帰心の料理

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読了時間目安:12分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

登場人物

エンブオー・クライド・フレアジス……夢工房の所長。ヴェスパオール市警の元刑事。
ルカリオ・リン・シェイ……夢工房唯一の従業員。謎多き男。
ミミロップ・アイリーン・ブルーアント……ルカリオ・リンと懇意の女性。引退した大物ギャング、ホルード・“マクシム”マクシミリアンの愛娘。

エレザード・フィリパ・マルクス……今回の依頼者にして、夢工房の入った赤レンガビルの所有者。夫の死をきっかけに、四か月前に失踪した一匹息子のエレザード・ビリー・マルクスとの再会を希求する。
ジラーチ……千年に一度目覚めて、願いを叶えるという伝説の存在。少年時代のクライドが出会ったとき、既にその力は失われていたようだ。

エンブオー・デルフォード・フレアジス……クライドの父親。ディニア国防省陸軍の教官。階級は大尉。
エンブオー・ロクセリエナ・フレアジス……クライドの母親。旧姓はラグランジェで貴族の娘。
ポカブ・フィーネ・フレアジス……クライドの年離れた妹。
 陽はとうに落ち、夜は川底から溢れでた。丘に立つ赤い家も全身を白く光らせていた。買い物から戻ったロクセリエナの馬車が、ちょうど私道から出ていくところだった。
 正直言って申し訳なかったと、デルフォードはカリンのダイニングテーブルを挟んで、ルカリオに粛々と謝った。家の者が取り決めを守らないばかりか、ギャングが上がり込んだと思ったらしかった。ギャング風の男は謝罪を軽く流して、息子が彼に出すはずだった緑茶を温め直して父に汲んでいた。その脇から息子がグレーの中折れ帽子を取り出してみせた――破れているじゃないか、どうしたんだ――長い話になるんだ、親父――土産話は期待できそうだな、とデルフォードは茶をすすって言った。声色はことのほか明るかった。
 火炎玉式コンロが六つ、ピザ窯つきの厨房で、母が豪快にフライパンをまわす音がダイニングで唯一の音楽だった。銀縁の中に青い薔薇模様が入った小分け皿をテーブルに並べながら、クライドは見渡した。記憶のなかの白色とは違って、ここの四方は今し方引き払ったばかりの事務所と同じ赤さび色に支配されていた。床を覆い尽くす灰色の絨毯は、雛菊の柄も色褪せて、サザンドラと悪ふざけをして焦がした跡も目立たなくなっていた。ロングカウチに腰掛けたルカリオに目を遣ったとき、彼は早くも妹と上手くやっていた。裏庭がよく見える、飛び出し窓の下で。
――フィーネっていうの。ポカブ・フィーネ・ラグランジェ・フレアジス。本当はもっと長い名前なんだけどね。
――それに二か月もすれば、チャオブー・フィーネになりそうだがな。ラグランジェっていうのは、ラグネア侯爵家のことだったか。ラグラージとは何か関係があるか?
――マンマなら知ってる。マンマ!
――料理中だ。後でいいさ。

 食器を並べ終えて、茶はもういいか、と父に聞いた。彼はテーブルに置いた新聞を律儀に畳むと、何も言わずにティーセットを盆にのせて返した。息子は父の横顔を見た。レンズの厚い老眼鏡をぶら下げた両眉には白髪が増えて、目の下の弛みも冷えた溶岩のごとく波打っていた。彼は元々口数が多いほうではない。毎日のように新兵にかける罵詈雑言にも疲れてきたのか、家での寡黙ぶりにも年々と拍車がかかり、もはや自分から話を切り出すことはなかった。
 厨房に戻ったとき、母はネコブとトマトのブルスケッタを大皿に盛り付けて終わっていた。六つのコンロは総動員され、熱狂したように料理を躍らせていた。リグス(ディニア古語で“貞淑なる”)・ミネストローネ、リゾット・マリナーラ、白トリュフ入りのマッシュルームステーキ、そしてディシャーラ――酸味と甘味が際立つヴェスパオール・トマトを厚くスライスし、一辺十五センチのスクエア・パスタ六枚と、モッツアレラ、チェダー、ホウレンソウで挟み込み、香り高いラグネア・トマトをあら越しにして、玉ねぎとセロリ、ピンク岩塩、オリーブオイル、青クラボ、ラムの胚、すりおろした黒にんにくを丹念に煮込んだソースで惜しげもなく覆いかぶせた郷土料理――これを家族全員で最後につまんだのは、もう二十三年も前のことになる。
「それを運んでちょうだい」、弱火の寸胴鍋で煮立つミネストローネの味見をしながら、ロクセリエナは言った。地元の料理を作るときと、身内だけを前にしているときは訛りを隠さない女だった。
「うん」。クライドはティーセットをシンクの中に置いて、ポットに水を流した。 「もう作らないと思ってたよ」、深底フライパンでじわじわと歌うディシャーラを見て言った。
「仕方ないでしょう。ディシャーラはラグランジェの顔なの。他に代えは利かないし、利いたとしても、それはもうラグネアン・コースとはいえない」、ロクセリエナはそれ以上ディシャーラの話をしなかった。一方的に会話を打ち切ったあと、素朴な微笑みを作って言った。 「それより、味見してみる?マンマの料理はヴェスパオール一よ。もう知っていると思うけど」
「それもいいが、リンのことだ」。息子もまた話題を無理矢理変えてみせた。いつもならこうはいかず、二時間喋っていても疲れない親子なのだ。 「あいつの名前だが、親父には――」
「Non a problamo. (問題ないわ)。大丈夫よ」
「ヒース・ハード」、クライドは念を押して言った。
「分かってるから。心配しないで」。そう言ってロクセリエナは微笑み、小皿のミネストローネを息子にも味見させた。 「どう?」
 それは答えるまでもない味わいだった。三十路の息子に帰郷の実感を湧かせる味だった。

 * * *

 しばらくして、大皿を抱えたクライドがダイニングにやってきた。前菜と呼ぶにはあまりの量に皿を持つ太い腕が震えていた。
「大丈夫よ、あれでいつもより少し多いくらいだから」とフィーネは言った。 「ほとんどとパパとマンマが食べちゃうの」
「なら、今回は少ないくらいだな」とルカリオは言った。
 デルフォードは老眼鏡をケースに仕舞って言った。 「胃袋に自信があるのかね、ミスター・ヒース」
「ヒースはカビゴンと一緒に昼飯をハシゴしてる」。大皿は少しの音も立てることなくテーブルの中央に置かれた。 「だからあのなりなんだ」
「そしてお前はクローバーと乳清だけでここまで育ったわけだ。奇跡的にもな」
 それを聞いたデルフォードは大口を開けて笑った。クライドは鼻の周りをくしゃくしゃにすると、笑えるぜとルカリオに吐き捨てて、またもや厨房に引き返すところだった。
「そうよ、もっと食べた方がいいわ」、しかしちょうどロクセリエナが背の高さほどもあるワゴンを押してやってきた。中は料理が山積みで、ステンレス台場の銀色はほとんど見えない。 「痩せたわよ。随分と」
「歳のせいさ」とクライドはワゴンからテーブルに配膳しながら言った。 「もう三十にもなってしまった」
「レディ・チラチーノも買っておいたのよ」
「よしてくれ、ちっとも嬉しくない」

 そこでようやく母子は笑いあった。各々が席に着き、黙々とフルコースに取り掛かったのはそのあとだ。一家が話すことが許されたのは、次の料理をワゴンから出すときと、口を拭き終わったときだけだった。誰もそれを窮屈には感じなかったのは、ロクセリエナがロイヤル・パースの名士の間で年中取り合いになるほどの雇われシェフだったからだと、ルカリオは自分のレモンソルベが最後の一匙になるときに知らされたのである。

 * * *

 ディシャーラは初めてか、とデルフォードは目を細めて言った。私は十八のときまでシャン・ブレームで育ったのです。初めても初めてです、とルカリオが返した。フィーネは、あたしも家で食べるのは初めてよ、と聞かれてもいないのに答えた。

「どうりでギャングに見えたわけだ。だがそれでもきっと本当にギャングだった頃もあったんだろう」
「私がギャングなら、さしずめあなたは大統領でしょうね、ミスター・フレアジス」。そう言い終わったとき、テーブルの下からクライドの右手がぬっと伸びてきて、ルカリオの太股を爪で突いていた。
「いいんだよ、クライド」とデルフォードは言った。 「面白い男だ。最初はそう思えなかったが」
「こいつにはお世辞を言わなくていい、親父。こいつがドンや大統領にもそうしないようにな」
 クライド、お皿を取り換えて、とロクセリエナがワゴンからディシャーラを取り出しながら言った。白無垢の大皿の上に、赤と金のミルフィーユが目の前でずしりと置かれたとき、ルカリオは思わず声が出てしまった。
「十五のとき、最初に教わった料理なの。ラグネアの女は皆そう。南部独特の辛酸がお口に合うといいのだけれど」
「ご心配は無用です」、ルカリオは半分ほど残っていたリグス・ミネストローネを飲み干して置いた。 「ここまできて合わないわけがないのです」

 ナイフが断層に差し込まれた。トマト色の瀑布がするりと滑りおち、チーズのマントルに染みこんだ。肉はないが、大地と太陽の血肉が詰め込まれていた。ビロードのように柔らかいその断層は、口に入れた瞬間から究極の芳香を放った――最初は優しく、徐々に主張し、最後は強烈に。その味わいと見た目はラザニアに似て非なり、真夏の熱射のような爽快な辛さが嵐のように訪れたと思うと、それは気付かないうちに過ぎ去って、後には大地が晩秋にまで蓄えた芳醇な甘酸っぱさしか残らなくなった。これを家庭料理と呼ぶにはあまりにも贅沢極まりなく、彼女以上のシェフを親に持った子供でさえ、この母の元に生まれなかったことを後悔するほどだった。少なくともルカリオ・リン・シェイはそう考えた。

「何と言いますか、その」、ルカリオは左手のフォークを置いて、歯切れも悪く切り出した。 「この芸術に見合うだけの言葉をひり出し、四行八連体の返歌のごとく並べ立てることは、今はまだできません。ただもう一切れいただきたい。食べ終わったあとで、私はまたもう一切れと、無遠慮に言うでしょう。その繰り返しです。もちろん、そんな真似を許してくださるのならばですが」
「そんな必要はないの」。やけに抑えた声で言うと、ロクセリエナは皿をまるごと彼の方に押し出した。
「いいの、マンマ?」とフィーネが前脚をテーブルについたまま言った。 「あたしも食べたいのに」
「ほらよ、お嬢様」。ルカリオは既にディシャーラの四分の一を切り分けて、小皿に載せてフィーネの方に押し渡していた。
「なあ、みんな。料理が冷めるぞ。早く片付けよう。俺もソルベが待ち遠しい」
「そうしましょう。私はもう我慢できません。一秒たりともね」
 そう言ってルカリオは誰よりも早くフォークをつかみ取ると、顔の半分を口にして料理を吸い込み始めた。いつもの飄々とした微笑みも帯広に、苛烈過酷なクラブ活動から帰ったばかりの青少年の破顔を一同に見せつけながら。
「悪くない食いっぷりだ」とデルフォードは言った。 「あいつを思い出すな」
 その噛み殺したような言葉を聞いて、ルカリオは今にも誰かが泣きだしそうな気配を感じて顔を上げた。隣にいたクライドは、非難するような顔を隠そうともせず父に差し向けていた。フィーネはまだディシャーラにがっつくのをやめていなかった。

 泣いていたのはロクセリエナだった。

 ごめんなさい。ちょっと、席を。彼女は慌ててナプキンを目元に押し当て、鼻をすすりながら厨房に引っ込んでいった。
「マンマ、どうしたの?あいつって誰、パパ?」、フィーネはルカリオ以上に困惑して、顰めた目元を白黒させていた。
「じいさんだよ」。クライドが呟いた。 「サザンドラのじいさんさ。お前が生まれるずっと前、ここに住んでいた」。震える息をようやく吐きだして言った。 「じいさんもディシャーラが大好きだったのさ。毎日毎日、飽きもせず、一匹で平らげて――ある晩、もう帰らなくなった」。わずかだが、クライドの目にも母と同じ色の光が溜まっていた。 「お前、そっくりだよ、ヒース。がっつく仕草までな」

 フレアジス家にとって、ディシャーラは思い出の味だった。過ぎ去って、もう帰ることのない思い出の。

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