悪因悪果①

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読了時間目安:6分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

登場人物

エンブオー・クライド・フレアジス……夢工房の所長。ヴェスパオール市警の元刑事。
ルカリオ・リン・シェイ……夢工房唯一の従業員。謎多き男。
ミミロップ・アイリーン・ブルーアント……ルカリオ・リンと懇意の女性。引退した大物ギャング、ホルード・“マクシム”マクシミリアンの愛娘。

エレザード・フィリパ・マルクス……今回の依頼者にして、夢工房の入った赤レンガビルの所有者。夫の死をきっかけに、四か月前に失踪した一匹息子のエレザード・ビリー・マルクスとの再会を希求する。
ジラーチ……千年に一度目覚めて、願いを叶えるという伝説の存在。少年時代のクライドが出会ったとき、既にその力は失われていたようだ。

エンブオー・デルフォード・フレアジス……クライドの父親。ディニア国防省陸軍の教官。階級は大尉。
エンブオー・ロクセリエナ・フレアジス……クライドの母親。旧姓はラグランジェで貴族の娘。
ポカブ・フィーネ・フレアジス……クライドの年離れた妹。
チャオブー・ラーネス・フレアジス……クライドの弟。フレアジス家の腫物。
「やっぱり日当たりのいい部屋はそれだけ値が張ります。日照権にうるさいノースダリアほどじゃありませんが」

 そのオフィスはヒルトップ地区の南東の外れにある低平地の、無機質な高層ビルの間で肩身を狭くした雑居ビルの三階にあった。壁と天井は白石綿で出来ている。フェアリータイプ以外で健康被害はまだ報告されていない。床は防火コーティングが施された杉の乱尺張りで、アルミ枠の窓が南向きに一つ、西側に一つ付いていた。給湯室と洗面所もあり、それらの水場は北向きの玄関から回り込むようにして入るが、切り出した鉄塊のようなエンブオーの肉体では毎度横向きにしなければ通れなかった。共用トイレは待合室から左に出て突き当たりの階段の踊り場にあり、体重が三百キロを超えなければ壊れない便座もある。一階にまで降りると仕出し屋があり、今流行りのイートインスペースが敷設されている。ここは清潔でも不潔でもなく、快適でも不便でもない。ただ、前の事務所に比べると埃っぽく、建物や木々のひとつも陽を遮らない窓際はいささか眩しすぎるかもしれなかった。

「すみません、いくらって言いました?」。エンブオー・クライドは部屋の中央に立つと、部屋に一つしかない南向きの窓を見ながら言った。市街の中心にそびえ立つ、自分と同い年の〈ヘブンズ・コミュニケーション・タワー〉が目に入った。ロイヤル・パースを内包する赤土の谷に、天空との見境をなくした青い靄が覆い被さっている。銀色の王冠のような形をしたタワーの展望台は、その靄の中に辛うじて浮かび上がっていた。クライドは生まれも育ちもヴェスパオールだが、そこに登れたことはただの一度もなかい。チャンスはいくらでもあったはずなのに、それはまるで全てアルセウスの運命の指にことごとく弾かれていた。サザンドラ・クライドはパブリック・オープニングセレモニーの直前に忽然と姿を消した。ハイスクール時代には、最初のプロポーズの場所になるはずが、火力発電所のサイロの暴走に懸かる大停電のせいで『大三角の塔』という力作の詩も地上で読み上げたばかりに盛大に空振りした。今から何の気もなく登ろうと試みたところで、また別の何かが阻んでくるのだろう。彼の知る限り、そこはこの世でもっとも近く、もっとも近づきがたい場所だった。

「初月賃料と敷金、礼金、すべて併せると十四万と五千三百です。来月の八日には地価評価額の更新が入って、合計で十八万三千になります」

 エンブオーが振り返ったとき、ザングースは客と距離を取って、何故か玄関の前で申し訳なさそうな顔をして立っていた。冬太りしていて、それほど若いとはいえない男だった。地頭は良さそうだが、あからさまに押しが弱く、卑屈そうな目をしていた。左手の長く鋭い爪にファイルを挟み、右手でネクタイを緩めては締め、締めては緩め、とにかく落ち着きがない。右の爪先のペンホルダーで腹の赤い稲妻模様をなぞりながら彼は言った。 「次のお部屋なら、あと一万はお安く出来ますが」
「いや、いいお部屋だと思いますよ。ただ――」

 ザングースは肩を落としてため息をついた。元から脈がないと気づいていながら、本当にないと知ってショックを受けたようなため息だった。 「うちで取り扱っている物件で、これ以上お安いところはありません。もう何ともなりませんね」
「そうですか」。エンブオーは二本の金帯が入った〈エングレイス〉の漆黒の中折れ帽を深く被り直すと、さっさとテナントを後にしようとした。

 だがザングースの方はおもむろにファイルへと目を落とすと、また声を掛けてきた。 「あの、ちょっと待って下さい」。先程の弱そうな声色とは打って変わって、今では妙に生き生きとしていた。 「たった今気づいたんですが、クライドさん、あなたはあのブッチャー事件のクライド刑事では?」
 ろくに振り向かず、エンブオーは身体の前半分を突き刺すような十二月下旬の外気に晒すと、左手に持ったシガーケースを半分だけ開けた。 「それが何か?」、声色はその外気とまったく同じ温度である。
「エレザードさんのことは気の毒でした」とザングースは言った。 「夫さんも亡くして、息子さんもいなくなって、完全に参っていたんでしょう。もちろん、あなたも今回のことは災難だったと言うほかありませんが」
 わけもわからず、エンブオーは怪訝な顔色を隠さずに振り向いた。 「一体、何の話です?」
「ご存知ないんですか?私はてっきり、あなたがその件でうちに相談に来たものとばかり」。ザングースはファイルを閉じて右の脇に挟み、爪先につけたペンホルダーをゆっくりと外すと、抑揚を欠いた声で続けた。 「彼女、そこのメドウ・モールド・ビルの解体現場で自殺を図ったそうです。昨日の夜遅く、ロイヤル・パースで大爆発が起きたのと同じ頃です。本当に知らなかったんですか?」
 エンブオーは平然とした顔で葉巻を咥えた。だが、火は着け損なっていた。
「早くお戻りになられた方が良いのでは?今頃、あの近くには逮捕されていないだけの地上げ屋で溢れているかもしれません。あの古埠頭の一角は今や金のなる木も同然ですから」

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