【第136話】完成した共依存、愚者の最期

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください



ジャックが初めて見たトレンチに抱いた感情。
それは侮蔑だった。



常に笑顔を浮かべているのに、その声はどこか乾いている。
無理矢理、表情「だけ」を作っているかのようだった。



事実、彼女は幼いながらに多忙な日々を送らされていた。
やっと生まれた一人娘であっただけに、向けられる期待が大きかったからだ。
僅か8歳であるというのに、帝王学や経済学などの数多の学問を叩き込まれていた。
更にはほぼ毎週のように、他企業のご子息との顔合わせや、楽器や絵画の習い事もあったのだ。



彼女の心が休まる暇はない。
そんな状況に晒されていれば、常人の精神が保つはずがなかった。
作り笑いが出来ているだけ上等だろう。



だが……それでもジャックはトレンチを侮蔑した。
理解できなかったのだ。
「なぜ己の人生があるのに、その人生を享受出来ないのか」と。
奇跡的な生い立ちを保つ特殊な彼は、命の希少性を誰よりも知っていた。
だからこそ、さも辛そうに今を生きているお嬢の姿は目に余ったのである。





ある日、お嬢が夕食の終えてに部屋へ戻ろうとした時だった。
背後には、先輩のメイドとジャックが突き添う形で同行していた。
その時、お嬢が急に振り向いたのだ。
「……お見送りありがとう。此処までで大丈夫よ。」
軽いお辞儀と共にそう述べる彼女を、メイドが嗜める。
「いえ……しかし……」
そこでメイドの前に、塞がるように手を差し出したのがジャックであった。



「わかりました。どうかお気をつけて。」
「……ごきげんよう。」
お嬢はそのまま、廊下の曲がり角へ姿を消してしまった。
「ちょっとジャックさん……!部屋につくまで彼女から目を離してはいけないとあれほど……!」
小言を言うメイド。
しかし彼には分かっていた。



……あのお嬢が嘔吐の寸前であったことが。
今日の彼女は、理解がやや遅いと家庭教師から叱責を受けていた。
更にはその事がガウン氏の耳に伝わり、夕食の際にもまたその事を言及されていたのだ。
そのストレスが遂に限界を迎えたのだろう。



だからジャックは、気を利かせてお嬢を見逃した。
人前で倒れてしまっては、彼女のプライドに傷がつく。



しかしそれで良いとは思っていなかったのも事実だ。
ジャックは半ば、お嬢の在り方に焦燥めいた感情すら抱いていた。
屋敷の人間には任せておけない。
「凄いわねぇトレンチちゃん。初出場のピアノコンクールで最優秀賞を取ってしまうなんて!」
「先月も絵画で優秀賞、でしょう?まだ8歳なのに……」
「いやぁ、流石ガウン様のご息女。将来有望ですね!」
などと持て囃すだけで、誰も彼女の身の重荷に気づいていない。



どうにかして、彼女の在り方を変えてやらねばならない。
そう心に決めた。





ーーーーー研修から1週間ほどして。
ガウン氏の治療支援のおかげで、目眩の症状も収まってきた彼は遂に実務を任されることになった。
家庭教師が来ない間の自習監督、という名目で彼女の部屋へと通されていたのだ。



彼は扉の前で、数回のノックをする。
しかし返事が無い。
再度扉を叩いても何も反応がないので、無断で押し入ることにした。



するとそこには、机に突っ伏す形で居眠りをしているお嬢がいた。
彼女の傍には、大量の参考書がうず高く積まれていた。
どうやら自主学習中に、疲れて寝落ちてしまったようだ。
人目がなかった故に、緊張の糸が解けていたのだろう。



ジャックは一礼と共に、彼女の手元にあるの古典の参考書を覗き見る。
その内容はあまりに高度で、ジャックですらやや理解が怪しい領域に突入していた。
しかしお嬢のノートも、全然進んでいる形跡がない。
やはりこのレベルの詰め込みは、無理があったのだろう。



今はこんな過度に高度な勉強よりも、ゆっくりと眠って体調を整えるほうが良い。
そしてお嬢の椅子を軽く叩き、彼女を起こす。



「……?」
うつろな目で頭を持ち上げる彼女に、声をかける。
「……お休みならベッドをお使い下さい。身体を痛めます。」
「……ふぇ?」
まだ何が起こっているのか分かっていないようだ。
ジャックはベッドの方へ向かい、メイクを始める。



「ちょ……何をしてるのかしら!?アタシはこれからこの課題を……」
「……お嬢様、一度鏡で自分のお顔をご覧ください。」
彼女を説得するべく、棚の中の手鏡を差し出して顔の前に差し出す。
そこでようやく、彼女は自分の身体が綻びていることに気づいたのだ。



「……そんな状態で何かをしても身には付きません。分かりましたらお休み下さい。」
「わ……分かったわよ。15分だけ寝るから起こして頂戴……。」
「かしこまりました。」
こうして説得に促されたお嬢は、自習時間一杯の仮眠を取った。





その後、その日の勤務を終えて自室に戻ったジャックは考えた。
彼女の本格的な救済には、もう少し具体的なアプローチが必要だ。
しかし彼は、人を楽しませる手段がわからなかった。
お嬢が笑えるような事……それを必死に考えた。
考える手持ち無沙汰で、自分の手荷物を漁っていた。



すると奥底に、分厚い紙の感触があった。
引っ張り上げてみると、それは『ボケットモンスター~代金は俺のきん○たまで勘弁してくれや編~』と書かれた漫画本……以前のジャックが好んで読んでいたギャグ漫画だ。
彼はパラパラと、その中身を読んで見る。
何が面白いのか全くわからない。
……が、ダメ元で試すのはアリだと考えた。





翌日、ジャックはお嬢が自室に戻る1時間ほど前から待機していた。
部屋の清掃が主務だったのだが、その時間を使って彼は別のことをした。
なんと机の上にあるお嬢の課題を、勝手に終わらせてしまったのだ。
古典と統計学と生物学……ジャックがある程度わかる教科を、彼女の筆跡を真似て埋め尽くしてしまったのである。



やがて、その日の習い事や授業を終えたお嬢が部屋に戻る。
いつの間にか埋まってしまっていたノートを見て、ひどく驚いていた。
「……ねぇ、もしかしてコレ、全部アンタがやったの?」
「はて?何のことやら。」
ジャックはシラを切るが、流石にバレていた。
「ッ……ふざけないでよッ!これアタシの……」
「えぇ。大半は理不尽なレベルの高難易度問題です。現状のお嬢様のレベルでこれを解いても力になることはないでしょう。ですので私の独断で。」
「ッ……!」
遂に憤慨した彼女は、机に座って改めて自習を始めようとする。
しかしジャックがそれを許さない。
腕を広げ、横歩きで彼女をブロックしていたのだ。
「ホンッッット何なのよアンタ!いい加減にして!」
お嬢は怒鳴るが、それでもジャックは怯まない。
ここで引いては、彼にお嬢を救うことは出来なくなるからだ。
多少強引にでも、彼女を「令嬢」の責務から離さなくてはいけない。


「……ではお嬢様、こちらの書物はどうでしょうか。」
そう言って、ジャックはスーツの胸元から漫画本を取り出した。
「……あの、これって?」
「えーとですね。今のお嬢様に最適な教材……とでも言えば宜しいのでしょうか。」
そう言いつつ、机からお嬢を引き剥がしてベッドの方へと座らせる。
とにかく一度、徹底的に肩の力を抜かせなくては駄目だ。
「コレを読めばお嬢様は更に賢明になること間違いないでしょう。ささ、全部で100巻ほどありますので……あ、ベッドで寝そべりながら読むのがおすすめです。」
「し……仕方ないわね……そこまで言うなら。」
お嬢は渋々ではあるが、ベッドに寝そべりながら漫画を読むことにした。
その後は見事に、ジャックの思惑通りに堕落していくのであった。



しかし彼女の顔色は、この一件以来目に見えて良くなっていった。
ジャックが担当の時間には、こうして息抜きをすることを覚えた結果……彼女は今までのような窮屈そうな様子を見せることはなくなった。
一人で重荷を抱えて歩いていたのが、ジャックという存在に寄り掛かれるようになったからだ。
彼女の人生は、ジャックとの出会いを境に明るくなったのである。



気づけばお嬢にとって、ジャックという人物は最も大きな存在になっていたのだ。
親以上、兄弟以上、友以上……それほどの存在に。
ある意味では、強烈に依存していたとすら言える。
ジャック自身も、それは感じていた。
いつの間にか、自分が彼女に必要とされていることに気づいていた。









……それはやがて、彼にとっての生きがいそのものになった。
自らが必要とされているその状況が、彼にとって生きる理由そのものになっていたのだ。
人間で言うところの「共依存」という奴だ。
ジャックはお嬢に必要とされることそのものに、喜びを覚えていたのだ。



彼はお嬢と過ごす内に、当初の目的を達成していたのである。



自分だけを必要としていればいい。
彼女を支えられるのは、自分だけだ。
その事実そのものが、なにより心地よかった。





ーーーーーそれから6年間、お嬢とジャックは信頼関係を築きながら過ごしてきた。
お嬢が14歳の誕生日を迎えた翌月、ジャックはガウン氏から直々に呼ばれることになる。
彼女の旅への付添いとして、指名を受けたのだ。



ジャックは口では色々と言いつつも、内心では非常に喜んでいた。
自分は選ばれたのだから。
他でもない、トレンチのパートナーとして。
恐らく、ガウン氏は最初からこれを見越してジャックを雇った可能性はある。
しかしそれでも、自分が選ばれたその事実に変わりはない。



自他ともに認めていたのだ。
トレンチお嬢様には、ジャックしかいない。
……認めていたはずだったのだ。


……はずだったのに。



この旅の中で、お嬢は様々なことを知った。
ジャックがかつてのチャンピオンであることを。
自らの目標にするにふさわしい人物であることを。
……その目標は、自分の知るジャックではなかったことを。



加えて彼女は、旅を経て強くなった。
ジャックがいなくては何も出来ないような、そんな幼気な少女はそこにはいなかった。
しかも彼女を成長させたのは、皮肉にもジャック自身だ。
彼が様々な失態を犯したことに起因して、お嬢は一人で立ち上がらなくてはいけなくなった。



そして彼女はジャックから自立し、最終的には世界の危機にすら立ち向かっていた。
その姿を最後まで見届けたジャック……否、ブリザポスは思ったのだ。



最早、自分はお嬢様にとって必要な人間ではない。
それどころか、こんな偽物がいてはお嬢様が混乱するだけだ。
自分はジャックではない。
ただの影法師だ。
元のジャックも戻ってきた。



ならばせめて、彼女を助けて散ればいい。
この世に在ってはならぬ存在が、この世の外の虚無に消える。
それだけの話だ。



………お嬢を思うが故に、ブリザポスが取った選択肢が「破滅」だった。

















だが、なんて残酷なことだろう。
彼の内心は、当のお嬢にすべて見透かされていたのだ。
スエットの精神世界の入り口で、一度引き返した時……彼女がわざわざ再生したのがその記憶である。
そう、ブリザポスの記憶……及びお嬢に対しての純真で歪んだ愛情を内包した記憶。



お嬢にとって、ブリザポスだって「ジャック」だったのだ。
自分を救ってくれた、唯一無二の隣人だったのだ。
誰が見ても、そんな事は一目瞭然だったのに。
彼一人のみが、最期までそれをついぞ理解しなかった。







……ブリザポス本人のみが。









フウジの長い夜が明けた。
世界の終末に歯止めがかかったことを告げるように、朝日が街を照らす。
この世に取り残されたお嬢を嘲笑うように。



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