を脱したと見るや、ルーナメアは安堵のため息を吐いて背もたれに寄りかかった。
そして、ヒビ割れたスクリーンをゆっくりと見上げた。もはやウルトラホールの縁も見えないが、暗闇の中で不気味に輝く深紅の光だけはハッキリと見えた。
「……すまんのう、姐さんや。流れ星など何処にも見当たらんわ」
スターライトは宇宙の裂け目に呑み込まれて……その小さな光が、消えた。
*
見上げて、ルーナメア。
流れ星が消える前に願い事を三回唱えると、願いが叶うと言われているの。
あなたに自由が訪れますように。
夜空にひとつ、流れ星が生まれて消えた。
「起きて……起きて、ルーナメア。起きなさい」
彼方の記憶で褪せていた穏やかな声が、遠くから少しずつ近づいてくる。
いや、彼女は初めから近くにいた。腹を枕に眠るラティアスを、その赤い翼で毛布のように包んでいる。
そうだ。昔はなにか嫌なことがある度に、彼女の寝床に潜り込み、朝まで甘えていたっけか。ルーナメアが寝ぼけた眼をうっすら開けると、ぼやけていた懐かしの顔が、はっきりと見えるようになってきた。
姐と慕ったラティアスが、朝の日差しを浴びて穏やかに輝いていた。
「……姐さん?」
「やっと起きたのね、お寝坊さん。もうお昼前よ」
「重力場は? スターライトはどうなったんじゃ?」
「すたー、何?」
「さっきまで乗っておった船じゃ」
「ゴンドラのこと? 昨日あなたが壊したっていう?」
「壊した?」
そういえば、小さい頃にそんな事もやったような……。
夢うつつで聞いていたが、一転してルーナメアは飛び起きた。見慣れた小屋の二階だ。古びた画材の匂いが鼻をつく。床に敷いた寝床用のクッション、壁にはキャンパスに描いた絵が飾ってある。記憶が確かなら、ここはアルトマーレにある守人の家だ。
そして何より驚くべきは。到底信じられないが、部屋を飛び出し、洗面台の鏡に鼻先を押しつけて、思い知った。
「なんでわしが子供の姿になっておるんじゃ!?」
「ルーナメア、どうしたの?」ラティアスも心配そうについて来たが。
「いや、違う、おぬしは姐さんではない。そんな訳がない。いったい何が目的で騙そうとしているのかは知らんが、わしを今すぐ船に戻せ!」
「お願いだから落ち着いて。船ってなんのこと? あなたは何を言っているの? 悪い夢でも見たの? ちゃんと聞くから全部教えてちょうだい」
「嫌じゃ! 近づくな!」
ルーナメアは叫んで、ラティアスの傍をすり抜けて階段を飛び降りた。
五感すべてが訴える。これらは全部本物だと。しかし頭で強引にねじ伏せる。それはありえない。これは夢か、誰かが洗脳して操ろうとしているのだ。
玄関から外に飛び出して、ルーナメアは愕然と立ち尽くした。
小屋はアルトマーレの物だった。しかし外に広がる光景はまったくの別物。人とポケモンの往来する街だが、水の都ではない。
とにかく異様な街だった。家のデザインもひとつひとつまったく違う文化から取り込んでいる。隣家はガラル地方の建築様式らしいレンガで造られ、向かいの家は起源さえ分からない氷の壁に覆われている。蔓を編んで建てた家、大きな金魚鉢のような家、まるで世界中から違うパズルを集めてきて、強引に当てはめたように見える。
「ありえん、これは何かの間違いじゃ……わしはまだ夢を見ておるのか……?」
頬をつねってみても痛いだけ。そもそも匂いを伴う幻覚なんて妙だ。
そのうち後ろからスッと腕が回って、ラティアスがルーナメアを優しく抱き留めた。
「可哀想に、とても怖い夢を見ていたのね。でも大丈夫、ここは絶対に安全だから。さあ家に戻って朝食にしましょう、今朝は採れたて新鮮なおいしいリンゴよ」
手を振り払って逃げようと思ったのに、できなかった。偽物だと分かっているのに、喉から熱いものが込み上げて、その柔肌にすがりたくなってしまう。
ルーナメアは頑なに口を結んで、ひと言も返さなかったが、黙って頷いた。
今はおとなしく様子を見るのじゃ。ここがどこで、此奴が何者なのか、正体を見極めねばならぬ。見ておれ、偽物め。いまに化けの皮を剥いで、姐さんに成りすましたことを骨の髄まで後悔させてくれようぞ!
湧き上がる決意を一瞬で押し殺して、ラティアスに振り向いたルーナメアは、満面の笑顔を浮かべていた。
「リンゴは大好きじゃ! わしは大きなリンゴをみっつ食べるぞ!」
「もう、一度に食べ過ぎよ」
互いに額をすり合わせて、仲睦まじく家の中に戻っていった。
それは夏を少し過ぎた頃。星々の瞬く夜空へと、穏やかな声が導いてくれた。
水の都アルトマーレに隠された秘密の庭園。ブランコに座った大きなラティアスが、小さなラティアスをお腹に抱えて、まるで姉妹のように仲睦まじく夜空を見上げていた。
「あ、流れ星!」
幼いラティアス、ルーナメアの指差す先に、一筋の光が天を翔る。あっという間に燃え尽きて消えたそれに、大きなラティアスが祈っていた。
「……なにしとるんじゃ?」
「願い事よ。これはニンゲンの風習で、流れ星が消える前に願い事を三回唱えると、願いが叶うと言われているの」
「そんなの無理じゃあ、テッカニンにもできっこないわ」
「心の中で唱えてもいいのよ。それにお星様は優しいから、真剣にお願いしたら本当に叶えてくれるかもね」
けっ、子供扱いしよって。ルーナメアは訝しげに吐き捨てた。
「……姐さんはなにをお願いしたんじゃ?」
「あなたに自由が訪れますように」
罪悪感の針がチクリと刺さる。護神を受け継ぐための作法やら修行やらが嫌で、いつも逃げてばかりのルーナメアのために、祈ってくれているとあっては、嫌味も言えない。
バカバカしい。時間の無駄じゃ。心の底では悪態を吐きながら、彼女に倣ってみることにした。
またひとつ、流れ星が生まれると、ルーナメアは口をへの字に曲げて祈りを捧げた。
ラティアスはにんまりと笑って尋ねた。
「なにをお願いしたの?」
「……内緒じゃ!」
ぷい、とそっぽを向いたルーナメアを、ラティアスは「生意気だぞぉ」と、おどけてくすぐった。
「さあ観念して教えなさい、ルーナメア!」
「……艦長……ルーナメア艦長?」
呼ばれて、赤毛の女は我に返った。
居眠りをしていた。司令室(ブリッジ)の中央、艦長席からスクリーンに映る星々の景色を眺めていると、ふとした瞬間に昔の記憶が蘇る。黒地に赤のラインが走る士官の制服を整えながら、咳払いを加えて誤魔化した。
「報告を」
「もうすぐ本艦は地球の軌道上、第一宇宙基地に到着します。テスト航行のデータを見たところ、システムに問題はありませんでした」
「ミオ提督も満足するじゃろうな」
端的に報告を終えて視線を切ったパイロットの男が、チラリと、どうにも歯切れの悪そうな横顔を見せる。
「……どうした? なにか問題でも?」
「いえ、なんでもありません」
「構うな、率直に言うてみよ」
「恐れながら、その、せっかくルーナメア艦長とご一緒する機会だったのに、何事もなく終わってしまったな、と……」
「自分を売り込むチャンスが欲しかったか?」
ルーナメアがニヤニヤしながら返すと、男は慌てて。
「いえそんな!」
「よい。わしも下士官じゃった頃は、どうやって上級士官に取り入ろうかとあれこれ画策したものじゃ」
「艦長が、ですか?」
「もちろん。あれは初めて乗った船『U.I.S.ファイアレッド』でのこと、同期の誰よりも早く昇進したくて必死にアピールしまくっておったわ。そりゃもうしつこいぐらいにな」
「ご経験から、なにかアドバイスはありませんか?」
「チャンスを待つな、自分で作れ。百発撃てば、少なくとも二、三発は当たる」
「肝に銘じます」
談笑していると、パイロットの手元にある制御盤から電子音が鳴った。
「……メッセージを受信しました、ミオ提督からです。ルーナメア艦長、帰航次第ただちに提督の執務室へ出頭するように、と」
せわしない提督じゃ。ルーナメアは頬杖をつきながら思った。
ミオのことは昔から知っている。彼女は元々現場で大暴れするタイプの人間だった。それが今や提督の椅子に座って、命令を下す側の存在になった。
どうせ自分が設計した新型艦、プロトスター級『U.I.S.スターライト』の乗り心地がどうだったか、知りたくて仕方ないのだろう。はじめは「私が乗ります!」と言って聞かなかったほどだ。
居眠りするぐらい快適だった。そう言ってやろう。ルーナメアはにんまり笑って到着を待った。
時を二時間ほど遡る。
太陽系第六惑星、土星軌道上の天文観測基地は騒然としていた。
『地球連合艦隊司令部へ』男の声が言った。『こちら土星天文観測ステーション・ベータ。太陽系外、およそ四億キロメートルの地点に異常な重力場の変動を検知した』
『こちら第一宇宙基地』女の声が答えた。『データは見たけど、これは本当なの?』
『センサーを三度チェックしました、間違いありません』
『こんな数値ありえない』
『えぇ、だから急いで報告したんです』
基地の天体レンズが射す方角。太陽系から遙か離れた場所。暗黒の宇宙をオーロラのように漂う星雲に囲まれた静かで美しい世界に、不気味な亀裂が走った。それは布地をビリビリと引き裂くように、またたく間に大きくなっていった。
*
「二時間前、巨大なウルトラホールが太陽系のすぐ近くに出現したの。ネクロズマの攻撃、鏡の世界からの侵略、原因はいくつも考えられるけど、どれも決定打に欠ける。ただし観測で得た数値を見る限り、少なくとも自然発生したものでないことだけは確かなようね」
提督の執務室に集められたのは、ルーナメアだけではなかった。
艦船を指揮する艦長がずらりと並んでデスクを囲み、皆一様に白髪の若い女性に視線を注いでいる。この女性こそ艦隊を指揮する提督のひとり、ミオ中将なのだが、驚くなかれ、二十代後半の見た目に反して実年齢は百を超えている。ミュウの遺伝子を組み込んだクローンゆえ、老化はとても緩やかだが、彼女が寿命で死ぬとは誰も思っていなかった。
それだけ奔放で知られる彼女が、このときばかりは深刻そうに説明を続けた。
「艦隊は招集可能な全艦艇を集めているけど、ひとまずここにいる七隻の船で事に当たります」
「恐れながら」厳格なミロカロスが尋ねた。「巨大とは、どれくらいの大きさですか?」
「当初の観測時点で四千キロメートルを超えてる。月より一回り大きいわ」
「バカな。それほど巨大なウルトラホールは、人工的には作れないはずです。サイズを広げるほど必要なエネルギーは指数関数的に増加する。恒星を丸ごとひとつ持ってきても足りるかどうか」
「しかも拡大しつつある、現在進行形で。あなた方には原因の調査と、必要とあらばウルトラホールの破壊を命令します」
「提督」毅然とした中年の男が返した。「お言葉ですが、それほど巨大なウルトラホールを破壊すれば、近隣の星系にも衝撃波が及びます。安全に破壊する方法はただひとつ……」
「パルキアね、分かってる。既にパルキアには支援要請を送り、アルセウスの審議会で承認されました。任務にはパルキアの護衛も含まれます。旗艦スカーレットに乗船させた後、編隊を組んでウルトラホールに向かいなさい」
「了解しました」と、ミロカロスが答えた。
「……質問がなければ以上とします、解散」
ぞろぞろと皆が出ていく中、ルーナメアも続こうとすると、背中から「あなたは残って」と声をかけられた。
すっかり静かになった執務室に、ふたりきり。ミオは窓際に向かい、宇宙の果てを見つめていた。
「……スターライトをどうするか、じゃな?」ルーナメアがデスクに腰を乗せて言うと。
「良い船でしょ」
「さすがは提督が自らデザイン設計を務めただけあるのう。乗組員は最小限で運用可能、短距離調査用で機体は小さいが、小回りが利く上に意外とタフじゃ。新兵器のおかげで火力も申し分ない」
「でも?」
「これはあくまでテスト航行での感想に過ぎん、太陽系をぐるっと一周しただけじゃ。ウルトラホールにすら入っておらん。本番投下には早過ぎる」
「すぐに動ける艦艇の数が少な過ぎるのよ、できればスターライトも任務に加えたいところなんだけど」
「提督としては、迷うところじゃな」
ルーナメアのニヤニヤ顔が窓にうっすらと見えて、ミオはしかめっ面で振り向いた。
「そんなに面白い?」
「昔のおぬしを知っていたら、特にな。プロメテウスの少尉だった少女ミオなら、こういう時はどうしたか?」
「四の五の言わずに飛び乗って行ったでしょうね」ミオはため息を吐いて続けた。「……直感に従うべきだと思う?」
「指揮するのはわしじゃ。どこかに問題があるように見えるか?」
ミオは肩を竦めて、どこか観念したように笑った。
「見えない」
*
「願いは叶うもんじゃな」
スターライトのブリッジに戻ったとたん、ルーナメアが艦長席に座りながら言った。
操舵席の青年士官はその意味も分からず尋ねた。
「なんですって?」
「おぬしの望んだチャンスが向こうから舞い込んで来よった。任務の通達は受け取っておるな? 非常警報を発令、他の艦艇に続いて発進じゃ」
「ぼ、僕が期待したのはこういうトラブルじゃありませんけど、了解です……!」
ガコン、と大きな音を立てて、船と基地を繋ぐクランプ(締め具)が外れ、スターライトはゆっくりと離れていく。
優雅で滑らかな白銀の機体が太陽の光を浴びてキラリと輝く。上面には艦艇の名である『STARLIGHT』の文字が刻まれ、流線型の機体から後方に伸びた二本のシリンダーが、発進の合図を受けて青く発光し始める。船尾から青い光とともに衝撃が排出され、船は大きく首を上げて動き出した。
目指すは他の艦艇たちと同じく、稲妻の嵐を伴う重力の大渦。一様に同じ方角を向いて揃った後、次々と超光速航行技術『ワープライド』で飛び出した。ルーナメアたちの操るU.I.S.スターライトは、伸びていく七つの流れ星の最後尾を飾り、光を超えた。
途方もなく巨大な渦、というよりも宇宙空間に空いた異質な裂け目を前にして、大小さまざまな七隻の艦艇が集まった。
時折迸る稲光が、スクリーンを通してブリッジを照らす。裂け目の縁は青く輝いて、内側の裂け目がより暗く、深く見えた。
青年士官はごくりと唾を呑んだ。
「不気味ですね……」
「自分の感想よりも先に分析しろ、少尉」
ルーナメアが促すと、少尉は慌てて。
「了解! えーと……規模は当初の観測記録よりも広がっていて、今は直径1万キロメートルに達しています。タキオン放射、ニュートリノ粒子ともに増大、これは艦隊の記録において最も巨大なウルトラホールです。毎秒およそ2キロメートルずつ拡大していますが、それ以外の数値は安定しています」
「安定? あれが?」
間近で見ると端から端を捉えきれない。空間の結び目がブチブチと千切れて、今なお端を広げている。明らかに放っておいて良いものの類いではない。
センサーでのスキャンを待ちながら呆然としていると、通信を知らせる電子音が鳴りだした。
「U.I.S.スカーレットよりメッセージを受信しました。彼らのセンサーが奇妙なノイズを捉えたそうです」
「音に変換して聞かせろ。波長をスクリーンに出すのも忘れるな?」
「了解」
ノイズと彼は言ったが、実際に流れたのはまるで歪んだメロディだ。海の底でホエルオーが歌っているような。しかし曲調は歪で、寒気すら感じさせる。ルーナメアは目を閉じて、ひたすら耳を澄ませていた。
「……おそらく重力場で波長が歪んでおるのじゃろう。補正できるか?」ルーナメアが尋ねると。
「お待ちください」
少尉がここぞとばかりに乗り出した。良いところを見せようと張り切っているのだろう、思わずルーナメアの口元が綻んだ。
彼の仕事は早く、しかも的確だ。メロディは少しずつ鮮明に、そして甲高くなっていく。だが未だに聴き取りづらい。喧騒の中で、大勢が一斉に喋っているみたいだ。
「……全部ひとつのパターンじゃ。それが重複しておる、なにかで反響しておるな」
「特定して抽出します」
命じられる前に、少尉が取りかかった。
唯一残った旋律は、規則的に並んだ電子音だった。ルーナメアは驚き、目を見開いた。
「これには聞き覚えがあるぞ、艦隊の一般救難信号じゃ!」
「ということは、この裂け目の奥に艦隊の船が?」
「過去行方不明になった艦艇かもしれん。信号に識別番号が含まれているはずじゃ」
「データベースと照合してみます」
予想は見事に的中していた。それを喜んだり慌てたりするのかと思いきや、少尉は制御盤に示された結果を見て、凍りついていた。
「どうした?」
尋ねても答えない。
「おい、どうしたと聞いておる! 発信元の艦艇は何という名前なのじゃ!」
「スターライトです……識別番号1083、U.I.S.スターライト……艦長、まさにこの船です」
「……なんじゃと?」
なにかの間違いだ。問い質そうとしたそのとき、船が衝撃を浴びて大きく傾いた。
警報音がそこら中で鳴り始めた。他の艦艇も同じ状況なのだろう、穏やかだった通信が乱れ飛んで、少尉はパニックを起こした。
「報告!」ルーナメアは肘掛けにしがみつきながら叫んだ。
「重力場が急激に拡大、全艦艇が裂け目に引っ張られています! 姿勢制御システム停止!」
「ワープライド航行でただちに離脱じゃ!」
「フィールドを生成できません、航行システムはオフラインです!」
七隻の船が重力圏から逃れようと、懸命にエンジンを逆噴射していた。それでも脱出には足りず、少しずつ蟻地獄に引き寄せられていく。
その中央、重力の源である裂け目には、月よりも大きな赤い眼がぎょろり覗き、不気味に光っている。まるで獲物が落ちてくるのを今か今かと待ち望んでいるかのように。
もはや突然現れたあの眼が何かを聞くよりも、とにかく重力場から脱出することが先決だ。
「パルキアは何をしておるんじゃ!?」ルーナメアが喚くと。
「スカーレットからの報告によると、パルキアは既にウルトラホールの縫合を試みていますが、負のエネルギーに相殺されて効果がありません!」
「そんなものどこから湧いてきた!?」
「ウルトラホールの奥からですが、発生源は不明です!」
一隻が裂け目に向かって破壊光線にも似た光子ビームによる砲撃を始めた。二隻、三隻とそれに続く。しかしサイズがあまりにも違いすぎた。コラッタがキョダイマックスしたカビゴンに体当たりするようなものだ。
少尉も砲撃を試みるが、ルーナメアが「待て!」と叫んで止めた。
「他に方法がありますか!?」
懸命に問われて、ルーナメアは「ある」と渋い顔で頷いた。
「裂け目の中心から全艦艇に向けて反重力子ビームを照射すれば、この重力場から弾き出されて助かるかもしれん」
「それって」少尉はすぐに察して、口を開けたまま言葉に詰まった。「……この船なら、犠牲は一番少なくて済みますね」
「勘違いするな、おぬしらを他の船に転送してからの話じゃ」
「でも、少なくとも誰かが残らないと……艦長、私が残って船を操縦します」
「いいや、わしが残る」
「艦長!?」
「説得しても無駄じゃぞ、ミオ提督すらわしの意思は変えられん」
揺れる船の中、少尉は言葉を探したが見つからない。上官の決意を変えるのは無理だと分かっていたが、同時に安堵する自分に罪悪感を抱えていた。
それを見抜いた上で、ルーナメアは微笑んだ。
「時間がないぞ、さあ行くのじゃ」
「……ご武運を祈ります」
見上げて、ルーナメア。
少尉が、乗組員たちが光の粒子に包まれて、ひとり、またひとりと消えていく。残った最後の一粒が、ふっと消えた瞬間、あのときの言葉が脳裏をよぎった。
『転送プロセス、完了』
船に搭載された人工知能が報告する。
ルーナメアは揺れる船をものともせず、空いた操舵席に座った。息を吸って、制御盤を見つめる。そして息を吐いて、エンジンの逆噴射を止めた。
なんとか踏み止まろうとする七隻の中から、スターライトだけが勢いよくデッドラインを超えた。スクリーンに赤い警告の字が灯る。
『警告。船外圧力が増加、構造崩壊まで二十秒』
ご丁寧に死のカウントダウンをどうも。
ルーナメアはお構いなしに操縦を続けた。スターライトから他の六隻に緑色のレーザー光線が放たれ、命中した艦艇が次々と弾かれていく。全艦が重力場を脱したと見るや、ルーナメアは安堵のため息を吐いて背もたれに寄りかかった。
そして、ヒビ割れたスクリーンをゆっくりと見上げた。もはやウルトラホールの縁も見えないが、暗闇の中で不気味に輝く深紅の光だけはハッキリと見えた。
「……すまんのう、姐さんや。流れ星など何処にも見当たらんわ」
スターライトは宇宙の裂け目に呑み込まれて……その小さな光が、消えた。
*
見上げて、ルーナメア。
流れ星が消える前に願い事を三回唱えると、願いが叶うと言われているの。
あなたに自由が訪れますように。
夜空にひとつ、流れ星が生まれて消えた。
「起きて……起きて、ルーナメア。起きなさい」
彼方の記憶で褪せていた穏やかな声が、遠くから少しずつ近づいてくる。
いや、彼女は初めから近くにいた。腹を枕に眠るラティアスを、その赤い翼で毛布のように包んでいる。
そうだ。昔はなにか嫌なことがある度に、彼女の寝床に潜り込み、朝まで甘えていたっけか。ルーナメアが寝ぼけた眼をうっすら開けると、ぼやけていた懐かしの顔が、はっきりと見えるようになってきた。
姐と慕ったラティアスが、朝の日差しを浴びて穏やかに輝いていた。
「……姐さん?」
「やっと起きたのね、お寝坊さん。もうお昼前よ」
「重力場は? スターライトはどうなったんじゃ?」
「すたー、何?」
「さっきまで乗っておった船じゃ」
「ゴンドラのこと? 昨日あなたが壊したっていう?」
「壊した?」
そういえば、小さい頃にそんな事もやったような……。
夢うつつで聞いていたが、一転してルーナメアは飛び起きた。見慣れた小屋の二階だ。古びた画材の匂いが鼻をつく。床に敷いた寝床用のクッション、壁にはキャンパスに描いた絵が飾ってある。記憶が確かなら、ここはアルトマーレにある守人の家だ。
そして何より驚くべきは。到底信じられないが、部屋を飛び出し、洗面台の鏡に鼻先を押しつけて、思い知った。
「なんでわしが子供の姿になっておるんじゃ!?」
「ルーナメア、どうしたの?」ラティアスも心配そうについて来たが。
「いや、違う、おぬしは姐さんではない。そんな訳がない。いったい何が目的で騙そうとしているのかは知らんが、わしを今すぐ船に戻せ!」
「お願いだから落ち着いて。船ってなんのこと? あなたは何を言っているの? 悪い夢でも見たの? ちゃんと聞くから全部教えてちょうだい」
「嫌じゃ! 近づくな!」
ルーナメアは叫んで、ラティアスの傍をすり抜けて階段を飛び降りた。
五感すべてが訴える。これらは全部本物だと。しかし頭で強引にねじ伏せる。それはありえない。これは夢か、誰かが洗脳して操ろうとしているのだ。
玄関から外に飛び出して、ルーナメアは愕然と立ち尽くした。
小屋はアルトマーレの物だった。しかし外に広がる光景はまったくの別物。人とポケモンの往来する街だが、水の都ではない。
とにかく異様な街だった。家のデザインもひとつひとつまったく違う文化から取り込んでいる。隣家はガラル地方の建築様式らしいレンガで造られ、向かいの家は起源さえ分からない氷の壁に覆われている。蔓を編んで建てた家、大きな金魚鉢のような家、まるで世界中から違うパズルを集めてきて、強引に当てはめたように見える。
「ありえん、これは何かの間違いじゃ……わしはまだ夢を見ておるのか……?」
頬をつねってみても痛いだけ。そもそも匂いを伴う幻覚なんて妙だ。
そのうち後ろからスッと腕が回って、ラティアスがルーナメアを優しく抱き留めた。
「可哀想に、とても怖い夢を見ていたのね。でも大丈夫、ここは絶対に安全だから。さあ家に戻って朝食にしましょう、今朝は採れたて新鮮なおいしいリンゴよ」
手を振り払って逃げようと思ったのに、できなかった。偽物だと分かっているのに、喉から熱いものが込み上げて、その柔肌にすがりたくなってしまう。
ルーナメアは頑なに口を結んで、ひと言も返さなかったが、黙って頷いた。
今はおとなしく様子を見るのじゃ。ここがどこで、此奴が何者なのか、正体を見極めねばならぬ。見ておれ、偽物め。いまに化けの皮を剥いで、姐さんに成りすましたことを骨の髄まで後悔させてくれようぞ!
湧き上がる決意を一瞬で押し殺して、ラティアスに振り向いたルーナメアは、満面の笑顔を浮かべていた。
「リンゴは大好きじゃ! わしは大きなリンゴをみっつ食べるぞ!」
「もう、一度に食べ過ぎよ」
互いに額をすり合わせて、仲睦まじく家の中に戻っていった。