小さな命

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読了時間目安:11分
***

真っ暗で無音の世界。
その静寂の向こうから、いつしか、かすかな音がさざ波のように押し寄せて来た。
やがてそれは明瞭な木々のざわめきとなって、全身に覆いかぶさった。

「…」
うっすらと目を開ける。ぼやけた視界一面に緑色が広がった。草むらだ。
何度か瞬きを繰り返す。ようやく視界がはっきりしてきた。
あらゆる感覚が戻ってきた途端、今度は焼け付くような痛みが全身に走った。
「…いっ、たたた…!」
激痛で完全に意識を取り戻し、そのポケモン―セレビィは、草地に倒れ込んだまま呻いた。
(ここどこ…?なんでこんなことになってるの)
混乱しながらも、目だけで周囲の状況を確認しようとして、セレビィはぎょっとした。少し離れた場所に別のポケモンが倒れているのが見えたからだ。
それと同時に、これまでの記憶がいっぺんに脳裏を駆け巡った。
火の海が森を呑み込んでいく様子を遠目から見ていたこと、誰か取り残されている者を見つけたこと、そして決死の覚悟で救出に向かって行ったこと―記憶はそこで途切れていた。

セレビィは、うつぶせで倒れているポケモンの様子を、息をひそめて見守った。
純白の毛に覆われた背中がかすかに上下している。
(良かった。生きてる)
セレビィは心の底から安堵した。思うように動かない体に鞭打ちながら、そのポケモンの元へと這って行く。
間近で見てみると、自分ほどではないが、体のあちこちに軽い火傷の痕が残っているのが分かった。
だが、このぐらいの傷ならすぐに治せそうだ。
セレビィは、倒れているポケモンにそっと身を寄せて目を瞑り、彼女の得意技―"癒しの鈴"を繰り出した。
リィン、リィン…―と心地よい鈴の音が響き渡り、全身を苛んでいた火傷の痛みがたちまち引いていく。
すっかり具合が良くなると、セレビィは身を起こし、傍らに倒れたままのポケモンの様子を窺った。
セレビィと同様に、その火傷の傷はすっかり癒えている。この技は自分だけでなく周囲の者にも作用するのだ。今はまだ気を失っているようだが、じきに目を覚ますだろう。

傷が治ったところで、セレビィは改めて辺りを見回した。
思い思いの方向に枝を伸ばし、青々とした葉を茂らせている木々。
地面を突き破ってあちこちから顔を出す木の根。
大地を埋め尽くすようにびっしりと生える草。
その茎の先端に咲く、名前も知らない小さな花―。
彼女にとっては見慣れた、いつものコダマの森の風景だ。
それにほっとすると共に、今度は別の疑問がこみ上げてきた。
(ここはいつの時代なのかな)
―あの時、何としてでもこのポケモンを助けようと、彼女は咄嗟に"時渡り"をした。
時渡りというのはセレビィだけが使える特殊な技だ。セレビィはこの技により、過去へ未来へ、そして特定の時代へと自在に移動することができる。
しかし、あの時の彼女はあまりにも必死で、とにかくあの凄惨な場から逃れることしか考えていなかった。かろうじて記憶に残っているのは、時渡りをする直前、どこか平和な未来へ向かおうと念じたことだけだ。
したがってここがあの時代よりも未来であることは確かだったのだが、それ以外のことは何も分からなかった。

セレビィはそろそろと立ち上がった。体はもう痛まなかった。
ぐうんと伸びあがって、上を見上げる。幾重にも木の葉が重なって揺れるその向こうに、突き抜けるような青空が見えた。
(空高くから見下ろしてみようか)
あれだけ大規模な火事であれば、森が再生するまでには相当な時間がかかるはずだ。地上の景色からでは判別が難しくても、上空から広範囲に森を見渡せば、その再生具合で今の時代がだいたい分かるのではないか―そう思ったのだ。
セレビィは早速、軽く大地を蹴って天に舞い上がろうとした。
―のだが。
「きゃ!」
その場でつんのめって前に倒れ込んでしまった。おかしなことに、背中がこわばっているような感覚がして、上手く翅を動かせなかったのだ。
(なんなのよ、もう)
苛立ちを覚えながら首を捻り、背中を見たセレビィは、直後、驚愕で目を見開いた。
―翅の先が焼き切れている。
彼女の背に生える一対の半透明な翅は、その三分の一ほどが焼けて失われていた。おそらく炎の中に突っ込んで行った時に燃えてしまったのだろう。どうりで上手く飛べないわけだ。
癒しの鈴には状態異常を治す効果はあっても、失われた部位を元通りにする効果まではない。
セレビィは信じられないという面持ちで自分の背中を見つめた。空を飛ぶ種族にとって、翅は生命線だ。軽い怪我でほんの少し調子が狂っただけでも飛べなくなることもある。
言葉を失い、草地にぺたりと座り込む。あまりの衝撃に震えが止まらなかった。
自分はこれから先永遠に、空を飛ぶことは叶わないのだろうか―。
絶望に打ちひしがれていた、その時だった。
「ん~…」
か細い声がして、セレビィは打たれたように顔を上げた。
見ると、先ほどまで倒れていたポケモンがもがいている。ようやく意識を取り戻したようだ。何度も起き上がろうと四肢を踏ん張っては、力尽きてばたりと倒れ込むのを繰り返している。
セレビィは今の今まで抱いていた 暗澹たる思いもすっかり忘れて心配になってしまった。
「だ、大丈夫?…立てる?」
恐る恐る声をかけると、そのポケモンは苦戦の末ようやく上体を起こして、お座りの姿勢を取った。
「―あ」
セレビィはそこで初めて、自分が救ったポケモンの姿をまじまじと見ることとなった。
純白の体毛、青みがかった暗い色の肌、そして、頭の片側から生える湾曲した角―。
「―アブソル?」

身体的な特徴から、このポケモンの種族はすぐに分かった。それでもいまいち自信が持てなかったのは、彼女がこのコダマの森で生きてきて、アブソルを見る機会が数えるほどしかなかったからだ。
アブソルはこの森では個体数を激減させている希少なポケモンで、警戒心も強く、滅多に人前に姿を現さない。彼女自身、こうして間近で見るのは初めてだった。
記憶にあるその姿と照らし合わせるように、セレビィは目の前のポケモンを全身くまなく観察した。そしてついに、確信を持って頷く。
「うん、やっぱり間違いない。あなたアブソルよね?」
セレビィは興奮混じりに問いかけた。
しかし、アブソルは瞬きひとつ、きょとんとした顔をしただけだった。束の間の沈黙が流れる。
「…ねえ、そうだよね?」
「……………」
二匹の間を虚しく微風が通り抜けていく。
「え~と」
セレビィは咳ばらいをした。この時点で、彼女はある可能性を想定し始めていた。
「私の、言ってること、分かる?」
自分を指さし、もう一度、今度はゆっくりと話しかける。
アブソルは不思議そうな顔をしてじっとセレビィを見つめている。口を開く気配は全くない。
セレビィは頬に手を当てて険しい顔をした。
―やはりだ。どうやら言葉が通じていないらしい。
腕を組んでさらに難しい顔をする。
そもそも、このポケモンはどうしてこんなにまでのほほんとしていられるのだろう。普通、目が覚めてすぐそばに見知らぬポケモンがいたら、そして話しかけてきたら、多少なりとも動揺するものではないだろうか。
気になる点はそれだけではない。
このアブソルはかつて何度か見てきた個体と比べて随分と体が小さいのだ。こうして座っている姿を見ても、せいぜいセレビィの体長より少し大きいぐらいにしか見えなかった。
もしかしたら―とセレビィは思う。
まだ生まれて間もないぐらいの子どもなのかもしれない。それならこの鈍い反応にも、言葉が通じないことにも納得がいく。
そこまで推察したところで、セレビィはふと真顔になった。
「待てよ…?ということは、どこかに親がいるんじゃ」
背筋がすっと冷たくなった。自分がとんでもないことをしてしまった気がしたのだ。
親がいるのに勝手に別の時代に連れてきてしまったとなれば、元の時代に帰してやるのが道理だ。
(でも、元の時代っていっても……)
広大な森を覆い尽くす炎。逃げ惑う者たちの悲鳴の渦―
思い出すのも恐ろしくて、セレビィはぶんぶん首を振った。あの場に帰してやることがこの子のためになるとは到底思えない。
それに、もう一つ。こんなに小さい子を置き去りにしていなくなる親がいるものだろうか。
今までに親子連れのポケモンを見たことは何度もあったが、たいていの場合、子どもが小さければ小さいほど、親はしっかりと目を離さずにいたものだ。
ましてやこの子は言葉も分からないほどに幼い。あのような大火事の中、親が置き去りにして逃げて行ったとは考えにくかった。
しかし同時にそれは、両親が既に子どもを助けられる状況になかったことを意味する。
「……」
段々と涙で視界がぼやけてきて、セレビィは静かに顔を覆った。

と、耳元でふんふん鼻を鳴らす音がした。
いつの間にかアブソルがすぐそばまで距離を詰めてきていた。頭を下げて、しきりにセレビィの匂いを嗅いでいる。
そんなに気になる匂いがするだろうか、とセレビィは不思議に思ったが、害意はないようなので好きにさせてやることにした。
ひとしきり匂いを嗅ぐと、アブソルは満足したらしく、今度は頭をもたげてセレビィの顔をのぞき込んできた。
何も知らないあどけない顔。それを見つめ返した時、セレビィは、この子が瑠璃を嵌めたような青い瞳をしていることに気付いた。
確かアブソルの瞳の色は赤だったはずだ。この子はその点変わっている。
その吸い込まれるような深い青を見つめるうち、セレビィは段々と気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
手を伸ばして、小さな頭を撫でる。柔らかい毛の感触とじんわりとした温もりが伝わってきた。心の奥底に抱えていたこわばりがほどけていくようだった。
「―あなた、私と一緒に来る?」
そんな言葉が、思わず口を突いて出た。彼女の本心だった。
もちろん、森の奥でひっそりと暮らしてきたセレビィに、ポケモンを育てた経験などない。それどころか、他のポケモンと深く関わったことすらない。
だが、一度救った小さな命だ。今更この場で見捨てて行くことなど到底できなかった。
それに―どちらかといえばこちらの方が大きな理由なのだが、セレビィは無邪気に振舞うこの子どもに、すっかり情が移ってしまっていた。
セレビィの言葉が分かったのか分からぬのか、幼いアブソルはまるで笑うように口を開けてぱたぱたと尻尾を振った。
返事はなくとも、その仕草だけで彼女には十分だった。
「ふふっ」
セレビィは笑った。ようやく心から笑うことができた。

二匹の小さなポケモンを明るく照らすように、木漏れ日が優しく揺れていた。

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