第7話 暁月

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翌日はすぐにやってきた。

昨日の瞑想中も、今日起きてからも、ずっと子供たちへの話を練っていた。

もうあと何回リオルたちに話を聞かせられるかわからない。

なにを教えたらいいか、吟味しなければならないのだ。

嫌な夢を見たが、そんなことで気分を落としている場合ではない。

いつの間にか子供たちがやってくる時間だ。

今日は来るのが少し遅かった。

「今日は科学のことをもう少し教えてあげよう」

並んだ子供たちに、昨日からずっと用意していた言葉を投げかけた。

わー! やったあ、と子供たちは各々はしゃぐ。

「その前に。モノズ」

モノズの頭に左手を置いて、話しかける。

「ん? オレ?」

「モノズは『視』たいか?」

「え、見る?」

モノズは困惑していた。

今まで視覚というものがなくて当たり前の生活を送っていたのだから、当然なのかもしれない。

「あぁ。他のみんなと違ってモノズは何かを見ることができないね?」

「……うん」

モノズはいつもの勢いも削がれてしょんぼりとした声を出す。

優しくモノズの頭を撫でる。

「みんなの顔、視たいかい?」

「ほんとか!? ほんとに、ほんとに見れるのか!?」

「私がテレパシーを送って、見たのと同じようにすることならできるよ」

「オレ見たい! 見たいよ!!」

モノズはぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で興奮を表していた。

推測だが、今まで見えないことで一人ぼっちになったりしたことも多分あっただろう。

なにぶん解決しようのない種族の問題だ。モノズ自身それはとっくに諦めていることだろうが、それでも心のどこかで不満はあったのではないだろうか。

だからこその喜びよう、なのだろう。

「リオル、フォッコ、オタチ。少し待っていてくれ」

「「「はーい!」」」

「モノズ。準備はいいね? 視えてもびっくりしないでくれよ?」

「いいぜ!」

「……よし」

モノズの頭に乗せた左手に神経を集中する。

「うわっ! ……お、おぉ……!」

無事「視る」ことができたようだ。

モノズに送り込んだのは、私の姿のイメージだけ。

モノズから見れば、真っ暗闇の中に私だけが浮いているように見えるだろう。

むしろそれだけ情報量を絞ってやらないければモノズの脳は視覚という情報の洪水を処理しきれずに溺れてしまう。

「これがフーディン、さん……?」

「ああ。そうさ」

続いて私は白衣に手をかけた。

右の裾を引っ張ってモノズの目の前に持ってくる。

「これが白衣。触ってごらん」

モノズがゆっくりと足を一歩前に出した。

そして、何かに驚いたようにのけぞる。

「うわ、大きくなった!」

「そうさ。近づくとその分大きく見えるんだ。遠くのものはすごく小さく見えるんだよ」

「そうなのか!」

白衣をモノズの顔に触れさせてやった。

「ほら、ここまでくるとぶつかってしまうんだ」

「わかった!」

続いて私は時計のベルト部分をモノズの鼻先に触れさせた

「この触り心地は知ってるぞ!」

「そしてこれは時計。覚えてるかい?」

「あたりめーだろ! フーディンさんが草を編んで作ったやつ!」

「あぁ、巻く部分は確かに私が作ったね」

「へー、こんな形してたんだ」

モノズはしばらく私を眺め回していた。

「モノズ、次はリオルたちを視よう」

「! ……おう!」

モノズは少しびっくりしたように口をぱくぱくさせて、それから覚悟を決めたと声を出した。

再びモノズの頭に左手を置いて、神経を集中する。

横にいる3匹の姿をモノズに送り込んだ。

「ほら、横を向いてごらん」

「……うわっ! 3匹いる!」

ソワソワとモノズが頭を揺らす。

そうか、モノズには誰がどの姿かまだわからないのか。

「みんな、1人ずつ誰が誰かわかるようにしてあげてくれ」

「リオルは僕だよ!」

「フォッコは私!」

「オタチは私ー!」

モノズはまた顔を何度も動かして、3匹の顔を交互に見るような動きをした。

「……覚えたぞ! お前らのかお!」

「さて、モノズ。『見る』ってどんな感じかわかったかい?」

「わかった!!!」

「ならよかった」

よし。なんとかなった。

これは昨日からずっと考えていたアイデアだった。

なるべくみんなには実験の様子を実際に見て、強く印象付けてもらいたかったのだ。

実験の様子を見せること自体は、テレパシーと未来予知の要領で『ゆめうつし』することはできる。

しかしそれには、そもそもモノを見たこと自体がないモノズをどうするかという問題があった。

なんとかするためにモノズにも見られるようにしようと考えたわけだが、正直ぶっつけ本番だった。

本当に成功してよかった。







「よし、じゃあみんなお待たせ。科学のことを教えてあげよう」

「やった!!」

「今日は特別に、君たちに実験の様子を見せてあげよう」

「えー!?」

「見れるの!?」

「もちろん。さっきモノズに見せてあげたみたいにね。じゃあ目をつぶってみてくれ」

「はーい!」

「目をつぶっている間しか見えないから、しっかりつぶっておくんだよ」

「はーい!」

並んだ4匹に向かって、テレパシーを送り込む。

テレビがあるわけでもないこの状況ではの唯一映像を見せられる方法だ。

「……おぉ!」

「これがニンゲン……?」

「ハクイだ!」

「何を持ってるの?」

しっかりと映っているようだ。

私も同じ景色を見ることにしよう。

漆黒の世界に、アビスとケーシィの私と白い机が浮いていた。

「この白衣を着ているニンゲンがアビス。その横にいるのが小さい時の私。私が乗っているのは机って言って、物を乗せたり、その上でいろんなことをするためのものなんだ」

「これがニンゲンなんだ!」

「フーディンさんちっちゃい!」

「さぁ、いいかい。今からよーく見ているんだよ。静かにね」

『ほらケーシィ、見て?』

ゆめうつしの映像の中で、アビスが喋り始めた。

野生の世界しか知らない4匹の子供たちにはアビスが何を言っているかわからないだろうが。

『しぃ?』

この頃はまだ、喋るほどの意思疎通ができるまで成長していなかった。

『お水。触ってごらん?』

アビスがケーシィに見せたのは、銀色のボウルに入った透明な液体だった。

銀の光を浴びてキラキラと水面が光る。

『けし? けー』

ケーシィはアビスをしばらく見つめた後、ボウルの中に手を入れた。

当然触れるのは水の冷たさだけだった。

『ね、水だよね。掬ってみよっか』

アビスはケーシィの手を持って、ケーシィの手で水の浅い部分を汲んで、水上に持ち上げた。

これも当然、小さなケーシィの手から水がこぼれるだけ。

『しけーしぃ?』

ケーシィも意図が汲めずに困惑していた。

『じゃあ、私の手、よく見ててね〜』

そう言ってアビスは白衣の袖を緩くまくった。

両手をそろえ、ボールの深いところに手を差し込む。

手を引き上げると、アビスの手から水がこぼれ——ることはなかった。

アビスの手には、透明な楕円球が乗っかっていた。

「えぇ〜〜‼︎ なんで⁉︎」

「お水が丸いよ⁉︎」

これには子供たちも驚いたようだった。

映像の中のケーシィも、手をバタつかせて驚きをあらわにしている。

『ふふ、びっくりした? 科学を使えば、「掴める水」も作れちゃうんだ。すごいでしょう?』

「科学の力があれば水を掴むこともできる、ってアビスは言ってるんだよ。すごいだろう?」

「すごーい‼︎」

「私もやりたい!」

「ニンゲンの世界に行けばできるさ」

そんなことを話している間にも、ケーシィは小さな水の粒で遊んでいた。







「じゃあ次の実験だ」

一旦テレパシーを送るのを止め、次のテレパシーを飛ばす。

同じようにアビスとケーシィ、作業机が映っている。

違うのは机に置いてあるもの。先程までの銀のボウルではなく、輪切りにされたノメルのみがいくつか置いてあった。

『ほら、ノメルのみだよ。舐めてみる?』

アビスがケーシィの口元に輪切りノメルのみを1つ近づけた。

ケーシィはぺろりとノメルの黄色い果肉をひと舐めする。

『っしぃ!』

ケーシィが舌を引っ込め、目をぎゅっと瞑って震えた。

『あはは、そうそう。すっぱいよね』

『けー』

目の前のノメルのみを押し除けるケーシィ。

『ごめんごめん。でもね、このすっぱい力ですごいことができるんだ』

アビスがケーシィと目線の高さを合わせると、ケーシィは不思議そうに揺れた。

「ノメルのみがすっぱいのはみんな知っているだろう? そのすっぱい力で今からアビスはすごいことをするんだ」

「すっぱい力で??」

「何ができるんだろ!」

アビスはノメルのみを2つ、タオルの上に置いた。

それぞれ赤橙色と青みがかった銀白色の板を机から取って、ノメルのみに差しこむ。

エレキッドにも似た形のものが2つ完成した。

『ほらケーシィ、これ見て』

アビスが右手に取ったのは、小さな箱に2枚の羽がついた機械。後ろには赤と黒の尻尾が1本ずつついていた。

左人差し指でくるくると羽を回して見せる。

『モーターって言うんだ。くるくる回るんだよ』

『し……』

じっと回る羽を見つめるケーシィ。

『これをここに置くでしょ。そしたら次はこれ』

次にアビスが取ったのは、赤と黒の細長いものだった。

その先端についた口を開閉しながらケーシィに向ける。

『わにわに〜』

『しけ』

『ありゃ、お気に召さなかったか。まいいや』

ワニぐちコードを一本ずつモーターの尻尾に噛ませ、黒いコードをノメルのみに刺した銀の板へ、赤いコードをもう一個のノメルのみの赤い板へと取り付ける。

そして3本目のコードをまだコードのついていない赤い板に取り付けた。

手のひらにモーターを乗せて、アビスはワニぐちを開閉しながらケーシィに聞く。

『これをぱくんってしたら、どうなると思う?』

『けーしぃ?』

『やってみるから、よーく見てるんだよ』

アビスがワニぐちの最後の1つを銀の板に繋いだ。

ぶろろろろ、と音を立てて、羽が回り始める。

映像の中のケーシィが飛び跳ねると同時に、子供たちも驚きの声を上げた。

「なんでー⁉︎」

「何もしてないのに回ってる‼︎」

「これがすっぱい力の使い方さ。どうだい?」

「カガク、すごいです!」

「これはまだ続きがあるんだ。静かに見ていてごらん」

ケーシィがしばらくモーターが生み出す風に当たっていると、アビスはワニぐちを外してしまった。

『けー?』

『もっとすごいのもあるよ』

次にアビスが取り出したのは、小さくて薄い、半透明の箱だった。モーターと同じように2本の尻尾が伸びている。

モーターにつけていたワニぐちをアビスはその箱の尻尾につけかえた。

ちろんちろんと音楽が流れ出す。

「『これは、電子オルゴールっていうんだ』」

ゆめうつしの中のアビスがケーシィに説明するのと、私が子供たちに説明するのはほぼ同時だった。

「なにこれー!」

「綺麗な音!」

「音が出せるようには見えない機械だけど、こうやって科学の力を使ってやれば綺麗な音が出せるんだ」

「私、これほしい!」

映像の中のケーシィも、オルゴールを手にそっと持って微笑んでいた。







気づけば太陽は白からオレンジに色を変えつつあった。

「じゃあ、最後に一番すごいものを見せてあげよう」

「すごいもの?」

「あぁ。私とアビスがずっと研究していたもの……サイコパワーの結晶についてだ」

「見たい!!」

「ジッケンだ!!」

「そう、実験。目を瞑って。よーく見ているんだよ」

4匹にまたテレパシーを送る。

今度映ったのは、隣同士に立つアビスとフーディンの姿の私、一般家庭のものよりさらに無機質な実験机。

机にはアビスの上半身ほどもありそうな大きな機械が置いてあった。

真四角のその機械の上面にはエレキッドの頭のような二本の金属がついている。

『じゃあ、いくよ?』

私に呼びかけると同時に左手の時計に手をかざすアビス。

私は鋭い目線を機械に向けた。

機械についた2本の金属の間に向かって左手を伸ばす。

集中。

同時にアビスが時計を操作する。

2本の金属の間に桃色に光る粒子が集まり始める。

機械を中心に周囲の空間がサイコパワーの渦を巻き始めた。

力の流れが凝縮され、互いに融合しあって、小さな塊を作っていく。

『いい調子。もう少しだけ、頑張れる?』

私は小さく頷いた。

薄桃色だったサイコパワー塊は紫がかった濃い光を発するまでに濃縮されていた。

『……今!』

アビスは左手で機械のボタンを、右手で左腕の時計を同時に押した。

2本の板から鋭い光が飛び出した。

ぴきん、と辺り一帯を凍らせるような音を立てて、電撃を浴びたサイコパワー塊が、かくばった結晶の形に固まる。

天井からの光を一部だけ反射して、キラキラと透き通った濃い桃色がその存在感を伝えていた。

同時に私の体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。

「…………」

「…………」

「で……できたっ!」

「ほんとにできた! すごいよ……あ……」

倒れた私に気付いて、アビスの顔から笑みが消え失せる。

「……ご、めん、ごめんね……」

アビスが倒れた私に手を伸ばした。

私はその手を払って、左手を機械に向ける。

『……わかった』

黒い空間に倒れ伏す私からそっと手を離して、アビスは機械に乗っている結晶に手を伸ばした。

結晶が柔らかなアビスの両手にぴったりと収まる。

両手でサイコパワー塊を持つアビスの目がいっぱいまで開かれた。

緩んだ口元から赤いアメがこぼれ落ちそうになるのをすんでのところで受け止める。

「本当にできたんだ……」

瞳はキラキラと光を吸って輝いていた。

私もにっこりと笑う。

当時の誇らしかった気持ちは今でもよく思い出せる。

『フーディン!! 成功だよ‼︎』

倒れる私の元にふたたび膝をつく。

私も一瞬だけにこりと笑った。

紫の塊を機械に押し当てて、アビスは目を瞑った。

しゅぴん、と空気の動く音。

機械とアビスの手のサイコパワーが消え去った。

『やっぱり、私にも使える……!」

何度も何度も過去を見返していても、それでも色褪せることのない、輝いた笑顔だった。

三度膝をついて、アビスは私に話しかける。

『ほんとに、ありがとう。フーディン……』

アビスは右腕で私を抱き上げて、左手で私の頭を優しく撫でた。

「……あ、データデータ!」

私を優しく壁にもたれかけさせ、アビスはぱたぱたと機器の方へ走る。

カメラを覗いたり、パソコンのキーボードを叩いたり、嬉しそうながら忙しくし始める。

私は達成感と心地よい疲労に浸りながら、そんなアビスを眺めていた。







徐々にテレパシーを薄くしてフェードアウトさせた。

「3匹はもう目を開けてもいいよ」

言うと同時に3匹の視線が私を射抜く。

その目には、困惑の色が見て取れた。

モノズも心なしかせわしなく体を揺らしている。

確かに困惑しても仕方ないかもしれない。

サイコパワーの結晶も、昔に比べて出来が悪いとはいえ見たことがあるし、テレポートができるようになることも知っている。

だから前までの実験と同じような、見たこともない景色を楽しむようなことはなかっただろう。

それにあれはさっきまで見せたような楽しげな実験ではない。

本物の、文明が生まれる瞬間。

ポケモン世界の子供にはいまいち喜んでいる理由もピンと来ないかもしれない。

でも、どうしてもあの光景だけは、見せておきたかった。

失敗だっただろうか。

「……ニンゲンは優しいだろう?」

誘導するように問いかける。

「うん! 私のお母さんみたいだった!」

フォッコが力強く頷いた。

「ニンゲンもニンフィアさんみたいにポケモンを撫でるんだね」

「あとキカイ? もすごかったな!」

「ビリってしてたよね!」

「ニンゲンの作った機械も、ニンゲンも、すごいだろう?」

「アビスさん、嬉しそうな顔だったね」

「そうなのか? 俺は顔ってよくわかんねーけど」

「アビスは私のことも自分のことのように喜んでくれた。……優しいニンゲンだったさ」

「ニンゲンってほんとに優しいんだね!」

「もちろんニンゲン全員とは言わないがね。ポケモンにもいいポケモンと悪いポケモンんがいるのと一緒だね」

「ふーん」

「フーディンさん、倒れてたね。苦しそうだった」

「あぁ。私もあの時は力を使いすぎたんだ」

「なんでですか?」

「自分が倒れるまで力を振り絞っても、アビスに協力したかったんだ。ニンゲンはポケモンに協力するし、ポケモンもニンゲンに協力しなくちゃ、実験はうまくいかないのさ」

「ニンゲンもフーディンさんもすごいな!」

「さぁ、そろそろ帰る時間かい?」

「うん!」

「ジカン?」

「時間は……そうだな、また今度お話ししてあげよう。今日はおかえり」

「はーい!」

洞窟を出ていく4匹の小さな背中を見送っていると、突然モノズがくるりと回ってこちらを見た。

「また来るからな、じーちゃん!!」

それだけ言って、モノズはまた何もなかったように他の3匹に混じっていった。

形容のしがたい何かが体の芯を震わせた。

私は、今……嬉しいのか? これほどまでに?

4匹の背中が見えなくなるまで見送って、私はまた洞窟へ戻った。







——また来るからな、じーちゃん!!

モノズの言葉が頭に反響する。

ここまで何か感情を喚起されるのは久しぶりだった。

なぜ嬉しかったのか……理由……。

……アビスとの話を誰かにするのは久しぶりだった。

ニンゲンの話をすると、この森のポケモンたちは決まって嫌そうな顔をする。

このポケモンだけの世界では、ニンゲンは悪として扱われているから。

住処を奪っていったり、勝手に捕まえていったり、時には自分のポケモンに命令してこちらを攻撃してくる。この世界ではニンゲンはそういう存在として見なされている。

この森ではニンゲンの存在が認められることは決してなかった。

……そうか。だから嬉しかったのか。

今まで認められることのなかった、ニンゲンとの、アビスとの思い出が認められるのが。

ニンゲンのことを認めるポケモンが増えた。その事実だけで喜ばしい。

そうだ、気分の良さに身を任せて、少し散歩でもしようか。

頭の中で呟いて、テレポートを発動する。


森の中央を迂回して、私が訪れたのは森の中でもニンゲンの街に近い方向だった。

もちろんニンゲンの街に戻るつもりなどないが、行こうと思い立ったのはこの場所だった。

上空をゆっくりと漂って進む。

空は傾くどころかほとんど転覆して、西の一部以外は黒く染まっていた。

どさり、と何かが倒れる大きな音がした。

下を見ると、木が一本、横になっていた。

その根本には、森に似つかわしくないオレンジ色の何か。

ウィーン、と無慈悲な音がすぐさま聞こえてきた。

……伐採。

上空からぽつりと点のように小さくニンゲンの姿が見えた。

サーカスのピエロのように鮮やかなオレンジ色をした機械を持って、ニンゲンは近くの木に近づいた。

まるで本に出てくるような、殺戮ショー。

いや、愉悦すらなく無感情に殺しているのだからもっと酷いか。

ニンゲンが木にオレンジ色を近づけた。

バリバリバリ、と音が撒き散らされる。

振動を感じ取って、ムックル達が飛び立った。

「…………」

一概にニンゲンが悪いとは言えない。

確かにポケモンの居場所を奪うことが許されることではないが、ニンゲンにはまたニンゲンの生活があるというもの。

ニンゲンの世界でポケモンがニンゲンに危害を加えることだってないわけではない。

お互い様、なのだろう。

それにしても、久しぶりにきたこの場所は幾分か寂しく殺風景だった。

もう何十年前なのかも知らないから、当然なのかもしれないが。

……もう、寝ようか。

騒音をその場に置いたまま、わたしは再びテレポートを発動した。

連続のテレポートで住処まで戻り、定位置に体を横たえる。

眠りに落ちるまで木が伐採される音が耳の奥に残って離れなかった。







走る、走る、はしる。

見えない何かに追われて、ひたすらに走った。

頭の中に何かを考えるような余裕はもうない。

地面を蹴るたびに脚を刺すような鋭い痛みが走る。

でも、足を出すのは止められなかった。

浮いて移動するだけのサイコパワーを使う力なんてもう残っていない。

だから、走るしかない。

走り慣れていない脚はフラフラともつれておぼつかない。

自分の左足を右足で蹴り上げて、私はバランスを崩した。

咄嗟に両腕を前に突き出す。

両腕が地面に叩きつけられて、左手に鋭い痛みが、右腕に鈍い痛みが走った。

膝がしらも燃え上がる痛みを発し始める。

地面に両膝と左肘をついて、しばらく動けなかった。

——それでも。

左腕を地面に突き立てる。

続いて右足、左足。

立ち上がった私は生まれたてのシキジカのような、という表現がこれ以上ないくらいに適切だった。

膝が笑うなんて感覚を体感するのは初めてだ。

一歩、前に踏み出す。

もう一歩。また、地面を蹴る。

まだだ。まだ、足りない。もっと離れなくては。

早く離れなくては、戻りたくなってしまう。

着ている白衣は引っ張られるように後方に伸びて棚引く。

聞こえるのはそんな白衣が空気を打つ音と、自分の荒い息だけだった。

時間が経つにつれて、森の奥に近づくにつれて、目の前が暗くなっていく。

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