プロローグ ”帝国の剣”
しおりが挟まっています。続きから読む場合はクリックしてください
読了時間目安:9分
遥かなる古の時代、炎の石板をもって、創造神アルセウスは我らが始祖テメレイアの心臓を作った。
心臓の鼓動が雷鳴のごとく轟いたとき、神は叫んだ。我はこの手で最強の心臓を生み出した。立ち塞がる敵は皆、ことごとく恐怖に震え上がるであろう。
しかし心臓は神の意に反し、次第に間断ない動きが乱れた。
神は問うた。なぜ弱くなった。お前にはあらゆる創造物の中でも最強の心臓を与えたというのに。
テメレイアは答えた。私は独りです。
そこで神は自らの過ちに気づき、六つの石板から新たに熱く燃える三つの心臓を作った。
一つは、雷の石板から忠実なる家臣の心臓を。そして竜の石板を二つに割り、テメレイアと臣下に分け与えた。
もう一つは、調和と叡智の石板から美しい調を奏でる詩人の心臓を。テメレイアの栄光を後世に語り継ぐ役目を与えた。
そして最後に、石英と精霊の石板から愛の心臓を。テメレイアを癒し、正しき道へと誘う魅惑の輝きをもたらした。
だがいずれの心臓も、テメレイアよりも優れた知恵を持っていたので、テメレイアは彼らを妬んだ。
知恵を持つ三つの心臓はテメレイアの刃に平伏し、こう言った。我らが一つになれば、世界に恐れるものはない。
そして四つの心臓は共に脈打ち始め、世界に凄まじい轟音を響き渡らせた。
そのとき、初めて神は恐怖を知った。命惜しく逃れようとしたが、時は既に遅く。
テメレイアの心臓は臆病な創造神を焼き払い、天空を灰に変えてしまった。
今日この日まで、テメレイアの心臓に敵う者はいない。
*
「テメレイアの加護を、そなたに」
赤々しい溶岩が流れる古の神殿に、厳かな声が響いた。空は暗雲立ち込め、舞い上がる火の粉が不気味な凶星を描いている。世界が新たな皇帝の戴冠を祝福しているようだ。神殿に集った名家の当主や長老たちが見守るなか、儀式は粛々と進められていく。
レシラムの紋章を刻んだ王冠が、教皇カプ・レヒレの手を離れ、鎧のような王衣をまとう赤毛の少女に収まった。
カプ・レヒレは腰を折り、新たな王への敬意を表した。
「偉大なるテメレイア帝国第百四十七代皇帝、ヴィクトリア・ケンタリウス・アウグスブルク・アレクサンドラ・テメレイア皇帝陛下に栄光あれ」
猛々しい雄叫びがあちこちから轟き渡った。我が家こそ最も皇帝陛下の即位を祝福している、そう言わんばかりに競い合っていた。
だが、真に皇帝を祝った家がどれだけあっただろうか。
雷の紋章を刻んだ御旗のもとで、家を率いる若き当主ゼラオラは、腹の底から叫びながら眉間のシワを深めていった。
「ゼラフィール様、あれを」
長老ライコウが顎で示した先には、毒の紋章を描いた旗がなびく。その下で、吐き気を催すほど憎い宿敵、毒の家当主のアーゴヨンとその参謀ゲンガーがふんぞり返っていた。
陛下の御前でありながら、なんと不遜な態度だろうか。おおかた身内で陛下のことを嘲っているのであろう。
毒の家には虫唾が走る。名誉を知らない奴らだ、いつも虎視眈々と王家の座を狙っている。ゼラフィールの目尻に筋が浮かび上がった。
「愚か者どもめ。おおかた、陛下のことをたかが子供と嘲っているのだろう」
「それもあるでしょうが」ライコウは腰を低くして続けた。「いくら前皇帝の第一子とはいえ、しょせんはヒト族。劣等種の血が混じった皇帝が、果たして偉大なるテメレイア帝国を率いるに相応しいかどうか……」
忠誠を疑う者が、ここにもか。
ゼラフィールは目を鋭く尖らせた。
*
神殿へと続く階段は、灼熱の火山に囲まれているせいで、肺を焼かれるような熱気に包まれていた。
戴冠式を終えて帰路につく当主たちは、眉ひとつ動かさずに平然と、堂々と、階段を下りていく。最も熱に弱いとされる草の家の当主ビリジオンでさえも。当然だ。この程度の苦痛に根を上げる軟弱者には、聖なる神殿に脚を踏み入れる資格がない。
かつて、灰を吸って一度だけ咳をした当主がいた。常闇の家の前当主、ダークライである。しかし、そのたった一度の咳で、常闇の家の権力は失墜した。内外から臆病者と蔑まれ、しまいには分家のバンギラスに呆気なく頭を潰された。家の長として死体を盛大に埋葬されることもなく、家の恥晒しとして貧者の荒野に棄てられてしまったという。
ゼラフィールは熱気に体内を焼かれる痛みなど、毛ほども気に留めていなかった。
頭の中はヴィクトリア皇帝を取りまく不穏分子でいっぱいだった。
特に気がかりなのは、戴冠式における名家たちの態度だ。誰も現皇帝を認めていない。ヒト族と寝た前皇帝への不信もある。
「今の帝国はかつてないほど内戦の危機に瀕している、お前もそう思うか?」
精霊の家の当主ゼルネアスが囁いた。
並んで灼熱の階段を下りながら、ゼラオラは頷いた。
「すべては前皇帝が崩御なされた時から始まっていた。既に毒の家が軍備を固めていると聞いている。思うか否かではない、内戦勃発は時間の問題だ」
「ではやはり、前皇帝は暗殺されたのだな。テメレイア帝国でそのような姑息な謀略が巡っていようとは考えたくもない。皇帝の座が欲しければ、堂々と家同士で宣戦布告をすればいい」
「それでは奴らの望むものが破壊されてしまう。国土に兵力、炎の王家が支配する莫大な資源を、無傷で手に入れるためには、不意打ちを食らわせるのが最も効果的だ」
「なんと卑怯な……同じテメレイア帝国の臣下とはとても思えん」
「あぁ、その通りだ。我らの命で陛下をお守りせねばならん」
「精霊の家も同じ思いだよ、ゼラフィール」
心強い味方の応援があっても、ゼラフィールの顔が晴れることはなかった。
ゾワゾワと全身の毛が逆立っている。不気味な気配がねっとりと貼りついて離れない感じだ。ゼルネアスもそれに気がついたらしい、顔を上げて警戒心を差し向けた。
「これはこれは、精霊の当主様に雷の当主様。ご機嫌麗しゅう」
明らかに挑発的な口ぶりで近づいてくる影。毒の家の参謀、ゲンガーだ。
皮肉たっぷりに礼節ある素振りを見せて。しかし勝ち誇った表情は、まるでごまかす気配がない。
せいぜい勝った気でいるがいい、最後に貴様を殺すのはこの俺だ。殺意を込めて、ゼラフィールは睨みつけた。
ゲンガーはわざと怯えて見せた。
「おお、怖いねぇ。睨めば俺が頭を下げると思ったか? 図に乗るなよ、この雷小僧が」
「貴様に礼節など求めるものか、気色悪い。せいぜい当主の影に隠れてコソコソやっていろ、卑怯者らしくな」
「我が当主アデレート様の影は長いんだ。せいぜい影に呑まれないよう気をつけろ」
「それは我が雷の家への挑戦か?」
「大袈裟な! 雷の家の当主は余程追い詰められていると見える。今のはただの忠告さ、あんな頼りない皇帝の下に仕えてちゃ心もとないだろう。俺だって悲しいのさ。神話にも謳われているほど勇猛果敢で名高い雷の家が、跡形もなく消えてしまうかもしれないんだからな」
高らかに笑いながら下りていくゲンガーの背中を、どうしてプラズマフィストで貫いてやらないのか。ゼラフィールは疼く右手を押さえながら、自分に言い聞かせた。この挑発に乗ってはならぬと。
ゼルネアスも同じだったらしい、ツノをしきりに揺すっては、衝動を押さえているように見えた。
「あの卑怯者の顔を踏みつけてやりたかった」
「焦るな」ゼラオラは腕を組んで言った。「いずれ奴は殺す。奴の目から光が消えていく様を見てやる」
ゼルネアスはくすりと笑ったが、それでも不安を隠し通すことができなかった。
その口から、ぽつりとこぼれ落ちた。
「先代の全盛期は、みな皇帝の力を恐れていた。ゆえにあのようなことを堂々と言う者はいなかったのだがな……」
ゼラオラは口を結んだまま、何も言わなかった。
真の忠誠に言葉など不要。たとえ他の臣下が離れ、我が身ひとつになろうとも、ヴィクトリア陛下だけは必ず守ろう。陛下の戴冠をもって、俺も帝国の剣となった。皇帝に刃向かう者は誰であろうと、等しく死の制裁を下してやるのだ。
すべてはテメレイア帝国のために……。
心臓の鼓動が雷鳴のごとく轟いたとき、神は叫んだ。我はこの手で最強の心臓を生み出した。立ち塞がる敵は皆、ことごとく恐怖に震え上がるであろう。
しかし心臓は神の意に反し、次第に間断ない動きが乱れた。
神は問うた。なぜ弱くなった。お前にはあらゆる創造物の中でも最強の心臓を与えたというのに。
テメレイアは答えた。私は独りです。
そこで神は自らの過ちに気づき、六つの石板から新たに熱く燃える三つの心臓を作った。
一つは、雷の石板から忠実なる家臣の心臓を。そして竜の石板を二つに割り、テメレイアと臣下に分け与えた。
もう一つは、調和と叡智の石板から美しい調を奏でる詩人の心臓を。テメレイアの栄光を後世に語り継ぐ役目を与えた。
そして最後に、石英と精霊の石板から愛の心臓を。テメレイアを癒し、正しき道へと誘う魅惑の輝きをもたらした。
だがいずれの心臓も、テメレイアよりも優れた知恵を持っていたので、テメレイアは彼らを妬んだ。
知恵を持つ三つの心臓はテメレイアの刃に平伏し、こう言った。我らが一つになれば、世界に恐れるものはない。
そして四つの心臓は共に脈打ち始め、世界に凄まじい轟音を響き渡らせた。
そのとき、初めて神は恐怖を知った。命惜しく逃れようとしたが、時は既に遅く。
テメレイアの心臓は臆病な創造神を焼き払い、天空を灰に変えてしまった。
今日この日まで、テメレイアの心臓に敵う者はいない。
*
「テメレイアの加護を、そなたに」
赤々しい溶岩が流れる古の神殿に、厳かな声が響いた。空は暗雲立ち込め、舞い上がる火の粉が不気味な凶星を描いている。世界が新たな皇帝の戴冠を祝福しているようだ。神殿に集った名家の当主や長老たちが見守るなか、儀式は粛々と進められていく。
レシラムの紋章を刻んだ王冠が、教皇カプ・レヒレの手を離れ、鎧のような王衣をまとう赤毛の少女に収まった。
カプ・レヒレは腰を折り、新たな王への敬意を表した。
「偉大なるテメレイア帝国第百四十七代皇帝、ヴィクトリア・ケンタリウス・アウグスブルク・アレクサンドラ・テメレイア皇帝陛下に栄光あれ」
猛々しい雄叫びがあちこちから轟き渡った。我が家こそ最も皇帝陛下の即位を祝福している、そう言わんばかりに競い合っていた。
だが、真に皇帝を祝った家がどれだけあっただろうか。
雷の紋章を刻んだ御旗のもとで、家を率いる若き当主ゼラオラは、腹の底から叫びながら眉間のシワを深めていった。
「ゼラフィール様、あれを」
長老ライコウが顎で示した先には、毒の紋章を描いた旗がなびく。その下で、吐き気を催すほど憎い宿敵、毒の家当主のアーゴヨンとその参謀ゲンガーがふんぞり返っていた。
陛下の御前でありながら、なんと不遜な態度だろうか。おおかた身内で陛下のことを嘲っているのであろう。
毒の家には虫唾が走る。名誉を知らない奴らだ、いつも虎視眈々と王家の座を狙っている。ゼラフィールの目尻に筋が浮かび上がった。
「愚か者どもめ。おおかた、陛下のことをたかが子供と嘲っているのだろう」
「それもあるでしょうが」ライコウは腰を低くして続けた。「いくら前皇帝の第一子とはいえ、しょせんはヒト族。劣等種の血が混じった皇帝が、果たして偉大なるテメレイア帝国を率いるに相応しいかどうか……」
忠誠を疑う者が、ここにもか。
ゼラフィールは目を鋭く尖らせた。
*
神殿へと続く階段は、灼熱の火山に囲まれているせいで、肺を焼かれるような熱気に包まれていた。
戴冠式を終えて帰路につく当主たちは、眉ひとつ動かさずに平然と、堂々と、階段を下りていく。最も熱に弱いとされる草の家の当主ビリジオンでさえも。当然だ。この程度の苦痛に根を上げる軟弱者には、聖なる神殿に脚を踏み入れる資格がない。
かつて、灰を吸って一度だけ咳をした当主がいた。常闇の家の前当主、ダークライである。しかし、そのたった一度の咳で、常闇の家の権力は失墜した。内外から臆病者と蔑まれ、しまいには分家のバンギラスに呆気なく頭を潰された。家の長として死体を盛大に埋葬されることもなく、家の恥晒しとして貧者の荒野に棄てられてしまったという。
ゼラフィールは熱気に体内を焼かれる痛みなど、毛ほども気に留めていなかった。
頭の中はヴィクトリア皇帝を取りまく不穏分子でいっぱいだった。
特に気がかりなのは、戴冠式における名家たちの態度だ。誰も現皇帝を認めていない。ヒト族と寝た前皇帝への不信もある。
「今の帝国はかつてないほど内戦の危機に瀕している、お前もそう思うか?」
精霊の家の当主ゼルネアスが囁いた。
並んで灼熱の階段を下りながら、ゼラオラは頷いた。
「すべては前皇帝が崩御なされた時から始まっていた。既に毒の家が軍備を固めていると聞いている。思うか否かではない、内戦勃発は時間の問題だ」
「ではやはり、前皇帝は暗殺されたのだな。テメレイア帝国でそのような姑息な謀略が巡っていようとは考えたくもない。皇帝の座が欲しければ、堂々と家同士で宣戦布告をすればいい」
「それでは奴らの望むものが破壊されてしまう。国土に兵力、炎の王家が支配する莫大な資源を、無傷で手に入れるためには、不意打ちを食らわせるのが最も効果的だ」
「なんと卑怯な……同じテメレイア帝国の臣下とはとても思えん」
「あぁ、その通りだ。我らの命で陛下をお守りせねばならん」
「精霊の家も同じ思いだよ、ゼラフィール」
心強い味方の応援があっても、ゼラフィールの顔が晴れることはなかった。
ゾワゾワと全身の毛が逆立っている。不気味な気配がねっとりと貼りついて離れない感じだ。ゼルネアスもそれに気がついたらしい、顔を上げて警戒心を差し向けた。
「これはこれは、精霊の当主様に雷の当主様。ご機嫌麗しゅう」
明らかに挑発的な口ぶりで近づいてくる影。毒の家の参謀、ゲンガーだ。
皮肉たっぷりに礼節ある素振りを見せて。しかし勝ち誇った表情は、まるでごまかす気配がない。
せいぜい勝った気でいるがいい、最後に貴様を殺すのはこの俺だ。殺意を込めて、ゼラフィールは睨みつけた。
ゲンガーはわざと怯えて見せた。
「おお、怖いねぇ。睨めば俺が頭を下げると思ったか? 図に乗るなよ、この雷小僧が」
「貴様に礼節など求めるものか、気色悪い。せいぜい当主の影に隠れてコソコソやっていろ、卑怯者らしくな」
「我が当主アデレート様の影は長いんだ。せいぜい影に呑まれないよう気をつけろ」
「それは我が雷の家への挑戦か?」
「大袈裟な! 雷の家の当主は余程追い詰められていると見える。今のはただの忠告さ、あんな頼りない皇帝の下に仕えてちゃ心もとないだろう。俺だって悲しいのさ。神話にも謳われているほど勇猛果敢で名高い雷の家が、跡形もなく消えてしまうかもしれないんだからな」
高らかに笑いながら下りていくゲンガーの背中を、どうしてプラズマフィストで貫いてやらないのか。ゼラフィールは疼く右手を押さえながら、自分に言い聞かせた。この挑発に乗ってはならぬと。
ゼルネアスも同じだったらしい、ツノをしきりに揺すっては、衝動を押さえているように見えた。
「あの卑怯者の顔を踏みつけてやりたかった」
「焦るな」ゼラオラは腕を組んで言った。「いずれ奴は殺す。奴の目から光が消えていく様を見てやる」
ゼルネアスはくすりと笑ったが、それでも不安を隠し通すことができなかった。
その口から、ぽつりとこぼれ落ちた。
「先代の全盛期は、みな皇帝の力を恐れていた。ゆえにあのようなことを堂々と言う者はいなかったのだがな……」
ゼラオラは口を結んだまま、何も言わなかった。
真の忠誠に言葉など不要。たとえ他の臣下が離れ、我が身ひとつになろうとも、ヴィクトリア陛下だけは必ず守ろう。陛下の戴冠をもって、俺も帝国の剣となった。皇帝に刃向かう者は誰であろうと、等しく死の制裁を下してやるのだ。
すべてはテメレイア帝国のために……。
感想の読み込みに失敗しました。
この作品は感想が書かれていません。