4・黒煙-4

しおりを挟みました
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:15分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 暗い部屋の真ん中で放心したようにレンジャーは椅子に座っていたが、その腹の前にぽすっとチリーンが収まると、深いため息をついてようやく重い腰を上げた。
 床の上に散らばっている印刷物を乱雑に拾い上げると、ぐしゃっと丸めて、ごみ箱へと投げ入れる。ファックスの吐き出し口にはまだ手に取りもしていない書類がいくつも連なって垂れ下がっていたが、それも引きちぎると、そのままごみ箱へ突っ込んだ。苛立った足音を立てながら室内を歩くレンジャーの後ろをチリーンはついて飛んでいたが、それにも飽きたのか、くるりと向きを変えると、別の方へとふらふら漂っていく。そして、ゴンッ、と扉に激突した。
 ぼとっと落下したチリーンへ僅かに気の抜けた視線をやって、レンジャーはそちらへと寄っていく。伸びているチリーンを両手で拾い上げようとして、ふと、白色が目に入った。突進の反動で少し開いた戸の向こうに、不自然なものが落ちている。
 ドアを開け、それを摘み上げて、レンジャーは首を傾げた。

「……何、これ?」

 独り言の問いかけに、リンッ、とチリーンが答えた。
 五枚の花弁の白い花は、強すぎる日光にやられて、へなりと威勢を失っていた。





 熱狂的な歓声の渦――を期待してミソラはトレーナーボックスに歩き出たから、あまりに閑散とした客席の様子に、しばし呆気にとられてしまった。
 周囲を三百六十度取り巻くスタンドがすべて埋まる、というほどではないにしろ、組み合わせ次第ではそれに近い状態にはなるトウヤの試合を観戦する時と今とでは、客入りは全く異なっている。客席前方はそこそこ埋まっているにしても、後方になればなるほど、数えられるほどの人間しか見えないではないか。あれでも一応、トウヤがこの町ではそこそこ名の売れたトレーナーなんだということをなんとなく認識しつつ、ミソラは前を向きなおした。
 向かい側、緑色のトレーナーボックスに立っているのは、まだミソラが目にしたことのない若い男であった。特に弱そうとも、強そうとも見た目には分からないが、こちらの姿を視認して、へ、と拍子抜けな表情を浮かべている。無理もない。相手がボックスの落下防止柵からやっと顔を出せるくらいの子供で、しかも町中で一度『時の人』となった異端の外人となれば、驚きくらいはするだろう。それでも、フィールド中央の端に立つ審判が大声で説明を始めると、俄かに表情が引き締まった。

「ルール・クラシック(この辺のスタジアムでの試合形式のひとつで、トレーナーと戦闘場を隔離するためのボックスを用いる、ごく一般的なもの)、使用ポケモンは一体」

 敵方が、すっ、とボールを掲げた。ミソラも習ってボールを握る。

「道具の使用、並びにポケモンの交替を禁じ、一方が戦闘不能に陥った時点で試合終了とする――では、開始!」

 簡便すぎるルール説明の後、審判のサッと交差させる赤と緑のフラッグが、試合開始の合図である。景気づけに何か言おうかと思ったが、緊張で喉が詰まって声はでなかった。それでも掌から放たれたボールは、ゆるやかな弧を描きながら、フィールド手前、やや右側にそれたあたりに落下していく。
 ボールが割れ、カッ、と光を放って、白い塊が飛び出した。

「乱れ引っ掻きッ!」

 ミソラの指示を聞いてなのかどうなのか、纏わりつく光を弾いて飛び出したリナは、シャアッと牙を剥きながら、一拍遅れて解放されたボールの方へとかかっていく。
 短くとも鋭利な爪が、敵方の光を捉えようとした――所で、それがさっと上空へ動いた。引っ掻きの一陣を回避されたリナは、そのままトンッと着地して身を引きながら空を見上げる。くるりと旋回しながらようやく形になったものは、大きな鋏と、針のある尾、逆光の下ならば翼のようにも見える薄紫の『膜』を持つポケモンであった。

「リナ、グライガーだよ!」

 咄嗟にミソラは記憶を呼び起こし、叫ぶ。グライガー、飛びサソリポケモン。タイプは飛行と地面だから、格闘タイプのコジョフーでは条件が悪かった。トレーナーボックスの奥の方で大人しく控えている二匹のことを思いながら、更に頭を回転させる。ニドリーナのリナは、本来ならば毒タイプだ。地面技を使ってくるなら、こちらも相性が悪い。しかし、片耳のこのニドリーナには形質異常があって、そもそもタイプというものを『持っていない』。得手もなければ、不得手もない。敵の攻め手の分からない先陣には向いている。
 しかも、ついこの間まで小さなニドランだったとは思えないくらいの、類い稀なる格闘センスがリナにはある。付け加えるなら、最大の特徴とも言っていいのがたまに発動させる『謎の特殊攻撃』だが、あれに関してミソラが見たのは『電気』と『炎』の属性だけであったし、地面タイプを持つグライガーに対しては、やはり肉弾戦で攻め――
 ミソラがそこまで考えた時、真正面から素早く滑空体勢に入ったグライガーに向かって、リナはかぱっと口を開けた。
 そして、ぴんっと尻尾を立てたと思えば、次の瞬間には、口から青白い光線を吐いた。

「え」

 ――吐いた。光線を。ミソラもあんぐりと口を開けた。伸びる冷気の光線は放射線上へ真っ直ぐ向かっていたグライガーへと瞬きするうちに正面衝突した。ぱっと光が弾けた。小さな氷塊が飛び散って、ばらばらとフィールドに転がった。
 光の中から斜め上にすっとんだ氷塊より大きなものは、くるくると回転しながらフィールド上空を弧を描いて、やがてズドッと地面に落下した。……一瞬、場内は静寂に満たされた。翼の膜の一部を氷漬けにされたグライガーは、そうでなくとも、もう目を回して動かない。
 それを見、審判は、さっと赤色の旗を掲げた。

「グライガー戦闘不能。勝者、赤サイド!」

 ささやかながらも、歓声が――ほとんどざわめきに近いが――起こった。なんでもないような顔をして、リナはミソラへと振り返る。……瞳に映る光景を、ミソラはただ、呆気にとられて眺めるのみであった。


 ――二戦目。

「リナ、乱れひっ、……!」

 ――三戦目。

「リ、リナ、……」


 ――すとん、とベンチに腰を下ろして、ミソラは大きくため息をついた。
 フィールドを取り囲むように建設された円形の建物内にある控室には、バトルの順番待ちや情報交換の為にトレーナーたちがちらほらと出入りする。部屋の隅の方に設置されたモニターにフィールドの様子が映し出されていて、いくつかの視線はそのモニターへと向かっていたが、別のいくつかは輪になって談笑を繰り広げていた。ちらちらこちらの様子を窺ってくるから、後者の興味が自分に向いていることは、ミソラにもなんとなく感じられる。……心細い。脇で二匹遊んでいるコジョフーや、ボールに納まっているリナのことを思っても、出入りするときは必ずトウヤと一緒であった控室に一人ぽつんと座っているのは、なかなか孤独感を引きたてた。

「見たかよ、さっきの試合」
「あぁ。ニドリーナ、まさかの『十万ボルト』! その前の試合も、その前の試合も、弱点ついて一撃だったって言うじゃん」
「しかもトレーナー自身は殆んど指示出してないってな」

 くつくつと意地悪く笑う声は、しっかりミソラの耳にも届いている。……特に噛みつく必要性も感じなかったし、そもそも彼らの言う通りだ。気疲れにちょっと放心しながら、ミソラはぼんやりと聞き流していた。
 相手の姿を視認した途端、ミソラが何を言うまでもなく、的確に弱点を突き、一撃で敵を仕留めたリナ。今日の三戦で確信した。リナは間違いなく強い。それはもう、ミソラくらいのトレーナーの指示なんて、全く必要としないくらいに。確かめたのはパートナーの力量だけではなくて、自分の不甲斐なさもそうだった。
 馬鹿だ。これでは自分で稼いでいるというよりは、リナに稼がせていると言った方がいい……再び子供に似つかわしくないため息をつきかけたところで、ポンッと肩に手を置かれた。最初はグレンかと思った。スタジアムにいそうな人間では、彼以外に、ミソラに話しかけてきそうな人物なんて見当がつかない。けれど、そこに置かれていたのは、体格の良い彼とは似ても似つかない、ひょろっと頼りない指であった。

「よぉ、ミソラちゃん」

 顔を上げたミソラにやや強張った笑みを向けたのは、昨日トウヤと戦っていたあのバクーダのトレーナーであった。

「えっと、今日トウヤは? 一緒じゃないんだ……?」

 挙動不審な様子でミソラを控室から連れ出した、彼の開口一言がそれであった。
 潜めた声に、違いますとミソラは首を振る。かなり前、ミソラがココウへ来てまだ幾日もしない間くらいにこの人に一度挨拶をしたことはあったけれど、それ以降は顔を合わせたこともなかったと言って等しい。気まずそうに頭を掻く男の真意が知れず、ミソラはちょっと首を傾げた。

「トウヤどうしてる?」
「どうと言われましても……多分家にいらっしゃいますけど」
「あー……か、風邪、とか? 引いてるんだ?」
「はぁ」
「ホラ昨日、急に倒れたじゃん、試合中に」
「ええ、はい……風邪みたいです、おそらく」

 頭の中に例の薬瓶があるミソラにとって、あれを『風邪』だと言い切ることにはなんとなく引っかかりがあったが、そう言うと、男は幾分表情を和らげた。

「そうかぁ、風邪だよな、そりゃそうだよな」
「どうかされたんですか?」
「え、いやぁ、別になんでもないけどさ。普通気になるじゃん。対戦相手が……」

 子供ながら一丁前に探りを入れるような目つきをするそれを相手にして、男は一拍、わずかにたじろぐ様子を見せた。

「……いやぁ。正直困ってるんだよ、昨日から変な言いがかりつけられてさ……」
「言いがかり、ですか」
「俺があいつに毒を盛ったんじゃないかとかどうとか」
「ど、毒?」

 ミソラが驚いて食いつくと、だから言いがかりだって、と男は手を振った。

「試合中に変な倒れ方しただろ、だから俺がいつも負けてる腹いせに毒を盛ったんだとか言ってる馬鹿がいるんだよ。そんなことできるわけねぇよな、昨日は試合するまで口も利いてなかったってのに」
「そ、それで……その、毒と言うのは」
「してねぇよ。結局試合も負けたし。だからさ、トウヤに来て、ただの風邪だって言ってもらわないと、俺も胸糞悪いんだよ」

 面倒そうに肩を落とす男の前でミソラは、頭の中に浮上してきたひとつの可能性に、完全に心を奪われていた。

「そうだ、ミソラちゃん今日試合してるんだって? 次俺とやろうよ。一対一でいいよな、エントリーしとくから」
「あ、はい。……あの」
「ん?」
「その、毒と言うのは……もしかして」

 その時、突然ミソラの口を塞いだのは、目の前の男では勿論なく、グレンでも、はたまたそこで見知った誰かでもない――首を回し、背後に見えたのは、黒いフードを目深に被った、スタジアムにいるような輩にしてはかなり小柄な人間であった。
 何か言おうとした息は、意味を持つ音にはならず手の隙間から抜けていった。相手の顔が窺えないまま、ぐいっと背中を押され、茫然としている男の前からすたすたと連れ去られながらも、ミソラは殆んど抵抗しなかった。できなかった、という事はない。こう見えてミソラも肝は据わっている方だ。だけども、相手のなすがままにとりあえずされる姿勢を取ったのは、口を塞ぐ手の指が細く華奢であったからで、その力加減が特に強引でもなかったからである。
 有無を言わさない雰囲気に呑まれながら、ミソラは発言を制されたまま、どこか暗い部屋へと押し込まれた。廊下から入る際にちらりと見えた室名札には、『給湯室』の文字。
 誘拐するように連れてこられても、心臓も高鳴らなければ、膝も震えない。個人の醸し出す『気配』とは、思いの外に強力なものだ。こんな状況でも落ち着き払っている自分がなんだかおかしくて、相手が電気をつけ、フードを下ろしてこちらに顔を晒しても、ミソラはやっぱり顔色一つ変えなかった。





 目を覚ましてまず映ったのは、白く尖った凶器であった。
 一瞬の間の後、トウヤは一気に覚醒して布団から飛び起きた。そして勢い余って背中側の何かに頭をぶつけ、後頭部に走る痛みに今度は低く唸っている主人を、腹の棘にぶつかられたノクタスのハリは笑顔に見える仏頂面で見下ろしている。
 開けっ放しの窓の外からは強い光が射しこんで、きっちり整えられた無人のベッドを照らしている。からっとした昼間の熱風に吹かれながら、ちょっと寝ぼけて振りかざせば確実に主の顔を引き裂いていたであろう場所に爪を伏せて寝ているガバイトのハヤテを、トウヤはなんとなく疲弊した様子でしばらく眺めた。昨日、それの背に乗って帰宅して、二階の自室までも乗せられて上がって……、それからのことを思い出すのには、幾分時間が要った。

「……今、いつだ?」

 呆けたような主人の声に、ハリは何も返さない。何も返さぬと言うことは、つまり何事もないという事だ。今日があの翌日だということをトウヤはぼんやり理解して、少しずつ冴えてきた気分で辺りを見回した。整然としているのはベッドの上だけで、机や床の方は、そうでなくても汚い普段の倍くらいはぐちゃっとしている。……トウヤは渋い顔でもう一度ハヤテを見、それから妙な所でとぼけたことをするあの居候の顔を浮かべた。
 棘にぶつかったからか、寝すぎたからか、はたまた昨日の『あれ』を引き摺っているからなのか、まだずきずきと頭が痛んだ。だるそうに額をさすりながらハヤテをボールに戻し、布団の上に座り込んだまま、今日これから何をするべきなのかを考える。ミソラはいつものようにどこかへ遊びに出たようだし、階下からは酒場の賑やかしも特別聞こえない。昨日浴びそびれたシャワーを浴びたら、万全ではないがスタジアムに行くか、体調を考慮して家で本でも読むか……いや、そんなことより、何か『昨日やるべきだったこと』が他にあったような、と考え始めた瞬間に、聞き慣れた呼び鈴の音が遠巻きに響いてきた。
 客か? 少しだけ眉を顰めたトウヤの頭に、ひとまず寝たふりをする、という選択肢が浮上したのと、トウヤ起きてるのかい、と叔母の大声が渡ってきたのとはほぼ同時であった。ハリと顔を見合わせ、はいともいいえとも言わず、とりあえず元のようにぐたっと横になったトウヤの耳に次に飛び込んでくるのは、人の階段を上がる足音。それも二つ分だ。
 その意味を図りかねながらも、まずは布団を被ろうとしたトウヤを、なぜかハリの手が制した。ふいっとトウヤがハリを見上げた瞬間に、その奥に顔を見せた叔母であるハギとばっちり目があった。

「あ、お、おはようございま……」
「なんだ起きてたの。お客さんだよ」

 少し呆れた様子のハギの後ろから、更にひょいっと顔を覗かせ、

「……グレン?」

 軽く右手を上げ、ニッと笑うだけでトウヤを起き上がらせたのは、夏らしく日焼けした体格の良い男であった。

読了報告

 この作品を読了した記録ができるとともに、作者に読了したことを匿名で伝えます。

 ログインすると読了報告できます。

感想フォーム

 ログインすると感想を書くことができます。

感想