第86話 Last time for dialogue 後編

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 
 ──ケイジュのその言葉が、あたかも弾丸のようにユズの胸を貫いたのは言うまでもない。

 「......え?」

 その口から漏れる困惑の声は、その状況を体現するかのようにやけにか細く不安定だった。 硬直する彼女を前にして、ケイジュは淡々と続ける。

 「ノバラ。 貴方がこちらに来ないことは、予想がついていた。 覚えているかは分かりませんが......ソヨカゼの森で、貴方は魔狼に呑まれながらもキラリを守ったんですよ。 私の攻撃からね」
 「えっ......でも、あの時は」
 「きっと、呑まれてもなお残っているものがあったのでしょう。 今、貴方は私の言葉に驚いたが──その時の私の驚愕は、そんなものじゃなかった。 まるで世界がひっくり返ったようだった」

 ──覚えていない。 そんなことが起こっていたとはにわかに信じられなかったが、ケイジュの悔しそうな顔がその事実の存在を物語っていた。
 彼は自分の黒い手を見つめ、自分の手のひらにある思考を反芻する。

 「......あれからずっと、考えていました。 貴方に拒絶されたあの瞬間に、私の大義名分の一部は消え失せたんです。 だから考え直す必要があった。 初心に返る必要があったんです。 なんで私が、あんな凶行に及ぼうとしたのか。 そして今も尚、諦める気がないのか。 思えば凄く簡単なことでした。 私が単に、この世界を嫌ってるんです。 ポケモンが織りなす負の連鎖を、終わらせなければと思ったんです。 優しい貴方にはそこまで縁のない感情かもしれませんが、人間は嫌いなものを相手にするとどこまでも狂えるものなんですよ。
 この世界は病原菌そのものだ。 私達の世界を絶え間なく浸食し続ける。 貴方さえも浸食されてしまった。 魔狼を生み出した憎き世界に絆された」
 「......っ、それは違う!!」

 ユズは思わず言い返す。

 「魔狼のことは、確かに辛い。 それを肯定するのは嫌だ。 だけど、それでこの世界が醜いって思いたくない! ......兄さん、私元気になれたんだよ。 まだ、完全に大丈夫なわけじゃないけど......でも、きっと大丈夫だとは思えるようになったんだよ」
 「......確かに、そのように見えますが」
 「それは、キラリ達がいたからなんだよ。 みんなが支えてくれたお陰なんだよ」

 キラリ、レオン、イリータ、オロル、ジュリ、アカガネ──6匹の顔が、ユズの頭の中に浮かぶ。 きらきらとしていたさっきまでの時間が、暗闇の中で一層光を放っていた。
 ......みんなとの今までの思い出を、「絆された」なんて軽い言葉で片付けられてなるものか。

 「この世界に来た理由は、自分でも最低だと思う。 兄さんに流されかけてたのは事実だから。 ......でも、この世界に『来れた』から、私は私に戻れたんだよ! ここでキラリ達に出会って......だから今こうして生きてるんだよ! みんなのお陰で、私は未来を見いだせるようになったんだよ!」

 時に笑って、時に涙して、時に思いの丈をぶつけあって。 そんなこと、この世界に来なければもう一生出来ないはずだった。 キラリ達と巡り会ったからこそ、あの暗闇から抜け出すことができたのだ。 きらきらした未来を夢想することも、やっとちゃんと出来るようになったのだ。
 そんな明るい自分の記憶とケイジュの言う暗い印象は、どうしても交わらなくて。 水と油のように、反発し合って。 それが、あまりにももどかしくて。

 「だから、そんな悲しいこと言わないでよ。 そんなこと──」
 「ノバラ」

 ユズは必死に語りかけたが、ケイジュはそれも意に介さず冷静に制した。 1つ、ため息の音。 続く言葉が、ユズの熱い熱情に水を差す。

 「──貴方だって、被害者でしょうに。 この世界が生み出した災厄の」
 「っ......!?」

 ......災厄。 嫌な記憶が脳内に過ぎり、ユズは思わず黙りこくる。 フィニやジュリは、自分のことを災厄と、獣と呼んだ。 それは半分事実で、でも半分嘘だ。 その責任を、どこかに──この世界に押しつけられたなら、楽になれたのだろうか。 そんな事もう、出来る訳がないけれど。 絆されたというのは、もしかしてこういう......いや。 でも。
 様々な感情の波に揺られながら、ユズは半ば泣きそうな声で問う。

 「被害者だから、何だっていうの?」

 勝手なことばかり言わないでくれ──行き場のない雑多な感情をぶつけるアテは、目の前にいるポケモンしかなかった。

 「──ノバラ」
 「悪いのは魔狼でしょ? どうして、その恨みを世界にまで向けちゃうの?
 ......兄さんは、魔狼の事を全部知ってるっていうの!?」

 ......ケイジュはすぐには答えない。 その空白の時間の中で、ユズは少し今の言葉を発したことを後悔した。 冷静さを欠いて少し口調が尖ってしまったし......それに。
 全ての根本にも関わる疑問を、唐突に彼に向かって投げつけてしまったのだから。
















 「......ええ」

 時間をおいたのにも関わらず、その答えはとても素直だった。 ケイジュはこくりと頷く。 その反応を聞いたユズの顔が、どこか翳りを帯びた。

 「......それならどうして、春に教えてくれなかったの」
 「さっきも言いましたが、あの時は急いでいたんです。 全部話すと長くなるし、それに貴方も、あの時はまともに話を理解できるような状況ではなかったでしょう」
 「そうだけど......」

 確かにあの時話されたところで、自分の心に変化なんて生まれなかっただろう。 けれど、ここまで何も知らなかったという悔しさは、心に貼り付いたまま離れなかった。

 「間違ってるっていう、可能性はないの?」
 「無いでしょう。 少し昔話みたいになりますけど、適当に書斎の本を漁っていたら、丁度1つの書物を見つけたんですよ。 ご丁寧にサイコパワーで守られていたので、目につきやすくて。 それで、興味本位でページを捲ってみたのですけれど......虹色聖山にありましたよね、不思議な壁画。 私が読んだそれは、そこに描かれていた『英雄』と呼ばれる人間に関する書物だったんです。 それも、本人とあともう1人の手で書かれたものなんですけど......」
 「えっ」
 「それで......いや、これ以上はよしましょう」
 
 ケイジュは少し目を伏せた。

 「今私が話す訳にもいかない。 まがりなりにも、敵対する相手の言葉ですから。 私が今何か言ったところで、きっとどこかに偏りのあるものになる。 そんなものが信頼できると思いますか?
 それに私は、貴方に自分の手で真実をつかんで欲しい。 真実をつかんだ上で、『貴方自身』の手で選択して欲しいんです。 もしその手段についてのヒントが欲しいならば、与えますよ」

 それはケイジュなりの親切だったのかもしれないが、ユズはふるふると首を横に振る。 丁度、準備だって佳境にさしかかっているのだ。

 「大丈夫。 キラリ達のお陰で、そこはつかめた」
 「......そうですか。 貴方はやはり幸運ですね。 最初に出会ったのが彼女で。 彼女は確かに、厄介ではあるが......羨ましくもある」
 「えっ......」

 キラリを羨ましく思う? 彼が? 思いもよらない言葉に、ユズは目を丸くする。 気になりすぎて、つい理由を聞いてしまった。

 「どうしてそう思うの?」
 「......そうですね。 答えろと言われると難しいですが......言うのであれば、真逆だからだろうか」

 夜空を眺め、彼は1つ白い息を吐く。

 「どこまでも素直で、馬鹿みたいに正直だ。 貴方とユイも相当だとは思うが、彼女は多分それ以上だ。 それでいて周りを鼓舞し、時に鼓舞され、絶体絶命の状況を打開する鍵となる。 私には到底持てそうにない強みだ。 本当に、敵ながらあっぱれです。 彼女のせいで、こちらの計画が大幅に狂った。
 でもだからこそ、彼女の周りにはポケモンが集うのかもしれませんね。 大人、同期の探険隊、あの捻くれ者。 そして、貴方も──」

 ケイジュは静かに口をつぐむ。 ユズも後追いはせず、ただ黙って聞いていた。 そして、

 「もし敵でなければ、私も彼女と通じ合えたのだろうか」

 その小さな願いを、彼女は聞き逃さなかった。


















 ......もしかしたら、今なら。 ユズは、彼の言葉にそんな一縷の希望をかけた。

 「......兄さん。 本当に、止まれないの?」
 「......はい」
 「私が何を言っても?」
 「ええ」
 「......力尽くでも止めるって言っても?」
 「ええ。 ......もう後戻りも出来ませんから」

 ケイジュはその場で立ち上がり、おもむろに右手を月に翳した。

 「──私は最初、悪魔や魔王にでもなる覚悟でこの世界に来たんです。 正体を明かす前なら、まだ間に合ったのかもしれない。 でも、もう今更でしょう。 私はこの世界のポケモンにとって、畏怖の存在になってしまった。 貴方には分からない感情かもしれない。 だけど......引けない時というのは、あるんです」

 彼はその手を見やるが、煌々と輝く月の光を浴びても、その黒い手が明るい色を帯びることはなかった。 寧ろ逆だ。 まるで、光を呑み込む冷たい夜の海のようだ。
 否応なしに、理解してしまう。 彼の今いる場所が、どこなのか。 自分がかつて沈んだ場所──いや、それよりもっと深いところだ。

 「もしかしたら、これは呪いなのかもしれない。 こうでもしないといけないと叫ぶ『何か』が、私を縛り付けているのかもしれない。 そう言う意味で、私はあの捻くれ者とよく似ている。 過去を無視して生きるわけにはいかないという感情は、不本意ながらも分かってしまう。 ......同族嫌悪、なのかもしれませんね。
 確かに、この世界にある光も私は知っています。 どんなに潰されようと諦めない執念も、誰かの言葉を背負い立ち上がる姿も、力強く、そして尊いものだ。 なのに、それを認めたくない私がいるんです。 そして、私はそんな自分を無視することが出来ないんです。
 ここまで聞けばお分かりでしょう? 私は本来異端と見做されてしかるべき人間なんだ。 貴方のような優しい人が、本来関わってはいけない人間なんです。 そういう、存在なんです。 だから......ごめんなさい」
 「......っ」

 思わず身震いしてしまいそうな、冷たい感覚がユズを襲う。 かつてのキラリの言葉を借りるなら、「どこか遠くに行ってしまいそうな」感覚。 まさかこれを自ら感じる日が来るだなんて。

 (だから......やっぱ、止めたいなぁ)

 今となっては懐かしいとも思える、あの茨の城。キラリがそう言いながらあんなに泣いてた理由が、今ならよく分かる。 見たくないに決まってるんだ。 自分の大事な相手が、自分でかけた呪いで死ぬ姿なんて。 何かを諦めて、刃物に頼らずとも自分の心を引き裂く姿なんて。
 ......そんなの、緩やかな自殺じゃないか。

 「......嫌だよ」














 
 「......ノバラ?」
 「兄さん、嫌だよ。 ......そんなの嫌だ!」

 ユズは葉っぱを振り乱し叫ぶ。 ペンダントが、それにつられチャリと音を立てた。 月光のせいだろうか、その光はどこか青白かった。
 さっき遮られた思いが、今ここで暴発する。

 「私、止めたいよ。 兄さんを止めたいよ。 世界を壊すなんてやめようよ。 そんなことしても誰も喜ばないし、兄さんが本当に満たされるとも思えない。 ただ虚しいだけじゃないの? 兄さんの中には、そういう願望しか無いわけじゃないんでしょう?
 ──私は知ってるよ? 本当の兄さんは、兄さんが言うような人じゃないって知ってるよ? キラリ達にとっては恐ろしい悪者でしかなくても、私は兄さんが本当は優しい人だって、知ってるんだよ?」

 哀しくてたまらなかった。 どこか既視感を覚えると思ったら、それは紛れもない自分のことだった。 だからこそ、なのかもしれない。
 ここにあの茨の城はないけれど、目の前の彼は、確かにその茨に縛られているように思えた。 漆黒の闇の底で──ひとりで。
 
 「教えてよ。 どうしてそんなこと思うのか、理由を教えてよ! 逃げちゃいけないものもある、それは分かる、分かるけど......でも、こんなのは違うに決まってるよ!! キラリ達もそうだし、兄さんだって死んじゃうかもしれないんだよ!? 私もうそんなの見たくないよ!! 誰も死なせないって決めたんだよ!!
 呪いがあるって言うんなら......だったら!」

 問わなければならない。 今、彼の心に。 かつて、キラリがそうしてくれたみたいに。 潰さなくていいんだと、語りかけてくれたみたいに。
 ......たったのひと言でいいんだ。


 「そんな呪い、私が解いてみせるよ......!!」


 ──あなたの光は、どこにあるの?

















 「......ごめんなさい」

 返ってきたのは、1つの冷たい拒絶の言葉。 そう言うケイジュの顔は、優しさと切なさでないまぜになっているように見えた。 ──少し躊躇った後、彼は静かにユズの頭を撫でる。

 「本当に、貴方はお人好しだ。 よかった、そこはずっと変わっていなくて。 思いに応えられずごめんなさい。 ......でも、ありがとうございます」

 その感謝は、とても優しい声だった。 そして彼の手が頭から離れると同時に、彼の心へと続くかもしれなかった道が、虚しくも消えてしまった気がしてしまった。
 ショックを受けるユズにとって更に無慈悲なのは、その後に彼が自分の暖かい思い出を想起させてきたことだった。
 
 「そうだ、ノバラ。 ......今日、貴方の誕生日ですよね」
 「えっ......うん。 でも、どうして」
 「......これを、渡しておきたくて」

 その瞬間は少し唐突だった。 あまり慣れているわけではないのか、彼はおぼつかない手つきでユズの手に1つの小さな袋を手渡した。 触ってみると、何かがごろごろと入っているような感触。 ......花の球根、だろうか?

 「これ」
 「変なものですよね。 会えるかどうかも分からないのに、プレゼントを用意するなんて。 花を育てるのが趣味と聞いていたので、チューリップの球根です。
 ......もしかして嫌でしたか? 誕生日プレゼントなんて、ずっとあげてなかったから中々勝手が分からなくて」
 「いや、そんなこと......春の花選ぶタイミングがなくて、どうしようかなって、思ってたから......」
 「そうか、ならよかった」

 ケイジュがほっとしたような笑みをこぼすのと同時に、ユズの中にじんとした感情が染みていく。 でも、それはどこか不完全な喜びだった。

 「......そういえば、色は何がある?」
 「色々買ったんですけど......例えば白とか、桃色とか、黄色とか......ですかね。 種類は多くしたつもりです」
 「そっか......ありがとう。 花って、色が沢山あると綺麗だから」
 「ですよね......懐かしいな。 これって、どの家の前にも咲いてましたよね。 毎年春になる度に、貴方はユイと一緒に花壇の周りをぐるぐる駆け回って......」 
 「それは昔の話でしょ......でも、好きなのはそう。 それに、キラリもきっと喜ぶ」
 「......へぇ。 彼女も花が」
 「うん。 この前、花についての本を買ってきてくれたぐらい」
 「そうか、それはいいことだ......ねぇ、ノバラ」
 「何?」
 「白いチューリップの花言葉、知っていますか? それも、ジョウトにはない言葉で」
 「えっ......それは、知らない」

 ノータイムで首を振るユズに対して、ケイジュは答え合わせをする。 丁度、昔勉強を教えてもらった時のように。

 「Ask for forgiveness. どうやら、『許しを請う』というものらしい」

 その言葉の言い知れない重みに、ユズの心は後ずさり。 唐突さに一瞬首を傾げたが、その言葉の意味はすぐに理解できた。 彼が、何気なく夜空を仰いでこう言ったから。

 「それになぞらえてといいますか、1つ、お願いがあります。 ──少し、何も言わずに座っていても良いですか?」

 ケイジュの声色は、まさにその花言葉通りのものだった。 理由を聞くか迷ったが、それはやめることにした。
 1つ、頷く。

 「......いいよ」

 2つの背中が、静かに丘の上に並ぶ。 何を話すわけでもない、端から見れば虚無の時間。 でも、ユズはそこにどこか大きな意味を感じてならなかった。

















 少し、時間が経っただろうか。 真っ直ぐ海を見つめるユズの耳に、ケイジュの声が届く。

 「──もうすぐ、年も明けるか。 ノバラ、そういえばキラリ達は?」
 「えっ......オニユリタウンの、お店にいる。 誕生日を祝って貰ってて......でも、どうして」
 「そうですか......」

 ケイジュは少し俯き、目を閉じた。 何かを言いかけ口をつぐむのが見えたが、ユズがそれを聞く前に彼はおもむろに立ち上がった。

 「......戻ってみてはどうですか、ノバラ」
 「えっ」

 急にどうしたというのか。 謎の予感が背中をつーっとなぞる。 当然、それがいい予感ではないのは確かだった。
 ......何かを隠されているような、どこか気持ち悪い感覚がした。

 「こんなに長く外にいると、彼女らもきっと心配するでしょう」
 「でもまだ時間は平気なはずだし......それに、兄さんが」
 「私はもう行きます。 話せることは、ちゃんと話せたので」
 「待ってよ! 私まだっ......」
 「......ごめんなさい」
 
 焦る心に、ケイジュの声が突き刺さった。
 ──そして、目に映る彼の顔は。

 「......兄さん」

 ユズの声が勢いを失う。 そんな悲しそうな顔を見てしまうと、どうしても分かってしまう。 言いたいことは言ったというけれど、彼だって、何も未練がないわけがないのだ。 まだ伝えたいことは色々あるのだ。
 ......でも、時間は有限だから。 平行線の議論をずっと続けているわけにもいかなかった。 戻ってきてとどんなに願っても、それは無意味なものでしかない。 明日はやってくる。 時が経てば、無事でいられたなら、真実もいずれはつかむことになる。
 そうなれば、今度向き合う時は──。

 「最後に、これだけ伝えておきます。 ......もう、貴方は私がいなくても進んでいける。 現に貴方は今自力で、自らの道を選ぼうとしている。 それはとても素晴らしいことだ。 だから大事にしてください。 貴方の心も身体も、貴方のものなんですから。
 その球根も、使い方はお任せしますよ」

 ──言葉が、出なかった。 何か言いたいことがあるはずなのに、喉につっかえて出てこなかった。
 それなのに、どうして彼は微笑むのか。 どうして、そんな優しげな言葉を理路整然と並べられるのか。 こんな、満ち足りた顔で。
 ......怖い。


 「ありがとう、ノバラ。 ......ちゃんと話せて、嬉しかった」


 こんな怖い感謝、もう聞きたくないのに。

















 彼はユズに背を向け、少しずつ透明になっていく。 暗い夜の世界へ、消えていく。 その光景は、昔の雨の日と重なるものがあった。
 
 「あっ──」

 ユズは急いで立ち上がり、首から蔓を伸ばした。 あの日出来なかった分まで、勇気を振り絞る。 その瞳には、「人間」の彼と「ポケモン」の彼の両方が映り込んでいた。

 複雑な思考なんかどこにもなかった。
 「行かないで」。 彼女の願いは、それだけだった。

 「──兄さん!!」

 必死で、彼の背中へ蔓を伸ばす。
 

















 ──さようなら。

 そんな声が、微かに聞こえた気がした。

















 「......っ!!」

 ......時既に遅し。 彼の背中はそのまま風景に融け込み、跡形もなく消えてしまった。 背中になびくヒレすらも、掴むことが出来なかった。
 そこから少し前に走ってみても、辺りを見回しても、丘をうろちょろ回ってみても、目をじっと細めてみても、彼を捉える事は出来なかった。 彼はユズの前から、あまりにも忽然と姿を消してしまった。
 ......届かなかった。 手はちゃんと伸ばしたのに。

 「......そんな」

 ユズは茫然とその場に突っ立ってしまう。 彼に伸ばした蔓を見ると、それは小刻みに震えていた。 ──何故だろう。 「彼」とは、もう2度と会えないような気がしてしまう。 明確な根拠なんてどこにもないのに。
 「嬉しかった」という言葉が、重く胸にのしかかる。 普通ならさらりと受け流せるはずなのに、今のはどこか泥のように重い雰囲気を纏っていた。
 ......まるで、別れの言葉みたいじゃないか。

 「......兄さん、どこに行くの?」

 何を言ったところで、この声が彼に届くことはない。 半ば諦めにも近いため息が漏れた。 気が重くなりそうな静寂の中で、ユズは1歩前に踏み出しその先にある海を見やった。 限りなく続く水面には何もない。 中を覗いても、あるのは漆黒の闇だけだった。

 彼はどこに行くのだろう。 かつて自分も沈んだ、あの暗闇の底なのだろうか。 もしくは、それともまた違う世界なのだろうか。 ......どれにせよ、きっと寂しい世界には違いない。
 さっきちゃんと聞いておけばよかった。 そうすれば、追いかけられるのに。 キラリが自分にそうしてくれたように、自分も彼の元まで手を伸ばすことが出来るのに。

 ......後悔しても、遅いのだろうか? 彼はこのまま、自分の手の届かないところに行ってしまうのだろうか?
 ──そんなの。



 













 ──そうだ。 嫌に決まってる。

 絶対嫌だよ。行かないで。 お願いだから。
 私を置いて、勝手に沈んでいかないで。 このまま、消えてしまわないで。

 魔王になんか、悪魔になんか、ならなくていいから。

 ......どうか、どうか。


 「......よ」


 

 


 







 


 ──その時。 遠くから重低音が響く。

 「......っ!!」

 音の出所は役所の方。 目を細めてみると、役所の頂点の鐘が規則的に揺らいでいるのが見えた。
 そしてそれと同時に、店を出る時に聞いたキラリの声が蘇る。

 (年越し10分前に鐘が鳴るの! 鳴ったら早く戻ってきてね!)

 あまりにも平和なその言葉は、芯まで冷えた心と身体を温めてくれる。 ユズはマフラーを巻き直し、もう一度役所のある方を見やった。 あの暖かさが、恋しくてたまらない。
 ......戻りたい。

 「......帰らなきゃ」

 ユズは冷たい紺碧の海に背を向け、走り出す。 鼻の奥がつんとするのを、風を浴びることでなんとか抑えようとした。 後ろ髪引かれる感覚に襲われながらも、ごめんなさいと呟きそれを払いのけた。

 ──どうか今だけはと、許しを請うた。





















 
 

 追い縋る木枯らしは、いずれ吹雪へと置き換わる。
 さあ、「過去」の眠る世界に旅立とう。

 全ての種は、蒔かれたのだから。

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