第56話 慟哭は氷雨に隠れる

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

※今回、ショックの強い描写が含まれています。 苦手な方はご注意を。





 「何笑ってるの? 何嬉しそうな顔してるの?」
 
 ユイの言葉は、刃と共に私の方を向いていた。 ナイフががたがたと震えていたけれど、向く方向は変わっていなかった。
 その行動がとにかく不思議だった。 目に映る刃物の恐れよりも、そっちが強かった。 私は1歩踏み出すけれど。
 
 「来ないで!」
 
 はっきりとした拒絶は、強くそれを制止する。 私は足を止めた。 何も分からないままに。
 ユイは周りをちらりと見た。 それに釣られて私の目も動く。 ......まともに動けない奴らの苦しむ様に、自業自得と言いたくて仕方ない。
 彼女はそして続けた。
 
 「ふざけないでよ。 確かに助けてはもらったよ、あれなきゃ私は死んでたよ。
 ......でも、どうして他の犠牲を払わせたの?」
 
 他の犠牲? なんのことだろう。 私は何も犠牲になんかしてない。 足は切ったけれど、殺してはいないんだ。 致命傷は避けたはずなんだ。
 
 「どうしてこれをやらせたわけ?
 誰も死んでない。 生きてるよ。 でも......例え悪党とはいえ、切りつけさせたんだよ?」
 
 ユイの激情が昂っていくのが、ありありと分かる。 遂に彼女はナイフを投げ捨てて、急に私の肩が掴まれた。......手の力は強くて、とても痛かった。
 
 「ふざけないで......ノバラの隙を突いたんでしょ? そうだよね、あんな苦しげになってたら、それはチャンスだよね?」
 
 至近距離で、恨みに近い言葉をぶちまけてくる。 そして私はやっとのことで、彼女の言葉の違和感の理由を考えだした。
 
 「どうしてノバラなの......どうして、お前はっ、お前は!!」
 
揺さぶられる。 それと同時に、どこまでも違和感だけが募っていく。 どうしても、言葉の意味内容が意味深に、不思議に思えてしまう。
 でも、ある瞬間やっとわかった。 やっと、全て理解した。
 
 「ノバラの優しさに付け込んで、彼女を利用するな!」
 
 そうだ、違う。 これは私に向けた言葉ではない。
 
 「......もういいでしょ、散々やったんだから! 出てってよ、ノバラから出ていけっ!!!」
 
 魔狼に向けての、言葉、だ。
 
 私ははっとした。 それと同時に、何故か目の辺りが熱くなった。
 
 
 
 
 
 
 やっと、目の前の霧が晴れた。 自分の今までの行動を、理解できた。 でも不思議とすぐには恐怖は来なかった。 無意識のままにユイに手を伸ばした。 謝りたかったのか、それとも戻ってきたと報告したかったのか。 それは分からなかった。
 ......そして、「もう1つの致命的なこと」にも、気づけなかった。
 
 
 ──突如、爆裂音が響く。 1つ、いや2つ。

 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 「え?」
 
 甲高い音。 耳に入らないわけがなかった。でも、届いた時にはもう遅かった。
 耳で反響し続ける響き、永遠に続くのではないかとも思うぐらいの五月蠅さの中で私が見たものは。 見てしまったものは。
 
 倒れゆくユイと、そこから散る赤い何かだった。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ドサリと倒れる音がした。 下を向く私の目線の先には、ぶるぶると震えるユイがいた。 お腹の辺りを抑えて、呻いている。
 それを見て、私の先程までの高揚感は一気に消え失せた。 目の前の状況を理解すると同時に、私の顔は段々強張っていく。 息が、まともに出来なくなっていく。
 咄嗟に銃声のした方へと振り向く。 そこには1人の男が銃を構えて立っていた。 そして奴は銃を今度はこちらへと構える。
 
 「ば......化け物が......」
 
 それは、返り血で濡れた私に向けての言葉だった。
 唯一、この現場から離れていたんだろうか。 この惨状......仲間が倒れている光景を見た恐怖が、奴を突き動かしたんだろうか。 ......そんな事を考える余裕は無かった。 震える声で放たれたその言葉に対して、怒りも感じる気持ちすらも失せていた。 でも、身体が勝手に動いた。 殺されたくないという本能が、再び私に刃物を握らせる。
 
 「うがあっっ!!」
 
 それはもう一瞬の動作。 怯えと痛みに苦悶する声に対して、今度は気分なんて高まらなかった。 そんな暇もなく、私はユイを背負って逃げ去った。 もう誰も追ってこなかった。 まだ息はある。 きっと助かる......その拙い希望を信じてやまなかった。
 




 
 




 「はあーっ、はあーっ」

 人目を避けるためか、拠点は山の奥にあったらしい。 私は山の中を突っ切った。 早く早くと気持ちを強張らせていた私には、急斜面も屁ではなかった。
 走る中で、先程は来なかった恐怖がやってくる。 自分の息と地面の葉を踏む音だけが支配する世界は、妙に騒がしかった。 全てが私を責めているようにも思えた。
 なんてことをしたんだ、私は。
呑まれてた、完全に呑まれてた。 命なんてものどうでもよかった。 悪党とはいえ、人間を何人も切りつけた。 ユイに対しても何の感情も抱けなかった。 言葉ばかり綺麗に並べて。
 私は、私は......!
 
 「うあっ!?」
 
 そう気を取られていると、何かにつっかかって私は転んでしまった。 その勢いで、ユイを投げ出してしまう。
 
 「つっ......」
 
 異様な痛みに後ろを振り向くと、足は地面を這う茨に引っかかっていた。 その時に、やっと自分にかかった返り血にも意識は向く。 ぞっとするくらいの恐ろしさを一瞬抱いたけれど、それもすぐに吹き飛んだ。 ユイが少し、呻いたから。
 
 「ユイ!」
 
 手が切れるのも気にせず、私はすぐさま足から茨を外してユイのところに駆け寄った。 彼女は息もおぼついていないようだった。
 でも、それでも言葉を紡ごうとする。
 
 「......バ......ラ......」
 「......ごめんユイ、大丈夫だよ、お願い頑張って。 こんな山すぐに降りて......」
 「よかった......」
 「ええ?」
 
 ユイは笑いながら涙を流していた。 本気でこちらを心配していた声だった。 彼女は弱々しく、私の頬に触れてきた。 そして、真っ直ぐ私の目を見て、こう言った。 ふにゃりと、笑って。
 
 「ちゃんと、ノバラの目だ......いつもの......お日様みたいな......」
 「......!」
 
 私の目はまた潤んだ。 そうだ、ずっと心配してくれていたんだ。 ......こんな時ですら私の事ばかり。
 私は喋らないでと言わんばかりに首を振って、ユイをもう一度背負おうとする。 でも、彼女はそれを止めた。 か細い声で、「もういいよ」とだけ言う。
 
 「ユイ」
 「......ごめんなさい......本当に......頑張ったんだけど、私、無理だ......」
 「嫌だ! 一緒に帰るのに拘ったのはユイだよ!」
 「自分の死に際くらい、自分でわかるよ......」
 
 その言葉が、私の震えを加速させる。
 
 「......お願い。 ノバラはちゃんと帰ってね。 ちゃんと、生きてね。 みんなみんな、あなたを待って」
 「ユイだって同じだよ!!」
 
 私は引き止めた。 ユイは、手の届かないところに行こうとしている。 そんなの嫌だった。 先に約束を破ろうとしたのは私だし、我儘なのは分かってた。 でも嫌でたまらなかった。
 でも、彼女はその歩みを止めない。
 
 「ノバラなら......大丈夫......天国行っても......私は、あなたの......」
 「やめて......お願いやめて!」
 
 口を、3回ぐらい、動かして。 そこから、息を少し吐いて。
 
 「......やめてよ」
 
 そこからは、人形のように脱力して。 頬に当てていた手も、滑り落ちて。
 
 「起きてよ、ねぇ」
 
 でも彼女は起きなくて。
 何度声をかけても......起きなくて。
 
 「......嘘だ、冗談言わないで!」
 
 そんな言葉も届かなかった。 冗談な、わけがなかった。
 
 手に触れてみても、何の鼓動も感じない。 何の動きもない。 その事実が、更に私の心を打ちのめす。
 ......魔狼の力は、凶悪だった。 でも、ユイは助けられたと思ってた。 これだけは、幸運だったと思ってた。 でもそれは、一時の夢だった。
 
 
 ......私が「私」を取り戻すのと引き換えに。
 ユイは、そのまま逝ってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「なんで......?」
 
 私は項垂れてしまう。 必死にこうなった理由を反芻する。 ......いや、分かっているんだ。 あいつの言う通りだ。 本当のことを言ってしまえば、ユイは邪魔者になるだけなんだ。 生かす理由もなくなるんだ。 馬鹿みたいだ。 奴らの良心なんかに望みを託すなんて。 私の思考力の無さが危機を生んだ。
 ......それに。
 
 「......ユイが、引き止めてくれたから......」
 
 彼女は私が完全に壊れる前に引き戻してくれた。 その間に逃げられた筈だ。 あの男があそこに来る前に。 あんな銃声、響かなくてもよかったんだ。 呑まれたせいだ。 私が弱かったからだ。
 
 それに。もし、私がいなければ? あの日、祠を開けたあの日。 ユイは別の子と帰っていただろう。 私は意思が弱いから彼女に引っ張られてしまったけれど、意思の強い子ならば一瞬でだめだと強い口調で言えただろう。 魔狼が出てくることもなかった。
 
 「......っ」
 
 そうやって、思考はどんどん広がっていく。 感情の水がコップから溢れ出して、歯止めがきかなくなっていく。
 そしてその思考の焦点は、全て1点に集まった。
 
 
 
 私が、私がいなければ。
 私がいなければ。
 私がいなければ。
 私がいなければ。
 
 この悲劇も。
 兄さんがいなくなることも。
 魔狼の封印が解かれることも。
 何も起こることはなかったのに。

 そうだ、全部全部、私のせいだ。
 
 沢山の人を悲しい事に巻き込んだ挙句。
 
 ......最終的には、彼女を、ユイを殺したんだ。
 
 
 
 
 ──私は、叫んだ。 どうしようもないままに。 叫ぶ事しか、出来なかった。
 
 
 「あああああああああぁぁああっっ!!!!」
 
 
 
 
 
 
 
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 
 助けられる力はあったのに。
 
 何も、何も出来なかった。

 ねぇ。 どうしてこんなことに?

 私は何のために生きてるの?
 
 私の命は、なんのためにあったの?

 
 ......大切な人の未来を、食いちぎるためにあったの?


 
 
 
 

 
 
 
 
 

 そこからは、驚くべき程とんとん拍子にことは進んだ。
 丁度その山で山菜採りをしていたお爺さんが私の叫びに気付いて来てくれたのだ。 血塗れの2人組に対して彼は目を丸くしたけれど、これはまずいと彼はすぐさま警察を呼んでくれた。
 
 
 行方不明の少女2人だとわかった警察は物凄く慌てていた。 そして慌てたテンションを保ちながら、こちらに犯人の居所について聞いてきた。 でも、私は何も言えなかった。 自己否定の言葉ばかりがぐるぐる回っていて、答える気力も無かった。
 そんなことも知らない彼らは、私に懇願してくる。 まるで神様にでも頼るみたいに。
 
 「......ノバラさん、答えて......君だけが頼りなんだ。 ねぇ、犯人は?」

 ......それに相手は、私「しか」いないという現状を真正面から思い知らせてくる。 やめてとも言うことが出来ないまま、警察側の問いは続こうとしていた。
 
 「......頼むよ、お願いだから......」
 
 でも。 そこに、お爺さんが助け舟を出してくれた。 ぶっきらぼうに、警察の方を向いて。

 「......この子は山のところにいた。 上から降りてこようとしたんだ。 なぁ、そこから探してみてはどうだ?」

 全員が彼の方を向く。 「お前には聞いてない」という空気すらも漂っていたけれど、彼は動じずこう言い放った。

 「儂は情報に疎いからな。 事件も何も知らなかったが......。
 でも、考えてみてくれんか。 警察ともあろう方々なら想像出来るだろう。 友を亡くした直後の質問責めが、どれだけ惨いものか......」
 
 圧も感じるその言葉に、全員が黙りこくった。 お爺さんが、憐れむように私の方を見る。 でも、それでも私は、俯いたままだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 お爺さんの証言を元に警察はすぐさま山へと駆け出し、屋敷にいた誘拐犯全員を逮捕した。
 彼らが逃げられない理由だった足や腕の大きな怪我について、警察が真の理由に行き着くことはなかった。 そもそも魔狼とかなんとか言ったところで正気とは思われないだろう。
 
 そしてお母さんとも再会した。 物凄く強い力で抱きしめられた。 何度も何度も謝られた。 娘を失ったユイの両親すらも、泣きながらあなただけでも生きていてよかったと言ってくれた。
 
 ユイの葬儀も、滞りなく終わった。 彼女は友達も多い人間だったから、多くの人が涙を流していた。
 
 でも、私だけが泣いていなかった。
 私は、お母さんに抱き返さなかった。
 あの日以来狂ってしまった私の心には、誰の声も響いてこなくなってしまった。
 ただ生きている価値などないという言葉が、ただ空虚に自分の頭に響いてくる。 ......そんな日々だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 それは酷い雨の日だった。

 3月の終わり頃。 季節が春へと加速する頃。 事件のほとぼりが冷めようとしていた頃。

 私は家にいた。 スクールに行く気力が湧かず、どうしても登校自体が出来なかった。 お母さんも仕事を休み休みこちらの側にいてくれるけれど、やはり1月に1回は流石に行かないといけなかった。 その日は丁度近所の人たちもそれぞれ予定があったから、私1人に構うなんて難しかった。 まずこの雨では、誰もここまで来たがらない。

 そう、正常な人間は外には出たがらない。
 でも、私は? 正常からかけ離れてしまった、私は?
 
 「......」
 
 そう、部屋を出て、傘も持たずに......外に出た。

 雨に打たれれば、消えるための口実が掴めるんじゃないかと思った。
 





 


 予想通り人通りは無かった。
 何もかもがどうでもよかった。 このまま雨に溶けて消えて行きたかった。
 何度か、橋から飛び降りるのはどうかとも思った。 でも、どうしても何かが恐怖心として自分を縛り付けてくるのがまた嫌で堪らなかった。
 生きてほしいというユイの言葉も、死にたくないと願ってしまう本能も、すんでのところで私を止めてくる。 そして、それを私は振り切れない。
 ああ、しぶとい。 なんで意地汚く生きようとするんだ。
 ずっとずっと、助けられてばかりで。
 ......災厄にしかなり得ない、世界の屑の癖に。
 
 
 
 
 
 「あんた、大丈夫かい?」
 
 歩いていると、急に声をかけられた。 振り向くと、そこには1人のおばさんがいた。
 
 「傘も持たずに、荷物も持たずに、何のつもりだい? ......風邪引くよ」
 
 おばさんの優しさすらも、今の私には傷口に塩を塗るかのようだった。
 答えない私に対して、彼女は強硬手段を取る。
 
 「......ちょっとうちに来なさい、まずは身体を」
 
 腕に、そっと触れられた時だった。
 
 「!」
 
 ぞっとした。 あの日の事が、脳裏に蘇ってきた。 羽交い締めにされて動けなかったこと。 ユイに肩を揺すぶられたこと。 そして、頬に触れてきた温もり。 人肌の感触を覚えると、瞬く間にそれを裂いてしまいそうな気がして、駄目だった。 どうしても、駄目だった。
 
 「......!」
 「あっ、待ちなさい! 風邪引くわよ!」
 
 手を振り払って、走り出した。 胸の辺りが死ぬほど痛かった。 頭の中がぐらぐらした。 それでも私は走り続けた。 傷つけるかもしれない対象がいなくなるまで。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「......っ」
 
 どれくらい走っただろうか。 私は限界を感じて、電柱にもたれてしゃがんだ。 ......あのおばさんは、完全に善意でこちらを助けようとしていた。 私はもう、それすらも受け取れなくなっていたんだ。 悪いことをしてしまった。 乱暴に手を振り払うなんて。
 
 「......嫌だ、もう嫌だ......」
 
 私は地面に倒れ込んだ。 吹雪の中で寝ると死ぬと言うけれど、果たして冷たい雨の中ならどうなるだろうか。 もし同じようになるならば、このまま意識を手放してしまえばいい。
 ねぇ、もう疲れたよ。
 もういいでしょう、ユイ。
 いっそのこと、いっそのこともう楽になりた......


 
 「ノバラ」








 
 
 
 
 


 鼓膜が、その音を漏らさずに捕まえた。 そしてその声に、私の狂っていた感情がやっとまともな動きをした。 その動きは驚きだった。 聞き覚えのある声がそこにあった。 雨に溶けこむ、優しい声。 探してやまなかった声。 見上げると......

 「......に、いさん」
 
 ヒサメ兄さんが......思い出の中の大切な人が、私の前に立っていた。 ヒオさんと死ぬほど探しても見つからなかったのに。
 彼は雨の中で倒れ込むこちらが不思議で仕方ないようで、きょとんと顔を傾げる。
 
 「ノバラ......どうしました?」
 
 優しい問いかけ。 でも、その言葉に答える気力もなかった。 答えようと口を開くこと自体が、どうしようもなく怖い。
 
 「ユイは? 今日は1人ですか?」
 
 私は何も答えない。
 
 「というか、何故倒れているんですか? 傘もなく......まあ私もですけどね。 まず今お金を持っていなくて」
 
 彼は戯けてみせるけど、私は何も答えない。
 
 「......ノバラ? まさか、魔狼の件で何かありましたか」
 
 やっと私の身体が震えた。 少し、彼の方を見上げてみる。 彼は変わっていなかった。 少し背も伸びて大人びていたけど、何も変わらなかった。 3人で、一緒に笑い合った時と。
 
 「......にいさん」
 
 心は既に捻じ切れていた。 このまま倒れるべきだった。 何も言わずに死んでしまえばよかった。 でも、どうしてもそれが出来なかった。
 彼の目は昔よりどこか暗かった。 重苦しくて、今にもこちらが凍りそうだった。そして何故だろう、彼は私を罰してくれそうな気がした。 彼なら、地獄に連れていってくれる、深い深い深海まで沈ませてくれる。
 だから。 すがってもいい気がした。 彼ならば。 あまりに自分勝手だけれど、最終的に私を破滅まで導いて欲しかった。
 
 俯きながら、嗚咽を漏らしながら、手を握りしめながら。 私は彼に言った。 もう、すがれるのは、こんな事を言っていいのは、彼だけだった。
 

 「たすけ、て......」
 
 

 
 
 
 
 
 

 彼は口をきゅっと結び、そしてこちらにしゃがみ込んだ。 そして、手を差し出してきた。 あの、氷のように冷たくも、優しかった手を。

 「......よかったら、話してくれますか。 私も丁度そのことで、貴方に話があります」

 その言葉は、温かくも冷たくて。 氷のような、冷たい意志が滲んでいた。 そして私は多分、その凍えを求めていた。 私はその大きな手に自分の手の平を乗せる。 雨に濡れたその手は、予想通り人肌とは程遠い冷たさだった。
 
 そしてその時、何かが切れた。 自らの足で前に進む力が、ぷつりと切れた。 すがるものが出来てしまったから、もう彼の意のままに動けば良かった。 兄さんの手が、私の希望で、唯一の道標。 ......私の破滅という、希望の。 だから私は、そこに口を出す気も、彼の提案に反抗する気力も最早持っていなかった。 もう、どうだっていい。 どうでもいい。 後悔しても、戻らない。 戻れない。
 形容するなら、マリオネット。 小さくか弱い、思い通りに動く操り人形。

 




 
 
 
 
 そこからのことは、はっきりとは断片的にしか思い出せない。
 
 私は彼に促されるままに、彼がいない間に起きたことを全て話した。 誘拐事件のことも、包み隠さず。 ユイがどうなったかもすらりと口から出てきた。 彼も巧みなもので、こちらからありとあらゆる情報を引き出した。 そして、聴きながら時に苦い顔をしていた。
 
 「......なんと酷い」
 
 同情のようにも聞こえるその言葉。 彼の声は本気で悲しんでいた。 泣きはしないけれど。 ......雨の中であったから、泣いてても分からないか。
 
 こちらの話が終わると、今度は彼の番だった。 流石にずっとその場に留まるわけにもいかないので、歩きながら。 彼は私の手を優しく取った。 私は俯いて、自分の足が交互に踏み出していくのをぼうっと見ていた。 ......そうやってふらふらとでも進む自分の足を見て、私の自分への失望はやはり増すばかり。 感情は、ずっとそこだけはまともに動き続けていた。 自己否定の感情だけは。
 
 そして彼は、私に色々な事を話してきた。
 
 魔狼の出所はポケモン達が知恵を持つ世界であり、彼はずっとそこで情報を集めようとしていたこと。 ずっと行方不明だったのはそのためだったということ。
 
 だけど私が今どんな状況か分からなかったから、意を決してこの世界に一度戻ってきたこと。

 そして、魔狼について私の知らなかった最大の事実。
 
 「この力は、自然に生まれたものではない。 誰かの手によって仕組まれたものです。
 そのためか、1つ大きな性質がある。
 ......それは、その力をもって世界に重大な変化や結末をもたらせば消えるというもの」
 
 彼の語気が強さを増した。 そして、少し溜めてからこう続ける。
 
 「つまり......あの世界を、ポケモン達の世界を壊せば、魔狼は消える。 ということです。
 ......ごめんなさい、貴方を完全に巻き込まないといけない。 でも、大丈夫。
 あそこさえ壊してしまえば、貴方はこれ以上苦しむことはないんだから」
 
 彼は、世界を壊すとはっきり言ってのける。 それはちょうど、こちらが風邪を引いた時のあの状況と似ていた。
 でも、私は怯えることもなかった。 言葉は風みたいにするりと私を通り抜けて、何のしこりも残さなかった。 ただ、ああ、これが私の地獄なんだと理解するだけで。







 歩いた先は、人目のつかない森の中だった。 ぼうっとする私の横で、兄さんはテキパキと準備をしていた。

 「......開いてくれよ」

 そう言って地面の物から手を離すと、地面に渦が現れる。 こちらを吸い込もうとする青い渦。
 原理は私には分からなかった。 でも、彼はすぐに考える間もなく私の手を取ってくれた。
 
 「この先です。 これを抜ければ、ポケモン世界に行ける。
 ......行きましょう」
 
 そう促されるがままに、突き進んだ。 渦の中に足を踏み入れると、ふわりと浮く感覚が襲ってきて、そしてそのままがくりと落ちていく。
 世界と世界の通り道。 次元を通ってどこまでも。 兄さんは私の手を固く握っていたから、このまま行けば別に安心だった。

 ......このまま行ってしまえば、よかったんだけれど。
 
 
 
 
 
 
 「......!」
 
 落ちていく途中の、突然のことだった。 私の中の何かが荒れる。 魔狼? いや、違う。 もっと別のもの。 多分、違和感だ。 世界を壊すだとかいう物騒な言葉が、こうやって現実味を帯びてきて、はじめて私の胸を打った。
 ──目の前の彼は、何をしようとしている? そう、問いかけてくるようだった。 耳だけじゃなくて、私の五感に。

 その時、駄目な気がした。 このままでは、もう戻れなくなる気がした。 死にたいとは思った。 それは変わらない。 ......でも、でも。
 何かが違う。 世界を壊すことが私の地獄。 受け入れるべきなのだ。 でもどこか、自分の願いとは矛盾していた。 そこにも命があるのに。 ユイのような優しい子もいるはずなのに。
 私はまたそれを食いちぎるのか?
 私が望む地獄は、自分で誰かを壊すことなのか? 私だけが苦痛の中で消える未来じゃなくて?
 ......私は、自分が一番後悔した行為を、また誰かにしてしまうというのか? 
 
 それが、私の麻痺していた感覚を呼び戻した。一気に、手の辺りにぞっとする冷気を感じた。
 
 そして、操り人形の糸は切れた。 彼の手への恐怖感のままに、私はその手を振り払った。
 魔狼の力も使ってないのに、強く握られた手を振り払えた理由。 それは分からない。 ......でも、背後から誰かが私を兄さんから引き剥がした。 そんな、感触を覚えた。
 そして、急に体があらぬ方向へ引っ張られる。

 「ノバラ!?」
 
 兄さんの驚いた顔を最後に、私は次元の奔流に呑まれた。
 右へ左へ上へ下へ。 あちこちの方向へ飛ばされて、苦痛が私を襲った。 ただこのまま私の望みが叶う訳ではないようで、生きることを許される代わりにその衝撃は私から色々なものを奪っていった。
 

 記憶も。
 自分の名前も。
 この希死念慮も。 
 そして、ポケモン世界の加護なのか。
 私はチコリータになって。
 魔狼は......暫しの眠りについて。
 ......そうやって私は、キラリの家のすぐ前で、すやすやと眠っていたんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これが全てだ。 私の全てだ。
 ──どこまでもみっともない、惨めな人間の全てだ。

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