第63話 おかえりなさい

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 

 ......どれぐらい眠っていたんだろうか。

 
 茨の城から落ちて、助かって、倒れて。 そこからずっと無の世界にいた私にとって、意識が舞い戻るのはあまりに唐突なことだった。 だからと言って時間は待ってはくれず、色々な感覚も徐々に蘇ってくる。
 でもどこか現実味の無いふわふわした心地。 なんだろうかと思い未だ気怠い目元を動かしてみる。 すると、側から見れば驚愕しかない光景がそこにはあった。

 私は水面の上に立っていたのだ。
 









 
 自分の身体はびしょ濡れで、空を見上げると黒い雲が向こう側へ流れているのが見えた。 さっきまで雨でも降っていたんだろうか。 見回してみると、そこは水面と空が一体化したような世界。 境界線が曖昧に溶け合った世界。 この景色が水色という言葉の由来だよと言われて、それを信じる子供は何人いるんだろうか。 非現実的な光景から勿論すぐに夢だと分かったけれど、何もすることがない訳だから、私はなんとなくその場から歩き出していた。
 雫が落ちるような足音。 風は無いけれど涼しい空気。 夏の日に水浴びをするかのような高揚感がそこにはあった。 穏やかな水気が身体を包み込んで、そこに日光の暖かさが合わさって。 慎ましい気持ちが私の心に溢れていて、とても気持ちが良かった。
 
 水面と空の境目が曖昧なせいか、それとも身体を包むふわふわとした、でも凛とした水気のせいか。 私というものも、その夢の中で曖昧になっていた気がした。 歩いているのは果たして人間の身体なのか、それとも葉っぱを生やした四足歩行のポケモンなのか。 何故かそれも分からなかった。 というより、分かろうとする気も起きなかった。 心地よさに身を任せていたのもあるけれど、それ以上に私は安心していたのだ。
 
 
 水面に足がついて、美しい円状の波紋が出来るたびに。
 その波紋同士が、静かに触れ合うたびに。
 私の心が、優しく調和していくのを感じていたから。
 
 











 
 
 
 そしていつの間にか、目の前は暗転する。
 




 




 
 
 
 
 
 
 
 
 「ん......」
 
 再び意識が舞い戻る。 今度はさっきのような非現実感などどこにも感じなかった。 寝転がっているわけなんだけれど、地に足をつけているような感覚。 見知った感覚。
 もそりと起き上がると、ずっと毛布がかけられていたしく、私の身体からそれがずり落ちる。 それにも構うことはなく私はぼーっとした目で辺りを見回した。 自分達の家だと分かったところで、ふと右で何かが光った気がした。
 
 「......あ」
 
 そこにはスカーフと花のブローチ、そして虹色水晶のペンダントが整えられた状態で置いてあった。 窓からの日光を浴びて、水晶はきらきらと輝いている。 さっきの気配はきっとこれだろう。
 少し眺める。 その光に想いを馳せてみる。

 「......夢じゃない」

 か細い声が、私の喉から発せられた。その光は、この前起こった出来事をこちらに否応なく想起させてくる。
 あの美しい光景だけじゃなくて、他の耐えがたい苦痛も。 全部全部。
 私はきゅっと口元を結んだ。


 ......ああ。 あれはみんな、夢じゃないんだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「え」
 
 目が潤みかけた時。 近くから声が聞こえて、私は思わず顔を上げた。 その目に映ったのは、水の入った桶を持って突っ立っていたキラリだった。 呆然としたまま、少し放心状態になっていたと思ったら。
 
 「......っ!!」

 その瞬間、キラリは持っていた桶を思い切りひっくり返した。 ばしゃんといううるさい音が聞こえた直後に、キラリが無言でこちらに飛びつく。
 
 「うあっ」

 かなり勢い任せな抱き方だったから、驚きの声が無意識ながら出てしまった。 いつもなら、急にどうしたのと笑いながら文句を言うところだけど。 それどころではないというのに気づくのには、そう時間は掛からなかった。
 
 無言のままこちらを抱き続けるキラリの身体はぶるぶると震えていて、 涙混じりの高めな唸り声がただただ響いていたのだ。
 いつもと明らかに違うキラリの姿に驚いたのと同時に、意識は床にひっくり返った桶の方に向く。 水に浸されてびしょ濡れになった布巾があるのを見るに、こちらの顔でも拭こうとしていたんだろうか。 というか、この毛布も、私の側に綺麗に置かれたスカーフ達もそうだ。 キラリは、ずっと待ってくれていたのだ。 出来る限りのことをして。
 一体、私は何日寝ていた? どれだけキラリに世話をかけた? 涙ながらにこちらを救い出そうとしてくれた友達は、どれだけ自分を気にかけてくれていた? どれだけ待っていてくれた?
 
 ......沢山、心配かけてしまったな。
 
 
 「......ごめんね」
 
 そっと、キラリの背中に前足を添えた。

 


 
 
 
 
 

 
 
 「今まで起きる気配なかったのに、このタイミングで起きてくるかぁ......ずびっ」
 「ごめんね......びっくりしたよね」
 「謝ることないってば! 寧ろ私嬉しさで情緒壊れてるもん」
 「更になんかごめんなさい」
 「何故にっ!?」
 
 キラリの大泣きが落ち着いた頃。 他愛もないやり取りで、私の頬に自然な笑みが浮かぶ。 いつぶりだろうか、こんなに何のしがらみもなく穏やかな気持ちになれたのは。
 考え方によっては小さい頃以来とも思える久々の感覚に幸せを感じるのと同時に、記憶を取り戻してもこうやって笑えるというのにほっとする自分もいた。
 ほっとしているのはキラリも同じのようで、いつもの元気な声が突如私の耳を突いた。
 
 「よっし、そんじゃユズにシチュー作るよ!」
 「えっ、いいの?」
 「こういう時は好きなもの食べたいでしょ? だいじょぶモモンは妥協するから!」
 
 本当かなぁ。 そう思いながらも、今回は私も止めずにキラリがキッチンに向かっていくのを見届けた。 正直言って、料理が死ぬほど甘かろうが今はよかった。 キラリの料理を食べられることすらも、夢のように思えるんだから。
 で、料理の最中のことだが、まあ案の定と言うべきか、ちょくちょく彼女がモモンを持って震えている姿が見られた。 背後からだったから分からなかったけど、きっと葛藤に満ちた凄い顔をしていたんだろう。
 けれど私にとって予想外だったのは、キラリがちゃんとその誘惑に耐えようとしていたことだった。 どんな料理にも見境なくモモンをどっさり入れようとするキラリがだ。 終盤に若干ごめんなさいという思いも見える手つきでそろりとモモンを一切れ入れていたのはくすりと笑ってしまったけれど、それ以外は首を振って耐え忍んでいた。
 そして。

 
 「できたー!」
 
 キラリがシチューを机に運んでくる。 病み上がりなこちらへの配慮か具は少しぎこちない小さめカットだけれど、見た目と匂いは申し分なさそうだった。
 
 「ほらほら食べて! きっと美味しいから!」
 「い、いただきます......」
 
 少し圧に押されながらも、私は一口シチューを頬張った。
 ......美味しかった。 若干甘さもあったけれど、今回に関してはとてもいいアクセントになっている。 素材の味を感じる素敵な甘み。
 ──ああ、やっぱり大好きだ。 私が世界で1番好きな食べ物だ。
 
 そんな喜びの中でシチューを味わっている時だった。 私は少し目の辺りに熱いものを感じた。そしてそれと同時に、口に広がる優しい芳香が、何かを呼び覚ましてくる。
 咀嚼するたびに、口の中にとろけた感覚がするたびに。
 ......記憶がまた、蘇る。
 
 
 
 




 
 
 
 
 (ノバラ、ユイ、シチューを作ってみたんだけどどうかしら?)
 
 一口、また一口。
 
 (美味しいねぇノバラ!)
 
 優しい甘さと共に。
 
 (ノバラ、遅くなってごめんね。 今日のご飯シチューだよ。
 え?急にどうしたって? ヒオさんに聞いたのよ、あなたシチュー大好きだって。
 ノバラ自分からあまり言わないもの......いっぱい食べてね)
 
 まろやかさと共に。
 
 (シチューですか......確かに美味しいですよねあれ。
 そうだな、私も今度頼んでみるかな......)
 
 この前は目を向けなかった記憶すらも、湯気に乗って溢れ出してくる。
 
 (ちょっとした贅沢っていうのは、こういう時のためにあるんだよ!)
 
 今生きているからこそ、思い出せた優しい記憶が。
 
 


 
 
 
 
 
 
 


 
 
 違和感が更に強まった。 目元が熱い。 多分、これは湯気のせいじゃない。
 
 「美味しいなぁ......」
 
 ほろほろと、涙が溢れていく。 目の前がぼんやりと滲んでいくけれど、何故かスプーンの手は止まらなかった。 ゆっくり味わって、そして嗚咽を漏らした。
 
 キラリは泣き止ませるわけでもなく、慰めるわけでもなく。 ひとつだけ言って、小さな手で私の頭を撫でてくれた。



 
 ......おかえりなさい。
 
 
 
 
 
 
 






 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 戻らないと思っていた優しい時間が回帰していく。 ああ、どんなに暖かいことだろう。
 ......いや、戻ってきたとは少し違うかもしれない。 作り上げたのだ。 もう一度。
 
 迷って、潰れて、水底まで沈んで。
 そこから浮き上がって。
 もう一度、私達は空を見上げる。
 
 時が来たとて終わりではない。
 
 
 ──生きている限り、歯車はまた回り出す。
 

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