研修生シライシの3ヶ月

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子ども嫌いの研究学生シライシは、大学の教諭のツテでナナカマド研究所に赴任する。研修期間は3ヶ月。本場の研究環境に意気込むシライシだったが……

「この原っぱから外に出るな。以上」



 目の前の子どもたち3人にそう言いつけて、無愛想な研究者(見習い)はその場を離れていく。ポカンとしていた子どもたちだったが、そのうち何事もなかったかのように、原っぱで好き勝手に遊び始めた。

 そんな子どもたちを尻目に、彼は木陰に設置しておいたパイプチェアに腰を下ろす。不満を隠す様子もなく、無造作にどさっ、と。読みかけだった論文を苛立たしげに取り出し、目を通し始める。

 3日前、彼───シライシは研究実習生としてナナカマド研究所にやってきた。本場のポケモン研究所、しかもあのナナカマド博士の、だ。研究者を志す者としてどれだけの実りを得られるだろうか、と期待に胸を膨らませて来てみればしかし、彼に任された仕事は思いもよらないものだった。

ナナカマドの言葉……





「見学に来る子どもたちの案内を頼む。私は怖がられてしまうのでな」






 研究所に見学にきた子どもの世話をすることになった。

研究所に見学に来た子どもの世話!!

研究所に!!来た!!子どもの!?世話!!!!!

 不満だった。納得できなかった。どうして自分がこんなことを? 本業とは縁遠い接客業務、それもよりにもよって相手は子どもだ。やかましくて、行儀がなくて、無遠慮で、突拍子もないことをやって周囲に迷惑をかける。

シライシは子どもが嫌いだった。

 文字を目で追いながら、自分のフラストレーションが満ち満ちになっていることに気づいたシライシだったが、ふと、違和感を感じて脇に視線を落とすと、子どもの1人がしゃがみ込んでいた。ポケモンをペタペタとさわっている。シライシのポケモン、カブトだ。






「何やってる。さわんな」






 イライラが募っていた割に落ち着いて対応できた自分を賞賛したかった。しっしっ、と子どもを追い払う。ハナ垂れてんぞ。シライシはまた論文に目を落とした。活字を読んで落ち着こう。

 椅子の脇からてのひらを垂らすと、ひた、とひんやりとした硬質な感触が応えた。こうして手を差し出すと、カブトが甲羅を押しつけてくるのだ。10年来の相棒の背中。これもまた落ち着く。

 この3日でやったことといえば、見学にやってきた子どもたちを案内して、研究所所有の敷地内のポケモンと交流させて、自由時間にこの原っぱで過ごす。それくらいだ。

 そんなことしか、やっていない。

 天下のナナカマド研究所に来て何をやってるんだ俺は……ストレスから痛む頭を押さえつつ、たまに原っぱを見回す。

 この場所にもポケモンは数匹いて、2人の少年とじゃれあっている。ポケモンと子どもたちの間でトラブルが起こらないか、または子どもがどこへともなくふらっといなくなってしまわないか、それを監視するのも仕事だった。仕事だから、やる。そりゃあ、やるに決まっている……のだが。むなしい。

 と、子どもたちとじゃれていたポケモンの1匹が水を噴いた。ブイゼルだ。器用に噴水の真似事をしている。キャッキャキャッキャとはしゃぐ子どもたち。それを見た別のブイゼルが、同じように水を噴く。






「あ」






 思わず声がこぼれる。2匹目のブイゼルの噴水は大失敗だった。山なりに打ち上げられた水は噴水というよりも水風船で、形を崩すことなくそのまま落ちてくる軌道を取った。その先には、ぼーっ……とその水風船を目で追う少年が。

 少年が声を上げる間もなく水風船はそのまま直撃。ぱしゃ、とはじけ、少年を濡れネズミにした。

 びっくりした様子の少年とあわあわするブイゼルだったが、びしょ濡れの少年は自分の状態を見るやケラケラと笑い出す。幸いにも、空気は最悪にならずにすんだようだった。

 呼吸の数だけしたのではないだろうか、何度目かのため息をついて、シライシはまた論文に目を落とした。あー、面倒ごとにならなくてよかった。

「そら見たことか」まず思ったのはそんなことだった。何がなくともトラブルの種になるのだ。子どもという生き物は。見てみ? そこにいる女の子なんて、体育座りでじっとしている。みんなあのようであれ。ポケモンと交流したけりゃ添い寝でもしときゃいいのだ。






「ずいぶんカリカリしてるねぇ」






 今度は話しかけてきた。無視する。






「そんな焦って読むようなもんなの? それ。てっきり、じっくり読むもんかと思ったけど。」

「てか、あの子たち見てなくていいの? 仕事でしょぉ?」






 声の雰囲気は幼さをもちつつも、年齢の積み重ねも感じる落ち着きを持っていた。要するに、年齢不詳。……ん? もしかして、見学の子どもじゃない? 背後の茂みから聞こえてくるし。そう思い至ったシライシは、顔を上げたが、振り向くことはしなかった。声がなんとなく癪にさわる物言いだったのもあるし、虫のいどころもよくない。塩対応をした手前引っ込みがつかなくなったところもあった。

 飼育担当の職員かもしれない。と思ったものの、それにしたって、自分にこんな仕打ちをしている連中のひとりだ。この程度の意趣返しくらい、いいではないか。

 自分の不躾を正当化しつつ、振り向かずにシライシは口を開く。






「大学でまだ進めてる途中のテーマがあるんです。こんなことやってる暇、本当はないんだ。時間無駄にできないんで、ほっといてもらえますか?」

「僕、ヒマなんだよねぇ。いいじゃん、おしゃべりしようよ」

(コイツ、サボりか)






 とんだぐうたら職員だ。こんなのが働いていることといい、自分の扱いといい、どうかしてるんじゃないのかこの研究所。






「それでさぁ……」






 こっちの意見は聞く耳ないらしい。そいつはマイペースにぺちゃくちゃとおしゃべりを続けた。やれギャロップとブーバーの仲が悪いのでボヤ騒ぎがよく起こるだの、水辺のポケモンの恋愛事情がドロドロしてておもしろいだの、飼育担当らしく研究所のポケモンについて、訊いてもないことを知りたくもないのにベラベラと。だが不思議と聞き入ってしまって、読み物が手につかず、少し悔しく、うんざりとしながらシライシはその日の定時を迎えた。

端末に退勤入力をしながら改めて肩を落とす。こんな仕事をあと3ヶ月かぁ、と。






 


 あのナナカマド博士の研究所というだけあって、平日であっても見学の子どもたちは絶えることがない。入れ替わり立ち替わり、毎日様々なラインナップのキッズがやってきては、研究所のポケモンとたわむれて、そして帰っていく。大概子どもだけで来る(親は何してんだ? 釈然としないシライシだった)ので、たまに小さなトラブルが起こることもある。転んで怪我をしたとか、ポケモンが力加減を誤ったために痛い思いをしたとか、子ども同士喧嘩になったりだとか。子どもなんて痛い思いするくらいが勉強になってちょうどいい。殴られずに一人前になったやつがどこにいる? そんなことを思うシライシだった。

 ニャルマーアレルギーで咳が止まらなくなった少年に会った時は「こんなとこに来るなよ」と言いたくなったし、コータスにガムを食わせようとした少女が煤を浴びせられた時は世話を焼くことになったものの「そんくらいのこと抗議にもならないよ、なんなら火の粉噴いて髪の毛チリチリにしてやってもいいんじゃないか?」とコータスに言ってやりたいくらいだった。

 やってくる母数が多いと、どうしたってそういう小さなトラブルにたくさん対処させられる。連日の望まぬ仕事に、シライシの子ども嫌いは重症化してもおかしくなかった。

 トラブルメーカーと相対すると、どうしたって「人畜無害な子はいないものか」と嘆息混じりに周囲を確認することが増える。そして探せば必ずいるのだ。おとなしくしている子どもは。

 ……というより、その子はほぼ毎日、ここにいた。帽子を深くかぶり、何もしない。

 いや、何もしていないわけではない。そう気づいたのは、彼女がほぼ毎日ここにいることに気づいたのとほぼ同時だった。何かきっかけがあったわけではない。ふと上げた視線があちらと合って、ふい、とそらされたのを見て、最初は何も思わなかった。何度か、同じやりとりが繰り返されていることに思い至るまでは。

 いぶかしみながら、タブレットのカメラをON。いつものように読み物をするふりをして、レンズ越しに見てみると、伏せた帽子の影から、彼女はこちらを見ていた。じっ、と様子を窺うように。

 違和感が疑問に変わる。連日ナナカマド研究所に来ているというのに、ポケモンと遊ぶでもなく、友達と遊ぶでもない。あ、でも見学ツアーの時はフツーに説明聞いてた気がする。ま、そんなもんか。シライシの疑問は適当な納得で落ち着いてしまった。

適当な納得をしてしまうと、雑な興味が湧いてきて、気づくとシライシはぼんやりと立ち上がって、その子の元にふらりと向かっていた。

 近づいてみると、何だか縮こまっているように見えたが、気にせずシライシは口を開いていた。






「お前、誰ともあそばねぇの?」






 回答が返ってくるまで、間があった。シライシは「どうせ暇だ」ったので、ぼんやりと待っていた。






「他の子となんで遊ぶのか、よくわからないので。」

「1人がいいタイプなのか? こんなところに何しに来てんだよ」

「参加してきなさい、と言われていて。」

「あー、親に言われてるのか。気乗りしないことをやらされてるなら、ちゃんと言ったほうがいいぞ。家庭トラブルのタネだからな、そういうのは」

「???」






 疑問符を浮かべている少女。彼女のイヤイヤここに来ている、という状況と、シライシ自身の望まぬ職務形態に感じるものがあったのか。「やってらんねえよな」共感を求めるようなその言葉を、声には出さず口にするだけにして、シライシは踵を返す。イスにどさ、と腰をおろし、再びタブレットを手にした。






「珍しいねぇ。君が話しかけにいくなんてさ」






 よりにもよってこいつに見られていた。げんなりとしながら、しかしシライシは口を開く。






「いつもいるでしょう、あの子。何が楽しくてあーしてんのかな、って思って。嫌々来てるみたいですけどね」

「なんか僕、あそこに寝転んでるやつのこと思い出しちゃった」

「? ああ。そこのドジョッチ? なんでです?」

「ここの原っぱだと、こないだフラれたバスラオが近くの池にいるからかなぁ。きまずいみたいだねぇ」

「……あいつもイヤイヤここにいるのかよ。別に来なけりゃいいだけのことなのに。」

「色々あるんだよ」

「色々って?」

「めんどくさいからいいや」






 マイペースが過ぎる。だが、なんやかんやとこの職員と話すのが、シライシの日課のようになっていた。飼育担当なだけあってか、サボっているくせに研究所のポケモン達の事情に精通しているので、話の内容が大変興味を惹かれるのだ。研究所のポケモン達で構成される独自のコミュニティ。その一場面をこいつは事細かに覚えていて、その語り口は自然と耳を傾けてしまう。研究者の端くれとしては、主観が盛り盛りなのが気にかかるところだったが。






「まぁ俺としては、見張ってなきゃいけない子どもの数が減るのは助かる限りなんですけどね」






 ガッデム五月蝿キッズ。その理念は特に変わらない。

 そうだ。嫌なら嫌と親に言え。そしてもうここへの来訪はフェードアウトすればいい。もっと楽しいとこに行けばいいのだ。夢の国とか、映画俳優がセルフパロディポスターやってる遊園地とか。ポケモンセンターとかいいんじゃないか、全国各地にある。ストアとかもどうよ?

 しかし、翌日も彼女は来ていた。見学ツアーが終わってふれあい時間になったら、またちょこんと体育座りしている。もっと楽しいとこ行けばいいのに。

 この日は、彼女のほかには1人しか参加者がいなかった。そいつもツアーが終わったところで「塾があるので」と帰った。行け行け。土日は息抜きにひらパーにいけばいい。楽しいぞ、知らんけど。

 そのため、原っぱにポケモン達がいるのにもかかわらず、彼女はぽつん、と1人時間を決め込んでいた。ポケモンwith youせえへんの?






「どういう意味ですか?」

「キャッチコピー……いや妄言の類だよ」






 なにせここに来てから、子どもの見守りと、その仔細を報告するとか、資料の移動とか、そんな使い走りみたいな仕事しかやっていないのだ。最初の頃両肩にまとわりついていた多少の緊張は、とうに原っぱに消えていたし、このごろは彼も「ていのいい休暇だ」と思うようにしている。ポジティブ思考ではない、ただの諦めだ。それも二重三重自分に言い聞かせながらの。

だから、脳味噌の弛緩したセリフのひとつふたつミミッキュくらい出る。






「そんなことだろうと思ったから、ほれ」






 少女はシライシの差し出したものを、受け取った。差し出されたから受け取った。そんな様子だった。

 それは児童書だった。もし今日もいたら読ませてやろう、と思って持ってきたのだ。実家の本棚で埃をかぶっていた。刊行はシライシが生まれるよりも前だったが、親の蔵書でシライシも幼い頃に読んだことがあった。まぁおもしろいと、思……う。記憶が遠いので根拠が弱い。






「どうせ何もしないならその本でも読んどけ。嫌な時間でもちょっとくらい面白いことがあった方がマシだしな」

「はぁ……」






 疑問符が顔に書いてある。なんでこれを私が読むんだ? そう思っているのが見てとれた。なんでも何も、シライシの気の迷いだ。






「この本を読むと、何の勉強になるんですか?」

「勉強になんかならないよ。ただの読み物なんだから」






 勉強用の本ばかり読んでいるのだろうか。児童書おもしろい、という感慨は得られるかもしれない。そんなもんでいい。そんな感じで。

 イスに戻るシライシ。その様子を見送ってから、少女は手にしていた本をおずおずと開く。シライシも自分の読み物を再開する。期せずして、読書会が始まっていた。

 シライシの持ってきた児童書は、とある学校の先生がふとしたトラブルに見舞われポケモンになってしまう、というものだ。食物連鎖でポケモン間の生まれ変わりを繰り返しながら、どうにか元の自分の体に戻ろうとする……というもの。

 少女のお気に召すかはわからない。だが別にいい。シライシはバツの悪い時間を過ごしたくないだけだ。子ども1人体育座りさせておいて、自分は呑気にイスに腰掛け本を読んでいる。そんな空間にいたくないだけだ。それだけ。

 免罪符を用意したおかげで、シライシは納得いくまで読み物にふけることができた。どうにかプラスとマイナスをとんとんにできたんじゃないだろうか。もちろん、マイナスとはこの仕事をしている時間のことだ。

 1時間ほど経っただろうか。そろそろ解散の時間。顔を上げると、ぺらりぺらりとページをめくる彼女は、まわりをポケモンたちに囲まれていた。珍しい絵面だ。他の子どもはおろか、ポケモンともあまり接していなかったのに。本を読み耽っていた方がポケモンが寄ってくるとは。普段は殺気でも放ってたのか? 暗殺者の家系の人間かコイツ。

 読み進めたページ数はその4分の3くらいには到達していた。こちらの視線にようやく気付いたようで、目が合う。はっ、と本の陰に顔を隠した。今更すぎる。

 シライシはイスを立ち、少女のもとに向かった。ポケモン達が散っていく。シライシを警戒しているわけではない。彼らも解散の時間を感覚でわかっているのだ。






「帰りの時間だ」

「……あの」






 彼女は何か言い淀む。そういえば、読み終わっていないのか。それじゃその本は貸してやるよ、とシライシは言った。すると彼女は






「いいえ、何回か読み終わりました」

「何回か? 速読派だな」

「それで、その……」






 やはり何か言いづらそうにしている。何を遠慮してんだ? 子どもらしく、わがままがあるなら言えばいい。ご希望に沿うかは気分次第だったが。

 シライシの態度に応えるように、おずおずと少女は口を開く。






「何度読んでも、この“先生”が本当に元に戻れたのかどうかが、よくわかりません」

「あー……」






 言われて、自然とシライシはそんな声を出していた。わからない。彼女の抱いているであろうその感覚が、自分も感じたものであることを思い出したからだ。

 作中でポケモンになってしまった“先生”は食物連鎖を繰り返して元の体に戻ろうと奔走するのだが、その間、何度か“人間の姿のまま普段の生活を続ける自分自身”を目撃するのだ。だが、物語はあくまでポケモンになった先生の視点で進行する。

人間の先生の描写はあくまでポケモンの先生側からの視点のみ。当人が空っぽの器なのか、だれか別の偽物が入っているのか、といったことが語られることはない。

そして物語の最後、数々の苦難を乗り越え、どうにか自分で自分を食べることに成功した先生はしかし、「なんか変なもの食った気がするな」という様子を見せるものの、「なんとか戻れた」「大変な1日だった」などと感想を漏らすようなことも一切なく、自分の仕事場に戻っていく。

 ともすれば、ポケモンになった方の先生は犬死になのでは? とも取れる終わり方。それをこの子は疑問に思っているのだ。

 シライシはそこに共感を覚えていた。自分も過去にこの本を読み、この結末に困惑した子どもだったのだ。想像に難くない。

 そういえば、そういう結末だった。シライシは本当についさっきまで、このことを忘れていたのだ。「また暇そうにしてるなら貸してやろう」そう思って、たまたま手に取った本がこれだっただけ。

 そりゃそうなるよな、と、完全に思惑の外の、然るべき展開に肩を落とす。自分で余計な仕事を増やしてしまった。






「それはまぁ、あれだ。お前が望む形で納得しとけばいいんだよ」

「えっ」

「わざとにごしてあるんだ、これは。ハッピーエンドかバッドエンドか、どう受け取るかは、読んだお前の感覚に任されてるんだよ」

「いいんですか、そんなの」

「物語だからな。教科書じゃないから」

「どう……納得するのが正解なんですか」

「だから、正解なんかないんだよ。お前が「こうだったらいいな」って思う形でいいんだ」

「どう……思えば」






 口にしながら、そういうことではない、と既に頭では理解している様子だった。そんなに悩むことか? シライシは首をかしげた。

 とはいえ、もう時間だ。シライシはさっさと帰りたかった。






「ま。お前がどう思うかなんてわざわざ俺に話そうとしなくていいよ」





 興味ないし。早く帰りたいし。シライシは少女を立たせた。今日はおしまい。

次はもっと単純な本持ってこよう……3冊くらい。

シライシ、退勤。









「シライシ君、本持ってきてくれてるんだってね」






 とある日。そう言ってきたのはシライシの担当をしている職員だ。シライシの業務についての質問や相談にのってもらっている。仕事の報告もこの人にしている。

見学者の案内なんかは普段この人がしているそうで、ツアー中何かが起きた場合や困った状況についての対処をとても親切に教えてくれる。くれる……のだが、なら自分がこの業務やる必要あるか? とシライシは思う。

 それはさておき、児童書を持ち込んでいることが知られたわけだが。






「まずかったですか?」

「いや、何も問題はないさ。モモさん、最近よく本を読んでいてね。みんな、少し驚いているんだ」

「そうなんですか…………ん?」






 みんな、というと、研究所の職員達、のみんな? なぜみんなして彼女のことを気にする必要があるのだろう。

 シライシの疑問に、彼はいたって普通に答えてくれた。彼女がナナカマド研究所の居候だということ。ツアーに参加させているのは、他の子どもたちと交流してくれれば、と考えてのこと、という話を。

 そう聞いて、「嫌々参加させてたのはコイツらだったのか」とひそかにげんなりするシライシだった。友達付き合いがあるに越したことはないと思うが、尊重すべき個人のペースというのはある。なぜ強制するのだろう。友達なんてほっとけばいつの間にかつくっているものだろうに。

 とはいえ、よその家の事情に首を突っ込むほどシライシは前のめりな人間ではなかったので、その後の変化としては「なら、どうせ明日も絶対いるんだろう」と、自宅の本棚から数冊彼女への貸本を見繕って来るのがしっかりと日課になった程度だった。

 彼女も最初こそ「なんでコレを私が?」というニュアンスの疑問符を浮かべながら本を受け取っていたが、いつの間にか、本を借りて読むことが当たり前になってきている様子だった。

 他の見学者達とは相変わらずだったが、ポケモン達はそんな彼女にそれとなく寄ってくるようになった。だから何故だ。平時は見えない光線バリアでも張ってるのか。彼女に寄るポケモンにじゃれつく子ども達を見ながらシライシは首をかしげた。本を読んでたら消えるバリアーって何?

 指の腹でカブトの甲をきゅきゅっと撫でていると、いつものようにあの飼育担当が話しかけてきた(こちらもいつの間にか“いつものように”になってしまった)。






「君は、どう思ってるの? あの結末」

「え、はい? どの?」

「最初の本の結末だよ」

「あー、あの本か。なんだって今そんなこと気にしてんですか?」

「いーじゃん、教えてよ」

「別に答えたくないわけじゃないですよ?」






 質問に質問で返したことを、拒否ととらえられたのか、と思い、一応ことわっておく。






「先生は元の体に戻った。そしていつも通りの生活に戻っていく。何事もなかったように。……それだけのことかな、って」

「君はそれを、彼女には教えてあげなかったんだね」 

「教えたりするようなことじゃないでしょ、これ。考えるな感じろ、的な」

「ふーん。そういうもんなんだ」

「そんなもんですよ。ていうか、気になるなら読んでみます?」






 シライシは、平静を装いながらそれとなく振り向いた。だが、そこにはもう話し相手はいなくなっていた。

 今日こそはちゃんと顔を見て話そうか、と思い、勇気を出してみたのだが、自分の気になることだけ聞き出して奴は去ってしまったらしい。やはり超・気分屋だ。

 しかし、職員だからやはり彼女とはある程度交流があるらしい。どうせサボっているなら、相手してやればいいのに。

 ひっくり返したカブトに手をワキワキされながら、シライシは息をつく。

 シライシがナナカマド研究所にやってきてから、そろそろ一月が経とうとしていた。






 研究テーマで引用する資料に目を通しながら、しかし、彼の意識は文字の上をすべっていた。

 せわしなくカブトの甲羅を撫で、時々つま先で地面をノックしたりもする。

 この1ヶ月で、業務にどうにか適応してきていたシライシだったが、今日の彼は少し様子が違っていた。

 ざわざわ、と胸の奥の方で落ち着かなくくすぶっている感覚があった。

シライシは焦っていた。

 きっかけは、昨晩に交わした友人との電話だ。

シライシと同じ専攻で研究をしている男で、彼と同じように、ポケモン研究所へ研修に赴いていた。

 話を聞けば、実際の研究現場で助手として様々な実験や検証、フィールドワークにいそしんでいるようだ。実りのある時間を過ごしているようで、声にもその充実がにじんでいた。

 自分とは大違いだ。

 どうして自分がこんなことを、という不満。いくらか薄れていたその思いが、また黒い感情となってシライシの胸中で渦巻いていた。






「ねぇ」







 いつもの話し相手かと顔を上げると、違った。見学者の子どもたち、そのひとりだった。






「なんだ?」

「トイレどこ?」

「近くのだと……そっちだ」

「さんきゅー!」






 子どもが走り去っていく。視線を落とすシライシ。その腕をわきわきちくちくとカブトがもてあそんでいた。

 落ち着かない心を落ち着けようと、相棒のじゃれつきと目で追う液晶の文字に集中しようとする。しかし、すべる。

 こんなことやっている時間なんてないのに。

 そんな思いが、消えない。






「……あの」






 顔を上げると、あの子が目の前に立っていた。(当然だが)今日渡した本を手に持っている。確か学園ファンタジーものだったはずだ。魔法系……だったかな。

 彼女は少し言いづらそうに、口を開く。






「あの、ここの部分のところ……なんですけど」

「……ここ?」







 彼女が示した部分は、物語の位置付けとしてはクライマックスのその直前。いわゆる“魔王”が顕現する魔法が展開されるシーンだ。見習い教師が魔王の眷属で、その本性を表す。学園の敷地内に配置されたおびただしい数の魔法陣を連動させ、召喚術を起動する……というような流れだが。






「場面が想像できなくて」







 最近の子どもは想像力がつたないのだろうか。職員達も映画とか見せればいいのに……と思ったシライシは気づく。






「そういえば、映画版が見放題にあったな」






 タブレットでそのアプリを立ち上げて、彼女に与えるまで10秒もかからない。だがそれはシライシの作業がストップすることを意味する。たかが読み物の説明の手間を省くために、自分が本当に優先したいことをぶん投げていては本末転倒だ。シライシの選択肢は決まりきっていた。






「これはこの小説を映画化したもんだ。見てみればなんとなくわかる」






 彼女はシライシの差し出したタブレットを受け取り、映画を見始めた。子ども達が寄ってきて、少女の肩越しに画面を覗き込む。

 観賞会が始まってしまった。






「マジで何やってんだ俺は」






 深くため息をつきながら、先ほどトイレに走っていった少年のことを思い出す。仲間外れも可哀想だし、呼び戻してやるか。






「たすけて」






 ぬかるみにはまって動けなくなっていた。こいつ……。戻ってこないと思ったらトラブってやがった。これだから子どもは嫌いだ。

 放っておくわけにもいかないので、うんとこしょ、と引っ張り出してやる。膝まで埋まっていたガキンチョはすぽーん……とはいかなかったが、どうにかシライシひとりで救出できた。

 服が泥だらけになってしまった。研究所に来てからは白衣を着ていないので、私服だ。職場にオシャレ普段着なんか着てくるわけもないので、心のダメージは少ない。






「今、他の奴らに映画見せてるから戻れ」

「なんで?」

「お前だけ見せないのもバツが悪いから」

「別にいいよ。オイラ、映画はキョーミないんだ」






 そう言って彼は人さし指をゆるりと伸ばす。その指をのそのそと這い上っていく黒い玉。

 ダンゴムシで手遊びしていた。マイペースな子なのだろう。

 その様子を見ていたシライシは、なぜだか彼を連れて原っぱの方に戻ろうとか、そっとしとくか、とも思わなかった。






「気をつけろよな。何があったか知らんが」






 トイレに直行して戻ってるなら、少し外れた場所にあったぬかるみにわざわざハマることもなかったはずだ。このマイペースさを見るに、何か気を惹かれるものがあって寄り道をしたのではないだろうか。

泥で汚れていることも気にするそぶりがない。






「映画なんてそうしょっちゅう見れるもんでもないだろ。どうせなら見ときゃいいのに」

「映画もテレビもなんも変わんなくない? オイラ、のんびりしたいんだけど……」

「そういやお前、最近あんまりポケモンと遊んだりもしてなかったよな。なんでここ来てんだよ」

「のんびりできるから?」






 ゆるゆるとした口調だったが、答えるまでが早かった。のんびりにどれだけ飢えてんだこいつ。






「家帰っても学校行ってもみーんなせかせかせかせかしてんだ。オイラ、ここに来たらゆっくりできるんだ。気が向いたらでいいよ。映画なんて」

「あのなぁ、どうせなら少しでも自分の身になりそうなことを吸収しておいた方が、結局は自分のためになるんだぞ。周りに置いてかれてつらい思いすんのはお前なんだから」

「いいよ。別に置いてかれても、オイラにはオイラの時間があるもんねー」

「時間は有限だっつの。無駄なことしてる時間なんて人生にはねーんだよ」

「無駄なことするためにオイラは生まれてきたからいーんだ。へっへっへっ」

「へらず口だな」






 手遊びしていたダンゴムシを少年は地面に逃した。ダンゴムシは一目散には逃げ出さず、しばらくそのあたりをうろうろしていたが、少年が差し出した指にまた乗った。

 懐かれちゃったぜ、と得意満面だ。シライシは妙に腹にすえかねて、そのダンゴムシをデコピンで飛ばしてしまった。

 あーあ……と言いながら、少年はダンゴムシの飛んでった方を眺めている。そのまま、1分、2分……。

 付き合いきれん、と思ったシライシは立ち上がる。






「ほら戻るぞ」






 はぁーい、とゆるい返事をする少年だが、こいつ、ほっといたら今度はどんなトラブルにハマるかわからないぞ……?

引きずって連れ帰るシライシだった。

 原っぱに戻ったシライシが目にした光景は、予想していたものと違っていた。

 タブレットの画面を観ているのはもう1人だけになっており、他の子どもたちは飽きたのかポケモンと遊んでいた。シライシのカブトだった。

 アクアジェットでぴゅぴゅぴゅんと逃げるカブトを子どもたちがキャーキャー言いながら追いかけ回している。逃げるカブトだが、時折り子どもたちの頭上を飛び越えるような軌道で反転飛行したり、止まって捕まりそうになったところでアクアジェットで急発進して距離を取ったりと、子どもたちがあともう一息と粘る絶妙な逃げ方をしていた。長年の付き合いのシライシにはカブトが楽しんでいることがわかった。

……それがわかるのに、どうして怒ることができようか。

 連れ戻した少年も、カブトの追いかけっこに混ざっていく。

 カブトの尻を追う少年を尻目に、しかたない、と息をついたシライシはタブレットに釘付けの少女のそばに寄る。

 映画は佳境だった。魔王が召喚され、世界の終わりが始まる。ここで主人公が逆転の発想を打ち出し、起死回生の一手を打つ───






「……ふぅ」






 物語が終わり、エンドロールが流れ始める。まるで、見ている間ずっと呼吸が詰まっていたかのようだった少女は、深く大きく、詰まっていた感情を吐き出した。






「タブレット。返せ」

「はい」






 受け取って表示を切り替える。自分の作業シートだ。内容をあらためつつ、目の前でぼんやりしている少女を見やる。

 結果、見せた映画の本来の時間よりも30分ほど長い上映会になっていた。一緒に見ていて気づいたのだが、タブレットを手にした彼女はときおり同じ部分をリピートしていた。他の子どもたちが背中から覗き込んでいる時にも同じことをしていたのかもしれない。そりゃ、貸したのはこの子に、ではあるのだが。一緒に見ている者のことを気にする間もないほど没入していたのか。

楽しんでもらえたのが喜ばしい反面、周りのことも気にした方がいいだろ、と思うシライシだった。

だが、そんなことでいちいち説教垂れるほど彼はお節介でもなかった。






「わからなかったって言ってたところは、わかったな?」

「はい、でも……」

「でも?」

「いるはずの人がいなくなっていました。その人と一緒に出てくる場所も、出てきませんでした」

「そりゃあ、カットされてるとこはあるよ。尺の都合があるし」

「尺?」







 余計なこと言ってしまった、と少し面倒に思いながら説明。上映時間のことだ、と。その時間内で物語をどれだけ忠実に表現できるか、本を読んで得た解釈をどう描写するか、誇張するためにどんな演出にするか、それらのことは映画を作っている人が判断しているのだ、と。

 解釈って、なに? と聞かれそうだな、と思ったシライシはそのまま続ける。






「お前がわからんと言って映画で見たシーン。あそこはな、あれが正解の表現ってわけじゃない。作ってる奴らが本を読んで想像したものを、自分達の感覚で形にしただけなんだよ。あの映画は、作り手達の解釈の形だ」

「お前があの本を読んで得た解釈───お前が思い描いたものは、お前だけのものだ。映画より劣るとか、違うから変ってものじゃない」

「そして、あの映画を見たことでお前の中にある解釈は少し形を変えたはずだ」

「それは他の誰にも思い描くことのできないものだ。そんで、お前がもっと本読んだり、映画とか番組とかたくさん見て、物語をお前の中に並べていくほど、そいつらはどんどん複雑に関係しあって、お前っつー人間が出来上がっていく……そういうもんだよ」







 気づいたら熱く語ってしまっているような体になっていて、シライシは照れくさくなってほおを掻いた。横目で少女を見やる。

 彼女は、今まで見たことのないような、キラキラとした目でこちらを見上げていた。






「もっと、本とか読んでいいですか」

「いいよ。また持ってくる」






 初めて見た彼女の表情。ただ笑うのとも違う、歓喜に満ちた表情を見られたことに、シライシは得も言われぬ満足感を覚えた。何食わぬ顔で退勤したあと、ひとり拳を天に突き上げるくらいの、“やってやった”感は、ナナカマド研究所に来てから初めてのものだった。

 それからの毎日は少しだけ、少しだけだが、悪くないと思える時間になった。

 原っぱで本を渡し、シライシはタブレットを開く。30分もしないうちに本を読み終えた彼女が物言いたげにしているのを見て、渋々タブレットを貸す。

 タブレットを貸したら、仕方がないのでシライシはカブトを遊ばせることにする。子どもたちはタブレットで一緒に映画やテレビ番組を見たりすることもあれば、カブトをはじめ、ポケモンたちと遊んだりもする。原っぱでの自由時間は本当にフリーダムになってしまった。腕に自信のある子どもとポケモンバトルをしてみたりもした。カブト対ミルホッグ。勝った。さすがに金は取らない。

 タブレットで見たもの、シライシが貸した本。それらの感想をただ聞く。そんなことも増えた。シライシの既読のものの話だ。彼の思い出になりかけている感想を口にすることもある。彼女もそれに耳を傾けるのを楽しんでいる様子なのが、悪い気はしなかった。

 タブレットで見られるものに夢中な少女だったが、ときおり、シライシやポケモン、子どもたちの様子を気にするそぶりを見せた。……ので、カブトをけしかけてみるか? とシライシが思った時には、カブトは彼女の顔に張り付いていた。うわあ! と騒ぐ少女にカブトは大したことはしていない。ただ絵面がパニックホラー映画のソレで、実にキケンな匂いがする。顔に張り付くのはやめさせた。







「うわあ、ですって。モモさんって実はヤンチャさんなのかしら?」







 そう言いながら出てきたのはよく見学に来る少女だ。アケビちゃんという。いいとこのお嬢さんでかなり尖った子だ。とっつきにくい第一印象だが、タブレットや本にかじりついている少女をチラチラと気にしていたのをシライシは知っている。






「ヤンチャ……ちがうけど」

「アナタ、せっかくナナカマド研究所に来ているのに、自分の世界に閉じこもりすぎなのではなくて?」

「いいご身分だこと。あなたもこちらでポケモンと遊べばいいのに」

「え………はい?」






 
 
 マイペースにアニメを見ている少女に付き合いきれず、他の子どもたちが離れていくなか、アケビが粘り強く張り付いていたのを───どうにか話しかけようと四苦八苦していたのを、シライシは知っている。

それでまさにここだ! という今、このタイミングで出てきた言葉がそれなのだから、このお嬢様はさぞかしご苦労な人生を送っておられるのだろうな。助け舟出してやろうっと。






「たまには遊んでくれば?」

「えぇ……」






 普通に状況がわかっていない。周りを見ていないからだ。汲め汲め意図を。タブレットを取り上げ、回れ右させる。遊んでこーい。

 送り出した彼女をアケビが受け止めて、ふたりでドジョッチに歩み寄っていく。じっ、と見つめられながら、目を泳がせ口を動かしているアケビ。何を話しているのかは聞き取れない。別にそれでいい。

 やっと作業が進められる。ふふん、と上機嫌でシートを開くシライシだった。ナナカマド研究所に来てから、初めてのことだった。前まではイライラしながら開いていたのだから。











(そのあとのアケビはうまくやれたのか、モモはポケモンたちやガキどもと遊ぶことが増えた)

(一緒になんかアニメを見たりしていることもあるから、結局作業には集中できてないけど……このあいだは画像フォルダの廃墟写真見られてて焦った)

(それ以外、変なものは特に入ってない端末だから大丈夫……だとは思うが)






 他言無用を言いつけて、しかし写真を見るのは許した。チクったら写真は見れなくなるぜ? ということだ。









「今日はモモちゃん、アケビちゃんと遊びに外へ出ているよ」

「へー」






 今日はいつもいるはずの彼女が何故かいなかった。初めてのことに少し心配……なんかしてない。気になっていたシライシは、職員に聞いてみたのだった。

 別に何事もないならそれでいい。






「ナナカマド博士も喜んでいたよ。いいことだ、って。」

「あれ、喜んでるんですか……」

「わかりにくいよね。わかる」

「でも、ナナカマド博士はああ見えてモモさんのことも、シライシくんのことも気にかけてくれているよ」

「そう……ですか?」






 怪訝な顔と声を隠せない。隠さない。なんと言ったって、ナナカマド博士と会話した回数なんて、片手で数えられるほどしかないのだ。氏の人となりなど見た目以上に推し量ることなどできない。

 そりゃ部下なんだから擁護するよなぁ、と、ねじくれたことを考えていた。

 そんな今日。

……の次の日。

 彼女は原っぱにいた。シライシの勤務時間外の夕方だ。他には誰もいない。コータスくらいだった。

 原っぱのかたすみ。彼女はひざを抱えて、初めてシライシが見た時と同じ姿勢で縮こまっていた。腕に顔をうずめている。

 なぜ、前みたいになっているのか。

 友達と外で遊んできたんじゃなかったのか。

 なんだってこんな時間に、こんなところへ?

 パイプチェアを取りに来なければ、シライシが会うことはなかっただろう。勤務時間外だ。時給は発生しない。

 彼は隣に腰を下ろした。たたんだパイプチェアはそばに置いた。






「子どもは帰る時間だぞ」

「うるさい」

「ヤンチャじゃん。どうしたんだよ」

「………………」






 お茶が残っている。それを思い出したシライシはカバンから水筒を取り出した。ちび、と口にする。

 まだ温かい、と思いながらひとくち、ふたくち……。ゆったりとしたペースで飲み続けて、7回目くらいだっただろうか。






「……ごめんなさい」

「許す」

「……アケビと……喧嘩したみたいになってしまって」






 突っ伏したままそう言った。したみたいに? コータスと顔を見合わせる。んん? なんでコータスと顔見合わせてんだ俺。我に帰るシライシだが、コータスと鏡合わせのような動きで、突っ伏す彼女に視線を戻す。






「旅に出るんだそうです。ポッチャマをもらって」

「大変だな。お嬢じゃんあの子。大丈夫なのかねぇ」

「それは、心配してません」

「あらそう」

「アケビなら、何だか大丈夫って気がする」

「なんかわかる」

「アケビが言ってくれたんです。「旅に出てまた会えたらいいね」って」

「いいじゃん」

「会えません」

「なんで?」

「私は……旅に出ないから……ッ」





 彼女の絞り出すような声と、ぎりっと握った拳に、シライシは合点がいく。

 この街でやりたいことがあるのか、旅に出るのが怖いのか、理由はわからない。とにかく彼女は旅に出るつもりはないらしい。だから旅に出たアケビと再会することはない……と。

 馬鹿正直に言ってしまったのだ。そして、アケビを怒らせた。

 それを気に病んで、ここでひとりやさぐれていた、というわけだ。






(こいつ、変わったなぁ……)






 ほんの少し前まで、まっさらな印刷用紙が人の形をしているだけ、みたいなガキだったのに。友達と街遊びに出かけてケンカして落ち込んでいるとか。忙しなくて危なっかしい、年相応の子どもになったものだ。






「アケビを怒らせちゃった……どうしたら……どうしたらよかったんだろう」

「もう、会えないのに……ッ!!」

「…………………なんか────弟のこと思い出したわ」

「「……は?」」






 茶を啜るシライシ。その視線は手の中のコップに落とされている。






「かわいくねぇ奴でさ。顔突き合わせればだいたい口喧嘩してんだよな。それが日常会話みたいになってんだ」

「……なんで思い出すんだろうな。仲悪いし、お前、別に似てないんだけど」






 弟とこんな語らいをしたことがないからこそ、思い出したのか。弟とこんな風に話してみたかったのか? その自問には何とも答えられなかった。

 ただひとつはっきりしているのは、この子は弟よりはかわいいということだ。






「たぶんだけど、お嬢はお前とちゃんとお別れがしたかっただけなんだよ」

「だから、決心して旅に出ること打ち明けて、お前に「またね」って言った」

「いや、またねじゃなくて「旅に出て───」」

「そうじゃねぇそうじゃねぇ汲め汲め意図をォ」

「簡単には会えなくなってしまう友達に、でもまた会いたいんだ。だから「またね」って言いたかったんだ。お前にも言って欲しかったんだよ」

「またね。って」

「!!!」

「会えないって馬鹿正直に答えたお前のそれもひとつの誠意だとは思うよ。でも、お嬢の望んだ言葉じゃなかった。だから悲しくて、お嬢は怒った」

「……どうすれば、アケビに許してもらえますか」

「まぁ、選択肢は2つだな。徹底的に正直にいくか。もしくは「またね」って言っちゃうか」

「どっちがいいんですか?」

「そりゃあお嬢の性格による。どっちかは当たりだろうけどどっちかはハズレだろうな。好きな方にしな」

「私が決める……ですか」

「俺が決めることじゃないからな」






 この世の終わりみたいな顔になっている。シライシは自分の思うままを口にしていただけだ。自分の誠意をつらぬくか、相手の望む誠意の形をとるか。問題は至ってシンプル。あとは、どちらの選択肢をとるにせよ───






「お前の気持ちはちゃんと伝えなきゃな」

「私の気持ち?」

「会えるか会えないかのことじゃないぞ」

「また会いたいって思ってるなら、それは絶対に伝えろ。またねって言えなくてもだ」

「───はい」

「こぉー…」






 
 

 次の日から数日間、シライシは彼女と会うことはなかった。原っぱに彼女がやってこなかったからだ。どのタイミングでアケビに会いに行ったのかはわからない。シライシが次に彼女に会った時、それは最後に会った時とまったく同じような状況だった。

 ひざを抱えて、脇にはコータスが控えている。そしてシライシは退勤後だ。今回はたまたまではない。ここ数日、シライシは退勤した後原っぱに戻って1時間程度待っていた。それが今日ヒットしただけのことだった。

 シライシは数日前と同じように、隣に腰を下ろす。彼女は数日前と同じように、腕に顔をうずめていた。






「嘘つきました」

「そうか」

「旅に出たらまた会おうねって、言いました」

「喜んでた?」

「泣きながら笑ってたので、よくわかりませんでした」

「また会う日まで、って、ハグしてくれました」

「よかったな」

「よくない」

「よくない……ッ」

「よくない!!!!」

「だって!! 会えないもん!!!!」

「また会えるって、アケビは私に騙されたまま旅するんだ!! 私が! 嘘ついたせいで!!」

「腐して悪いんだけど、お嬢だって里帰りすることあるだろ。お前が旅出なくても、いつかまた会うことができるんじゃないか?」

「……“いつか”なんかない」






 彼女の目を見た。悲嘆と絶望の色だ。おそらく正直を全うしていたとしても、この子は後悔し、叫んでいたのだろう。不器用な子だ。

 彼女の心の着地は、彼女自身にしかできない。シライシにできるのは、結局のところとにかく話を聞いてやって、彼なりの考えを口にすることだけだ。

 だから、そうする。





「人間って、どいつもこいつも後悔したくないから迷って悩んで、やれ「何のために生まれたのか」、やれ「何をして生きるのか」、意味だの理由だの葛藤しながら生きるんだろうけどさ……」






 シライシは水筒を開け、紙コップを差し出す。彼女が受け取ったコップに、温かいお茶を注ぐ。







「俺はそんなのゴメンだ。絶ッッッ対に嫌だ」

「生きる意味に惑う人生なんてクソ食らえだ。明確に、はっきり、これをやってればいいんだって人生を生きるんだ」

「だから、俺は研究者やってるんだ。」






 彼女は温かいお茶をぐびっと飲む。そのお茶をシライシは飲まない。






「それ、センブリ茶っていって」

「ま───────────ずッッッッッ!!!!!!!!!!」






 あったかいセンブリ茶を一気飲みして苦さにむせかえる。その様を静かにシライシは見ている。






「ま゛ずい゛……ま゛ずい゛よぉ……」






 悲痛な声とともに、ぼたぼたとこぼれるのはお茶とよだれだけではない。疑問と怒りと悲しみとドとレとミとファとソとラとシとド。ぐちゃぐちゃの感情が目から溢れ出て、原っぱに落ちて吸い込まれていく。

 嗚咽を聞き流しながら、シライシは水筒の蓋を閉じた。

 悲しいことがあったら泣くのが1番。それですっきり切り替えが効く。我慢なんかしないほうがいいのだ。

 彼なりの誠意だったが、コータスはドン引きしていたし、シライシはひっぱたかれた。









「モモさん、今日は先輩と一緒にコンビニに行ってたよ」

「小さな外出、増えたんですね」

「研究所のみんなとも少しずつ話してくれるようになってきたからね。シライシくんのおかげだな」

「明るくなりゃいいってもんでもないと思いますけどね、俺」

「シライシ君はやっぱり素直じゃないなぁ。でも君自身、随分変わったよね」

「人間の個性は18までに構築した偏見だそうです。22の俺なんかそうそう変わりゃしませんよ」

「そうかなぁ。とてもお兄さんらしくなったと思うんだけど」

「いろめがねですよそれは」

「てかモモさん……バイトの情報誌見てたらしいんだけど。なんか勧めたの?」

「いや、知りませんけど」






 知りませんけど、と言いながら、あとで聞いてみるか、と思いつつその場を後にするシライシだった。

 その時の彼は、「社会経験したいのかな」くらいのことしか考えていなかった。






「穀潰しはよくない、と聞いたので」

「どこでだよ」






 半笑いでツッコむ。この頃にはもう、冗談を言い合うことも珍しいことではなくなっていたし、映画にしろアニメにしろドラマにしろ、見たものについて軽い調子で話をしたりすることも増えていた。

 すっかり、兄妹のようだった。

 シライシの研修期間がおわるまで、もう1週間もない。らしくもなく名残惜しさを感じ始めた、そんな頃合いだった。

 タブレットを貸しているのなんかとっくに当たり前で、複数タブ開いて何かを見て読んでいるのなんて当たり前で、いちいち関知しないのも当たり前……で───

 彼女が見ているのはシライシの作業シートと、引用する予定の先行研究と、動画サイトと、このタブレットに紐付けてあるシライシのSNS───

 動画サイトでは、カロス地方はミアレシティで起きている事件が、まさにリアルタイムで報道されているところだった。

 猛烈な勢いで流れるチャット。視聴者の率直な感想。良いも悪いも振り分けられることなく、見ている人間が書き込むままに、そのままに現れる意見の数々。

SNSの方で開かれているのはこの事件の関係者についての経歴と、またしてもそれにぶらさがる、人々の意見。

およそ子どもに見せるべきではない、無節操で赤裸々で、直截で過激な言葉も並んでいた。彼女がそれらを選別することなく見ていることに気づいたシライシは───タブレットを取り上げていた。






「───何見てんだ」

「ごめんなさい」






 顔を庇うような姿勢だ。シライシはもちろん、彼女を殴ろうとしたりなどしていない。画面に映っているものをこれ以上見せてはいけない。そう思って頭が真っ白になったので、何も考えずに取り上げた。

 顔を庇う彼女の腕は震え、肩は緊張で強張り、シライシを見る目は、恐怖に見開かれていた。






「悪い。驚かせたな」

「い、いえ……」






 我に帰ってそう声をかけたが、気が気ではなかった。タブレットで彼女が見ているものを関知しなくなって、どれくらいだ? 借り物で変なものなど見てはいないだろうと、たかを括っていたのはいつからだ? いつから───

 モモは、電子の人混みの中にいた?




 

「あいつは、何なんですか」






 尋ねた相手はいつもの“シライシ担当”の職員ではない。ナナカマド博士だった。






「俺の研究を読んでいた。それだけじゃない、引用予定の論文もちゃんと読んでて、SNSで関係する話題を検索していたり、教授に質問なんかしてた」

「───私が聞いたのは、「アルバイト情報誌に載っている電話番号をどうやら丸暗記していたらしい」という話だった。そうか、そんなことも……」

「……あいつ、何なんですか」

「私たちにもわからんのだ」

「……は?」

「知り合いのポケモントレーナーが保護した少女だ。彼女の頼みで預かっている」

「君が来る前にはもう、私や職員たちは警戒されてしまっていた。それもなぜかはわからん。打ち解けることも難しく、同年代の子どもたちとも交流しようとしない」

「そんな折、知り合いから相談があった。君のことでだ」






 相談したのはシライシの大学の教授だった。研修生にどうか、とシライシを紹介されたのだという。






「良い視点を持って研究に取り組んでいるが、斜にかまえたところがあるせいで持ち味を生かせずにいる」

「……とのことでな」






 完全に外部の人間ならあるいは、という期待もあり、君を招くことにしたのだ、とナナカマドは言った。






「研究実習生らしいことをさせられなかったのは申し訳ない」

「だが、君が仲良くなってくれたおかげで、あの子も他の人と打ち解けられるようになった。その様子だと……全て良しとはならなかったようだが」

「なんで、最初に言わなかったんですか。俺を呼んだ理由も。モモの事情も」






 口を突いて出たその問い。だが、返ってくるであろう答えは自分でもわかっていた。






「最初から全て知っていたら、君は今と同じように、彼女と接したと思うか」

「避けていたでしょうね」







 苦々しげに答えるシライシに、ナナカマドは噛みしめるようにごちる。






「子ども嫌いとは聞いていたが、人間嫌いでなくて安心したよ」






 とんだ笑い種だった。子どもの世話をさせられていたと思っていたその実、子ども扱いされていたのは自分だったのだから。

 やさぐれた気持ちで食堂に向かう。まさについさっき別れた彼女と、ばったり出会った。また、コータスと一緒だ。






「おつかれさまです」

「そんなこと言わんでいい」

「ごめんなさい」

「謝らんでいい」

「???」

「謝るのは俺の方だ」

「……晩飯食べたか?」

「いいえ」

「おごるよ」






 やった、と年相応の反応をしてついてくる。その様がむしろシライシの胸の奥をガギガギと掻き乱した。

 彼女はカツ丼を頼んだ。初めて食べるという。コータスには差し障りのなさそうなポケモンフーズを差し上げた。






「うまいか」

「おいしいです」

「そうか、よかった……バイト探しのことさ」

「? はい」

「なんだって、穀潰しだなんて思ってんだ」

「えぇっと、その……」

「働いていない人は社会の役に立っていない、という旨の意見を、2069件見かけました。働いていない人は社会に必要ない。そのようなことを意見している人も1801件見かけたので……私の今を端的に言い表すなら、穀潰しだよなって」

「穀潰しってな……お前、10歳にはなってんだっけ」

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「わからないので、計算して、今だいたい11くらいです」

「…………そっか。わかった。でもな、10歳になってて社会に出られる資格が与えられてるからって、それで働いてないからって、お前を穀潰しとかいうのは違うぞ」

「どうしてですか?」

「子どもだからだ。まだ途中の人間だからだ。そりゃ旅に出て身一つで生きていこうってやつはいっぱいいるよ。学業に打ち込む奴だっている。でも、自分が何をすべきなのかわかってなくて、模索してるやつもいっぱいいる。そういうのが当たり前の歳だ」

「でも、そういうのが嫌なんですよね」

「“俺は”な。自分のルールってだけだ。人がどうしようとそれはそいつが好きにやりゃいいことなんだよ」

「お前が毎日、迷って悩んで歩いてりゃ、そのうち勝手になりたいものの形や好きなものの姿が見えてくる。そうしたら、そうなれたら、お前なりにそのゴールに辿り着けるような努力を始めりゃいいじゃんか」







 その言葉を言い終えたとき、シライシは凍りついているかのような空気に気づき、改めて目の前の少女を見た。

 箸が止まっている。口をキツく結んで、何かに耐えるように彼女はうつむいていた。

シライシの言ったこと。それは何も変なことではない、ありふれた感慨のものであろうと彼自身は思っていて。それは実際、そうなのだが。

 シライシの言葉はどういうわけか彼女の心を抉り、二の句を告げない状態にしてしまったようだった。

 どうして? とシライシの中で膨らむ疑問が、ひとつのヒントにたどりつく。






「この間言ってた、“いつかなんかない”の話か?」







 返事はなかったが、身振りに反応が出ていた。その話に関わることのようだ。






「なんでそんなふうに思ってんだよ。なんか理由があるのか?」

「あなたには関係ありません」






 即答だった。口早にそう言って、有無を言わさずぱくぱくとカツ丼を食べ始める。

 明確な拒絶だった。ここまではっきりと壁を感じたことはなかっただけに、ショックだった。






「……そうかよ」






 そんなことしか口にできず、沈黙のまま食事は終わった。ごちそうさまでした、と手を合わせて去っていくのを背中越しに見送りながら、行き場のない感情に落ち着かないシライシ。食堂から出たのを見届けて、卓上、自分の器に向き直る。

 何も言えない。見たもの、読んだもの、今日あったこと。多くのことを話せるようになった今、対話を拒絶された。それが悲しくて、悔しくて───それで感情をあらわにできればどれほどよかっただろう。でも、何も言えなかった。

 あなたには関係ない。そう口にした彼女が、今にも泣きそうな顔でカツ丼を口に詰め込んでいるのを見て、何が言えるというのか。

 きっと、この拒絶は彼女がアケビに対して嘘をつかざるを得なかったこととと根っこの部分は同じだ。それが何なのか、推し量りようもない。どうすればよかったのか、どうすればいいのか。シライシはわからず、悩んでいた。

 こんなにはっきりと、自分の将来に絶望している人間など、会ったことがなかったのだから。






「珍しくモヤモヤしてんだねぇ」






 背後からの声。聞き慣れた、話し慣れた相手だ。食堂で話すのは初めてだったが。






「知ってました? モモのこと」

「僕がいちばん付き合い長いよ」

「それじゃ知ってますよね……いったい、なんだってんだよ……」

「ただの女の子だよ」

「記憶力と理解力がやたら高くて、同世代の子よりも感情の発達がゆっくりな?」

「シライシくんはそれを熱心に手伝ってあげてたよねぇ」

「流れで、ですけどね」

「僕は、好きだよ。君たちのこと見るの」

「ギャロップとブーバーみたいに?」

「どっちかっていうと、ドジョッチとバスラオかなぁ」

「くは、恋愛感情じゃないですよさすがに。そりゃ、ちゃんと仲直りはしたいけどさ……はは」

「俺、フラれたやつかよ……」

「ん? ドジョッチとバスラオは仲良くなったよ?」

「…………は?」






 予想していなかった二者のまさかの近況は呑み込むのにやや時間を要した。え? あいつら交流再開したの!? 驚いて振り向く。






「こぉ?」

「……なんだ、もうどっか行ったのか」






 振り向いたところにいたのはコータスだった。話し相手はもう部屋を出て行ってしまっていたらしい。相変わらずマイペースなやつ。足音もしないし。忍びの者かよ。






「そっか、仲直りしたのか……」

(ドジョッチは、仲直りしたくてずっとバスラオのところに来てたのか)









 翌日。






「ほい」






 原っぱにいたものの、気まずそうにしていた彼女にシライシは歩み寄り、何事もなかったかのようにそれを渡した。

 きょとんとしながら受け取るのを見て、シライシは続ける。






「それは、やるよ。俺のおすすめ」

「これ、新品じゃ……」

「同じの持ってるけど、それは上げられないんだ。大事な本でさ」

「だから買ってきた。3巻セット」

「もったいないです」

「布教ってやつだ。これで突っ返される方がもったいないから、ちゃんと持って帰るように」






 一方的に言いくるめて、シライシはすたすたとカブトの元へ向かう。すでに子どもたちとたわむれているのだ。アクアジェットでぴゅぴゅぴゅんと。

 おずおずと本を開くのを見て、シライシは満足げに歩く。今回は原っぱに来ていたブイゼルと子どもの1人が組み、シライシのカブトとバトルすることになった。







「へっへっへー。オイラとブイゼルのコンビは一味違うからなー」

「お前、バトルがしたかったのか」

「やってみたかったんだ、ブイゼルと一緒に、カブトとバトル」

「そりゃいい。かかってこーい」

「それじゃあブイゼル───みずてっぽう!」






 みずてっぽう、と指示されてブイゼルが放ったみずでっぽう。それは水を噴射するような攻撃ではなく、ひとかたまりのしずくの射出による攻撃だった。それはびゅん!とカブトの足元に炸裂し、地面が抉れる。

 早い。だがコントロールはイマイチのようだ。外したのを確認してしかし、冷や汗をかくシライシ。当たったら、すごく、痛そうだ。






「おまえ、そいつの水風船かぶって考えたことがそれかよ」

「すげえだろ。こいつのみずてっぽう、まるでピストルみたいだろ?」

「ずいぶん仕上げたじゃないか。だけど、命中に難ありみたいだな。なら……」






 水を纏い、機動力を得たカブトは素早く弧を描くような軌道でブイゼルに迫る。アクアジェットで素早く動いてみずでっぽうを当てさせない算段。シライシのその動きを、しかし少年は予想していたようだった。ニマ、と笑って高らかに叫ぶ。






「ブイゼル! アクアジェット!!」







 脇に降り立つような軌道をとっていたカブトに突っ込むブイゼル。わずかな瞬間、詰まった間合いで起きたことに、カブトは回避できず、アクアジェットをもらう形になった。衝撃に地面を跳ねながら飛ばされるカブト。なるほど、少年がカブトを追いかけ回していたのはこのためか。ほくそ笑むシライシ。






「アクジェ盗みやがったな」

「ブイゼルは大した奴だからな!」






 追撃。みずでっぽうをまた撃つブイゼル。今度は掠めた。この短時間で精度が上がっている!! 当てられるのも時間の問題だ。ふたたびアクアジェットを起こす両者。カブトは回避兼有利な位置を取るために。ブイゼルはカブトへさらなる追撃をするために。

 その意図を読み取ったシライシはカブトを離脱させる軌道ではなく、むしろブイゼルに肉薄する軌道へ指示した。






「きゅうけつ!」






 カブトがブイゼルに組み付き、吸い付く。どうにかふりほどこうともがくブイゼルだが、じわじわと気力を奪われていく。






「ブイゼル! アクアジェットって飛んで、カブトを地面にたたきつけるんだ!」






 組みついたカブトを逃さないよう掴んだブイゼルは、アクアジェットでロケットのごとく垂直に飛ぶ。そして身を捻り反転、重力加速とアクアジェットの勢いを両乗せして、カブトを地面に叩きつけた。






「どうだ!?」

「すげぇ……お前ら、隠れてこんなすげえことになってたのかよ」






 素直な感想がこぼれる。思えば、ぬかるみにはまったりしていたのも、ブイゼルとの交流の流れでそうなってしまっていただけだったのかも知れない。シライシが余計な世話を焼くまでもなく、少年は自分のやるべきことを追い求めていたのだ。それを実感して、シライシは震えていた。とっさの機転も、それにブイゼルが応えるのも、シライシの心を大きく揺さぶった。

 惜しむらくは、そんな彼らの努力は今回、勝利には届かなかったということだ。

 うつ伏せのブイゼルの下から這い出てくるカブト。けふ、と一息ついてシライシの元に戻ってくる。ノビているブイゼル。きゅうけつとのダメージレースに負けて、力尽きてしまったのだ。

 カバンをまさぐるシライシ。ここ数日、バトルをする機会が多かったので回復用の道具を持ってきていた。げんきのかけらを投げて渡す。

受け取る少年。ブイゼルに駆け寄り、こちらに背を向けたまま手当てをする。それにわざわざ干渉するほどシライシは無粋ではない。

何気なく見たのは、本を読んでいるはずの彼女の方だ。視線を感じたから。

 本当にめっちゃこっち見ていた。コータスも、一緒に。






「お前もやるか?」

「はい」






 即答ではなく、少し間があった。コータスを一瞥してから、何事かアイコンタクトしたのか、開いたままだった本をパタン、と閉じて。頷いた。

シライシの第2回戦、開始。






「コータス、かえんほうしゃ」






 その指示はまさに“おずおず”といった感じだった。ぼふ、とコータスの口元で火炎が起こり、すう…と息を吸い込む。喉の奥と甲羅の排気孔から炎の明かりがゆらめく。






「こぉ───!!!!」






 放たれた火炎。嫌な感覚が背中を駆け上がり、とっさにシライシは叫んでいた。






「アクアジェット!」






 カブトが飛び退いた場所を火炎が突き抜ける。回避はギリギリ。カブトの足先を火が炙るくらいの紙一重っぷりだった。効果はいまひとつのはずの攻撃。嫌な感覚が駆け上がった背中にはびっしょり冷や汗をかいていた。

 やるか?と軽いノリで言ったものの、対戦することになるであろうあのコータスに対して、シライシは気後れしていた。コータスとしてはかなり大柄な方で、ゆったりとした態度ながら妙に風格がある。正直、十代の子どもが連れ歩くポケモンにしては箔がつき過ぎている。

 そんな奴と真正面から戦うとか、平時なら御免被る話だったが、今回に関しては、逃げられない、と。そう腹を括って挑んでいるような、そんな節があった。






「ストーンエッジ」






 コータスのエネルギーが地面に流動し、それが岩の柱となって続けざまに隆起する。カブトめがけて。

 まだ逃げるカブト。直前の行動の延長だったこともあり、ストーンエッジは危なげなく回避することができた。コータスのストーンエッジとかえんほうしゃを見たシライシはひとつの方略を思いつく。カブトにまたアクアジェットを指示。すばやく、コータスの背後を取る位置に飛び込ませた。

 




「アクアブレイク!」






 カブトが覚えているわざの中での最大火力を叩き込む。こうかはばつぐん。歯を食いしばる様子を見るに、効き目はバッチリのようだ。






(かえんほうしゃもストーンエッジも、おそらく顔の向いている方向にしか撃てないはずだ。アクアジェットで背後を取って、アクアブレイクで殴る)

(この戦略で、こいつを倒す!)

「なめるなよ」






 向けられたのは視線。しかしシライシは明確にその意思を感じた。刃のごとく突き立てられたように錯覚すらした。

岩の刃が生成される。ひとつ、ふたつ、みっつ。空中で。

よっつ。いつつ。甲羅越しの視線と同じように、ストーンエッジの矛先がカブトに向き直る。

これなら僕の向きとか関係ないでしょ? と言わんばかりに。

射出。ひとつめは飛び退いてかわせた。しかしカブトは体勢が崩れる。

射出。ふたつめはヒットしたが浅い。シライシがアクアジェットを指示し、カブトがすぐさま応えたからだ。中途半端な回避。体勢は立て直せていない。

射出。みっつめは確実にカブトの芯を捉えていた。ストーンエッジに地面に押しつけられるような形になる。

射出。逃げられない状態になったところによっつめが炸裂する。地面にめり込むカブト。

射出。いつつめはカブトの甲羅のフチを叩くようにヒットした。めりこんでいたカブトが衝撃で浮く。

 その時にはもう、コータスはカブトに向き直っていた。






「かえんほうしゃ」







 ノーガードのカブトにかえんほうしゃがおそいかかる。こうかはいまひとつ。しかし全身を満遍なく焼き、焦がし、水分を枯らし、戦闘不能へと追い込んでいく。

 ストーンエッジの全弾射出。終盤に至ってはカブトの位置を都合のいい
具合に調整する余裕すらあった。格上であることをわからせてくるあたり、こいつは相当性格が悪い。






「ガッデム照射時間ァン!!」






 長い長い長い!! 炎越しでも見ればわかる。カブトがじわりじわりと弱っていく様が。

 わかった。わからされた。否応なく格の違いを思い知らされた。少女の指示の技を使ってこそいるものの、このバトルは完全にコータスが自分の判断で進行している。実質、トレーナー同士のポケモンバトルではない。未知の怪獣にでも挑みかかっているようだった。シライシは気分最悪だった。

 だが、ここで引くわけにはいかないと、シライシの何かが叫んでいた。ぽっと出のつまらない意地か、勝ちへの根元的な渇望か、あるいはもっと何か別の感慨からか。わからない。わからない何かが、その叫びが思わず口から飛び出ていた。






「カブト! 踏ん張ってくれッッ!!!!」






 そんな叫びを上げるようなタチじゃない。その自覚があって。カブトが耐えても、どうしたって勝ち目なんかないことなんてわかっているのに、どうにもならない、どうしようもない、どうにもできないのは明らかなのに。それに自分が屈してはいけない、屈するところを見せてはいけない、俺の相棒はこんな性格の悪い奴に負けてなんかない。そんな、シライシのまとまらない感情が爆ぜて───

 それに応えるかのように、カブトが光った。

 シルエットが膨れ上がり、足が伸び地面を踏み締める。腕が伸び、炎を振り払う。

 あぁ、手をワキワキしてもらうやつ、もうできないんだな、という名残惜しさと、鎌カッケェ……という感慨が一緒にこみあげた。






「カブトの姿が、変わった……」

「ありがとな、カブトプス……アクアジェットだ!」

「キシァ!」






 本日何度目かのアクアジェット。コータスはすかさずストーンエッジの生成に入るが───

 カブトプスは真正面からコータスに突貫していた。たたらを踏むコータス。進化して大柄になったぶん、こういう正直なこともしやすくなったのだ。






「アクアブレイク!!」

「カゥア!」






 両鎌に水のエネルギーをまとい、左右から挟むようにぶつけるカブトプス。パワーの上がった効果抜群のわざを立て続けに入れ込まれ、さすがにコータスにも消耗が見え始めた。






(流れは来てる! あとはもう、全力で撃ち込むしかない!)

「コータス、あくび」

「アクアジェット!」

「ふわぁ」






 へんかわざを持ってやがった。とっさにコータスの正面を離脱するよう指示。しかし、あくびはうつってしまった。眠ったら終わりだ。戦闘不能になるまで焼かれる。ならば、時間内で出来うる限りを叩き込む。アクアジェットで滑り込んだのはコータスの側面を取る位置。撃てて精々が2発。






「カブトプス! アクアブレイクアクアブレイクアクアブレイク!!!」






 がつん!! がつん!!! とコータスにクリーンヒットするアクアブレイク。もう一撃───と鎌を振りかぶったところで、カブトプスはくずおれた。

 ダメか、とシライシが息を呑んだその時、カブトプスがもたれかかったコータスも膝を折るように倒れた。






「ばたんきゅう……」

「……よっ、よっしゃあ!!!」






 思わずガッツポーズ。難敵を倒したのだからしかたないリアクションではあったが、はたから見ると、子どもとポケモンバトルして大人気なく勝ちを喜んでいるといった様子だ。






「絵的にキツいなぁ」

「うるせえお前もコータスとやってみろ!? わかるからコレ!」

「うわぁ」






 ブイゼルと一緒にヒいている少年だった。何と言われようと勝ちは勝ちだ。大金星だこれは。悦に浸るシライシは、こぉ……と弱々しい声を聞きつけて我に帰る。






「いけね、回復回復」






 げんきのかけらを取り出すシライシ。カブトプスを移動させ(すごく重かった)、コータスにげんきのかけらを与える。処置をしていると少女が寄ってきた。見上げるシライシ。見下ろす彼女。






「バトル、どうだった?」

「よく、わかりませんでした」

「……だろうな」






 彼女は技の指示を出していただけだ。駆け引きそのものをコータスが判断していた以上、彼女がポケモンバトルの醍醐味を楽しめたようには思えない。何ならら悔しいとか思うような余地もないだろう。その点についてうまくやれなかった自覚はあった。



 


「今度、もう一回やってみようと思います」

「そうか」






 何かとっかかりが得られたのだろうか。もう1度、という言葉が聞けてシライシは少し安堵した。コータスが立ち上がるのを見て、彼女は離れた。読書に戻るだろう。

 カブトプスが起きた。カブトの時と違う鋭い目つき。頼もしくなっちゃったなあ、と思いつつ、目が合ったシライシは、ありがとうな、と言って手を伸ばした。撫でようとしたのだが、そうするよりも前にてのひらに額を押し当てられた。いつもの、だ。

ああ、そうかコレはまだできるのか。少し嬉しかった。






「カブトプスになっちゃったら、さらに追いつくの大変そうだなぁ」






 ブイゼルをぶら下げながら寄ってくる少年だ。シライシはカブトプスと一緒に立ち上がる。






「俺なんか追っかけてもどーしょーもないぞ。ジムリーダーとかにしとけよ」

「でも、ブイゼルがなぁ……」






 ブイゼルはカブトプスにキュッと視線をぶつけている。ライバル視している、のだろうか。






「どのみち、俺は今月でここを離れるからな」

「……そうなんだ。じゃあ、みんなバラバラになっちゃうんだな」

「みんな?」

「オイラは進学でここに来なくなるからブイゼルとおわかれだ。シライシが研究所やめるし、シンヤやアケビやタマル、ナカノも旅に出るっていうし」

「さんをつけろよデコ助野郎」

「シライシって時々よくわかんねぇこと言うよな」






 シライシはあまり関知していないので詳しくはないが、彼らもここで築いた人間関係がある。割と最近ではあるものの、アケビの導きであの少女もそこに加わったわけだが、そんな皆の別れの時が迫っている、ということらしい。






「お前んち、ポケモンダメなの?」

「別に? 父ちゃんも母ちゃんもポケモンもってるよ」

「そっか……お前、明日も来るのか?」

「? 来るつもりだけど」

「わかった。ちょっとその時に話すことあるかもしれん」

「え。シライシが約束? オイラと? 何企んでんだ」

「お前の中の俺、何なの? 俺の中の俺なの?」

「?????」






 シライシ、退勤。






「あ」

「お」

「こぉ」






 そしてまた、食堂で奢ることになった。前回カツ丼。今回は天そばだ。シライシは天津炒飯を頼んだ。

 先日はボリューミーなカツ丼をぱくぱくとテンポ良く食べていた彼女だったが、そばの食べっぷりも小気味良い。さくさくちゅるちゅると見ていて気持ちがよかった。






「天津炒飯が当たり前になると、天津飯では少し物足りなくなるんだよな」

「そうなんですか」

「ラーメンライスに慣れるとラーメンだけでは満足できなくなる感じだ」

「そうかも」






 雑談をしてみたところ、普通だ。思っていたよりは。あまりギクシャクしないで済んだのは、本をあげたおかげによるところもあるのかもしれない。

 本。先程あげたばかりだが、やはりもう読み終わっている様子だった。3冊。






「最初に貸した本のこと、覚えてるよな」

「“先生”の。」

「そうだ。お前は、あの結末を……どう思った?」

「……先生は───大変な思いをしてかけずり回った方の先生は、やっぱり消えてしまったのかな、って」

「あんなに大変な目に遭ったのに、無意味に。死んだんだ───って」

「そうか」






 そんな気はしていた。彼女の解釈がそのようなものになっている予感。あきらめの中に力無く半身を横たえているような、さみしい解釈。それを否定するつもりはない。自分はまた上手くやれなかったのだ。それを思い知らされたシライシは、悲しい、というよりもやるせなかった。

 口を開く。






「俺はあの本読んだあと、ちょっとアリジゴク探しにハマった時期があった」

「アリジゴク、ですか」

「なんか、そのあたりの話が忘れられなくてな。アリジゴクの実物を見てみたくて。みつけられなかったけど」

「今日お前にやった本を読んだ時は、なんか無性にみかん食べたくなったし、ガムも噛みたくなった。口いっぱいに頬張って噛んでたら詰め物が取れた」

「ポケモンをたくさん見たくなってサファリパークに行ったし、カイリューの背中に乗って空を飛んでみたい───空から地上を見下ろしてみたい、なんて思ったりしたな」

「パパが持ってた十徳ナイフをさわって、怪我して叱られた」

「カイリューの背中には、乗れましたか」

「いや。カイリューには会えてない。…………お前は、どうだ?」

「どう?」

「本読んで、いろんなもん見て、やりたくなったこと、たくさんあるだろ」

「……」

「バイトするのは、いいと思うよ。でも、稼いだ金をただ納めるだけになるなよ」

「自分で稼いだ金で、やりたいことやるのって、すごく楽しいからさ」

「やりたくてもできなくなっちまったら後悔するしな。ああ、やっときゃよかったって」

「……シライシさんは、そういう後悔あるんですか」

「…………………………やらなきゃよかったって後悔よりも、やっときゃよかったって後悔の方が、たぶん虚無いしな」

「質問無視した」

「してない。あるよ、後悔。いいの入ってるよ。キマるぜぇこいつは」

「私はいらないです」

「大したことじゃないけどな。弟と秘密基地作るっていう」

「弟さんと?」

「弟と。」

「それって───」

「秘密基地作るにはもう老けすぎてるからね」






 二ヘラ、とシライシはイタズラっぽく笑った。そんな風に茶化した言い方をすると、余計“それ”っぽく思えてくる。と少女は思った。もう二度と遊べないからだ、と。

 言わぬが花、という言葉を彼女は知っていたので、それ以上は追求しなかったが。






「……みかんは食べたくなりました」

「だよな」






 一方のシライシ。こんな風に軽く話をしているものの、内心では自身の無力を感じていた。やりたいことはやっとけ。はいやります。こんなやり取りをしたところで、この子の根っこに巣食っているものを解消できはしないのだから。

 こうなってしまっては。自分がうまくやれなくて、彼女の心のしこりを浮き彫りにして、しかも正体不明のまま残す結果になってしまっては、シライシとて悩んでいた。

 どうしたらよかったのだろう、と。

 自分は研究者だ、教育者ではない。その方面のことも別に学ぼうとはしなかった。研究者の実際として、若輩の者と交流することも多いのだ、と知らなかったから。ポケモンを渡したり、講演会で質問に答えたり、研究所に来た子ども達を案内したり。彼らの人生に大きく関わるような舞台に、あるいは場面に、自分たちが立ち会うことは多々あるのだ。

 それを、自分には縁遠かろうと───その備えは必要なかろうと、子ども嫌いを理由に何もしなかった。それを痛感させられて、シライシは悩んでいた。後悔なんてもう自分は無縁になるはずだった。意味に悩まずに済むはずの研究者の道を志し、本格的にその道に入れる直前まで迫った今。そんなことを考えなくて済むように、と進み続けてきたはずだったのに。そんなこと考えなくていい、と振り払おうとするたび、この子のことが脳裏をよぎるのだ。そして、チラつく。

 自分が研究者を目指している意味って何だ? という迷いが。










 翌日。シライシは少し不機嫌そうに原っぱにいた。






「シライシどうしたんだ。ひさしぶりにゴキゲンななめだな」

「苦情もらった」

「え。何で」

「“なんで”じゃなくて“なにで”なの腹立つな。“変な言葉使うな子どもが使う”ってよ。……なんでバレたんだろな」

「誰かマネしたからだろ」

「それもそうだな。……そういえばナナカマド博士に訊いたんだけど」

「ん?」

「ブイゼルな。研究所に棲んでるけど、別に誰かのポケモンってわけじゃないらしいぞ」

「───え」

「お望みなら、連れて帰っていいとよ。記録は残すけどって。」

「………いいの?」

「いいらしいよ?」

「ぶぅーい!!」






 いいらしいよ、とシライシが言い終えるか終えまいか、というところでブイゼルがアクアジェットで飛び込んできた。びしょ濡れになる少年。少し水をかぶるシライシ。少年はひっくり返りながらブイゼルを受け止めた。 






「あはははっ。じゃ、ちゃんと父ちゃんと母ちゃんに話さなきゃなぁ」

「そーかい」

「シライシ。ありがとな!」

「はいよ。何もしてないけどね」










 原っぱで遊ぶ子どもたちとポケモンたちを見守り、そこで起きたことを報告。資料の整理。進めている研究について相談。シライシは、“いつもの仕事”をこなした。

 今日、シライシは研究所を去る。研究実習の期間が終わったのだ。まとめるような荷物もそう多くはなかった。研修というよりは、ベビーシッターみたいなものだったのだし。

 ナナカマドはデスクワーク中で、書類の山をさばいている様子だったが、シライシが帰ろうとするのを見て「送ろう」と席を立った。バスの停留所が研究所のすぐそばにあるのだから、別にいいのに。






「ご苦労だった。君のおかげで、あの子はずいぶん職員たちと打ち解けられた。一緒に買い物に行ったりもしているよ」

「はあ……それは、どうも」

「そして、すまなかった。期間中は小間使いのようなことしかさせられなかったことも、大変申し訳なく思っている」

「……大丈夫ですよ。研究のことちょくちょく相談に乗ってもらいましたし、研究実習とかやる余裕なさそうなの、外野からでもわかりましたし」






 現在、ナナカマド研究所は絶賛大忙しだ。はたからはそう見えないよう努めているようだが、3ヶ月もいれば、さすがにそういう空気くらいはわかる。猫の手も借りたいくらいだったのは間違いないのだろう。あの子のこと、子どもたちの見守りのこと、その他諸々の細かな業務。研究所の欲しかった人手のタイミングにシライシの条件がちょうどよかったというだけの話だったのだ。シライシとて、得られたものがまったくなかった時期というわけでもない。……だからといって全て水に流せるという話ではないが。






「俺はあなたたちが期待していたようにはやれませんでしたし」

「期待していたように、とは?」

「他の人と打ち解けさせて、モモも他のガキどもみたいに、何も考えずに前向いて歩くようになって───みたいな。全て良し、って決着にはならなかった」

「うっかり人混みの中に放り出して、人間の汚濁を飲ませてしまった。モモの中には、モモ自身を切りつけて傷つける、無数の心ない言葉が積まれてしまっているんでしょうね」

「そうかもしれん。だが、シライシ君。君は、自分は清流の中で育ったと思っているか? 清廉潔白な人間だけに囲まれて二十余年生きたと?」

「……いえ」

「君の周りに、そんな人間はいるか? 邪悪を知らぬ、無垢な精神のまま大人になった、そんな者を君は知っているか?」

「いいえ」

「私とて、そのような人間に会ったことはない。実際目の当たりにしたならば、不気味とすら思うかもしれん。それもまた、私の中にある悪性だ」

「誰しも、心の中によこしまな物差しのひとつふたつは持っている。それは時に魔が差すきっかけとなるかもしれん。ある時には異なる者、悪なる者に気づくとっかかりとなるやもしれん」

「人を騙す方法を知っているなら、人を騙すような人間になるか? あるいは、騙す方法を知っているからこそ、それから身を守ることができる場合もあるだろう?」

「結局は、その人間次第っていう話、ですか」

「……シライシ君。君はあの子に物語を貸し与えたな。たくさんの物語を、彼女にもたらした」

「物語にはそれぞれ世界があり、それを読み解いた我々は、そのひとつひとつを胸に置いて生きていく。物語をひとつ置いていくほどに、世界は私達の心を作りあげていく。心を閉ざしていたあの子の心の中に積み上げた、世界の重なり。それは君がもたらしたものだ」

「君のもたらした物語で心を育んだ彼女はきっと、差した魔に侵されない、邪悪と相乗りする選択を手にできる、佳い人間になるだろう」


「俺の失敗は、モモにとって必要なことだったって言うんですか」

「そう単純な話ではないよ。人間の豊かさに不要と無駄は切っても切り離せないものだ。君の思う“失敗”がどんな意味を持つのかは、あの子が、あるいは君が人生を全うした時にわかることだ」

「私から言えることはひとつだけ───」

「君が来てくれて助かった。ありがとう」

「………」






 どう答えたらいいのか、咄嗟にはわからなかった。

 ナナカマド博士の話を聞いていて思ったのは、カブトプスのことだった。シライシが研究者としての道を本格的に目指し始めるより以前、カブトを進化させるために手を尽くした時期があった。幼い自分の何ということのない目標。その結果は、言うまでもない。つい先週まで、カブトはシライシの手を握ってくれる存在だった。それが、コータスとのバトルでカブトプスへと進化した。シライシの心に応えるかのように。

 彼の手を包み安心を与えてくれる存在ではなく、道を切り拓き進む、その助けになることを選んでくれた。

 カブトが進化したきっかけは何か。それはきっと以前のシライシが不要と手にしなかった色々のうちのどれかだったのだろう。それがこれだ、とシライシには答えることができない。

 何が人生の役に立つかなど、その時になってみないとわかりゃしないのだ。これが役立つと予想して積み立てておいたもので、実際役に立ったものが一体どれだけあったのだろう。今後どれだけ、役に立ったと満足できるだろう。

 わからない。けど、そんな自分の前にカブトプスは立ち、シライシの歩みを進める助けとなってくれるだろう。あらためて、心強いな、と思った。






「あなたのせいで、考える必要のなかったことを、考えるようになってしまいました」

「それならば何より」






 いよいよ研究所を出る、という頃合いになって、シライシはそういえば……と思い出す。






「子ども達の見守りをやってた時、よく話をした人がいるんです。たぶん、飼育担当の人だと思うんですが……」

「ん? 飼育担当というと、サチヨさんか。挨拶していくかね?」

「サチヨ……? あ、それじゃあ……はい」






 ナナカマドに連れられて会ったサチヨという飼育担当の職員。年配の女性で、シライシも時々見かけて軽いあいさつをすることはあったが、長話したことはない。いつも雑談していた相手ではなかった。






「ふむ。時間帯的に考えても、君の話し相手らしき人は、彼女以外考えられんが……」

「いや、さすがに間違えないと思います。別人でした」

「不思議なこともあるものだ。……もしかしたら君は、何か特別な者に会っていたのかもしれんな」






 ええ……と怪訝な顔をするシライシに、ナナカマドは静かな笑みをこぼした。きっと君にとっては吉兆だとも、と言う。無責任な、と口にはしないが心で毒づくシライシ。

 と、そこで誰かが慌ただしく走ってくる足音が耳についた。音の方を見やると、ちょうど扉から少女が転がるように飛び出てきたところだった。






「モモ!」

「あの……ハァ……今日、最後だったって……ハァ……ハァ……聞いて」

「シライシ君。言っていなかったのか」

「……あ。コイツと別れる時、なんか明日も来るようなつもりでいました」

「何をやっとるんだ……」






 ここに来る前までは考えられなかったようなことだ。知らぬ間に、ずいぶん色々と矯正されてしまったらしい。

 走ってきた彼女の息が整うのを待つ。






「……あの、その、なんていうか……」

「うん」

「シライシさんのおかげで、いっぱいおいしい思いが出来ました」

「もらった本、もっと読み直してみます。やってみたくなったこと、ちゃんとやります」

「……うん」

「ありがとうございました」

「うん」






 ありがとう、と言われた時、シライシは彼女の顔を直視できなかった。

 泣きそうになってしまった、ので。






「またな」

「さようなら」




















「む。アルバイトをさがしているのか?」

「はい」

「居候でお金も納めないのは、ご迷惑かと思って」

「……君、ほかにやりたいことはないのかね?」

「やりたいこと……」






 ナナカマドと話す機会はあまり多くない。無愛想だし言葉数も少ないこの研究者が、彼女はかなり苦手だった。







「………ここを出ては行く宛もありませんから、ここにいたいです」

「ご厚意でお世話になってますけど、これ以上ここにいるなら家賃は納めないと、とは思っています」

「……君は、同じくらいの歳の子どもが旅立っていくのを見て、どう思う?」

(そういえば、よくそんな人も来てるか)

「これから大変だろうな、と思います」

「でも、彼らには追いかける夢があるのですから、その険しい道に挑むことは彼らにとって幸せなことなんだろうな、って」

「ヒコザル、ポッチャマ、ナエトルを連れていく子達は、みんな笑顔ですから」

「無縁なことのように話すのだな」

「実際無縁ですし、やる意味がないと思います……私では」

「……トラブルが多く、イレギュラーも頻発し、何が起こるかわからない、そんな旅をすることは、君にとっては無意味かね?」

「目的もありませんし……はい。意味が見出だせません」

「私がここにいるのは、駄目でしょうか」

「……いかんな」

「君は、旅に出た方がいい」

「え」






 かくして、ナナカマドのすすめもあり、彼女は旅立つことになった。コータスを連れ立って。

 その旅に、シライシにもらった本は持っていかなかった。無くしたり、壊したりするのが怖かったから。

 ナナカマド博士。

 ポケモンの進化研究の第一人者であり、ポケモン研究家としてはオーキド博士の先輩にあたる。メガシンカ研究でおなじみのプラターヌ博士は教え子である。

無愛想で言葉数が少ないため、見る人によってはいつも怒っているようだが、その実世話焼きで。

彼と交遊の深い人々には、無類の子ども好きであることも知られている。
2022年もよろしくお願いします。

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