第61話 茨の牙城
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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください
黒の茨に覆われた、牙城の頂点。 そこには大きな広間があった。 その天井から小さな檻のようなものが吊り下げられている。
その中で、ユズは眠るように目を閉じていた。 その顔には苦しげな汗が滲む。息は荒く、顔色はかなり悪かった。
......そして今は、それに気づいてくれるポケモンもいないから。 彼女はなされるままに夢に呑まれていく。
夢なのか、幻覚なのか。 暗く、下には紫の霧が立ち込める不気味な世界の中で、チコリータの姿をしたユズの前に1人の人間が立っていた。 長い髪を少し揺らして、人間は静かに笑う。 そこから出てくる言葉は、ポジティブなんてものではなかった。
「あなたにしては良い選択だね」
この闇の霧に塗れてしまったような声。 褒めている? いや、そうには見えない。
「成長したよね......あなたが今まで良い選択なんてしたことあったっけ?
......まあ、無いよね。 いつも周りの優しさに頼ってるだけだもの」
そう言い切る人間の顔から、一気に笑みが消え失せた。 こちらを弾劾するかのように、その茶色の瞳は真っ直ぐこちらを睨みつける。 どちらも一歩も動かなかった。 少なくともユズには重い泥のような感覚がのしかかっていた。 あの目眩が、徐々に視界を歪ませる。 ああ、まずい。 このままでは倒れてしまうと思ったところで。
「倒れてみれば、私から逃げられるとでも思った?」
ユズがびくりと震える。 そんなこと思ってない、違うと言いたかったけれど。 どうしても出来なかった。 言われてみると図星な気がして仕方なかった。
「逃げられるわけがないよ。 『私』はあなたで、あなたは私だ。
分かる? あなたにとって私の声が苦しいのと同じように、私にとってはあなたの顔を見るのが苦しいんだよ。
......恋しいんでしょう? この世界のみんなが」
人間にかかっていた霧が完全に晴れ、その姿が完全にあらわになる。 人間は......ノバラは、目の前で震える「自分」に問いかけた。ユズは、少し迷った後、観念してこくりと頷く。 自分相手に、嘘は吐けなかった。
ノバラはやっぱりと言って深い溜息を吐いた。 ユズは黙ったままだった。 彼女自身も分かっているのだ。 恋しいという思いがいけないことだと。 でもやはり捨てられずにいるのだ。 こちらに飛び込んできた1つの光を、未だに鮮明に胸に残してしまっているのだ。 それに対する罪悪感も、彼女の絶望の感情にあっという間にひっついて行った。
......けれど。 どれだけ罪悪感を生み出すよすがになるとしても、ノバラはそのキラリ達への感情を見過ごす訳にはいかないのだ。 かつてあった、ささやかな幸せへの渇望を。
「......駄目だよ。 消えようよ。 命をもって償ってよ。 私はそうしたいし、あなたもその気持ちはあるんでしょう?」
ああ、確かにそうだ。 記憶を思い出してしまった今、その思いは否定出来ない。 希死念慮のままに雨の街を歩いた記憶は、その時の絶望は。 静かに彼女の心を暗闇へと誘ってくる。
だけど、そのモノクロな雨の風景が脳裏を過ぎる度に。 あの薄桃色のスカーフや優しい顔も、美しい色彩を持って映り込んでくる。勿論、思いは色のある方へと傾く。
だから、「でも」という言葉がユズの喉から出かかる。 それに目ざとく反応したノバラは、ユズへと掴み掛かる。
「......やめてよ、そんな顔しないで!!
生きていけると思った?
ポケモンになれば全部リセット出来るとでも思った?
ふざけないでよ、記憶を無くしたからって今までの事実が消える訳じゃない!」
その言葉はナイフとなって、的確にユズの心を突き刺していく。 そしてきっとその言葉は、人間としての自分自身にも余すことなくダメージを与えてくるだろう。 でもノバラは言葉を止めることはなかった。 どれだけ息が荒くなろうと、全力で叫んだ。
ポケモンとして生きてきた中での暖かい感情。 それを排除することがどれだけ苦しいことか。 でも、後に何も残らないことを知っているからこそ、ノバラはそこを潰しにかかる。 寧ろ何も残さない方がいいのだ。 このまま希望を空っぽにして朽ち果ててしまえば、全て解決する。 その思考は正しいのだと、真に自分に認めさせるために。 迷わないために。
ノバラはユズの首を絞めて、至近距離で言葉を吐き散らす。 ノバラの顔にも、苦しさと共に汗が滲んでいた。
「諦めてよ。 私の未来に希望なんか無いし、あっちゃいけないんだよ。 人間の世界にも、ポケモンの世界にも!
ユイを殺して、キラリ達も傷つけた。 今更心変わりなんてあっちゃいけない。 消えなきゃいけない。 償わなきゃなんだよ。 なのに......『私』が、迷いなんてもの持ってどうするっていうの!?
諦めて。 キラリ達のために命を捨てて。 自分のやったことを命で償って!」
「うっ......あ......」
紛れもない自分自身の心からの言葉が、骨の髄まで響き渡る。 悲鳴のような声は、今のユズには十分過ぎる程に効果抜群だった。
帰りたい。 でも消えなきゃいけない。 キラリに会いたい。 でも会ってはいけない。 会ってしまえば、きっとまた傷つける。 魔狼も目覚めてしまったのに、キラリに再び痛みを与えないと断言出来るわけがない。 目覚めた時、毛並みも身体もあんなにぼろぼろだったのに。
嗚呼、自分が憎い。 誰かを傷つけることしか出来ない自分が憎い。優しそうな顔をしていても、それは臆病の裏返しなだけ。 ふわふわしていて、芯なんてどこにも無い。 誰かについて行ったり、助けられてばかりな癖に、自分は何も出来ない。 みんなの、大切な相手の思いを無下にする。
憎い、憎い、大嫌い。 生きてる価値など何処にもない。
......いっそのこと、消えてしまえよ。
「償え......償え償え償え償え償え償えっ!!」
「......あ゛っ......!」
どこまでも湧いてくる罪悪感が、ユズの心を蝕んでいく。 希望すらも、黒い絵の具で塗りつぶされていくようだった。
そしてそのまま彼女の意識も、鈍く崩れ落ちていった。
「......とは言ったものの......入口どこなんだろう」
ユズを助けるために気合を入れ直した直後のことだ。 5匹は入れる場所を手当たり次第に探していくが、どうにも見つからない。
「参ったわね......茨が綻んでる場所があればいいんだけど」
「......ユズは、僕達を入れる気はないのかな」
オロルの言葉に一同が不安な顔を示す。 そしてキラリは牙城の頂点を見上げた。
──この牙城は、今のユズそのものなのかもしれない。 外界から自分を遠ざけることで、結果的に魔狼の脅威からこの世界を守ろうとしている。 守るという言葉があるだけで綺麗な思いにも聞こえるが、これは彼女の確固たるこの世界への愛情に依るものではないことは明らかだ。 彼女を突き動かしたのは、罪悪感と絶望。 紛れもなくこの2つだ。
「ごめんなさい」。 短いながらも闇に塗れた彼女の言葉が、再びキラリに重くのしかかる。
「おい」
よく通る声がしたと思ったら、ジュリの声だった。 我に帰ってそっちを見ると彼が手招きをしていた。 慌てて駆け寄ると、茨と茨の間にポケモン1匹分が通れそうな隙間があった。
「小さな綻びがある。 ここから入れるんじゃないのか?」
「......確かに、1匹ずつならいけそうだな。 キラリ、最初に行くか?」
「うん」
キラリは入口の前に立つ。 黒い茨の向こう側は、覗いてみても何も見えなかった。 実際に入らないと分からないということか。
まるで心みたいだ。 表面上は誰でも見えるけれど、本当に深いところは自分にしか分からない。 そう思うと、今自分達がやろうとしてるのはユズの心の深みに無断で忍び込むことなのだろうか。
そうなると入るのは少し憚られるけれど、だけど......ユズの命が危ないと思うと、迷ってはいられなかった。我儘だとは分かっていても。
(......ユズ、ごめんね)
覚悟を決めて、キラリは茨の狭間を通り抜ける。
「ひー、ふー、みー......全員来たな」
レオンが点呼を取る。 なんと、内部はダンジョンのようになっていたのだ。 部屋と通路がある、探検隊には見慣れた光景。 魔狼の力が森の時空を捻じ曲げたのだろうかと思うと......ソヨカゼの森は、どうなったのだろうか。
でも、今はそれよりも。
「ダンジョンなら、階段があるでしょう。 そこを探せば」
イリータが一歩踏み出すが、一瞬彼女の立髪が逆立った。 進むのをやめたイリータにキラリは声を掛けるが、「黙って」と一蹴される。
「何か、来る!」
エスパータイプの勘なのか。イリータが警戒を呼びかける。 ......そして、その瞬間。
「えっ!?」
5匹の周りを紫の霧が囲う。 不定形だったそれは、あっという間に1つの形を作り上げた。 ルガルガンにも似た姿の、如何にも獰猛そうな敵。 それが周りに何匹も現れる。
完全にポケモンの敵ではないこと。 初っ端からモンスターハウスにはまったような状態になったこと。 信じられない事実に、キラリはたじろいだ。
「な、なんか......やばいねユズのダンジョン」
「語彙なくなってるじゃねぇか。 ......まあ、こいつらどうしたものか」
「普通に技でも当てればいいだろう。 物理は効かないだろうから特殊で攻めればいい」
「それもそうだね......よし!」
それぞれが特殊技を放つ。 怖そうに見えて意外と脆いのか、それは一瞬で霧散していく。 それに気を抜いていると、霧の残り滓は今度はこちらに纏わりついてきた。
「えっ、ちょ......!?」
絶体絶命。 このまま操るとかそういうことでも起こってしまうのか。 気を強く持つことしか出来ないと、キラリは目を強く閉じるが。
......真っ暗になったはずの光景に、一瞬眩しい青空が映った。
『......え』
きょとんとそれを眺めるキラリ。 見回すと、あるのは見たことのない街並み。
......その中で一際目を引いたのは、その道を歩く2人の女の子だった。
『行こうよノバラー!』
『待ってよユイ......今日シャトルランあったし足が死にそう......』
キラリには、その片方、大人しげな方の女の子にどうしようもない既視感を覚えた。 思わず声を掛けようとしてしまう。
『あっ、ちょっと......!』
手を伸ばすが、景色がぐにゃりと歪む。 ぶつりと電源が切れるように、その情景は消え去った。
「......っ!」
目を開ける。 周りにはもうあの霧は無かった。 はあはあと息を荒らげて、自分の伸ばしたはずの手を見やる。
今のは。 今のあの女の子は。
「ねぇ......今の、みんなも見えた?」
全員が頷く。 どうやら、キラリの幻覚ではないようだった。
「何だったんだ......今の」
「......なんか、胸騒ぎのする映像だったね」
「一体なんだろう......」
「......ねぇ」
キラリが、4匹の思考を遮った。 直感ではあるけれど、彼女には思い当たる節があった。
自分が手を伸ばしたかったのは。 待ってという言葉を、出さざるを得なかった少女は。
「ここ、ユズのダンジョンでしょ? そして、ユズは元々人間なんでしょ? おとぎ話の絵本まんまじゃん。 あの姿。
だったら......」
キラリは少し口籠もった。
ここが、ユズの心の象徴ならば。 中に潜むものもユズに関連するものには違いない。
ノバラと呼ばれた人間の記憶。 ケイジュが何度もその名を叫んだ人間の記憶。 ゆっくり取り戻していけたらいいねとユズと語り合った、大きな探し物。
それはまさしく。
「今のは、ユズの、記憶じゃ......」
場の空気が、一気に変わった。
この記憶の回想は、1回だけで終わるものではなかった。 進むために敵を倒す。 そして何度か記憶に襲われる。 階段を見つけて先に進む。 その繰り返しだ。 全員が少しずつ、ユズの過去の全貌を理解していった。
順番が一定なわけではなくて、苦しげな光景の後に幸せな光景が来ることもあった。 例えば、誘拐後に震えながら眠る夜から、楽しげに雪遊びをする光景に移ったり。 屈託のない笑顔がこの後恐怖に染まると思うとどうにももどかしくて、それを見てしまう罪悪感にも駆られてしまった。
そして、キラリが何個目かの霧の塊を散らした時。 何度目かの灰色のコンクリートの匂いを感じた時。
『え?』
突如響いたのは、甲高い爆裂音と、ユズの唐突な驚き。
『ば......化け物が......』
キラリは目を丸くした。
そこにあったのは、消え入るような声と、黒い無機質なものと、辺りに散る赤いもの。
──ユズを壊した決定的な光景も、彼女は見てしまった。
だいぶ上に登ってきたようで、広い道が続いていた。 あの霧の怪物も出て来なくなったのを考えると、きっともうすぐ頂上だろう。 全員の顔はかなり暗いものだった。 当然かもしれない。 他者の記憶を何度も覗くこと自体がまず大きな疲労を呼ぶし、内容も内容だ。
言葉による脚色もなく、ただこんなことがあったという事実が語られただけ。 でも、だからこそ消耗してしまうのかもしれない。 ありのままの光景を見ることになるから。
「僕は」
オロルが、その沈黙を破った。
「彼女みたいに特別な事情は知らないし、だから想像しか出来ない自分がもの凄く嫌になるんだけど......酷いなって、思った。
......ごめんね、ちょっともどかしかったから言いたかっただけ」
「いいのよオロル。 分からないでもないわ。 いい気持ちなんかする訳がない。 あの叫びからして、碌でもない事が起きたのは予測してた。 でも、あれは......」
その先に続くだろう言葉は、全員が予想できた。 少しの静寂を抱えた後、今度はキラリが口を開けた。
「どう思った? ジュリさんは」
キラリがぼそりとジュリに対して言う。 彼は若干面食らったような顔でその声を聞いた。
「......何故俺に」
「なんとなく。 ......ジュリさんのあれこれ、長老さんから聞いたのもあって、ユズに1番近いのはあなたじゃないかって思った。 ......ごめん、嫌ならいいよ」
足音だけが響いた。 悪いことを聞いたと反省するキラリだったが、彼は少し考えた後口を開いてくれた。
「どちらの世界でも、変わらないんだなと思った。 ......どうしようもない奴がいるというのは」
ふっと溢れた本音には、どこか怒りも混じっていた。 どうしようもない奴......あの、誘拐犯達。
「別に奴と俺を重ねたくはない。けれど。 俺には長老様がいたから今はどうにかなっているけれど、奴にはそれが無かった。 ......いや、助けを求める手段も無かったと言うべきか。
そう思うと、今の奴は絶望をどうにもできなかった者の末路のように思える」
目の前で大事なものが消える中に立たされた時、嘆きに暮れるのは当然のことだ。 ジュリは叫べた。 だから助け船が渡された。 でも、ユズは事情が事情だから、叫べる訳がなかったのだ。 ヒオにもきっと出来なかったのだろう。 元から尽力してくれた彼女の思いを、一瞬でも裏切ってしまった負い目もあるから。
でも、ユズの母親も彼女を放任していたわけではなかった。 泣いていたのは明らかだったし、引きこもるユズに何度も声をかけていた。 届かなかっただけで。
誘拐犯を除いては誰も悪くない。仕方ないと言う他無いんだけれども。
「......おじさんは?」
「正直整理出来てない。 情報量が多すぎるんだよ。
ただ......今のユズの心が風前の灯火みたいになってるのはわかった」
神妙な面持ちで、彼は続ける。
「ポケモンによっては、誰かを恨むのには限界がある。理性や、もしくは誰かの言葉で、誰かへの攻撃というのを拒否出来るから。
でも、自分なら幾らでも責められてしまう」
自分なら。 その言葉がキラリの胸を打つ。 ......無力感で倒れ伏した時の感情が、ありありと蘇る。 確かにあの時も、自分を責める感情に際限などなかった。
「直接的に傷つくのが、自分だけだから。 うまく隠して振る舞えば、誰にも心配かけないからな。
それが自分の心に深く染みついているなら......落とすのには時間がかかる。 もしくは、一生落ちない」
......そうだ。 ユズは出来る限り隠そうとしてしまう子だ。 キラリはそれを思い、とてもとても悔しくなった。 そんなものを抱えて生きてきたはずなのに、ずっとそばに居ながら何故気づいてやれなかったのか。 結果論でしかないけれど。
「......ユズ、死なないよね」
その悔しさから、1つの不安が吐露される。
レオンは少し間を置いて返答をした。
「断言は出来ない。 少なくとも......俺達がその審判になっちまうんだろうな」
その言葉に、キラリはどうしても違和感を覚えてしまった。 レオンの顔を見るに、恐らく彼もわかって言っているんだろう。 自分の生の可否の審判なんて、本来いるべきではないのに。 神様すらも、軽々しく手出しすべき問題ではないはずなのに。
......嫌なものだ。 全員がそう思わずにはいられなかった。
最後の階段を登ったら、小さな空間に出た。 先には、ダンジョンの入口よりも小さな茨の綻びがある。 キラリは嗅覚を研ぎ澄ました。 ちゃんとユズの匂いがする。 あの優しい匂いは、やはり変わらない。
綻びの大きさ的に、全員が通れそうなものではないだろう。 そうなると大人は強制的にダメになる。 行けるのはキラリかイリータかオロルになるけれど......そうなると一択だろう。
「......私が行っていい?」
──まあ、難しいことを立て並べたわけだが、最後の決め手はキラリの行きたいという願いだった。
「貴方の方でしょうね。 話すべきなのは」
キラリの願いの船を、今更降りる気は毛頭ない。 イリータの言葉を皮切りに、全員が同意を示した。
入口の前に立つ。 強張る身体は、中々最後の1歩を踏み出させてはくれない。 そこで急にレオンがとんとんと背中を叩いてきた。 押すほどの強さではなく、優しく宥めるように。
「おじさん」
「大丈夫。 お前なら大丈夫。 行ってこい」
「......うん」
短い言葉に、どれだけの思いを彼は込めていたのだろうか。 背中に託された思いを勇気に変えて、足を少し前へと出す。 あとはもう大丈夫だった。キラリは後ろを振り向く事なく、狭間へと潜っていった。
屈んでないと通れない狭い通路が続いた後に、彼女は広間のような場所に出た。 黒い茨の隙間から、少しだけ光が漏れている。 きっと太陽の光だ。 となると、ここは頂上だと考えていいのだろう。
ならばとキラリは辺りを見回す。 すると案の定ユズは見つかった。 天井から茨の檻が吊り下げられていて、そこに力なく座り込んでいた。 背後からしか見えないから、表情は分からなかった。
「......ユズ」
見つけられた喜びと、今の状況のただならぬ危機感と恐れ。 相反する感情の渦の中でキラリの声が揺れる。
それと同時にユズの身体が少しびくりと震えた。 意識はちゃんとあるようだ。 ならば、今は語りかけてみるしか手はなかった。
ただ焦ってはいけない。 落ち着いて、なるべくいつも通りを意識して。
「ユズ、大丈夫? 怪我とかしてない?」
ユズはこくりと頷いた。 それを認めたキラリはほっと息をつき、そのままの勢いで続ける。
「なら良かった。一緒に帰」
「駄目だよ」
それはぴしゃりと、シャッターを閉ざされるように。 ユズはキラリの申し出を拒絶した。
「......っ」
キラリの脳裏にレオンの言葉が蘇る。 あくまで推測に過ぎなかった『そういうこと』という言葉が、あっという間に現実味を増していった。
......いや、落ち着け。 何のためにここに来たのだ。
「なんで」
「帰る資格が無いから」
「帰る資格って......?」
「......また、キラリを傷つけるかもしれないのに」
また。 その言葉がキラリの胸中に違和感を残した。
「その傷、私のものでしょ」
その違和感の答えはすぐに出た。 キラリは自分の身体を見た。 別に大怪我をしたとかそういう訳ではないし、いつもより汚れたり擦り傷があるのは確かだけれど。
ユズは、こちらを襲ってしまったのを悔やんでいるのか? そう思ったキラリの答えは案外すぐに決まった。
「......別に気にすることないよ。 これはユズのせいじゃないもん」
「私のせいだよ」
「だから違うって......!」
はっとなりキラリは押し黙る。 危うく感情的になるところだった。 今の彼女に感情任せの言葉をぶつければ、取り返しのつかないことになる。
「......違わないよ。 元はと言えば私のせいなんだよ。 私さえいなければ、魔狼も目覚めなかった。 兄さんだって、この世界を壊すなんてしようとしなかったよ。
私は、最後まで災厄に過ぎなかった。 だから、消えなきゃなんだよ」
「災厄なんかじゃないよ。 だって、ユズは被害者でしょ?ユズが悪いわけがないんだよ。魔狼がユズの身体に入ったのだって、あれは仕方な─」
「っ! ......知ったの、記憶」
「......うん。 ごめん」
「どこまで」
「多分、魔狼に関する事はあらかた」
ここで誤魔化しても何もいい事はない。 罪悪感を抱えながらキラリは言った。 ユズの身体は、更に感情的に震える。
「だったら尚更だよ。 ......私のせいでユイも巻き添えにして、あの子を殺したんだよ。 キラリだって、さっき、さっき......!」
「だから、ユズのせいじゃ!」
「嘘だっ!!」
その時だった。 近くから猛スピードで茨がキラリを襲ってきた。咄嗟に避けようとするが、腕に棘が当たってしまう。 轟音と共に、少し床に赤いものが垂れる。
「っ......!」
痛みで思わずよろける。 幸い浅い切り傷で済んだけれど、直撃したらどうなっていたんだろうか。
まさかと思い、ユズの方を向く。 だけど、彼女があの茨を操った訳ではなさそうだった。
「......ごめん、ごめんなさい。 自分でも制御出来ないんだよ。
こんな状態で外に出たって、誰かを傷つけるだけなんだよ」
ユズは震えた。 再び無機質に戻った声には、今度は恐怖が混じりだす。
「......嫌だ、もう嫌だ......」
記憶で、雨の中倒れた彼女が何度も発した言葉。 その短い言葉は最早ただの拒否の意ではなく、己の心を自傷するための凶器になっていた。
ユズは自分の心を、その凶器で斬りつける。
「私のせいで誰かが傷つく。 だったら簡単な事なんだよ。 私は......消えなきゃいけないんだよ」
絶望も、悲しみも、嘆きも、己への憎しみも。 全てが冷たい心の鎖となり、彼女を縛りつけていた。
そしてその鎖は、彼女の口から出る言葉すらも一方向へと制限させる。
彼女にしか出せない声が、静かに零れ落ちた。
「......分かって。 私に、生きてる価値は無いんだよ」
その中で、ユズは眠るように目を閉じていた。 その顔には苦しげな汗が滲む。息は荒く、顔色はかなり悪かった。
......そして今は、それに気づいてくれるポケモンもいないから。 彼女はなされるままに夢に呑まれていく。
夢なのか、幻覚なのか。 暗く、下には紫の霧が立ち込める不気味な世界の中で、チコリータの姿をしたユズの前に1人の人間が立っていた。 長い髪を少し揺らして、人間は静かに笑う。 そこから出てくる言葉は、ポジティブなんてものではなかった。
「あなたにしては良い選択だね」
この闇の霧に塗れてしまったような声。 褒めている? いや、そうには見えない。
「成長したよね......あなたが今まで良い選択なんてしたことあったっけ?
......まあ、無いよね。 いつも周りの優しさに頼ってるだけだもの」
そう言い切る人間の顔から、一気に笑みが消え失せた。 こちらを弾劾するかのように、その茶色の瞳は真っ直ぐこちらを睨みつける。 どちらも一歩も動かなかった。 少なくともユズには重い泥のような感覚がのしかかっていた。 あの目眩が、徐々に視界を歪ませる。 ああ、まずい。 このままでは倒れてしまうと思ったところで。
「倒れてみれば、私から逃げられるとでも思った?」
ユズがびくりと震える。 そんなこと思ってない、違うと言いたかったけれど。 どうしても出来なかった。 言われてみると図星な気がして仕方なかった。
「逃げられるわけがないよ。 『私』はあなたで、あなたは私だ。
分かる? あなたにとって私の声が苦しいのと同じように、私にとってはあなたの顔を見るのが苦しいんだよ。
......恋しいんでしょう? この世界のみんなが」
人間にかかっていた霧が完全に晴れ、その姿が完全にあらわになる。 人間は......ノバラは、目の前で震える「自分」に問いかけた。ユズは、少し迷った後、観念してこくりと頷く。 自分相手に、嘘は吐けなかった。
ノバラはやっぱりと言って深い溜息を吐いた。 ユズは黙ったままだった。 彼女自身も分かっているのだ。 恋しいという思いがいけないことだと。 でもやはり捨てられずにいるのだ。 こちらに飛び込んできた1つの光を、未だに鮮明に胸に残してしまっているのだ。 それに対する罪悪感も、彼女の絶望の感情にあっという間にひっついて行った。
......けれど。 どれだけ罪悪感を生み出すよすがになるとしても、ノバラはそのキラリ達への感情を見過ごす訳にはいかないのだ。 かつてあった、ささやかな幸せへの渇望を。
「......駄目だよ。 消えようよ。 命をもって償ってよ。 私はそうしたいし、あなたもその気持ちはあるんでしょう?」
ああ、確かにそうだ。 記憶を思い出してしまった今、その思いは否定出来ない。 希死念慮のままに雨の街を歩いた記憶は、その時の絶望は。 静かに彼女の心を暗闇へと誘ってくる。
だけど、そのモノクロな雨の風景が脳裏を過ぎる度に。 あの薄桃色のスカーフや優しい顔も、美しい色彩を持って映り込んでくる。勿論、思いは色のある方へと傾く。
だから、「でも」という言葉がユズの喉から出かかる。 それに目ざとく反応したノバラは、ユズへと掴み掛かる。
「......やめてよ、そんな顔しないで!!
生きていけると思った?
ポケモンになれば全部リセット出来るとでも思った?
ふざけないでよ、記憶を無くしたからって今までの事実が消える訳じゃない!」
その言葉はナイフとなって、的確にユズの心を突き刺していく。 そしてきっとその言葉は、人間としての自分自身にも余すことなくダメージを与えてくるだろう。 でもノバラは言葉を止めることはなかった。 どれだけ息が荒くなろうと、全力で叫んだ。
ポケモンとして生きてきた中での暖かい感情。 それを排除することがどれだけ苦しいことか。 でも、後に何も残らないことを知っているからこそ、ノバラはそこを潰しにかかる。 寧ろ何も残さない方がいいのだ。 このまま希望を空っぽにして朽ち果ててしまえば、全て解決する。 その思考は正しいのだと、真に自分に認めさせるために。 迷わないために。
ノバラはユズの首を絞めて、至近距離で言葉を吐き散らす。 ノバラの顔にも、苦しさと共に汗が滲んでいた。
「諦めてよ。 私の未来に希望なんか無いし、あっちゃいけないんだよ。 人間の世界にも、ポケモンの世界にも!
ユイを殺して、キラリ達も傷つけた。 今更心変わりなんてあっちゃいけない。 消えなきゃいけない。 償わなきゃなんだよ。 なのに......『私』が、迷いなんてもの持ってどうするっていうの!?
諦めて。 キラリ達のために命を捨てて。 自分のやったことを命で償って!」
「うっ......あ......」
紛れもない自分自身の心からの言葉が、骨の髄まで響き渡る。 悲鳴のような声は、今のユズには十分過ぎる程に効果抜群だった。
帰りたい。 でも消えなきゃいけない。 キラリに会いたい。 でも会ってはいけない。 会ってしまえば、きっとまた傷つける。 魔狼も目覚めてしまったのに、キラリに再び痛みを与えないと断言出来るわけがない。 目覚めた時、毛並みも身体もあんなにぼろぼろだったのに。
嗚呼、自分が憎い。 誰かを傷つけることしか出来ない自分が憎い。優しそうな顔をしていても、それは臆病の裏返しなだけ。 ふわふわしていて、芯なんてどこにも無い。 誰かについて行ったり、助けられてばかりな癖に、自分は何も出来ない。 みんなの、大切な相手の思いを無下にする。
憎い、憎い、大嫌い。 生きてる価値など何処にもない。
......いっそのこと、消えてしまえよ。
「償え......償え償え償え償え償え償えっ!!」
「......あ゛っ......!」
どこまでも湧いてくる罪悪感が、ユズの心を蝕んでいく。 希望すらも、黒い絵の具で塗りつぶされていくようだった。
そしてそのまま彼女の意識も、鈍く崩れ落ちていった。
「......とは言ったものの......入口どこなんだろう」
ユズを助けるために気合を入れ直した直後のことだ。 5匹は入れる場所を手当たり次第に探していくが、どうにも見つからない。
「参ったわね......茨が綻んでる場所があればいいんだけど」
「......ユズは、僕達を入れる気はないのかな」
オロルの言葉に一同が不安な顔を示す。 そしてキラリは牙城の頂点を見上げた。
──この牙城は、今のユズそのものなのかもしれない。 外界から自分を遠ざけることで、結果的に魔狼の脅威からこの世界を守ろうとしている。 守るという言葉があるだけで綺麗な思いにも聞こえるが、これは彼女の確固たるこの世界への愛情に依るものではないことは明らかだ。 彼女を突き動かしたのは、罪悪感と絶望。 紛れもなくこの2つだ。
「ごめんなさい」。 短いながらも闇に塗れた彼女の言葉が、再びキラリに重くのしかかる。
「おい」
よく通る声がしたと思ったら、ジュリの声だった。 我に帰ってそっちを見ると彼が手招きをしていた。 慌てて駆け寄ると、茨と茨の間にポケモン1匹分が通れそうな隙間があった。
「小さな綻びがある。 ここから入れるんじゃないのか?」
「......確かに、1匹ずつならいけそうだな。 キラリ、最初に行くか?」
「うん」
キラリは入口の前に立つ。 黒い茨の向こう側は、覗いてみても何も見えなかった。 実際に入らないと分からないということか。
まるで心みたいだ。 表面上は誰でも見えるけれど、本当に深いところは自分にしか分からない。 そう思うと、今自分達がやろうとしてるのはユズの心の深みに無断で忍び込むことなのだろうか。
そうなると入るのは少し憚られるけれど、だけど......ユズの命が危ないと思うと、迷ってはいられなかった。我儘だとは分かっていても。
(......ユズ、ごめんね)
覚悟を決めて、キラリは茨の狭間を通り抜ける。
「ひー、ふー、みー......全員来たな」
レオンが点呼を取る。 なんと、内部はダンジョンのようになっていたのだ。 部屋と通路がある、探検隊には見慣れた光景。 魔狼の力が森の時空を捻じ曲げたのだろうかと思うと......ソヨカゼの森は、どうなったのだろうか。
でも、今はそれよりも。
「ダンジョンなら、階段があるでしょう。 そこを探せば」
イリータが一歩踏み出すが、一瞬彼女の立髪が逆立った。 進むのをやめたイリータにキラリは声を掛けるが、「黙って」と一蹴される。
「何か、来る!」
エスパータイプの勘なのか。イリータが警戒を呼びかける。 ......そして、その瞬間。
「えっ!?」
5匹の周りを紫の霧が囲う。 不定形だったそれは、あっという間に1つの形を作り上げた。 ルガルガンにも似た姿の、如何にも獰猛そうな敵。 それが周りに何匹も現れる。
完全にポケモンの敵ではないこと。 初っ端からモンスターハウスにはまったような状態になったこと。 信じられない事実に、キラリはたじろいだ。
「な、なんか......やばいねユズのダンジョン」
「語彙なくなってるじゃねぇか。 ......まあ、こいつらどうしたものか」
「普通に技でも当てればいいだろう。 物理は効かないだろうから特殊で攻めればいい」
「それもそうだね......よし!」
それぞれが特殊技を放つ。 怖そうに見えて意外と脆いのか、それは一瞬で霧散していく。 それに気を抜いていると、霧の残り滓は今度はこちらに纏わりついてきた。
「えっ、ちょ......!?」
絶体絶命。 このまま操るとかそういうことでも起こってしまうのか。 気を強く持つことしか出来ないと、キラリは目を強く閉じるが。
......真っ暗になったはずの光景に、一瞬眩しい青空が映った。
『......え』
きょとんとそれを眺めるキラリ。 見回すと、あるのは見たことのない街並み。
......その中で一際目を引いたのは、その道を歩く2人の女の子だった。
『行こうよノバラー!』
『待ってよユイ......今日シャトルランあったし足が死にそう......』
キラリには、その片方、大人しげな方の女の子にどうしようもない既視感を覚えた。 思わず声を掛けようとしてしまう。
『あっ、ちょっと......!』
手を伸ばすが、景色がぐにゃりと歪む。 ぶつりと電源が切れるように、その情景は消え去った。
「......っ!」
目を開ける。 周りにはもうあの霧は無かった。 はあはあと息を荒らげて、自分の伸ばしたはずの手を見やる。
今のは。 今のあの女の子は。
「ねぇ......今の、みんなも見えた?」
全員が頷く。 どうやら、キラリの幻覚ではないようだった。
「何だったんだ......今の」
「......なんか、胸騒ぎのする映像だったね」
「一体なんだろう......」
「......ねぇ」
キラリが、4匹の思考を遮った。 直感ではあるけれど、彼女には思い当たる節があった。
自分が手を伸ばしたかったのは。 待ってという言葉を、出さざるを得なかった少女は。
「ここ、ユズのダンジョンでしょ? そして、ユズは元々人間なんでしょ? おとぎ話の絵本まんまじゃん。 あの姿。
だったら......」
キラリは少し口籠もった。
ここが、ユズの心の象徴ならば。 中に潜むものもユズに関連するものには違いない。
ノバラと呼ばれた人間の記憶。 ケイジュが何度もその名を叫んだ人間の記憶。 ゆっくり取り戻していけたらいいねとユズと語り合った、大きな探し物。
それはまさしく。
「今のは、ユズの、記憶じゃ......」
場の空気が、一気に変わった。
この記憶の回想は、1回だけで終わるものではなかった。 進むために敵を倒す。 そして何度か記憶に襲われる。 階段を見つけて先に進む。 その繰り返しだ。 全員が少しずつ、ユズの過去の全貌を理解していった。
順番が一定なわけではなくて、苦しげな光景の後に幸せな光景が来ることもあった。 例えば、誘拐後に震えながら眠る夜から、楽しげに雪遊びをする光景に移ったり。 屈託のない笑顔がこの後恐怖に染まると思うとどうにももどかしくて、それを見てしまう罪悪感にも駆られてしまった。
そして、キラリが何個目かの霧の塊を散らした時。 何度目かの灰色のコンクリートの匂いを感じた時。
『え?』
突如響いたのは、甲高い爆裂音と、ユズの唐突な驚き。
『ば......化け物が......』
キラリは目を丸くした。
そこにあったのは、消え入るような声と、黒い無機質なものと、辺りに散る赤いもの。
──ユズを壊した決定的な光景も、彼女は見てしまった。
だいぶ上に登ってきたようで、広い道が続いていた。 あの霧の怪物も出て来なくなったのを考えると、きっともうすぐ頂上だろう。 全員の顔はかなり暗いものだった。 当然かもしれない。 他者の記憶を何度も覗くこと自体がまず大きな疲労を呼ぶし、内容も内容だ。
言葉による脚色もなく、ただこんなことがあったという事実が語られただけ。 でも、だからこそ消耗してしまうのかもしれない。 ありのままの光景を見ることになるから。
「僕は」
オロルが、その沈黙を破った。
「彼女みたいに特別な事情は知らないし、だから想像しか出来ない自分がもの凄く嫌になるんだけど......酷いなって、思った。
......ごめんね、ちょっともどかしかったから言いたかっただけ」
「いいのよオロル。 分からないでもないわ。 いい気持ちなんかする訳がない。 あの叫びからして、碌でもない事が起きたのは予測してた。 でも、あれは......」
その先に続くだろう言葉は、全員が予想できた。 少しの静寂を抱えた後、今度はキラリが口を開けた。
「どう思った? ジュリさんは」
キラリがぼそりとジュリに対して言う。 彼は若干面食らったような顔でその声を聞いた。
「......何故俺に」
「なんとなく。 ......ジュリさんのあれこれ、長老さんから聞いたのもあって、ユズに1番近いのはあなたじゃないかって思った。 ......ごめん、嫌ならいいよ」
足音だけが響いた。 悪いことを聞いたと反省するキラリだったが、彼は少し考えた後口を開いてくれた。
「どちらの世界でも、変わらないんだなと思った。 ......どうしようもない奴がいるというのは」
ふっと溢れた本音には、どこか怒りも混じっていた。 どうしようもない奴......あの、誘拐犯達。
「別に奴と俺を重ねたくはない。けれど。 俺には長老様がいたから今はどうにかなっているけれど、奴にはそれが無かった。 ......いや、助けを求める手段も無かったと言うべきか。
そう思うと、今の奴は絶望をどうにもできなかった者の末路のように思える」
目の前で大事なものが消える中に立たされた時、嘆きに暮れるのは当然のことだ。 ジュリは叫べた。 だから助け船が渡された。 でも、ユズは事情が事情だから、叫べる訳がなかったのだ。 ヒオにもきっと出来なかったのだろう。 元から尽力してくれた彼女の思いを、一瞬でも裏切ってしまった負い目もあるから。
でも、ユズの母親も彼女を放任していたわけではなかった。 泣いていたのは明らかだったし、引きこもるユズに何度も声をかけていた。 届かなかっただけで。
誘拐犯を除いては誰も悪くない。仕方ないと言う他無いんだけれども。
「......おじさんは?」
「正直整理出来てない。 情報量が多すぎるんだよ。
ただ......今のユズの心が風前の灯火みたいになってるのはわかった」
神妙な面持ちで、彼は続ける。
「ポケモンによっては、誰かを恨むのには限界がある。理性や、もしくは誰かの言葉で、誰かへの攻撃というのを拒否出来るから。
でも、自分なら幾らでも責められてしまう」
自分なら。 その言葉がキラリの胸を打つ。 ......無力感で倒れ伏した時の感情が、ありありと蘇る。 確かにあの時も、自分を責める感情に際限などなかった。
「直接的に傷つくのが、自分だけだから。 うまく隠して振る舞えば、誰にも心配かけないからな。
それが自分の心に深く染みついているなら......落とすのには時間がかかる。 もしくは、一生落ちない」
......そうだ。 ユズは出来る限り隠そうとしてしまう子だ。 キラリはそれを思い、とてもとても悔しくなった。 そんなものを抱えて生きてきたはずなのに、ずっとそばに居ながら何故気づいてやれなかったのか。 結果論でしかないけれど。
「......ユズ、死なないよね」
その悔しさから、1つの不安が吐露される。
レオンは少し間を置いて返答をした。
「断言は出来ない。 少なくとも......俺達がその審判になっちまうんだろうな」
その言葉に、キラリはどうしても違和感を覚えてしまった。 レオンの顔を見るに、恐らく彼もわかって言っているんだろう。 自分の生の可否の審判なんて、本来いるべきではないのに。 神様すらも、軽々しく手出しすべき問題ではないはずなのに。
......嫌なものだ。 全員がそう思わずにはいられなかった。
最後の階段を登ったら、小さな空間に出た。 先には、ダンジョンの入口よりも小さな茨の綻びがある。 キラリは嗅覚を研ぎ澄ました。 ちゃんとユズの匂いがする。 あの優しい匂いは、やはり変わらない。
綻びの大きさ的に、全員が通れそうなものではないだろう。 そうなると大人は強制的にダメになる。 行けるのはキラリかイリータかオロルになるけれど......そうなると一択だろう。
「......私が行っていい?」
──まあ、難しいことを立て並べたわけだが、最後の決め手はキラリの行きたいという願いだった。
「貴方の方でしょうね。 話すべきなのは」
キラリの願いの船を、今更降りる気は毛頭ない。 イリータの言葉を皮切りに、全員が同意を示した。
入口の前に立つ。 強張る身体は、中々最後の1歩を踏み出させてはくれない。 そこで急にレオンがとんとんと背中を叩いてきた。 押すほどの強さではなく、優しく宥めるように。
「おじさん」
「大丈夫。 お前なら大丈夫。 行ってこい」
「......うん」
短い言葉に、どれだけの思いを彼は込めていたのだろうか。 背中に託された思いを勇気に変えて、足を少し前へと出す。 あとはもう大丈夫だった。キラリは後ろを振り向く事なく、狭間へと潜っていった。
屈んでないと通れない狭い通路が続いた後に、彼女は広間のような場所に出た。 黒い茨の隙間から、少しだけ光が漏れている。 きっと太陽の光だ。 となると、ここは頂上だと考えていいのだろう。
ならばとキラリは辺りを見回す。 すると案の定ユズは見つかった。 天井から茨の檻が吊り下げられていて、そこに力なく座り込んでいた。 背後からしか見えないから、表情は分からなかった。
「......ユズ」
見つけられた喜びと、今の状況のただならぬ危機感と恐れ。 相反する感情の渦の中でキラリの声が揺れる。
それと同時にユズの身体が少しびくりと震えた。 意識はちゃんとあるようだ。 ならば、今は語りかけてみるしか手はなかった。
ただ焦ってはいけない。 落ち着いて、なるべくいつも通りを意識して。
「ユズ、大丈夫? 怪我とかしてない?」
ユズはこくりと頷いた。 それを認めたキラリはほっと息をつき、そのままの勢いで続ける。
「なら良かった。一緒に帰」
「駄目だよ」
それはぴしゃりと、シャッターを閉ざされるように。 ユズはキラリの申し出を拒絶した。
「......っ」
キラリの脳裏にレオンの言葉が蘇る。 あくまで推測に過ぎなかった『そういうこと』という言葉が、あっという間に現実味を増していった。
......いや、落ち着け。 何のためにここに来たのだ。
「なんで」
「帰る資格が無いから」
「帰る資格って......?」
「......また、キラリを傷つけるかもしれないのに」
また。 その言葉がキラリの胸中に違和感を残した。
「その傷、私のものでしょ」
その違和感の答えはすぐに出た。 キラリは自分の身体を見た。 別に大怪我をしたとかそういう訳ではないし、いつもより汚れたり擦り傷があるのは確かだけれど。
ユズは、こちらを襲ってしまったのを悔やんでいるのか? そう思ったキラリの答えは案外すぐに決まった。
「......別に気にすることないよ。 これはユズのせいじゃないもん」
「私のせいだよ」
「だから違うって......!」
はっとなりキラリは押し黙る。 危うく感情的になるところだった。 今の彼女に感情任せの言葉をぶつければ、取り返しのつかないことになる。
「......違わないよ。 元はと言えば私のせいなんだよ。 私さえいなければ、魔狼も目覚めなかった。 兄さんだって、この世界を壊すなんてしようとしなかったよ。
私は、最後まで災厄に過ぎなかった。 だから、消えなきゃなんだよ」
「災厄なんかじゃないよ。 だって、ユズは被害者でしょ?ユズが悪いわけがないんだよ。魔狼がユズの身体に入ったのだって、あれは仕方な─」
「っ! ......知ったの、記憶」
「......うん。 ごめん」
「どこまで」
「多分、魔狼に関する事はあらかた」
ここで誤魔化しても何もいい事はない。 罪悪感を抱えながらキラリは言った。 ユズの身体は、更に感情的に震える。
「だったら尚更だよ。 ......私のせいでユイも巻き添えにして、あの子を殺したんだよ。 キラリだって、さっき、さっき......!」
「だから、ユズのせいじゃ!」
「嘘だっ!!」
その時だった。 近くから猛スピードで茨がキラリを襲ってきた。咄嗟に避けようとするが、腕に棘が当たってしまう。 轟音と共に、少し床に赤いものが垂れる。
「っ......!」
痛みで思わずよろける。 幸い浅い切り傷で済んだけれど、直撃したらどうなっていたんだろうか。
まさかと思い、ユズの方を向く。 だけど、彼女があの茨を操った訳ではなさそうだった。
「......ごめん、ごめんなさい。 自分でも制御出来ないんだよ。
こんな状態で外に出たって、誰かを傷つけるだけなんだよ」
ユズは震えた。 再び無機質に戻った声には、今度は恐怖が混じりだす。
「......嫌だ、もう嫌だ......」
記憶で、雨の中倒れた彼女が何度も発した言葉。 その短い言葉は最早ただの拒否の意ではなく、己の心を自傷するための凶器になっていた。
ユズは自分の心を、その凶器で斬りつける。
「私のせいで誰かが傷つく。 だったら簡単な事なんだよ。 私は......消えなきゃいけないんだよ」
絶望も、悲しみも、嘆きも、己への憎しみも。 全てが冷たい心の鎖となり、彼女を縛りつけていた。
そしてその鎖は、彼女の口から出る言葉すらも一方向へと制限させる。
彼女にしか出せない声が、静かに零れ落ちた。
「......分かって。 私に、生きてる価値は無いんだよ」