拳闘葬送曲

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読了時間目安:17分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

登場人物

エンブオー・クライド・フレアジス……夢工房の所長。ヴェスパオール市警の元刑事。
ルカリオ・リン・シェイ……夢工房唯一の従業員。謎多き男。
カメックス・アデロ・ラディナム……ヴェスパオール市警傷害課の警部補。
オーベム・“レニー”レンフリー・エティッド……弁護士。クライドとは大学時代の同級。

ミミロップ・アイリーン・ブルーアント……ルカリオ・リンと懇意の女性。引退した大物ギャング、ホルード・“マクシム”マクシミリアンの愛娘。
ジャラランガ……ドラコニア山脈の少数民族。非常に強力な第一級種族。連続撲殺事件の実行犯。
マニューラ・ジュン・ライ……反社会勢力ヴィツィオのソルジャー。ディニアでは“アイラ・ペイリン”という偽名を使用。
ムーランド・シニストラ・エンティリー……ヴェスパオール市警傷害課の巡査部長。
ホルード・“マクシム”マクシミリアン・ブルーアント……引退した大物ギャング。現在は探偵事務所を開いている。
 風の中から現れた男はそこにいるはずもない男だった。不毛に争いあい、互いに道をゆずらない男達が、血眼になって欲していた最後の希望だった。ある男はその謎めいた闇の顔を、またある男はその強すぎる救いの光を求めていた。彼に悪魔の化粧をさせて火あぶりに処し、暗いエーサの水底に沈めたがる者達もいた。汚れることを知らない霊峰のシラユリが太陽と呼ぶ男でもあった。ルカリオ・リン・シェイは傷だらけだった。傷だらけになるために生きている男だった。

「きっと両方とも俺がここにいる理由を考えているんだろうな」

 エンブオーもジャラランガも何一つ言わなかった。ただ困り、驚いた目つきを投げかけるだけに終わった。

「カメックス・アデロだよ」とルカリオは気もなく言った。 「日付が変わるかどうかってときに担当検事に呼びだされたんだ。仮釈放だと言われたよ。検事のフーディンは出来ることなら俺のことを今すぐ殺したいとも言った。俺と、アデロと、それとクライド。お前をな」

 東の地平はすでに白んでいた。あと数分で太陽の頭頂が顔を出すであろう白さだった。奇妙な緑色の光が海をあまねく覆いつくし、砂漠を覆う紫の闇は青く薄まって、海の潤いのようなものをここにもたらしていた。

「惜しかったな、クライド」。青い後光を背に帯びてルカリオは言った。 「都会の男と山の男はいつだって違う。男と女くらい違う。彼は都会の男になれたかもしれなかった。それも確かなことだ。あと一か月だけ出会うのが早ければ、俺達は新しい仕事仲間を加えていたかもしれない。そうでなければ花屋のテーブルでオオアマナを包む竜の姿を見ていたかもしれないな」

 エンブオーはなにがなんだか分からないという顔をしていたが、ややあってから驚きと怒りが眉間に深く刻み込まれた。 「知っていたのか」

「ああ」。被せ気味に言った。

「何故黙っていた!」。食って掛からんばかりにエンブオーは言った。

「黙っていなかったら」とルカリオは同じ声量で言った。しかしなおかつ、とてつもなく冷徹に。 「お前は彼をどうするつもりだった?」

 その問いかけにエンブオーが答えられることはひとつもなかった。怒りで目をこわばらせるしか、今の彼には能がなかった。

「言っただろう。“お前に負けん気はあるか”、クライド?」。いいや、という抑えた声が地面に吐きつけられた。苦々しい顔を上げて、男は二匹の方に向かってきた。 「殺してまで勝つ意味はない、とお前は言ったな。それが答えの全てだよ。ここぞというときに一線を超えられない。お前という奴は、同情と理性の間で自ら宙吊りになり、後戻り出来なくなってから同情を取る。やはりお前は法の番人だ、クライド。爪先から肩まで法に浸かって生きている。自分では一線を超えたと思っているんだろう。この俺を守ってくれるためにな。だがそれは法を守るためでもあったんだ。法を守るために法を超える。それがエンブオー・クライドという生き方なんだ。いいんだよ、それで。お前が手を汚したら、善き法は失われる。この世には無法でしか救えない魂もあるというだけだ。そういう魂の面倒を見るために、俺のような日陰者はどの時代にもいる。そういう善き法がためこんだ膿を絞りだす日陰者がな」

 言い終わる頃には、ルカリオはエンブオーの左脇を通りすぎて、老いた竜の前に躍りでていた。

「ルカリオ、セヴは――」、ジャラランガの声音は言い訳めいた響きがあった。

「Elle oli lagnava.(何も言わなくていい)」。ルカリオはしずしずと遮った。 「さっさと始めよう。俺達のどちらかが気が変わらないうちに」

 ジャラランガはエンブオーを今一度見た。自らが創りだした理想の高い壁に打ちのめされた男がいた。打ちのめされてなお、彼は納得がいかない顔をして立ちつくしていた。

「気になるか」。ルカリオはエンブオーの顔を視界の端に捉えた。エンブオーもルカリオを見ていた。わずかな希望の光がぼんやりと差した目だった。

「確かに男はどうしようもない馬鹿だ」と顔を戻した。 「女も救いようがない間抜けだがな。心の根っこは一生変わらない。いくら周りから立ち入られようが、自分以外にはなれないのさ、俺達は」

 そう言ってルカリオは血塗られたベストを勢いよく脱ぎ捨てた。

 その肉体は鍛え抜かれた鋼と呼ぶに相応しかった。ぼさぼさの毛皮越しに見て取れる筋肉は、風に吹かれている間だけ凹凸が露わになった。白い毛の先から黒い血塊がこぼれ落ち、砂漠の一粒となって見えなくなった。傷だらけで、光り輝き、収まるべき鞘が永久に見つからない業物の大剣。それは禍々しさと神々しさを同時に放つ神秘の身体だった。

「俺が負けたら」。その声色は思わせ振りだった。 「クライドはお前を追いかけるだろう。そうなっても、彼は絶対に殺すな。それでいいな?」

 ルカリオはエンブオーを見て言った。それでやっと、彼はその言葉が自分に向けられていたと理解して、うなずき、一歩下がった。ルカリオの視線はふたたび正面に付けられた。

「気持ちのいい朝だ」とルカリオは言った。 「戦士が一匹死ぬという朝だ。戦士はいつでも、命を終えるときにふさわしい言葉を持っている」

 わずかの間だけ風が止んだ。そのとき、静かな声でルカリオはこう詠った。

 『我を血より解き放ち 汝が傷に我ならん 我ら死すとも 死せることなく』

 ルカリオは両腕を力なく下ろした。ジャラランガも全く同じことをした。時間差で、鏡のように。微熱をおびた風は二匹を避けつづけた。彼らの肩には硬質で揺るぎない沈黙が降りていた。相対する視線が散らす火花もなく、彼らはただ静かにその時を待っていた。

 ルカリオはジャラランガの顔を見上げていた。どこまでも赤く澄み切った目があった。とろんとした輝きを放っていた。策を弄さず、心配事もなく、充実感さえ伺える輝きだった。古き良き時代にまで戻った、純粋無垢な子供の光だった。その高貴なきらめきに、ルカリオの腕は少なからず身震いしていた。この老いた竜は今、在りし日の彼自身さえ凌ぐ力量を引っさげていた。かつて失われたはずの右腕までもが刺すようにうずきだすと、ルカリオは本当に自分が負けるかもしれないと覚悟した。

 エンブオーは二匹が動き出す時をじっと待っていた。ようやく血が止まった腕の傷を右手の爪先でなぞりながら。だが実際は待ってなどいなかったかもしれない。一体自分はどこでやり方を間違えたのか、そればかりを考えていた。それはどこまでも愚かしく、無駄な問いかけだった。これはきっかけからして間違った出来事なのだから。

 男達は長いこと動かなかった。雄弁なる風と沈黙の中で。



 陽光が青い沈黙を裂いた。光が竜の鱗に受けて、男の赤い瞳に入り、瞳に金色の稲妻が走った。竜と男は顔色一つ変えず、全く同時に動き出した。竜は半歩踏み出した右足を軸に、頭と捻った胴体を屈めつつ、右拳から全身を突き上げる動作を一瞬のうちに完了した。男もまた右足を前に出していた。傍観者には男が拳も何も突き出していないように見えた。

 雷鳴が二匹の間に落ちていた。その周りで砂塵がふわりと舞って、西よりのそよ風に白い尾を引いた。暗い谷へと続く道が一直線に裂けていた。その底からは疎らな拍手が届けられた。それは岩が砕ける音だった。それも怪獣の形をしたような岩ではなく、谷その物が。やがて乾いた称賛が天に昇ると、ふたたび前の沈黙が降りてきた。

 沈黙はそう長く守られなかった。竜の両瞼は痙攣し、歯は食いしばり、表情は苦痛に歪んだ。彼の昇り拳は男の左目尻をかすめ、赤い涙を流させるだけに終わった。

 竜は自分の胸を見た。男の左拳が深々と突き刺さっていた。手甲の骨棘が食い込んで、半分見えなくなるほどに。これ以上ないほど完璧なカウンター・アッパーカットだった。

 ごぼっと声を出して、竜は濃霧のような血を吐いた。拳を抜くと、足元にはあっという間に血の海が出来た。身体は前のめりに崩れ落ち、男は片膝をついて竜の両肩を抱きしめた。血に洗われて眠らないように。丸太のように太い尻尾が地面に打ち擦れて、儚い音楽を奏でていた。離れゆく戦士の肉体への、魂の送別歌を。

「Eccluci, Cev.(ありがとう、戦士よ)」。ジャラランガは笛の鳴くような声で言った。 「Batri, Cevenne odi lazoli ter Quivalia.(これで我が息子達は天に還る)」。右目からは涙色の彗星がすうっと落ちた。彼は激しく咳き込み、その度に血を吐き出した。

「お前も還るときだ」、ルカリオは見送りの微笑みを作った。 「Elle, kabali odi Pallagell. (お前はもう蜥蜴ではない)」

 その言葉でジャラランガが感激に咽ぶことを誰かが期待していたとしたら、期待外れもいいところだった。ジャラランガは情けなく首を横に振るだけだった。首を振る度に、顎から赤い雫が散らばり、白いキャンバスに染み込んでいった。 「セヴ……違う。セヴ、呼ばれた」。頭をわなわなと上げて最後の力を喉に込めた。懺悔と遺言を同時に行うような、切迫した口調だった。 「雨で、会った。連れて……こら、れた」

「連れてこられたって?」。驚いた声をだして、エンブオーが足早に近づいてきた。
エンブオーが見たときジャラランガの目からは既に光が失われていた。縦割れた瞳孔は完全に丸みを帯びてもう戻らず、エンブオーの顔を見るつもりで、首元の炎を見ていた。

「誰に?マニューラか?カメックスか?」。エンブオーの質問に答えることもなく、ジャラランガは壊れた首振り人形のようにがっくりと項垂れた。そのときに虫の囁くような声で何か言った。言ったつもりだっただけかもしれない。耳を澄ましても二匹には何も聞こえなかった。

「何……?」。ルカリオは目を丸くして驚いていた。いつにない驚き方をしていた。

「何だって?」

「お前は知っていて、あいつらを――」

 そのとき、ジャラランガはルカリオの身体を押しのけて北に逃げ出した。いや、逃げ出したのではなかった。二匹を庇うように両手を広げて仁王立ちしていた。次の瞬間、淡い緑色の光が空から降ってきて、虹色に輝く装甲を細かく引きちぎっていった。ジャラランガにはもう吐くだけの血も残っていなかった。貫通した光が肉を焦がし、血を泡立て、傷口から白煙をくゆらせていた。

 胸に開いた無数の穴からは向こう側が見えた。三十メートル先の平地にカメックス・アデロが立っていた。制圧部隊を両脇に引き連れていた。一列、横並びに、準一級種が二十匹。主に妖精族で構成された部隊には、あのゲンガーの姿もあった。

「全体、マジカルシャイン用意!」とカメックスは叫んだ。

 エンブオーはジャラランガの前に回り込み、何かを叫び返すところだった。しかし、ジャラランガはその身体を脇にどけて歩を進めていた。ルカリオは干渉しなかった。ただそこから一歩も動かず、今日を取り戻した戦士の運命を見届けることにした。

 ジャラランガは息を大きく吸った。両足を踏みしめ、空に向かって吠え叫んだ。身体中の鱗がばりばりと音を立てて砕け散った。その音に見捨てられた谷が目を覚まし、魂の律動を刻み、風に声をのせて高らかに歌っていた。

 猛々しい歌声を背に受けて、ジャラランガは猛然と立ち向かった。三十メートル先で、マジカルシャインの光が横並びのフラッシュのように燦然と輝いた。

 ジャラランガは死んだ。ばらばらに鱗の鎖を散らして。ジャラランガは死んだ。今では楽しい夢でも見ているような、やりきった微笑みを浮かべて。醒めることのない夢の中で、微笑みは彷徨っていた。

 谷は歌うことを止めた。



 カメックスは部隊を引き上げさせた。彼はゲンガーに遺体をかき集めるように言った。淡々としてごみ出しをさせる口振りと何ら変わらなかった。顔の引き締まった男は、脱ぎ捨てられたベストのところまで歩くと、それを右足に載せ、弾くように蹴って手に取った。視線は布地の黒い染みに落ちて、しばらくの間は動かなかった。口元には細長い笑みが薄っすらと浮かんでいた。

「危ないところだったな」。カメックスはルカリオの左肩にベストを畳んで掛けた。 「本当に」

 エンブオーの厳しい目はその黒い微笑みから離れることがなかった。カメックスは旧友にも同じように笑いかけると、ルカリオの左目から流れる血を爪の腹で優しく拭った。切れ長の美女の涙でも拭うように。ルカリオはその動きを目で追っていた。

 そしてカメックスはさよならと一言だけ告げて去っていった。実際にはもっと砕けた言い方だったかもしれない。それでもしかし、エンブオーにも、ルカリオにも、彼の言葉はさよならに聞こえた。彼が汚れた街に去っていく間も、二匹はその背中が見えなくなるまで目で追っていた。

 風に吹かれて、鱗の鎖がルカリオの足元に転がってきた。ジャラランガの頭から髪束のように生えていた鎖。金色の三日月の内側に、赤く燃える太陽が収まった鱗。三枚綴りの鱗はどれも色褪せて、今や輝きと呼べるものは完全に失われていた。ジャラランガの魂はもうここにはない。あるいはそんなものは元からなかったのかもしれない。生ける屍が魂を取り戻そうと徘徊していただけかもしれない。ここにはそう考えない男がいた。男の左腕は声なき勝鬨をあげていた。風になびく鱗の歌声は、どこまでも澄み切った青い虚無に染みこんでいった。

「身体を洗いに行こう」。ルカリオの赤黒い身体を見て、エンブオーは言った。 「化け物呼ばわりされたくないだろう」

「先に行ってくれ」とルカリオは言った。 「まだやることがある」

 陽を浴びて、三日月色のくすんだ涙がエンブオーの目にも入った。

「紐を探してくるよ」とエンブオーは言った。 「乾いた骨も二本、見つかればな」

 * * *

 死に満ちた谷を抜けた先に、決して豊かとはいえない緑の山があった。その山の名はランサール。バンギラス・ランサールは裸の生活を求めたが、服を着る誰よりも、服を着ない誰よりも争いを好まなかった。ランサールの最期は血の気の多い仲間に討ち取られることだった。返り討ちにもできたが、彼は黙って死ぬことを選んだ。それが彼の戦い方だったからだ。彼を平和の使者と呼ぶ者が大勢いる。生きることを諦めた臆病者と呼ぶ者も大勢いる。どちらも間違いだ。彼は美学の化身なのだ。我々の魂が獣に堕ちないよう黒い十字架を進んで背負ったのだ。墓場を選ぶとき、エンブオーはルカリオにそのように教えた。

 ランサールの墓は山の頂にあった。熱気とは無縁の風が吹き、夜の冷たさは草の下まで降りてはこない。道らしき道はなく、訪れよう者もなく、山は乾いた眠りを守り続ける。雨は六月に一度だけ降り、大地から暴力と悲しみを洗い流す。ここは忘れゆく罪咎(ざいきゅう)の海。永遠に許されないことなど、この世には存在しない。

 黒い谷の涸れ川の底でルカリオは竜のあばら骨を拾った。エンブオーは紐を見つけられなかった。

 東よりの烈日を浴びながら、ルカリオは骨を十字に組んだ。エンブオーはネクタイを外した。骨をネクタイで繋ぎ止め、結び目の中に鱗鎖をくくりつけた。男達は乾いた赤い土に穴を掘り、骨の先端をそこに刺し込んだ。それは墓標と呼ぶには、粗末に過ぎた出来だった。

 ジャラランガの墓はランサールの隣に打ち建てられた。どちらにも墓碑はなく、献花もない。ここでは菩提樹も見守ってくれない。照り返す赤い岩肌だけが墓守だった。赤い崖の下には小さな泉があった。泉の周りには小さな森があった。森にはジャラコが一匹だけ住んでいた。

 裸の男達は山を降りた。もう戻って来ることもなかった。一週間もすると、彼らは墓を建てたことさえ忘れてしまった。だが、街で鈴の音を聞く度に思い出すようになったのである。血の繋がらない兄弟が自分の代わりに死んだことを。男は魂の片隅に二つの墓場を持つ。一つは昨日の自分のために。もう一つは今日から去った者達のために。墓碑銘の中で彼らは生きている。思い思いの“さよなら”を口にしながら。生き残った男達はそのさよならを背に浴びて、それぞれの明日に向かって歩いていく。

 強い西風が吹き、鱗鎖が墓標から外れた。鎖は崖を落ちて、泉を波立たせた。泉に入り、ジャラコはそれを手に取った。鱗に描かれた太陽と三日月は名も無き子供に男達の詩を伝えていた。形のないものは血によって引き継がれない。

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