Box.30 Kindness―親切―

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読了時間目安:16分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 10枚。
 20枚。
 30枚。
 40枚。
 ――天を目指す黒の塔。

「ダウト」

 ゴチミルの両眼が怪しく光った。何も起こらない。宣言だけは朗々と、積まれるチップは高々と。レイズ、と宣言する。金額が上がっていく。遠巻きにではあるが観衆が増えていく。見覚えのある尻尾が、気がつけばテーブル近くをうろついていた。それさえどうでも良いと感じるほどに、薄く、透けるほどに薄く、精神が摩耗していき、茫漠とした緊張と掻き毟りたくなる焦燥に苛まれていた。
(どうして、辛いんだろう)
 老婦人のダウトは一度も成功していない。サイコショックはお遊びのようにゆっくりと放たれたし(それこそ、最初の攻撃がもっとも早かったくらいだ)、リーシャンも〝念力〟や〝まもる〟を駆使して紙一重で避けていた。それでもいつ来るか分からない攻撃に集中が乱れてきているようで、少し前のサイコショックが耳を裂いた。
 ゴチミルの主力は、〝サイコショック〟――最初に積んだ黒のチップの時の技は、十中八九〝悪巧み〟だ。ターンを重ねるごとに取り囲む光球は数を増し、光は強くなり、目を灼きかねないほどに輝く。
 得体の知れない不安が募った。ゆるゆると、首に縄がかかっていく。
(だいじょうぶだから) 
 たかが遊びの騙し合いに、焦燥が喉元までせり上がる。いつか追求されるのではないかと相手の一挙一動を恐れる。ダウトダウトと繰り返す言葉は真実その通りで、一枚一枚、一回一回の攻撃をやり過ごすたびに、何かを支払っている気がした。嘘のカードが積み上がるたび、首の縄が引き締められていく。
(相手も嘘をついているはずなんだ)
 こちらの手札が苦しいならば、相手だって苦しいに決まっている。露ほどもそうとは感じさせず、老婦人は少女のように無邪気なまま、黒のチップを積み上げていく。
(言えばいいじゃないか。ダウトと叫べばいい。これはそういうゲームだ)
 相手が何を考えているのか分からない。問いかけるような目で見つめれば、「届くと良いわね」とにっこり返される。好意、と言っていいのか? (なら、なんでこんなに不安なんだろう)試されているのか? (オレ自身を? だって、これはただのお遊びの筈で)

「リクちゃん、次は12よ」

 無言で手札を見て、場に出した。老婦人が次のカードを2枚出す。
 
「13。これで後3枚ね。もしかして私の勝ちかしら」

 目を見開いた。

「――え?」
 
 鈍器で殴られたような顔のリクに、ころころと老婦人が笑う。

「残念ね、リクちゃん」積み上がった黒のチップの向こうから告げる。「もしかしたら、ツキネちゃんへの挑戦権に手が届いたかもしれないのに」
 その言葉は、とん、とリクを奈落へと押した。あぁ、そうか。(これは、バトルなんだから。当たり前だ)
 自分たちはポケモントレーナーだ。そこに手加減はあっても、勝敗への八百長は存在しない。当たり前のスポーツマンシップ。なのに、どうしてだろう。どこかで踏み違えたような、嵌められたような奇妙な絶望感が足下から這い上がってくる。
 なぜだか無性に、老婦人を指してダウトと叫びたくなった。
 リクの手札はあと8枚。彼我の手札の消費ペースは明らかに違う。
(嘘つき)
 この終盤で、13のカードが本当に2枚も手札にあったのだろうか。疑問が頭をもたげる。常識的に考えて、ありえないのではないだろうか? ――そうだ。(嘘つき)
 手札はあと8枚。老婦人の手札はあと3枚。
 間に合わない。
(ダウト宣言をすれば)カードは手札に戻る。そうして、リクの順番だ。
 喉元で、焦燥が口を開き、悲鳴のようにわめき立てる。
(ダウトを)
 積まれた黒の塔。
(知らないままなんて、また届かないなんて、嫌だ)
 オニキスに、タマザラシに会いたい。ヒナタに会いに行くんだ。
 あと少し、勇気があれば、あの街を旅立っていれば、もしかしたら、もっと多くのことを知れたのかもしれない。(あと少し、勇気があれば――)
 耳元で心臓が鼓動した。突き飛ばして、お前には関係がないのだと、冷ややかな光を湛えた瞳が告げる。(「もう会うこともないでしょうが」)
 唇が戦慄いた。
 「シャン太」ぼそぼそと囁くと、リーシャンが応え、顔を持ち上げた。
(あと少し、あと少し、手を伸ばせば――)
 テーブルに手札を叩きつけ、恐怖を振り払うようにリクが吠えた。

「ダウト!」
「リー!」

 リーシャンが突進する。瞬間、数十個の光球が出現した。ダウトと叫ぶ前から反撃は予測されていた。「〝転がれ〟!」サイコショックの僅かな待機時間を縫って、その下をリーシャンの丸い体が転がり抜ける。テーブル上で光が弾けた。渾身の力を込めて、リーシャンはテーブルを跳ね上がった。「リー!」ゴチミルが僅かに目を見開く。「あら!」老婦人も驚いた様子だった。距離をとった観衆からも驚きの声が漏れる。目の前に躍り出たリーシャンが、ゴチミルの鼻先に両耳をぶつけた。ゴチミルがひるんでたじろぐ。「よし!」成功した喜びから、リクがガッツポーズをした。リーシャンも少し目を回しながら、「リリリ!」と呼応した。賭けだった。成功するかどうか、その賭けに勝った!

「まぁ、まあまあまあ」

 攻撃を食らったというのに、老婦人は満面の笑みだった。「凄いわ」としきりに繰り返し、まるで初めてバトルをした子供のようにはしゃいでいる。

「やっぱり若い子は、頭が柔らかいわね、凄いわ! 私、とってもびっくりしたし、とってもわくわくしたわ! リクちゃんもリーシャンも、とっても凄い」

 先ほどまでダウトを繰り返し、鬼のように黒のチップを積んでいた人物とは思えない。(オレが、勘ぐりすぎたのかな)この人は、無邪気で、ただちょっと天然なだけだったのだろう。一度自分の意思でダウトと宣言してしまえば、驚くほど気持ちが楽になった。(そうだ。勝てば良いんだから。それに負けたって、オレはこの人みたいにチップをたくさん賭けている訳じゃない)

「じゃあ、カードを表に向けるわ」しわがれた手がカードを表に向けた。たぶん、嘘のカードだろう。そう思って息を吐いた。

 表になったカードは、2枚とも〝13〟だった。

 リクの目が丸くなり、老婦人が穏やかに微笑んだ。

「うふふ。ちゃあんと、13を出しておいて良かったわ」

 リーシャンがふらつきながら飛んでくる。(もう一度。さっきみたいに、やれば、なんとか)無理はさせたくない。でも、それしかない。もう一度出来るだろうか、分からない。ぐるぐると13が躍る。(諦めるな。絶望するな)意識の底に沈めていた言葉が反響する。(「だから私は、レイズをしなくちゃいけない」)リーシャンに手を伸ばした。
 突然、不可視の力がリーシャンを弾き飛ばした。手が空を切った。予測だにしない攻撃に、バン! とリーシャンが床に叩きつけられる。「うわっ!」「なんだなんだ」ざわめく観衆の足下にリーシャンが転がっていく。リクが瞠目し、席を立ち上がった。

「シャン太!? え!? な、なんで……ッ!?」

 慌てて床に身を寄せ、足の林を掻き分け、リクはリーシャンを抱きあげた。

「シャン太!」
「……リ、リ?」

 リーシャンがふるふると首を振った。(今のは、今のは……落ち着け、落ち着いて考えろ、考えろ。オレが考えないといけない事だ)ゴチミルの技で確認したのはサイコショック、悪巧み、さっき目が怪しく光った事。事前動作はなかった。〝時間差〟の攻撃。情報の欠片をつなぎ合わせる。床の上に膝をついて、睨むように老婦人を見据えた

「……〝未来予知〟」

 老婦人がパチパチと拍手した。油断も侮りも、とうに消え去っていた。直撃を喰らったリーシャンを抱いて、無言で席に着く。(どうする)もっと早く、気がついていれば。(どうすれば)未来予知は避けられたかもしれない。(このまま続けたら、瀕死は免れえない)腰元を探った。ボールはない。タマザラシも、オニキスも、今はいない。
 ――寄せては返す波のように、焦燥が心を抉り取る。

「クソッ!」

 テーブルに拳を叩きつけた。突き刺すような痛みが拳から頭頂へと突き抜ける。包帯が緩んだ。じわじわと血が滲んでくる。もっと、もっと早く気がついてれば。自分への怒りで吐きそうになる。観衆の中から小さな人物がかき分け近づいてきた。

「通してください……ちょっと通して……リク!」
「フィフィッ!」
「……ソラ?」

 顔を見られなかった。ソラは視線の合わないリクに、老婦人を見た。ぎょっとする。「なんでよりにもよって……」積み上がった黒のチップ。それを見て舌打ちし、リクの椅子を掴んだ。

「代われ。俺がやる」
「な……」

 聞き捨てならない。バッとソラを振り返った。「そんなこと出来るわけないだろ!」即座に言葉が返ってくる。「相手が悪すぎる。お前じゃ勝てない」そんなこと、分かってる。嫌というほど痛感している。でもそれ以上に、リーシャンを助ける為に恥を忍んで頼るにしても、訊いておかねばならないことがあった。

「だったらお前は勝てるのかよ」

 ソラはすぐには返事をしなかった。リクを見て、考え込むように目を伏せ、黒のチップを見て、そうして最後に、老婦人を見た。残りの手札は3枚。リクの手札に視線を向ける。8枚。キルリアが沈んだ表情で俯いた。苦いものを飲み込んだような顔をして、「分からない」ときっぱり告げる。

「けど、お前に続けさせる訳にもいかない。いいから代われ」

 リーシャンも、ソラも、どちらも天秤にはかけられない。「嫌だ」かぶりを振った。「リク」ソラが強めに名前を呼んだが返事をしない。ソラはため息をついて老婦人の方を向いた。

「失礼ですが、交代をお許しいただけませんか」
「そうねぇ……悪いけど、私はリクちゃんと遊びたいのよ」
「そう仰らず、お願いします」

 そう言って、ソラはテーブルに黒のチップを一枚積んだ。更に自身のバッジケースを開いてみせる。半分以上埋まっているバッジに、「凄いわねぇ。優秀なトレーナーさんなのね」と老婦人が目を輝かせた。張りつけたような笑顔を返した。

「俺の方がずっと楽しいゲームのお相手が出来ます。前ジムリーダーが子供の頃からこのカジノにいると聞きました。こんな奴の相手はさぞや退屈でしょう。どうですか」
「おい!」

 リクが険しい顔で怒鳴った。ソラは一瞥もくれず、老婦人を穏やかに見つめている。

「そんなにお友達が大切?」
「……さぁ。どうなんでしょうね」

 じっと、取り憑かれたかのように、暗がりの細部を眺めるように、老婦人は目を細めた。

「ダウトはねぇ……失敗したら、失敗した子がレイズするのよ」

 可愛らしいポケモン達の、みとのまぐわいを草影から観察する少女のような表情で、こてりと首を傾げる。
 テーブルに夜が降った。
 10枚、20枚、30枚――少年達が見上げると、〝D〟の文字のアンノーンが数え切れないほどの黒のチップを落としていた。「不足分の掛け金の、貸し出しです」部下が無表情に言った。

「リクちゃん、チップをレイズ出来るほど持っていないでしょう」

 その場合、どうするのだろうとはリクもずっと考えていた。しわがれた手のひらが差し出される。
 
「リクちゃんの賭ける額を、私が肩代わりするのはどう? そうしたら最後まで遊べるわ」
「……それって、オレは何も損しないんじゃあ」

 老婦人は目を丸くすると、声を立てて笑った。「そうね、何も損はしないわ。安心して」逆に、ソラはますます苦々しげに顔を歪めた。

「リク。お前、全然、何も、分かってない。やっぱり代われ。無理だ」
「なんで。だって損しないって」
「借金を肩代わりするってのは、お前自身を賭けるって事だ。チップや服、持ち物を賭けるのとは訳が違うんだぞ!」

 苛立ったソラに胸ぐらを掴まれた。つまりそれは、自分がエイパムにポケモンを賭けろと言われたのと同じ事だと、ゆるゆると理解し始める。翠の双眸が突き刺さる。だから代われと、懇願する。
 ソラの腕を掴んだ。

「……離せ」
「まだ分からないのか?」
「そういう訳じゃない。分かるよ。けど、それならなおさら代わるわけにはいかない」

 手を引き剥がした。リクは散らばった黒のチップを掴み、自身の掛け金として積み上げる。10枚、20枚、30枚と。手が震えていた。唖然とするソラの目の前で、老婦人が最後に賭けた額と同額の黒のチップを積み終わった。
 「アンノーン」呼びかける。軽い音がして、黒のチップが1枚降ってきた。チップを掴む。右手には、汗が滲んでいた。

「レイズ」

 黒のチップを更に1枚重ねた。
 これは、覚悟だ。
 8枚の手札を持ち直す。「オレが負けたら、リーシャンはどうなりますか」老婦人は少し考えて、「そうね、リクちゃんだけだと足りない分、その子も一緒に貰おうかしら。その方が寂しくないでしょう?」と答えた。リクは目を伏せる。(ソラの言った通りか……)彼女は積極的に肯定はしないが、否定もしなかった。

「ポケモンは賭けるの禁止なんですよね。困ったことになるんじゃないですか」

 老婦人が笑みを深くした。素知らぬ顔を続ける部下を見る。いつの間にか寄ってきたムシャーナが、見世物をわくわくと静観していた。

「賭けるのは私じゃなくて、リクちゃんよ」
「……なんだって?」
「一匹だけでこんな場所に置いていくより、ずっと寂しくないでしょう?」

(寂しく、ない)気持ちが揺れた。予想される結末は、じりじりと迫っていた。その後どうするのが一番良いのか、そればかり考えてしまう。リーシャンをまた置いていくことになれば後悔するだろう。笑えるほどに勝算も浮かばなかった。

「シャン太」
「リ?」
「待つのはもう、嫌か?」

 コクリと頷いた。「そっか」とリクが呟いた。これからのことを、後悔するかもしれない。恨むかもしれない。「このゲーム、最後まで一緒に戦って欲しい」「リリリ!」答える声に手札を睨んだ。1のカードは2枚ある。でも、追いつくためにはそれだけじゃ足りない。(勝つんだ。勝たなくちゃいけない)1を2枚と、13のカードを手に取った。
 バン! と3枚のカードを叩きつけた。老婦人は笑みを深くして、しかし、リクの手がカードを叩きつけたまま離れないことに、初めて表情を変えた。
 脳裏にアイドルキングの言葉が甦る。(「三つのAnswerは、見つかりましたか?」)

「勝負は最後まで続ける。でも、賭けるのはオレだけだ。リーシャンは絶対に賭けない」

 リーシャンが瞠目した。抗議の声が上がるが、笑って返す。「勝てば関係ない話になるし、オレが嫌なだけだ。頼むよ」「リ……」老婦人へ向き合い、挑むように言った。「お願いします」「どうしようかしら」

「負ければ、なんでもすると約束します」

 ニコリと老婦人が微笑んだ。手を、カードから離す。双方の了解とゲーム再開の合図に。リーシャンについた嘘が、一番上手につけたかもしれないと思った。老婦人が口を開く。(「……〝一人で戦わないこと〟」)あの時に答えた自身の声がした。味方さえも欺いて、一緒に戦ってくれと嘯いて、それは同じフィールドに立っていると言えるのだろうか。違ったとしても、決して譲れない一線だった。
 カードの山に影が落ちた。
 それが何かを理解する前に、夜が降った時のように長い尻尾が降り落ちた。「お前――……」唖然として、リクは彼の名を呼んだ。
 
「ゲイシャ?」
「ききっ!」

 見知った風呂敷のエイパムが、背を向けて立っていた。

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