特別編1 雨に結ぶ花の残り香

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

(2022年8月2日)
※輝きの探検隊全体の物語は既に6章に入っているのですが、この特別編は位置づけとしてはその前の「幕章 光達の行く先」に入る話です。(話の並びもそうなっています) そのため第5章読了後であれば内容は理解できる話です。ですが作者としては69,75話読了後に読むことをお勧めします。変則的な流れとなりますがご了承ください。






 








 物語の外側。

 あの日、私達は取り残された。

 窓の外の豪雨を眺めて、同僚と「怖いなぁ」と息を呑み、それぞれの仕事場に戻る。
 
 あの豪雨の中に消えたもののことなんて、考えてすらいなかった。
 


 ──雨に打たれ、枝との結い目が綻んで。 そうして地面に落ちた花は、2度と元の場所に戻ることはない。

 

 分かっていた、はずなのに。






─────────────────────













 ──最近、夢を見ることがある。



 白い景色の中。 ぼんやりとした霧の向こう側に、2つの影が見える。 それらの影は人間のものではない。 ポケモンだ。 私はポケモンには詳しくないから、種族名はわからないのだけれど。

 一方は灰色の毛皮に覆われた小さくかわいらしいポケモン。 元気そうにぴょんぴょん跳ねている。
 もう一方は頭に葉っぱを持つこれまた小さな4足歩行のポケモン。 元気な片方とは裏腹に、こちらは物静かだ。 だからといってぶっきらぼうなわけではなくて、にこにこと優しく笑っている。
 ......私は、その優しい笑顔から目が離せなかった。

 あの子に一体何があるのか。 目が釘付けになりながら考えていると、白いモヤは急に視界を閉ざす。
 2つの影は、遠くなっていく。
 
 「──っ、待って!!」

 思わず叫ぶ。 でもその声は届くことはない。 どんどん影は遠ざかり、しまいにはもう見えなくなる。

 「待って、お願い.......」

 心は追いかけたくてたまらないのに、それが叶うこともない。 たまらなくもどかしい。

 その思いのままに、叫ぶのだけれど。 振り向いてくれることを、願うのだけれど。


 「~~!!!」

 その叫び虚しく、あの綺麗すぎる白すらも消える。ぐんと、身体がどこかに引き戻される。












 「っ!!」

 ぎしりと音を立て、ベッドから跳ね起きる。 息はなぜか荒くなっていた。 薄暗い部屋の中で暫く呆然とした後、自分の鼓動を強く感じ、胸の辺りに手を当てる。
 また、この夢だ。

 「......なんで」

 私は、そう呟かずにはいられない。 だって、あり得ないはずなのだ。 あの夢の中で、すらりと出てくれる言葉ではないはずなのだ。 それに、普段は周りの人の前では自分から切り出さないようにしているのに。 悲しくなるから、同情を誘うだけだからと封印しているのに。

 「ノバラ......」

 ──それなのに。 自分の娘の、名前を呼ぶなんて。

 










 いつものように起き、寝癖でぼさぼさになった髪を結び、リビングへと向かう。 まず最初に、ベランダのプランターに植えられたゼラニウムの花に水をあげた。 綺麗に咲く赤い花を見ていると癒やされるし、それと同時に1つ思い出す。 ......確か、若い店員さんが鈴のような優しい声で言っていたっけ。

 赤いゼラニウムの花言葉は、「君ありて幸福」。 家族や友人へのプレゼントにも使える、とても素敵な花。

 ......そうなんですかと当たり障りのない返事を返したけれど、今の私にはその言葉が深く突き刺さる。 それでもこの花を選んだのは未練があるからなのか、それとも、もう戻ってこないと飲み込もうとしているからなのか。 それは自分でも分からなかった。 ただ惹かれただけなのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、少し水を注ぎすぎてしまっていた。 「あっ」と間抜けな声を漏らし、ごめんなさいと心の中で謝った。 花はそんなことには構わず風に吹かれゆらゆら不規則に揺れている。
 私は頭を軽く抱える。 いつもよりどこか感傷的なのは何故だろうかと自分でも疑問に思った。





 ポストから新聞を抜き取り、朝食を作り。誰もいない席と向かい合いながら白米を味噌汁と一緒に流し込む。 まるで、子が消えた後の鳥の巣にいるかのような感覚だ。 質素な朝食からあがる湯気は、どこか私には虚ろなものに思えた。 新聞にもつまらないか面倒そうなニュースしかない。 1枚目はすぐに興味が失せてしまった。 けれど、その新聞の上部に書かれていた日付に私の目が止まる。 そういえばと思ったのち、何気なく紙をめくると。

 「......あ」

 その瞬間手が強張る。 2枚目の紙にでかでかと書かれた言葉が、私の頭を真っ白にした。 そしてそこに、私のさっきの疑問の答えがあった。


 「ジョウト地方、少女2名の誘拐事件から1年」


 手が震える中、その記事に目を泳がせる。 当然ながら、そこには明るい言葉などなかった。

 「容疑者の供述は非現実的なもので、未だにその動機をつかめず──」
 「現場の状況と容疑者の発言の差異を考えると──」
 「この事件により1名が亡くなり、もう1名は現在行方不明──」

 ──行方不明。 手がかり知れず。



 ぐしゃりと、新聞紙を強く握りしめる。 心の傷を容赦なくえぐるその文言によって、どうしてもこの事実を実感させられてしまう。


 ああ、もう1年が経ってしまうのだ。
 ノバラの、家族の全てが壊れた、あの誘拐事件から。

 目の前の席に、ノバラが座らなくなった日から。

 ......あまりにも多くのものが、離れていった日から。














 ピンポン。

 「あ、はーい!!」

 家のインターホンが鳴り響く。 思わずはいと言ってしまったけれど、もしかしたらセールスか宗教勧誘の類だろうか。 それだけはありませんようにと願いながらドアを開く。
 でも、その心配は杞憂で終わった。

 「......ヒオさん」

 目の前に立つ上品な女性。 手に小さな籠を持った彼女は、にこりと微笑んでこちらに挨拶してきた。

 「お久しぶりね。 ──テリハさん」












 ヒオさんをダイニングルームに通して紅茶を出すと、彼女は淑やかな口調で「有難う」と言ってくれた。 私も席につき、互いに向き合う形となる。
 ヒオさんとは対面で会う機会は少ないものの、最近はこまめに連絡をとるようになっていた。 ノバラやユイちゃんが彼女やそちらのお孫さんにお世話になっていたことや、こちらの帰りが遅くなるときに夜ご飯を作ってくれた恩もあるのだが、一番はそれではない。
 ノバラの消え方と、そのお孫さんであるヒサメさんの消え方。 両者には共通点があったのだ。 何の痕跡も残さず、2人は急にいなくなった。 どれだけ調べても、ノバラの誘拐事件を元に怪しい奴らを調べても、一向に何の手がかりも見つからない。
 まるで、神隠しみたいじゃないか。 何度目かの警察の力ない声を聞いた時、私はそんなことを思ったものだった。

 「ノバラの方は、情報見つかった?」
 「......何も。 手がかりなしです。 ヒサメさんの時と同じだって、もう警察も途方に暮れてるぐらい。 ヒオさんの方は?」
 「同じくよ。 今年の春に目撃情報はあったらしいけど、時間が経っていたのが悔やまれるわ。 あの時通報してくれたなら、チャンスはあったでしょうに」

 ヒオさんは悔しそうな顔をする。 そう、なんと彼に関してはこの春に一度だけ目撃情報があったのだ。 少し報告までに時間がかかったというのもあり、警察が探しに来た時にはもうその近辺に彼はいなかったとか。 そうやって折角の手がかりも泡となり消えてしまった。 神隠し再来といったところだろうか。
 でも、1つだけ不思議なことがあった。 その目撃日は、丁度ノバラがいなくなった日に一致するのだ。 これには何か訳があるに違いないと踏んでいた。 流石にこんな重要な事はメールでなんて言えるわけがないから、次対面で会ったときにでも問いただしてみようと思っていたのだけれど。

 「そうだわ、その件に関してなんだけど」
 「え?」

 私が言いたかった言葉を、先にヒオさんは使ってきた。

 「これを言うために、私は今日貴女の家まで来たのよ」
 「? 何か、あったのですか? ......もしかして、ノバラの手がかり!?」

 私は半ば期待も込めて聞くが、ヒオさんは申し訳なさそうな顔で首を振った。

 「ごめんなさい、そうではないわ。 ただ、謝らなければならないことがあるの。 ずっと、貴女には隠していたこと」
 「......どういうこと、ですか?」

 唐突な流れに私は困惑した。 隠していたこと? それもずっと? 今それを切り出すことに意味はあるのか? 色々疑問は募るのだけれど、何故だろう。 まずはちゃんと聞かなければならないような気がしてきた。
 彼女の顔は、真剣そのものだったから。 今まで、見たことがないくらい。

 「ノバラの失踪は、ヒサメのそれと大いに関係があるかもしれないの」















 すっかり冷め切ってしまったのか、紅茶の湯気は消え去ってしまった。そこに映る私の顔はとても狼狽したものだった。

 「魔......狼......?」

 現実からかけ離れた言葉に思考が追いつかない。 いや、聞いたことはあるかもしれない。 確か、警察の方が軽く言っていたような。 記憶を呼び起こすと、頭の中には困り顔をした壮年の男の人が浮かんできた。

 (──現時点で、動機に関して大した情報は得られていません。 何せ、妄言ばかり吐くんですよ。 魔狼だとかなんだかって。 流石にこのご時世、無理矢理粘って吐かせるような事は出来ませんから......。 嫌なものです。 あんなことをしでかしておいて──)

 あの時、彼が小さく舌打ちをするのは。私には聞こえていた。 優しそうなこの人でもこんな顔をするのかと驚きつつ、本当になんて妄言を吐くのだと私も怒りに震えたものだった。 くだらないと思って内容自体は今の今まで忘れていたのだけれど......まさか、こんなところで出てくるなんて。
 ヒオさんの顔を覗くが、そこに冗談の色は見えない。

 (......本気、なのですね)

 そう表情で問うが、ヒオさんには何の変化もない。 それは無言の肯定だった。

 「......まさか」
 
 小さい声で呟く。 その後の言葉は出なかった。 いや、ポケモンだって不思議な生き物なんだけれど......それとは別次元の異質さがその名前にはあった。
 下手したら、食い潰されてしまいそうな。

 「ノバラにも、同じような顔をされたわ」
 「えっ」

 ヒオさんの顔が少し綻ぶ。 けれどそれは一瞬のこと。 私が驚いて顔を上げてすぐ、その顔は元の堅さを取り戻した。
 
 「自分に何が起きたのか、憑かれたばかりの彼女は理解できていなかった」

 その言葉には後悔も浮かんでいるような。 その声を聞いて、私の頭には幼き日の娘が思い浮かんだ。 健気で大人しく真面目だったあの子。 でも、困っていることはあまり言ってくれなかったあの子。 ......その、魔狼とやらの影を背負っていたあの子。 あの静かな笑顔がもし、取り繕ったものだったとしたら。 ──私の、前でだけ。

 「どうして」

 私は思わず1つ問い詰めた。 感情を抑え込みながら。

 「どうして、私には言ってくれなかったのですか」

 それは、母親としての我儘だった。 子供が抱えるものを知らずに、今までのうのうと生きてきた自分が恥ずかしくてたまらない。
 ヒオさんは申し訳なさそうに、でもはっきりと答えた。

 「まず、魔狼について知る者は元々少ない。 ジョウトにおける隠された伝説の1つであったからね。 無闇に外部に漏らしたくなかったというのが1つ。 そして、もう1つは」

 皺だらけの手を強く握りしめ、彼女は続けた。

 「元々私達の不手際だった。 それなのにあんな小さな子供に業を背負わせるというのは心苦しかった。 だから、せめて私達だけで解決させたかった。 それに、ノバラの心の安寧の場所も必要だった。 貴女に魔狼のことを教えていたら、彼女は四六時中それに関わらざるを得なくなる」

 私ははっとする。 確かにあの時知らされていたら、私は心配で眠れなくなっていただろう。 ノバラは目ざとい子だから、きっとそれにすぐに気づいたはずだ。
 ヒオさんの気遣いのお陰で、彼女の平凡な日常は少しだけ残されていた......ということになるのだろうか。

 「隠していたこともそうだし、やはり貴女に負い目はある。 私も、警察からあの誘拐事件の犯人の声は聞いたわ。 彼らは訳の分からないことをと犯人を馬鹿にしたけれど、私は絶句するほか無かったのよ。 奴らはどういうわけか魔狼の事を知り、そして狙った。 その結果として、ノバラをずっと支えてくれたユイは殺された。 最悪の事態が起こってしまった。 防ぐことが出来なかった。
 私こそ馬鹿だわ。 偉そうに自分達で解決したいなんて言っておいて、何も出来なかった。 ──本当に、申し訳なかった」

 ヒオさんが深く頭を下げる。 私はがたりと立ち上がって叫んだ。

 「止めてください」

 反射的に、その言葉は這い出てくる。 ......自分でも思った。 まるで悲鳴のようだと。








 「テリハさん」
 「止めてください、そんなこと言わないでください! ヒオさんに謝って欲しくなんかないんです。 私は、私は......!」

 気づいたら声は震えていた。 ぎゅっと握りしめたエプロンの上に、一滴の水が垂れる。 この水が涙であると気づくのにはそこまで時間はかからなかった。
 

 ──幼い頃から、親のことが嫌いだった。 自分の考えを押しつけてくる親のことが嫌で嫌でたまらなくて、職を得てなんとか家を出た。 理解のある人と出会い、その人との間に生まれたのがノバラだった。 どうして名前を敢えて野薔薇からとったのかというのは周りからも聞かれたのだけれど、それにはちゃんと理由があった。
 別に、庭園に咲いているような薔薇でなくたっていいのだ。 寧ろそういう花ほど、病気にかかった時には最早見向きもされない。 例え小さくても、優しく強い花を咲かせて欲しい。 世界という名の野山の中で、力強く生き抜いて欲しい。 そう思ったのだ。 それに野薔薇の魅力に気づける人は、きっとものをよく見ている人。 野山に咲く花の小さな美しさに気づける人だ。 そんな人と巡り会ってほしいという願いもあった。

 ノバラが1歳になったぐらいだっただろうか。 私と夫は考え方の違いから離れる道を選んだ。 元々私もひねくれている人間であったから、きっと沢山迷惑もかけてしまった。 それは今でも申し訳なく思うけれど、ちゃんと感謝も言えたのだから悔いは無い。

 そして、そんな私の手元に残されたのが彼女だった。 頼れる相手もいない私にとっては、この子が全てだった。 なんとしてでも、この子は死ぬ気でちゃんと育て上げたいと思った。
 精一杯努力はしてきたつもりだ。 働いてお金を稼いで、貯金もして。 あの子が自分の生きたい世界を選べるように。 進みたい未来を選ぶ自由を、ちゃんと与えてあげられるように。 そう思って育ててきた。

 けれど。

 「私は自分が許せないんです。 ノバラは真面目だから、ヒオさんの言いつけも守ってきた。 でも、それでも隠しきれない何かはあったはずなの。 今思えば、誘拐事件の直前になればなるほど暗い表情は増えてた!! 自分の忙しさにかまけて何もしてあげられなかった! ノバラが消えた時も、私は仕事で......! どうしてもって言われたから行ったけど......でも......あの時のノバラは、絶対に1人にするべきじゃなかった! 隣にいてやるべきだった!!」

 彼女はそれどころではなかったのだ。 自由な選択肢を与えられたところで、彼女は既に無数の透明な鎖で縛られていたのだ。 重そうに身体を引きずるノバラを、真の意味で支えることなど出来なかったのだ。 ただ、あの時はユイちゃんがいてくれたからまだ良かった。 あの子は、とても素敵な子だった。 ユイちゃんが魔狼のことを知っていたというのなら、支える役割は彼女に委ねられていたとも思えるだろう。 あの子がいる限りは、きっとまだ大丈夫だった。

 でも、事件の後はユイちゃんはいなくなってしまった。 支えを失ったノバラは、最早部屋の中から出ることすら出来なくなった。 まるで、気力を繋ぎ止める糸が切れてしまったように。 大丈夫だと語りかけても、ノバラの表情は変わらなかった。 あの時はもう、私しかいなかったのに、何も効果は無かった。 何か言って欲しいとじれったい気持ちにもなったけれど......今ならその理由が分かる。 何も知らない奴の言葉なんて、信じられるはずがないのだから。
 その極めつけが、あの豪雨の日だ。 あの日、私は取り残された。
 
 窓の外の豪雨を眺めて、同僚と「怖いなぁ」と息を呑み、それぞれの居場所に戻る。
 
 あの豪雨の中に消えたもののことなんて、考えてすらいなかった。
 
 雨に打たれ、枝との結い目が綻んで。 そうして地面に落ちた花は、2度と元の場所に戻ることはない。
 
 分かっていた、はずなのに。


 「恨まれても仕方ない。 だって、私はあの子に」


 ──何も出来なかった。










 「テリハさん!」

 ヒオさんの鋭い声が私の耳をつんざいた。 彼女酷く悲しそうな顔をして、ゆっくりと立ち上がる。
 そして、私のところに近づいてきたと思ったら。 次に感じたのは皺だらけの手の感触だった。 彼女は優しく私の手を両手で握ってくれた。

 「ヒオさん......」
 「ごめんなさい。 そんなことを言わせたくて、謝ったわけではないの。 ノバラは、貴女のことを恨んでなんかいないわ。 私が証明する」
 「でも......」
 「聞いて、テリハさん」

 強い芯のある声。 私は黙ってその声に耳を傾けた。 ノバラへの愛情がこもった声だというのは、すぐに分かった。

 「ノバラはちゃんと貴女のことが好きなのよ。 いつだって貴女が優しく出迎えてくれるのが嬉しいと言っていたわ。 早く帰った時にはシチューを作ってくれたこともあったと。 私がお母さんの調子はどうと聞いた時は、いつも嬉しそうに言葉を返してくれたのよ。
 ──あの子は、苦しみを隠すことはあるわ。 けれど、嫌いなものを好きとは言わない。 そんな嘘はつかない」

 ヒオさんの声が、外から見たノバラの姿が、頭の中に流れてくる。 彼女の言葉に、私は少しずつ平静を取り戻していった。
 少し経った後、私が落ち着いたのを察したのか、ヒオさんが自分の席に戻る。

 「......ありがとう、ございます」

 静かに感謝の言葉を返す。 ヒオさんは微笑んで「いいのよ」とだけ返してくれた。
 そして、私は話の舵を切る。 まずは、簡単な確認から。

 「......ごめんなさい、話を戻しましょう。ノバラは、魔狼と呼ばれるものに憑かれた。 今までの事件の元凶もそれ......だとしたら」

 そう。 まだヒオさんから聞けていないことがある。

 「ノバラは......そしてヒサメさんは、何処に行ったというのですか?」
 
 「共通点がある」と、彼女は言っていた。 ヒサメさんも一連の出来事に関係しているというのなら、きっとその祖母であるヒオさんも何か知っているに違いない。 彼女は真剣な顔で、「そのことなのだけれど......」と続ける。

 「私も、今それについて調べているところ。 だから詳細はまだ分からないの。 ごめんなさい。 でも、1つ可能性を挙げるとしたら......本当に、神隠しに遭ったのかもしれない」
 「えっ!?」

 そんなファンタジーな、と言いかけ私は思い直した。 魔狼だって、御伽噺みたいなものじゃないか。 それに、当たり前のように火を吐いたり草を生やしたりするポケモンだって。 今更驚く理由もないと少し反省する。
 ヒオさんは頷いて続けた。

 「魔狼は突如異世界から現れ、この世界を荒らしていった。 そしてそれがまた世界を行き来しようとした時、人間が......私達の先祖が、それを追った。 そして結果的に封印することに成功した。 ここまでは確認だからいいわよね」
 「はい」
 「ヒサメと最後に話したのは、書斎で口論をした時だった。 そしてもういいと言って出て行く時に、あの子はいくつかの書籍を持ち出していった。 ......そして、何の痕跡も残さず消えた。 あの書籍の中に、何か世界を行き来する手段が載っていたかもしれないわね」
 「つまり、ヒサメさんはその異世界に行ったと? それなら、ノバラはその後......」
 「ええ。 ヒサメがこの世界に戻った時に偶然会った。 そして、一緒にその異世界に消えていった。 これが私の今の仮説よ。 その異世界がどんなものか、まず何故この世界が巻き込まれたのか......謎は増えるばかりだけどね。 1番参考になる書物は、ヒサメが持って行ってしまった訳だから」
 「......ということは、すぐにノバラを連れ戻すのは難しいんですか?」
 「ええ。 世界を行き来する手段は、今の時点ではヒサメしか持ち得ない。 そして、ヒサメはノバラが帰ることを許すかどうか」
 「え、彼が?」

 あまり話したことはなかったけれど、あんな温厚そうな人がそんな強引になるものだろうか。 ヒオさんは残念そうな顔をした。

 「もう1つ付け加えるわ。 ヒサメが何故その異世界に向かったと思う? 憎悪を持っていたのよ。 私には理解できない黒い感情が彼にはあった。 絶対に許さないと言って、彼は出て行ったのよ。 その上で、ノバラを必要としたと考えると。 ......言いづらいのだけれど、ノバラとその異世界を壊す......なんてこともするかもしれない」
 「壊すって......」
 「私はその意味でも謝りたかったのよ。 もしそうだったら、ノバラは......」

 最悪の光景が脳裏に過る。 炎の中で立つ2人が、最早空っぽになった世界で立つ。 命の灯火が消えた世界で、向き合いながらその場に不釣り合いな微笑みを浮かべている。 そんな光景。

 「本当に、壊れてしまうかもしれない。 それに、ヒサメも......」

 その後の言葉は続かない。 その姿から、私はヒオさんが今1番怖がっていることを察する。 健やかに育て守りたいと思っていた2人が、壊す側へと変わる。 両者を近くでずっと見てきた彼女にとって、それは最も耐え難い事実だろう。
 2人のストッパーとなれただろうユイちゃんも、もういないのだから。

 「ノバラは......」

 娘の顔を思い浮かべる。 あの素直な顔が、本当に歪むのだろうか。 私の知らない場所で、不自然に笑うのだろうか。






 「......ノバラは、そんなことをするかな」




 彼女は、そんなことを自分から望むだろうか。










 「え?」

 ヒオさんが柄にもなく驚く。 私の中にあった感情は、恐怖でも、怒りでもない。

 「あの子が、そう簡単に壊そうって結論に至るのかな」

 だって、あまりにも似合わない。

 「テリハさん」
 「ヒオさん、私はそうは思いません。 ノバラとヒサメさんはある程度仲は良かったはず。 遠慮しがちな彼女といえど、思ったことを包み隠せず言える相手ではあるでしょう? 魔狼のことも、彼は知ってるんだから。 これは私の妄想だけど......」

 命の重みを知るあの子が、簡単に気持ちを変えるとは思えない。
 だから。

 「戦っているんじゃ、とも思うんです。 ヒサメさんを止めたいって。 魔狼も追い出したいって。 ヒオさんの言葉が正しければ、ヒサメさんはまだ目的を果たせていないんじゃないですか? ずっと、戦っているんじゃないんですか?」
 「......でもテリハさん。 誘拐事件の後、ノバラは」
 「確かに、ノバラの心がどうなっているかは分からない。 でも正直、時間が経ちすぎてる。 あのまますぐ終わるのならば、なんで今も手がかりすら見付からないっていうんですか? なんらかの原因で、ノバラの心は目覚めているかもしれない。 ......なにより」

 私はヒオさんにまっすぐ向き合う。 本能的に、これだけは伝えなくてはならないと思ってしまうのだ。

 「大丈夫だと思うんです。 何故だか分からないけれど、でも分かるんです。 そういう確信があるんです」

 根拠のない自分の妄想だけで、目の前の白い霧を破る。 端から見れば野蛮な行為だろう。 でも、不思議だ。 根拠も何もないくせに、何もどこか後ろ盾があるように思えてしまう。
 誰かが、それを教えてくれているかのように。
 
 「そう」

 ヒオさんは頷いてくれた。 その顔からは、どこか安堵も読み取れた。

 「......信じて待つしか、ないかもですね。 今は。 でも大丈夫。 だって、ノバラですから。 それに、ヒサメさんも、きっと」
 「......そうね」
 「はい」

 互いにもう一度頷き合う。 子供達の未来を祈り、しばらくの間黙っていた。 無風のはずのダイニングルームに、爽やかな風が吹いたような心地がした。
 









 「──危ない、これを渡し忘れるところだったわ」

 帰り際、玄関前でヒオさんが持っていた籠を私に渡してくれた。 その中にあったのは、黄色い丸々とした果実だった。
 
 「柚子......ですか」
 「ええ。 家に柚子の木があるのよ。 かなり昔からあるのだけれど、いい実がなるの。 ジャムにしてノバラやユイもよく食べていた。 今年は分ける子供もいないから......どうか使って頂戴」
 「いいんですか」
 「いいのよ。 ──テリハさん」
 「はい?」

 ヒオさんは目を伏せ、自分の胸にそっと手をあてていた。 まるで、大切なものを抱え込むように。

 「貴女がいてくれてよかった。 ......有難う」

 そう言うヒオさんの顔は、暖かかった。 その顔を見て、あの広いお屋敷の中で孫の帰りを待つ日々は、どれだけしんどいものなのだろうと考えてしまう。 それに、今はノバラもユイもいないのだ。 そんな中、自分が何か支えになれたのだろうかと思うと、どこかじわりと胸に染みるものがある。
 ──それに、お礼をしたいのは私の方だ。 ヒオさんがいなければ、私はひたすらに悲しむだけだっただろう。 彼女のお陰で、私は自分の悲しみに向き合えたのだ。
 涙腺が緩むのになんとか耐え、深く一礼する。

 「......ヒオさん、こちらこそ。 ありがとうございます」




 誰もいなくなった部屋。 私は柚子を抱えたまま、この短い時間に判明した事実について反芻する。
 ノバラが異世界にいる。 きっとどこかに生きている。 そう思うと、少しだけ気持ちが晴れてくる。 そう信じるしかないというのが現実なのだけれど。 でも、どうして私は確信できたのだろうか。
 どうして、ヒオさんに向かって大丈夫なんて言えたのだろうか......?

 柚子を野菜室に入れようとする。籠から出されたそれらは傷も少なく、ヒオさんの丁寧さに感心してしまう。
 鼻をかすめる芳醇かつ爽やかな香りが、どこか暖かくて。 懐かしくて。

 










 ......懐かしい?

 「......いっ......」

 ずきりと、頭に痛みが走る。 それと同時に、あの白い霧が脳裏に浮かんだ。 それはすぐ消えていってしまったのだけれど。
 最近よく見る夢。 心臓が締め付けられる、あの夢。

 「──あ」

 そして、ふと思い出す。 行かないでと、名前を呼んだあのポケモンを。
  
 笑顔に誰かの面影を覚える、あのポケモンを。

 一瞬で、私の中の思考が加速した。 柚子を眺めながら、私は呟く。

 「......そうなのね」
 
 一筋の涙が、その柚子を伝った。














 「ユーズっ! 今日のご飯何?」
 「えっと......取り敢えずカレー作ってて......あともう1個。 柚子のケーキがデザートにある」
 「ふわあ! ユズが柚子のケーキかぁ......いいねぇ」

 場所は変わってポケモン世界。 ユズのご飯を待ち望むキラリがふりふりと尻尾を振っている。 その微笑ましい姿を見てユズの頬も赤みを増した。
 
 なんやかんやで夜ご飯。 カレーに舌鼓を打った後、デザートに柚子のケーキを一口。 初めてにしてはうまくいったとユズの尻尾は軽く揺れた。 これまた美味しそうにケーキを頬張るキラリをのんびり眺めながら、彼女は何気ない疑問を口にする。

 「にしても、この世界の食糧事情って分からないこと多いよね......果物は木の実が多いのに、どうして柚子はあるんだろう。 林檎とかもそうだけど」
 「うーん、林檎はわかんないけど......でも、そうだ。 柚子ならこういう言い伝えがあったな......。 待ってこれ、面白いかも」
 「え?」

 曲がりなりにも自分の名前の由来だ。 ユズは少し前のめりでキラリの言葉に耳を傾ける。

 「むかしむかし、見知らぬ旅客が現れました。 その旅客はとても優しく、お腹の空いたポケモン達に柚子の甘露煮と柚子の種を分けてやりました。 甘露煮は当然ながらポケモンのお腹を満たすため。 そしてその種は、いつか彼らが美味しい柚子をお腹いっぱい食べられるようにするためのものでした。 その旅客にいたく感謝したポケモン達は、丹精込めて柚子を育て、現在まで繋がったのです。 ですが、その旅客の出身を彼らが知ることはありませんでした......っていう。 御伽噺だから、本当かどうかは分からないんだけどね」
 「そうか......なんだかロマンがある」
 「原産地が虹色聖山のふもとのあの村に近いらしいけど......んーー、色々わかんないねぇ。 ......そういえば、なんだけどさ」
 「ん?」

 キラリは恥ずかしそうに「とても今更なんだけど」と続ける。

 「私、普通にユズのことユズって呼んでるけど......ノバラって呼んで欲しいなぁとかある?」
 「うーん......正直、こうしてくれってのはないんだよな」
 「どうして?」

 キラリの唐突な疑問に、ユズは目を閉じて真剣に考える。 少し経った後、花びらみたいな優しい顔で彼女は答えた。

 「どっちも、大事な名前だから。 私はユズでもあってノバラでもあるから。 選べないよ。 だから呼びやすい方で呼んでくれればいい。 どっちでも、私は私だから。
 キラリがつけてくれた名前も、親がつけてくれた名前も、私は大好きだよ」

 ケーキの最後の1口を大事そうに飲み込んだ後、キラリは少し照れくさそうに笑った。

 「へへ、照れちゃうなぁ......でもいい名前だよねぇ、ユズもノバラも。 どっちもぴったり!」
 「そっか......そうなら、いいな」

 宝箱に入れた小さな、でも綺麗な宝石を慈しむようなユズの目。 ケーキの爽やかな余韻に浸っていると、爽やかな柚子の香りが、窓からの風と一緒に──








 (......元気なら、よかった)











 「......あれ」

 今、声が聞こえたような。 ぽかんとした顔で、ユズは辺りを見回した。 声の感じからして、キラリのものではない。 でも、別に誰かが入ってきたなんて事もなさそうだった。

 「どうしたの?」
 「あっごめん、えっと」
 「......もしかして、何か大変なこととか」
 「いや、今回は本当に違って......なんだろう」

 キラリの心配そうな表情を和らげるべく、ユズは全力で首を振る。 ......にしても、何だったのだろうか。
 懐かしくて、じんわりと暖かくて。 だけど、いつも聞く夢の声のようなどこか悲しげな感じはなくて。

 寧ろ、背中をとんと押して貰ったような感覚。



 「......お母さん?」












 ──よかった。 あなたは1人で苦しんでいたんじゃないんだ。 ちゃんと、心を通わせられる相手がいたんだ。


 寂しさを覚えないと言ったら嘘になる。 でも、まずはそれよりも幸せに生きて欲しい。


 戦うというのなら、ちゃんと色々な人を頼って欲しい。

 
 もし、全て忘れて別の生き方をしたいというのなら、それでもいい。 子はいずれ巣立つものだ。


 ただ祈る。 あなたの未来を。 それが、今母親として出来る最善のこと。


 枝はまた、雨を恵みとして蕾を結ぶのだから。

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