第51話:ありがとう

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 ――ボクのお父さんは死んだ。死んじゃったんだ。
 ヴァイスは心の中で何度も言葉を繰り返し、現実を飲み込もうとする。しかし、何度試してみても、その情報は心の表面を上滑りするだけ。事実として受け止め、感情に影響を与えるに至らなかった。

「ヴァイス……」

 セナは名を呼ぶのがやっとだった。呼ぶ、というよりも、呟くと形容した方がふさわしいような、そんな声で。ヴァイスにどんな言葉をかければよいのか、分からなかった。
 その場が沈黙に支配され、誰も何も言わなくなった。その時だった。

「話は聞いた」

 抑揚に乏しい低い声と共に、太い木の陰からジュプトルが姿を現す。

「ネロ君、いたの?」

 確かに一度はるかぜ広場に帰したはずのネロが、いつの間にか戻ってきて話を聞いていたのだ。ホウオウ召喚に力を割いているとはいえ、察知できなかった気配にライコウは驚いた。ネロはライコウに頷いてみせると、静かに話し出す。

「今なら俺の“目的”を果たせそうな気がしたから」

 これだけ言うと、彼はヴァイスに歩み寄る。

「ネロさん、どうしたの?」

 じいっと目を合わせるネロに、ヴァイスは戸惑ったように聞いた。ネロは突然、何も言わずにヴァイスに何かを手渡した。
 握ってみると、くしゃっと頼りない感触が手に伝わる。よく見てみると、それは枯れ果てた一輪の花だった。今はもう茶色を帯びてしまった花びらが、かすかにかつての純白を訴えている。

「これ……なに?」
「お前の父さんからの、プレゼントだ」

 最低限しか語らないネロの意味が理解できない。ヴァイスが首を傾げると、ネロは付け足した。

「あの日……救助隊ONEは、見たこともないポケモンに襲われていた俺を救ってくれた。戦いの最中に、レッドさんは俺にこの花を手渡した。“このきれいな花を、いつかヴァイスに渡して欲しい”と言って」

 ――そうだった。そういえばネロさんは、お父さんたちの最後の依頼主だったんだ。そんな重要なことも意識できないほど色々なことがあったなあと、ヴァイスは思い返す。

「ん……悪い。ずっと渡せなくて」

 随分と装飾の欠けた説明だが、ネロは語り切った表情で口を閉じる。レッドと別れた幼いころから共に生きてきた一輪の花を――ヴァイスに握らせたその花を、名残惜しそうに見つめている。

「お父さん、最後の依頼の最中にも、ボクのことを考えてくれていたんだ……。ネロさん、ありがとう」

 ネロはただ頷いた。珍しくヴァイスと視線を合わせながら。
 うつむいて、ヴァイスは花を眺める。かつて白かったであろうこの花を手に取り、父はどんなことを考えていたのだろう。――依頼が終わったら、すぐにヴァイスにお土産を渡すんだ。そんな、ワクワクと嬉しそうな表情のレッドが、ヴァイスにはたやすく想像できた。花がしおれないうちに、ヴァイスに――。

「……う……」

 目の前の花が歪んだ。干からびた花びらを、一粒のしずくが濡らす。

「お父さん……」

 ようやく少しずつ実感が沸き、ヴァイスは花を握りしめた。過去に経験もあるはずなのだが、大切な存在の死は何度経験しても慣れそうにない。むしろ、その度に苦しみが増してゆき、ヴァイスの胸を締め付けるのだった。

(オイラは、どうしたらいいんだろう……)

 一方のセナは、必死にヴァイスにかける言葉を探していた。が、適切な言葉を見つけられない。ホノオとシアンは、ヴァイスの隣で素直に泣いている。自分は――キズナのリーダーであり、ヴァイスとは一番付き合いが長く、ヴァイスの両親についても深く話を聞いている。そんな自分は、どんな行動をとればよいのだろう。
 それが分からなくて、セナはただ悔しかった。
 セナはやりきれない気持ちのまま、痛々しいヴァイスから目をそらしてしまう。すると、ネロと視線がぶつかった。戦闘中はあれほど頼もしかったネロも、繊細な気遣いができず悩んでいるようだ。セナと目を合わせると、不安な心情を漂わせた。

 その場が泣き声に満たされてしばらくが経った。ホウオウは優しくヴァイスに話しかける。

「ヴァイス。レッドに会いたくはありませんか?」

 ヴァイスは潤んだ目でホウオウを見上げる。すがるような上目使いだった。――これからどんなに頑張って生きても、必死に探しても、ボクはもう、お父さんにもお母さんにも会えないのだ。それならば――家族に“会いに逝きたい”。
 希望を傷つけられながら、戦いながら生きることに、ヴァイスは疲れ果ててしまった。

「うん……。ボク、お父さんに会えるんだったら……死んでもいいや。……もう、楽になりたい。家族と“一緒に”、幸せになれれば……それでいい」
「本当に、いいのか?」

 ヴァイスの言葉を聞くのが辛くなる。セナはかき消すように言葉を重ねた。

「死んじゃったら、今生きている友達には、もう二度と会えないかもしれないんだぞ。せっかくお前には、たくさんの友達がいるのにさ。オイラは……オイラだったら、二度と友達に会えなくなるのは、嫌だな。……怖かった。
 お前が本当に、死んで父さんに会いたいのなら……オイラには、それを止める権利はないけどさ。でも……オイラはお前にそうして欲しくない。もっと一緒にいたいって……そう、伝えておくね」

 自分の気持ちを伝えながらも、ヴァイスの“父親に会いたい”気持ちはどうしても否定できなかった。こんな中途半端な言葉が果たして正解だったのか、冷静に判断しきらぬまま、セナは未完成の言葉を紡いだ。
 もしここで、ヴァイスが死を選んでしまったら、きっと酷く後悔するのだろう。もっと強く強く、ヴァイスに生きることを説得すれば良かった――と。しかし、それをする勇気が自分にないことを、セナは痛いほど理解していた。自分はホノオとは違う、と嫌というほどに理解させられる。セナはきっぱり自分の気持ちを伝えられず、いつだって後悔してしまうのだ。
 セナは、祈るようにヴァイスの返答を待った。

「……ボクは」
「おっと、勘違いをしているようですね。心配いりませんよ、ヴァイス。お前が死ぬことはなく、今ここで、レッドに会うことはできます」
「えっ!?」

 ヴァイスが震えるように絞り出す答えを、ホウオウは遮った。父に会いたくないか――という自分の問いが誤解されていることに気が付き、軌道修正を試みたのだ。
 すっかり深刻ムードに張り詰めていた雰囲気を、素っ頓狂なセナとヴァイスの声が塗り替えた。

「お待ちなさい。今、準備を……」

 ホウオウは黄金の光を全身から発する。すると、その光に照らし出されるように浮かび上がった。ヴァイスの背後に立つ、リザードン――レッドの姿が。

「ヴァイス」

 その優しい声が、何度も自分を助けてくれた声が、優しく背中を撫でる。嬉しくなってヴァイスが振り返ると、少し身体は透けているが、まぎれもない父の姿があった。逞しい腕と翼に、ぽよんと大きなお腹。優しい眼差し。

「お……お父さん!」

 ヴァイスは父に身体を預け、抱きつこうとしたが、するり。父の身体をすり抜けて、思い切り転倒した。

「おっと、ごめんよ。今のお父さんには、触れることはできないんだ」

 レッドがそういうと、少し悲しげに苦笑いした。

「……ごめんね、ヴァイス。ずっと待っていてくれたんだね」

 顔を上げるヴァイスの頭をそっと撫でながら、レッドが言う。感触はないが、確かに暖かい。
 ヴァイスは静かに口を開いた。

「……ボクは。ボクは、お父さんの子供だから、いい子にして待っていたんだよ」

 震えた声で、ヴァイスは続ける。

「ボクは、みんなの笑顔を守る、救助隊ONEの、レッドの子供だから……それが、本当に嬉しかったから……だからボクも、辛くてもみんなを笑顔にしなきゃって。お父さんみたいになりたいって。そう思えたから、寂しくても頑張れたんだよ」

 泣きながら笑顔を作り、何度もつっかえながらヴァイスは言う。
 もう、“隠れて見ている”のも限界だった。

「ヴァイス!!」

 大きく彼を呼ぶ声が2つ。激しく茂みが揺れると、目を潤ませたブレロとブルルが飛び出してきた。彼らはヴァイスとレッドの前に立つ。彼らと目を合わせた直後、思い切り頭を下げた。

「ごめんなさい!!」

 しんと、静寂が訪れた。誰も言葉を発する気配がないのを察すると、ブレロは続けた。

「ごめんなさい、レッドさん。僕たちは、ヴァイスのそんな気持ちも知らないで、ずっとヴァイスをいじめていました」
「羨ましかったんだ。優秀な親がいて、みんなにも愛されて、何もかもを持っているヴァイスが。そして、まさか……まさか、救助隊ONEのメンバーが、死んでいたなんて思わなかったから……。きっといつか、ちゃんと帰ってくると、思っていたから……」

 こんなことになるなんて、と、ブレロとブルルは声をそろえて嘆いた。その様子を見届けると、さらに茂みが揺れた。
 メル。そしてソプラにアルル。さらにポプリにウォータ、スザク。救助隊キズナの仲間たちは、広場に帰るそぶりを見せたがやりきれず、セナたちの様子を見守っていたのだ。

「あらあら。お前たち。伝説のポケモン、スイクンの命令で広場に帰らせたのに。秘密の話を盗み聞きとは、感心しませんね……」

 ホウオウが威圧感を込めてメルたちに言う。ネロにも睨みを利かせた。だが、彼らは怯まなかった。

「悪かったね。秘密のお話の内容が分からない以上、キズナを放っておけなかったんだ」
「最後までセナくんたちと一緒に旅がしたくて、そっと見守ることにしたの」

 メル、ポプリがホウオウの眼差しを跳ね返す。そこに、ソプラがとどめの一撃。

「そもそも、なーにが“伝説のポケモン、スイクンの命令”だよ。そんなくだらねーモンを救助隊のアホ共がホイホイ信じたから、キズナは苦労したんだろうが!」
「ちょっとソプラ。……あぁ、せっかくメルさんとポプリさんがやんわりと言ってあげていたのに……っ」

 アルルの制止も間に合わず、ソプラの言葉がぐさり、そしてじわり。罪悪感を刺激されたスイクンが涙ぐんだのを確認すると、ホウオウがフッと表情を緩めた。そして、笑いながら言う。

「ふふふ……! ごめんなさいね。できれば秘密の話にしたかったのですが……こうも救助隊キズナがお前たちに愛されているのであれば、仕方がないことです。熱意に免じて、盗み聞きを許しましょう」

 ふふふ、と最後にまた笑うと、ホウオウは真剣な表情を見せた。ブレロとブルルに声をかけ、注目の対象を元に戻す。

「脱線してしまいましたね。失礼しました」
「は、はぁ」

 伝えたいことは全て伝えきったつもりでいた。場の展開についていけずにきょとんとするブレロとブルル。そんな彼らがおかしくて、レッドはふき出した。

「ははは。大丈夫だよ、2人とも。私はずっと、見ていたから」

 見ていた。レッドの言葉の意味が分からずに、ブレロとブルルは首を傾げた。

「君たちが辛そうな顔でヴァイスに意地悪をしていたことも、本当はいい子になりたかったんだということも。見ていたし、分かっていたよ」

 ブレロとブルルはギョッとする。長らくヴァイスをからかってきたが、その行いが全てレッドに、父親に見られていたということか――? 何とも言えない後味の悪さが心にのしかかり、2人は以後、清く正しく自らの行いを顧みながら生きようと誓ったのだった。

「だって私はね、ずっとヴァイスのそばにいたから。君たちがヴァイスに謝ったあの時も、ヴァイスと友達になってくれた時も、ずっと見ていたから……」
「えっ、ちょっとまってよ! お父さん、死んじゃってから、ずっとボクのそばにいたの?」
「うん。ずっと、もっと、ヴァイスのお父さんでいたかったから。なかなか、ホウオウ様のもとに逝く決心ができなくてね」

 自分の父親の寂しい瞳を見たのは、母親が死んだ後以来だった。その表情だけで、ヴァイスは泣きそうになってしまう。

「本当はルール違反なんだけど、どうしても、ここ最近のお前のピンチを放っておけなかったんだ。時には――お前たちが川に流された時なんかは、天国のブルーとグリーンにも手伝ってもらったりしてね。いつもお前をそばで助けられるなら、命を失った身も悪くないとも思ったよ。……でも、こんなことでは、足りないんだ」

 幼いヴァイスの前ではいつも大きく頼りになった父親が、ひどく肩を落として吐き捨てる。

「小さなお前のそばにいて、ちゃんと愛情を注いであげる。父親として何よりも大事なことが、私は、何ひとつできなかった。罪滅ぼしをした気になって……愚かだった」
「そんなことないよ!」

 ヴァイスが声を荒げて、父親の悲しい言葉を遮る。

「お父さんが守ってくれたから、ボクはセナとホノオにまた会うことができたんだ。お父さんにまた会いたかったから……ボクは、独りぼっちでも、いじめられても、ずっと生きていられたんだよ。どんな形でも、またお父さんに会えて……嬉しいよ……」

 レッドに泣きついても無駄なのは、学習済み。ヴァイスはブレロとブルルを捕まえて、顔をうずめるように泣き崩れた。

「……ありがとう、ヴァイス」

 レッドが呟く。一筋の涙が、光の粒が、地面に落ちる。その瞬間だった。
 レッドはまばゆい光に包まれた。

「レッド……さん?」

 セナは確かめるように呟くと、光り輝くレッドに近づいた。何かの合図のような光に、心が急かされるようだ。

「ありがとう、みんな。私はもう満足だ。安心して、ホウオウ様のところへ……逝ける」

 ヴァイスはハッと顔を上げた。突き付けられる。父親との再会の時間は、間もなく終わろうとしているのだ。
 レッドは名残惜しそうに、自分を見つめるポケモンたちに声をかける。

「ネロ君。ヴァイスに花を届けてくれて、ありがとう」

 ネロは目を悲しく細め、頷いた。

「ブレロ君、ブルル君。勇気を持ってヴァイスと友達になってくれて、ありがとう」

 ブレロとブルルは静かにうつむいて涙を流す。受け取る資格のない感謝の言葉の重みを肌で感じた。

「ヴァイスと友達になってくれたみんな。本当に、ありがとう」

 ホノオもシアンも、そしてメルたちも……その場のポケモンたちが、恥ずかしげもなく泣き崩れた。
 レッドの光が、強くなる。

「ホウオウ様。私の我がままを許して下さり、ありがとうございました」

 何も言わずに、ホウオウは頷いた。潤った目が、言葉以上の何かを伝えられるはず。そう信じて。

(……こちらこそ、ありがとうございました)

 ホウオウは、心で伝える。

(永遠を生きる私たちは、生と死、出会いと別れの重みを忘れがちです)

 そっと、ホウオウは目を閉じた。

(大切な何かを……忘れていた何かを、お前たちは思い出させてくれました)

 ホウオウがはばたく。それと共に、さらにレッドの身体は強く光り、透き通った。

「セナ君」

 改まって、レッドはセナの名を呼んだ。

「は、はい!」

 泣きながら、セナは震えを誤魔化すように大きな声で反応する。

「セナ君。ヴァイスとずっと仲良くしてくれて、本当にありがとう。君が友達になってくれて、とても楽しそうなヴァイスを見て、私は嬉しかった」
「あ、ありがと……ござい、ます……」

 嗚咽でわけのわからなくなる言葉を、セナは無理やり押し出した。

「これからも、ヴァイスをよろしくね」
「はい!」

 セナは力強く返事をする。満足して、目を細めるレッド。
 とうとう別れの時が来た。レッドはひときわまばゆく光ると、リザードンの形から、光の球へと変化した。

「そろそろ行かなくちゃ。グリーンとブルーが待っている。お母さんもね」

 そういうと、レッドはふわりふわりと上昇する。名残惜しそうに、でも、覚悟を決めたように。

「じゃあ、ヴァイス。またいつか」

 どこまでも優しく、暖かい声が胸に響く。レッドは別れの言葉を残し、勢いよく上昇する。空に、飲み込まれた。

「……お父さん」

 呆然と、ヴァイスは呟く。しゃがみ込んで夕焼け空を見上げた。リザードンがそのまま溶け込んだような、柔らかいオレンジ色だった。

 お父さん、ありがとう。
 言い忘れた言葉を、大切に、心の中で響かせた。

 みんな。セナ。ありがとう。

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