第48話:独りぼっちの戦士
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:16分
この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
キラリ。まっすぐ見据えた瞳が光を捕える。セナたちが駆け出すと、目の前に水晶のように透き通る湖が広がった。とうとう決戦の地、“水晶の湖”に着いたのだ。湖のほとりの、草が穏やかになびく地に、セナは足を踏み入れた。そして、息を吸う。覚悟を決めて、“マスター”に声を届ける。
「おい、来たぞ! スイクンを返してもらうぞ!」
澄んだ空気に混じりけのないセナの声が通り、どこまでも響いていく。
間もなく北風が吹き抜け、水色の身体が上空から降り立った。凛としたスイクンの立ち姿に、憎悪を帯びた瞳。とうとう敵が姿を現した。
「来ましたね。……ああ。憎いあなたを底なしの絶望に突き落とすために、今日まで様々な方法を試してきました。結局、私が満足することはできなかった。膨れ上がった憎しみを、今ここで清算しなくては」
「オイラに恨みがあるのは分かったけど、それはスイクンの身体を乗っ取っていい理由にはならない。オイラたちが勝てば、スイクンを返してくれるんだろ? だったら、オイラは負けない」
「オイラ“たち”、ねぇ……」
“マスター”は目を細めて顔を歪め、セナに寄り添うように立つヴァイス、ホノオ、シアンを睨みつける。そしてスイクンの額の水晶を輝かせ、3人を強烈な閃光で捕らえた。眩しさに、セナもヴァイスもホノオもシアンも目を瞑る。
光がおさまり目を開けると、ヴァイスは、ホノオとシアンと共に巨大な水晶の壁に閉じ込められていることに気が付いた。――本物のスイクンが初めてセナに襲いかかったときも、ヴァイスはこの水晶に隔離されて戦闘に干渉できなかった。その能力を、“マスター”が利用したのだ。
「嘘……」
「くそっ、こんなところで突っ立ってる場合じゃないんだ。こんな壁、壊してやる!」
ヴァイスがセナのサポートができないことを嘆いている隣で、ホノオは状況を突破しようとしている。そうか、その手があったかと、ヴァイスはハッと顔を上げてホノオを見た。ホノオは左手を水晶に思い切り振りおろしている。“リフレクター”や“光の壁”をも打ち砕く“かわらわり”だ。
ホノオが壁を殴りつけた、その時だった。無色透明な水晶が、危険な赤色に輝く。直後、壁の打撃を与えられた箇所から、赤の光線が放たれてホノオを襲う。
「ぐああああっ!!」
身が引き裂かれるような激痛から逃れる術がなく、ホノオは悶え苦しむ。悲痛な叫びが仲間の心を傷つける。攻撃された恨みを執拗に訴えかけるように、水晶はホノオを苦痛から解放しようとしない。
「もう……もう止めろよ!! 止めろってば!!」
セナが何度も叫ぶのを、“マスター”は嘲笑う。ホノオの声は掠れて、萎み、絶えてゆく。皮膚が衝撃に打ち負け、傷つき、オレンジ色の毛並みが赤く色づく。セナの瞳が涙で潤み、声が枯れてきたところで、ようやく光線が止んでホノオが解放された。ホノオは崩れるようにうつ伏せに倒れ、完全に気を失っていた。おしりの炎も消えている。
「ホノオ! しっかり!!」
シアンがホノオに駆け寄り、そっと背中に触れる。焼けただれた皮膚に心が痛むが、呼吸で背中が微かに上下していることに安堵する。シアンはセナを見据え、安心させるようにコクンと頷いた。ホッとため息をつくが、ホノオが酷く傷ついた事実は変わらない。セナはキッと“マスター”を睨みつけた。
「だから、何度も言っているじゃないか! オイラが憎いのなら、手を出すのはオイラだけにしろって!」
「しかし、仲間たちはあなたをひとりにはしない。あなたは、それをよく理解しているのでしょう」
「そ、それは……」
「傷つくのは自分だけでいい。そう主張しながらも、あなたはついてくる仲間を止めずにここに連れてきた。あなたの弱さが、甘えが、狡さが、結果として仲間を酷く傷つけることになった。あなたは偽善者です。その偽善に、ヴァイスもホノオもシアンも騙されて、今ここにいるのです」
「……」
独りで戦いを抱え込む自分に、昨日仲間が手を差し伸べてくれた。その手を払わずに力を借りてしまったことを、セナは痛烈に責め立てられる。――やっぱり、みんなに頼ってしまったのは、間違いだったのだ。自分ひとりの責任を、みんなに背負わせてしまったのだ。
深い傷を負ったホノオを見ると、きりきりと胸が締め付けられる。――自分のせいだ。ホノオ、巻き込んで傷つけてごめん。本当に、ごめんなさい。
心が鉛のように、冷たく重くなる。温かい声が、心に届かなくなる。
「セナ、セナ! 大丈夫だよ。ボクたちはセナと一緒にいたくて、自分からついてきたんだから」
「そうだヨ! セナが悪いんじゃないヨ」
ヴァイスとシアンの優しい言葉を――自分に都合の良い言葉を、セナは上手く受け取れなくなった。
「……ヴァイス。シアン。傷ついてまで水晶の壁を壊そうなんて、絶対に思わないでくれ。――いや。壊す必要がなければ良いんだ。オイラ独りで、“マスター”を倒せば良いんだ!」
これ以上、自分が仲間に迷惑をかけてはならない。視野が狭まり冷静になれず、セナは“マスター”だけを見据えて右手に氷の槍を宿した。そのまま“マスター”に直進し、槍をスイクンの喉元に突き立てようとする。
“マスター”は、軽々と跳ね、セナの攻撃をいとも簡単に回避した。がむしゃらな攻撃で体勢を崩しているセナに“マスター”は容赦なく攻撃を向ける。
「“冷凍ビーム”」
凍てつく冷気はセナの足もとを急激に冷やす。非常に冷たいが、氷タイプの攻撃に強いセナはこの攻撃を乗り切った。そう思った。
しかし。一歩動こうとした直後、異常に気が付く。足がびくともしない。頑丈な氷が地面とセナの両足を強力に結び付けていたのだ。
「くっ……」
自分が冷静さに欠けていたことを悔いるが、既に手遅れであることも悟る。セナは悔しさに唇を噛みしめながら、ぐっと拳を握る。近づいてくる“マスター”を、ただ睨みつけるしかできなかった。
「さあ、セナ。私とお話しましょうか」
背筋が凍るような寒気を、セナは突きつけられた。スイクンの――“マスター”の口元が、ゆっくりと動く。
「セナ。あなたはこのガイアに来て、記憶を失った。どうでしたか? “自分”が誰なのか分からない心地は」
セナは端から会話をする余裕などなかったが、そもそも“マスター”はセナの返答を求めてもいないようだった。突如“マスター”は、スイクンが身にまとう純白の帯を鋭く硬化させる。反射的にセナは目を瞑った。直後、右の頬に鋭い痛みを感じた。
暖かなものが頬を伝うのを感じる。恐る恐るセナは目を開ける。足を固められてうまく状況を見回せないが、頬からぽたりと赤い液体が落ちた。スイクンの帯が赤く色づいている。それが、セナに状況を理解させた。
「セナ!」
ヴァイスとシアンは悲鳴のような声で呼びかける。セナは“マスター”だけを揺れる瞳で捕らえ、ヴァイスとは視線が合わなかった。
「そして、どうでしたか? 自分が誰かも分からぬまま、恨まれ殺される気分は。怖かったですか? それとも――」
嘲笑とともに“マスター”が浴びせてくる言葉を、セナは遮った。無言で“マスター”に向かって右手を伸ばし、槍を急成長させて貫こうとする。とっさに“マスター”は飛び退くが、頬に一筋の傷がついた。
セナは呼吸を荒げて敵をまっすぐに睨む。これ以上“マスター”の言葉を浴び続けたら、自分がおかしくなってしまいそうな危機感に駆り立てられる。
セナが独りで戦う様子を、ヴァイスとシアンはただ見守ることしかできない。他にできることはないのか。本当に、この水晶の壁は壊せないのか。もどかしい気持ちになり、ヴァイスは透明な壁に爪を突き立てる。ぴりりと微弱に、けれども明確に、赤色の光線がヴァイスの指先に噛みついた。
ヴァイスは傷だらけで倒れているホノオを見つめる。シアンがオレンの実をくちばしで砕いて必死にホノオに食べさせようとするが、力なく開いた口は酸素を取り込むので精一杯の様子だ。――水晶壁へのたったの一撃で、全身をここまで過剰に痛めつけられるなんて。
ホノオに続く勇気を、ヴァイスは持つことが出来ずにいた。
「くっ……。ふ、ふふ……。自ら記憶を封印して忘れて、自分が恨まれている理由を知ることも拒否するのですか」
“マスター”は丁寧な口調ではあるが、言葉を震わせてわずかに怒りを滲ませている。瞳を光らせると、セナに激痛を与えた。“神通力”だ。
「うあっ……!」
セナは頭を押さえて苦しみだした。足もとの拘束で回避もできず、焼き付けるような痛みを一方的に与えられる。思考回路は機能低下。そんな状態の中、刷り込むように“マスター”は語って聞かせた。
「あなたは自分勝手な人間ですね。あなたのせいで私が受けた苦しみも、自分の罪も、思い出したくはないのでしょう?」
不自然なほどにゆったりとした口調だが、“神通力”がどんどん強くセナの身体を痛めつける。“マスター”が徐々に冷静さを失いつつあることを、セナは痛みで理解させられた。――危険だ。本能的にそう悟る。
その直後、“神通力”が解除された。痛みで呼吸が止まっていたことを全身が思い出し、セナは咳き込みながら、必死に呼吸を繰り返した。無情にも、呼吸が整う前に“マスター”はさらなる追い打ちを仕掛ける。
「あなたのせいで、何千人もの人間が命を落としたのですよ。その罪も、忘れ続けるつもりですか?」
フラッシュバック。記憶の断片が戻ってくる。
――部屋の中にある“箱”が、残酷な風景を切り取った。がれきの山、燃え尽きた街並み。心をえぐられるような衝撃を受けた。“これはオイラのせいだ”と、強く感じて息ができなくなった――
「嘘だ!!」
一瞬で声を枯らしてしまいそうな、乱暴で悲痛な叫びだった。セナは必死に、自分を守ろうとする。
あまりに生々しい記憶が、確かに自分の心に根付いている。それが“マスター”の嘘やでっち上げではないことは、セナもよく理解していた。それでも。その事実を受け入れてしまったら、もう戦闘どころではなくなってしまう。――オイラには、ここでスイクンを助ける使命があるのだ。それを遂行するために、蘇生を例外的に許されたのだ。使い物にならなくなるわけには、いかないのだ。
セナは使命を盾にして無理やりに闘志を抱き続けた。“マスター”を睨みつけた。が、殺気立った眼差しが突き刺さり、白い帯が振りかざされていることに気が付き――目を瞑った。直後、左の頬に激痛が走る。さっきよりもずっと深い傷が刻み込まれた。
“マスター”の眼差しには見覚えがあった。旅立ちの日に、セナとホノオがみた悪夢の。自分たちを激しく憎む、あの瞳だ。
セナは恐怖で背筋が凍りついた。殺される、かもしれない。
「……そうですか。ならば、私の恨みを晴らすために、その命を捧げることですね」
“マスター”は言い放つと、白帯で何度もセナを切り刻む。何とも感情任せで、やみくも。それがまた、痛烈だった。足もとの氷をも砕いてしまったが、“マスター”は気に留めなかった。とにかくセナの肌を抉り、全身を余すところなく執拗に傷つけてゆく。
興奮で呼吸を荒げ、“マスター”は一旦攻撃の手を止める。セナは無抵抗に崩れ落ちた。
「セナ!!」
悲鳴のような、仲間の声が訴える。傷だらけのセナは、腕に力を込めて立ち上がった。
「オイラは……負けちゃ、いけない……」
自分に言い聞かせる。切り傷で痛む拳をぐっと握る。深く息を吸う。セナは“マスター”めがけて“ハイドロポンプ”を繰り出した。特性の“激流”によって、すさまじい水圧で“マスター”に迫る。しかし。セナの水流を、真正面から光線が砕く。焦る間もなく、セナは弾き飛ばされる。直後、後頭部に鋭い痛み。ヴァイスたちが閉じ込められている水晶に、頭を打ち付けられたのだ。
「セナ!」
ヴァイスはとっさにバンと壁を叩く。赤い光線に襲われたが、そんなことには構っていられなかった。セナと自分たちを隔てるものは、たったの壁一枚。それなのに、手が届かないことがもどかしい。
“マスター”の光線が皮膚の痛覚を過剰に刺激し、セナの全身がビリビリと痺れる。ぐったりと呼吸を繰り返すセナに、敵の声が聞こえた。
「“ミラーコート”。……どうです、自分がしてきたことをし返される気分は」
答える体力も気力も、セナには残っていない。それを知りながら、“マスター”は嫌らしく言う。
「そうですか。答えを出すには、まだまだ攻撃が足りないようですね」
その言葉と共に、“マスター”は紫色の粉をセナに振りかけた。“どくどく”。セナも時々使用する、敵に猛毒を与える技だ。無数の傷が皮膚のバリア機能を崩壊させ、毒の侵入をたやすく許してしまう。あっという間にセナの全身に猛毒がまわった。
「ぅあ……っ! ぐ、うぅ……」
息をいくら吸っても、吸えている気がしない。窒息しそうな苦しさに、絞り出すようなかすれた悲鳴が上がった。
そんなセナの様子を、“マスター”は満足そうに見下す。そんなセナの様子を、ヴァイスとシアンは涙しながら見守る。
「どうも、皆さん。気分はどうです?」
“マスター”は軽蔑の眼差しと共にヴァイスたちに話しかけた。
「ご機嫌最悪だヨ! これ以上セナをいじめないで!!」
シアンは思わず壁を叩きつけてしまう。直後、赤い光線がシアンの力の何倍もの威力で噛みついた。甲高い悲鳴をあげ、シアンはホノオに重なるようにふらりと倒れる。
「もうやめて……。やめてよ……」
ヴァイスが泣きながら懇願する。それが愉快で、“マスター”は高笑いする。そのまま、視線をヴァイスたちから足元のセナへと移した。傷のないスイクンの足で、セナのしっぽを思い切り踏みつける。刺激に反応し、セナは肩をビクンと跳ね上げる。が、それだけだった。叫び苦しむ元気すらない。
瀕死のセナは、不思議なほどに冷静であった。他人事のように思考を巡らせる。
(そっか……。きっと、“マスター”が言うことは本当だったんだ。オイラは人間の頃、相当に悪いことをしてしまったんだ。そうでなきゃ、こんなにオイラを恨まない)
かつて仲間にかけてもらった優しい言葉の数々も、今は色あせて見える。極悪人には、そんなものを受け取る価値などないのだと感じた。――もう、こんな価値のない命など、終わりにしても良いのではないか。
「やっぱり、オイ、ラ……誰か、に……恨まれる、ような……人間、だったん、だ……」
諦めたような頬の緩み。傷口をなでる涙。弱々しく響く、負けを認める言葉。
セナは限界だった。
「どうしたのです、セナ。また“例の力”でも使って、私に襲いかかってはいかがです?」
見下すように“マスター”の皮肉が降りかかる。――“心の力”、か。セナはフッと自嘲した。戦意が消え失せた今、あの力を発動することなどできそうにない。
(オイラ、また死ぬのかな……?)
じわりじわりと、猛毒が命を蝕んでゆくのを感じる。そんな中でふと浮かんだ考えに、セナは戦慄いた。特別かつ例外的に蘇生を許してもらったのだ。二度目はない。
(今度死んだら、もう二度と、みんなに会えない……)
涙が、傷をえぐるように流れた。それが自分の本心なのだと、悟った途端にやるせなくなる。激痛に歯を食いしばって耐える。
(それに、自分が誰か、なぜここまで恨まれているのか……。それが分からぬまま死ぬなんて――)
セナは知るのが怖かった。ずっとずっと、自分の過去が手元に届く日に怯えていた。でも――。知らずに死ぬ恐怖。今になってセナは、その大きさに気が付いたのだ。
自分が何者か、分からないまま死ぬなんて――。
「っく……こ、怖、い……」
蚊の鳴くような声で、セナは仲間に訴えた。
声が無事に届いたかどうか。それを確認する前に、独りぼっちの戦士は気を失った。
「おい、来たぞ! スイクンを返してもらうぞ!」
澄んだ空気に混じりけのないセナの声が通り、どこまでも響いていく。
間もなく北風が吹き抜け、水色の身体が上空から降り立った。凛としたスイクンの立ち姿に、憎悪を帯びた瞳。とうとう敵が姿を現した。
「来ましたね。……ああ。憎いあなたを底なしの絶望に突き落とすために、今日まで様々な方法を試してきました。結局、私が満足することはできなかった。膨れ上がった憎しみを、今ここで清算しなくては」
「オイラに恨みがあるのは分かったけど、それはスイクンの身体を乗っ取っていい理由にはならない。オイラたちが勝てば、スイクンを返してくれるんだろ? だったら、オイラは負けない」
「オイラ“たち”、ねぇ……」
“マスター”は目を細めて顔を歪め、セナに寄り添うように立つヴァイス、ホノオ、シアンを睨みつける。そしてスイクンの額の水晶を輝かせ、3人を強烈な閃光で捕らえた。眩しさに、セナもヴァイスもホノオもシアンも目を瞑る。
光がおさまり目を開けると、ヴァイスは、ホノオとシアンと共に巨大な水晶の壁に閉じ込められていることに気が付いた。――本物のスイクンが初めてセナに襲いかかったときも、ヴァイスはこの水晶に隔離されて戦闘に干渉できなかった。その能力を、“マスター”が利用したのだ。
「嘘……」
「くそっ、こんなところで突っ立ってる場合じゃないんだ。こんな壁、壊してやる!」
ヴァイスがセナのサポートができないことを嘆いている隣で、ホノオは状況を突破しようとしている。そうか、その手があったかと、ヴァイスはハッと顔を上げてホノオを見た。ホノオは左手を水晶に思い切り振りおろしている。“リフレクター”や“光の壁”をも打ち砕く“かわらわり”だ。
ホノオが壁を殴りつけた、その時だった。無色透明な水晶が、危険な赤色に輝く。直後、壁の打撃を与えられた箇所から、赤の光線が放たれてホノオを襲う。
「ぐああああっ!!」
身が引き裂かれるような激痛から逃れる術がなく、ホノオは悶え苦しむ。悲痛な叫びが仲間の心を傷つける。攻撃された恨みを執拗に訴えかけるように、水晶はホノオを苦痛から解放しようとしない。
「もう……もう止めろよ!! 止めろってば!!」
セナが何度も叫ぶのを、“マスター”は嘲笑う。ホノオの声は掠れて、萎み、絶えてゆく。皮膚が衝撃に打ち負け、傷つき、オレンジ色の毛並みが赤く色づく。セナの瞳が涙で潤み、声が枯れてきたところで、ようやく光線が止んでホノオが解放された。ホノオは崩れるようにうつ伏せに倒れ、完全に気を失っていた。おしりの炎も消えている。
「ホノオ! しっかり!!」
シアンがホノオに駆け寄り、そっと背中に触れる。焼けただれた皮膚に心が痛むが、呼吸で背中が微かに上下していることに安堵する。シアンはセナを見据え、安心させるようにコクンと頷いた。ホッとため息をつくが、ホノオが酷く傷ついた事実は変わらない。セナはキッと“マスター”を睨みつけた。
「だから、何度も言っているじゃないか! オイラが憎いのなら、手を出すのはオイラだけにしろって!」
「しかし、仲間たちはあなたをひとりにはしない。あなたは、それをよく理解しているのでしょう」
「そ、それは……」
「傷つくのは自分だけでいい。そう主張しながらも、あなたはついてくる仲間を止めずにここに連れてきた。あなたの弱さが、甘えが、狡さが、結果として仲間を酷く傷つけることになった。あなたは偽善者です。その偽善に、ヴァイスもホノオもシアンも騙されて、今ここにいるのです」
「……」
独りで戦いを抱え込む自分に、昨日仲間が手を差し伸べてくれた。その手を払わずに力を借りてしまったことを、セナは痛烈に責め立てられる。――やっぱり、みんなに頼ってしまったのは、間違いだったのだ。自分ひとりの責任を、みんなに背負わせてしまったのだ。
深い傷を負ったホノオを見ると、きりきりと胸が締め付けられる。――自分のせいだ。ホノオ、巻き込んで傷つけてごめん。本当に、ごめんなさい。
心が鉛のように、冷たく重くなる。温かい声が、心に届かなくなる。
「セナ、セナ! 大丈夫だよ。ボクたちはセナと一緒にいたくて、自分からついてきたんだから」
「そうだヨ! セナが悪いんじゃないヨ」
ヴァイスとシアンの優しい言葉を――自分に都合の良い言葉を、セナは上手く受け取れなくなった。
「……ヴァイス。シアン。傷ついてまで水晶の壁を壊そうなんて、絶対に思わないでくれ。――いや。壊す必要がなければ良いんだ。オイラ独りで、“マスター”を倒せば良いんだ!」
これ以上、自分が仲間に迷惑をかけてはならない。視野が狭まり冷静になれず、セナは“マスター”だけを見据えて右手に氷の槍を宿した。そのまま“マスター”に直進し、槍をスイクンの喉元に突き立てようとする。
“マスター”は、軽々と跳ね、セナの攻撃をいとも簡単に回避した。がむしゃらな攻撃で体勢を崩しているセナに“マスター”は容赦なく攻撃を向ける。
「“冷凍ビーム”」
凍てつく冷気はセナの足もとを急激に冷やす。非常に冷たいが、氷タイプの攻撃に強いセナはこの攻撃を乗り切った。そう思った。
しかし。一歩動こうとした直後、異常に気が付く。足がびくともしない。頑丈な氷が地面とセナの両足を強力に結び付けていたのだ。
「くっ……」
自分が冷静さに欠けていたことを悔いるが、既に手遅れであることも悟る。セナは悔しさに唇を噛みしめながら、ぐっと拳を握る。近づいてくる“マスター”を、ただ睨みつけるしかできなかった。
「さあ、セナ。私とお話しましょうか」
背筋が凍るような寒気を、セナは突きつけられた。スイクンの――“マスター”の口元が、ゆっくりと動く。
「セナ。あなたはこのガイアに来て、記憶を失った。どうでしたか? “自分”が誰なのか分からない心地は」
セナは端から会話をする余裕などなかったが、そもそも“マスター”はセナの返答を求めてもいないようだった。突如“マスター”は、スイクンが身にまとう純白の帯を鋭く硬化させる。反射的にセナは目を瞑った。直後、右の頬に鋭い痛みを感じた。
暖かなものが頬を伝うのを感じる。恐る恐るセナは目を開ける。足を固められてうまく状況を見回せないが、頬からぽたりと赤い液体が落ちた。スイクンの帯が赤く色づいている。それが、セナに状況を理解させた。
「セナ!」
ヴァイスとシアンは悲鳴のような声で呼びかける。セナは“マスター”だけを揺れる瞳で捕らえ、ヴァイスとは視線が合わなかった。
「そして、どうでしたか? 自分が誰かも分からぬまま、恨まれ殺される気分は。怖かったですか? それとも――」
嘲笑とともに“マスター”が浴びせてくる言葉を、セナは遮った。無言で“マスター”に向かって右手を伸ばし、槍を急成長させて貫こうとする。とっさに“マスター”は飛び退くが、頬に一筋の傷がついた。
セナは呼吸を荒げて敵をまっすぐに睨む。これ以上“マスター”の言葉を浴び続けたら、自分がおかしくなってしまいそうな危機感に駆り立てられる。
セナが独りで戦う様子を、ヴァイスとシアンはただ見守ることしかできない。他にできることはないのか。本当に、この水晶の壁は壊せないのか。もどかしい気持ちになり、ヴァイスは透明な壁に爪を突き立てる。ぴりりと微弱に、けれども明確に、赤色の光線がヴァイスの指先に噛みついた。
ヴァイスは傷だらけで倒れているホノオを見つめる。シアンがオレンの実をくちばしで砕いて必死にホノオに食べさせようとするが、力なく開いた口は酸素を取り込むので精一杯の様子だ。――水晶壁へのたったの一撃で、全身をここまで過剰に痛めつけられるなんて。
ホノオに続く勇気を、ヴァイスは持つことが出来ずにいた。
「くっ……。ふ、ふふ……。自ら記憶を封印して忘れて、自分が恨まれている理由を知ることも拒否するのですか」
“マスター”は丁寧な口調ではあるが、言葉を震わせてわずかに怒りを滲ませている。瞳を光らせると、セナに激痛を与えた。“神通力”だ。
「うあっ……!」
セナは頭を押さえて苦しみだした。足もとの拘束で回避もできず、焼き付けるような痛みを一方的に与えられる。思考回路は機能低下。そんな状態の中、刷り込むように“マスター”は語って聞かせた。
「あなたは自分勝手な人間ですね。あなたのせいで私が受けた苦しみも、自分の罪も、思い出したくはないのでしょう?」
不自然なほどにゆったりとした口調だが、“神通力”がどんどん強くセナの身体を痛めつける。“マスター”が徐々に冷静さを失いつつあることを、セナは痛みで理解させられた。――危険だ。本能的にそう悟る。
その直後、“神通力”が解除された。痛みで呼吸が止まっていたことを全身が思い出し、セナは咳き込みながら、必死に呼吸を繰り返した。無情にも、呼吸が整う前に“マスター”はさらなる追い打ちを仕掛ける。
「あなたのせいで、何千人もの人間が命を落としたのですよ。その罪も、忘れ続けるつもりですか?」
フラッシュバック。記憶の断片が戻ってくる。
――部屋の中にある“箱”が、残酷な風景を切り取った。がれきの山、燃え尽きた街並み。心をえぐられるような衝撃を受けた。“これはオイラのせいだ”と、強く感じて息ができなくなった――
「嘘だ!!」
一瞬で声を枯らしてしまいそうな、乱暴で悲痛な叫びだった。セナは必死に、自分を守ろうとする。
あまりに生々しい記憶が、確かに自分の心に根付いている。それが“マスター”の嘘やでっち上げではないことは、セナもよく理解していた。それでも。その事実を受け入れてしまったら、もう戦闘どころではなくなってしまう。――オイラには、ここでスイクンを助ける使命があるのだ。それを遂行するために、蘇生を例外的に許されたのだ。使い物にならなくなるわけには、いかないのだ。
セナは使命を盾にして無理やりに闘志を抱き続けた。“マスター”を睨みつけた。が、殺気立った眼差しが突き刺さり、白い帯が振りかざされていることに気が付き――目を瞑った。直後、左の頬に激痛が走る。さっきよりもずっと深い傷が刻み込まれた。
“マスター”の眼差しには見覚えがあった。旅立ちの日に、セナとホノオがみた悪夢の。自分たちを激しく憎む、あの瞳だ。
セナは恐怖で背筋が凍りついた。殺される、かもしれない。
「……そうですか。ならば、私の恨みを晴らすために、その命を捧げることですね」
“マスター”は言い放つと、白帯で何度もセナを切り刻む。何とも感情任せで、やみくも。それがまた、痛烈だった。足もとの氷をも砕いてしまったが、“マスター”は気に留めなかった。とにかくセナの肌を抉り、全身を余すところなく執拗に傷つけてゆく。
興奮で呼吸を荒げ、“マスター”は一旦攻撃の手を止める。セナは無抵抗に崩れ落ちた。
「セナ!!」
悲鳴のような、仲間の声が訴える。傷だらけのセナは、腕に力を込めて立ち上がった。
「オイラは……負けちゃ、いけない……」
自分に言い聞かせる。切り傷で痛む拳をぐっと握る。深く息を吸う。セナは“マスター”めがけて“ハイドロポンプ”を繰り出した。特性の“激流”によって、すさまじい水圧で“マスター”に迫る。しかし。セナの水流を、真正面から光線が砕く。焦る間もなく、セナは弾き飛ばされる。直後、後頭部に鋭い痛み。ヴァイスたちが閉じ込められている水晶に、頭を打ち付けられたのだ。
「セナ!」
ヴァイスはとっさにバンと壁を叩く。赤い光線に襲われたが、そんなことには構っていられなかった。セナと自分たちを隔てるものは、たったの壁一枚。それなのに、手が届かないことがもどかしい。
“マスター”の光線が皮膚の痛覚を過剰に刺激し、セナの全身がビリビリと痺れる。ぐったりと呼吸を繰り返すセナに、敵の声が聞こえた。
「“ミラーコート”。……どうです、自分がしてきたことをし返される気分は」
答える体力も気力も、セナには残っていない。それを知りながら、“マスター”は嫌らしく言う。
「そうですか。答えを出すには、まだまだ攻撃が足りないようですね」
その言葉と共に、“マスター”は紫色の粉をセナに振りかけた。“どくどく”。セナも時々使用する、敵に猛毒を与える技だ。無数の傷が皮膚のバリア機能を崩壊させ、毒の侵入をたやすく許してしまう。あっという間にセナの全身に猛毒がまわった。
「ぅあ……っ! ぐ、うぅ……」
息をいくら吸っても、吸えている気がしない。窒息しそうな苦しさに、絞り出すようなかすれた悲鳴が上がった。
そんなセナの様子を、“マスター”は満足そうに見下す。そんなセナの様子を、ヴァイスとシアンは涙しながら見守る。
「どうも、皆さん。気分はどうです?」
“マスター”は軽蔑の眼差しと共にヴァイスたちに話しかけた。
「ご機嫌最悪だヨ! これ以上セナをいじめないで!!」
シアンは思わず壁を叩きつけてしまう。直後、赤い光線がシアンの力の何倍もの威力で噛みついた。甲高い悲鳴をあげ、シアンはホノオに重なるようにふらりと倒れる。
「もうやめて……。やめてよ……」
ヴァイスが泣きながら懇願する。それが愉快で、“マスター”は高笑いする。そのまま、視線をヴァイスたちから足元のセナへと移した。傷のないスイクンの足で、セナのしっぽを思い切り踏みつける。刺激に反応し、セナは肩をビクンと跳ね上げる。が、それだけだった。叫び苦しむ元気すらない。
瀕死のセナは、不思議なほどに冷静であった。他人事のように思考を巡らせる。
(そっか……。きっと、“マスター”が言うことは本当だったんだ。オイラは人間の頃、相当に悪いことをしてしまったんだ。そうでなきゃ、こんなにオイラを恨まない)
かつて仲間にかけてもらった優しい言葉の数々も、今は色あせて見える。極悪人には、そんなものを受け取る価値などないのだと感じた。――もう、こんな価値のない命など、終わりにしても良いのではないか。
「やっぱり、オイ、ラ……誰か、に……恨まれる、ような……人間、だったん、だ……」
諦めたような頬の緩み。傷口をなでる涙。弱々しく響く、負けを認める言葉。
セナは限界だった。
「どうしたのです、セナ。また“例の力”でも使って、私に襲いかかってはいかがです?」
見下すように“マスター”の皮肉が降りかかる。――“心の力”、か。セナはフッと自嘲した。戦意が消え失せた今、あの力を発動することなどできそうにない。
(オイラ、また死ぬのかな……?)
じわりじわりと、猛毒が命を蝕んでゆくのを感じる。そんな中でふと浮かんだ考えに、セナは戦慄いた。特別かつ例外的に蘇生を許してもらったのだ。二度目はない。
(今度死んだら、もう二度と、みんなに会えない……)
涙が、傷をえぐるように流れた。それが自分の本心なのだと、悟った途端にやるせなくなる。激痛に歯を食いしばって耐える。
(それに、自分が誰か、なぜここまで恨まれているのか……。それが分からぬまま死ぬなんて――)
セナは知るのが怖かった。ずっとずっと、自分の過去が手元に届く日に怯えていた。でも――。知らずに死ぬ恐怖。今になってセナは、その大きさに気が付いたのだ。
自分が何者か、分からないまま死ぬなんて――。
「っく……こ、怖、い……」
蚊の鳴くような声で、セナは仲間に訴えた。
声が無事に届いたかどうか。それを確認する前に、独りぼっちの戦士は気を失った。