第5話(5) “プロメテウス”

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 航界日誌、補足。船長記録。
 ミュウツーの進言により、いよいよ希望が見えてきた。
 プロメテウスを丸ごとテレポートして、虚数世界より脱出する。しかしミュウツーのサイコパワーは凄まじい破壊力があるものの、精度には欠けている。このままではテレポートの最中に船がバラバラになってしまうだろう。そこで、ミュウツーを船の外部センサーと接続して、精度を人工的に引き上げる。言うなれば、視力の悪い彼に眼鏡を掛けるようなものだ。
 幸いなことに、ミュウツーの眼鏡となるインターフェースには、既にブライス少佐が彼の娯楽のために造った鎧を流用できそうだ。おそらく彼女にはミラクルワーカーという言葉が似合うだろう。

「転送装置、オンライン。神経リンク・インターフェース接続。今のご気分は?」
「この上なく最悪だ」
 機関部に繋がれた特殊合金の鎧を身にまとい、ミュウツーは検査に次ぐ検査を受けて辟易していた。スノウライトの「んー」という生返事も鼻につく。いかにも形だけの確認っぽい。しかし不遜な態度とは裏腹に、彼女の手元は制御盤の上を目まぐるしく踊り狂っていた。まるでプログラミングの演奏会だ。転送装置のシステムと、ミュウツーのインターフェースを、この上なく繊細な協奏曲でも演じるかのように繋いでいた。
 仕事だけなら立派なものだ。ミュウツーは密かに称賛を送った。
「お前も機械工学に長けているとは知らなかった」
「知識だけならな」スノウライトは制御盤のモニターに目を釘づけたまま返した。「ブライスと違って、私はあくまで理論派だぜ。悲しいかな、実際にエンジンの中を這い回ってきた奴の腕には敵わねえ」
「理論を証明したいとは思わなかったのか?」
「あいにく私には血も涙もない、ついでに言えば情熱もない、氷・ゴーストタイプのユキメノコ様でね。何がなんでも理論を実証したいと思うほどの熱がないのさ」
「今回のように大勢の命が掛かっていても、ドライでいられるのか?」
「いられるね。だから私は間違えない」
 なんという自信家だろう。ミュウツーは肩をすくめて視線を泳がせた。
 泳いだ先に、ビクティニがいた。彼女はすくめた肩の上にちょこんと乗っている。不意に視線が合うと、彼女はにっこりと頬を緩ませた。
「ぼくとミュウツーの最強コンビ、半世紀ぶりに復活だね」
「もう二度と乗せることはないと思ったが」
「昔はぼくがいないと何もできなかったのにねぇ」
「逆だ。リバティガーデンに囚われて何もできなかったお前を、俺が助けてやった」
「そういうことにしてあげる」
「まったく、憎たらしいところは何も変わらないな」
 ふと気がつくと、スノウライトが手を止めて、訝しげにこちらを見つめている。
 ミュウツーは片眉を上げて返した。
「なんだ?」
「ずっと気になっていたんだけど、お前らって……」
 言っている間に、また船がぐらりと揺れた。壁や天井がミシミシと音を立て始める。明らかに危険な兆候だ。
 それを受けてか、ブリッジからの通信が流れた。
『ウォーレンより機関室、応答しろ』
「こちら機関室」スノウライトが応答する。「どうなってやがる?」
『重力フィールドが崩れつつある。サルベージチームもいよいよ限界だ』
「残りの猶予は?」
『あと半刻ももたないだろう。スノウライト、作戦の進み具合はどうなっている?』
 スノウライトは渋い顔を浮かべながら、ディスプレイを見上げて続けた。
「船の外部センサーとミュウツーの神経との間で、ニューロン・リンクを形成した。これからいくつかテストをするぜ」
『エネルギー不足の問題は解決したのか?』
「それには昔ながらの方法を試してみようと思う。ビクティニの特性『勝利の星』で、ミュウツーのサイコパワーを増幅させれば、理論上は足りるはずだ」
 ゴゴゴゴ……。
 またしても、嫌な地響きと共に船が揺れた。ギシギシ軋む音が増していく。今にも船の骨格が折れてバラバラになりそうだ。
 彼らはまだ知る由もないが、船の耐久度は限界に達していた。海面から上は重力により引っ張られて、海面下では虚数世界の引力とギラティナに引き寄せられている。船の崩壊は目前に迫っていたのだ。
 さすがに血も涙もないスノウライトさえ、焦りを隠せなくなってきた。
「こりゃあ思ったより猶予はなさそうだな」
『テストに時間をかけている暇はない、すぐに作戦を実行に移せそうか?』
「ぶっつけ本番なんて正気の沙汰じゃねえが、贅沢も言ってられねえな」
 というわけで、とスノウライトはミュウツーたちに振り返った。
「神頼みの用意ができたら言ってくれ、今こそ理論を実証する時だぜ」
「いつだって神頼みだな……!」
 言っても始まらない。否が応でも決着の時だ。
 ミュウツーは諦めたように視線を流して、前傾姿勢で身構えた。そして金色の輝きを放つビクティニと揃って、全身から邪悪な黒いオーラが湯気のように昇り始める。溢れる莫大なサイコパワーが、機関室を超えて船中を覆い始めた。

 *

 海面の上で脱出に向けた決死の試みが始まる頃、海面の下でもいよいよ決断の時が迫りつつあった。詳細にスキャンしたギラティナの記録を読み解くにつれて、乗組員の表情に驚きが覆っていく。
 誰もが怪物だと思っていたものの正体は、ギラティナだった。それだけで驚くべき事実だが、しかも、地球で生まれたポケモンだと言うのだ。
「間違いありません」制御盤からデータを確かめて、シラモが断言した。「このギラティナは地球出身です、量子特性が一致しました」
「そんなはずがない」ノクタスは困惑していた。「ここは地球からワープライド係数五で飛び続けて三ヶ月かかる距離ですよ、ギラティナが自力で来れる場所じゃない」
「それに」ミオも続く。「ギラティナはちゃんと地球にいて、反転世界を守っているはずだよ。ギラティナは唯一無二の存在だから、二匹いるなんてありえないのに」
「距離は関係ありません」シラモは丁寧に返した。「この虚数世界においては、物理的な概念は意味を成しません。実際のところ、今こうして話している我々もあくまで量子情報同士の接触がもたらす、複合量子シミュレーションに過ぎませんから」
 なるほど、と聞いていたミオとノクタスは、頭にふわふわ疑問符を浮かべる。
 シラモは構わずに続けた。
「唯一の存在が二匹いる理由は分かりませんが、量子特性の一致は変えようのない事実です」
「そのギラティナが、船にしがみついているようにも見えるっス」ブライスは渋い顔で画像を見つめながら言った。「ひょっとすると、この子もここから抜け出したいのでは?」
「妥当な仮説ですね」シラモも頷いて肯定する。「もしもそうだとすれば、すべての行動に説明がつきます」
 乗組員の顔に安堵が広がっていく。未知は時として恐怖を誘う。それを解き明かしたことで、安心と意欲が湧いてきた。
 残る問題は、いつ脱出できるか。それだけだと思っていた。
「ギラティナも一緒に出られるの?」
 ミオの問いに対して、シラモは首を横に振った。
「非常に残念ですが、ギラティナは助かりません。量子情報の大部分が劣化しています。このまま脱出すれば、身体の分子結合が崩壊して死に至ることでしょう」
「どうして!?」
「虚数世界に長く浸かり過ぎたんだ」あのバークが、いつにも増して真剣な口振りで答えた。「普通なら数時間で死ぬが、奴はギラティナ、反転世界の神だ。むしろああなっても生きていられる奴が哀れだね、全身を炎で炙られるよりもさらにひどい苦痛が続いているはずだ」
「そんな……」
 ミオはふらっと目眩に襲われた。
 あまりに想像を絶する。息の詰まるような暗闇の底、誰も何もいない場所で、たったひとり、身を焼かれるような痛みに耐えながら、ただ死を待つだけ。もしもそれが自分の身に起こったら、数日のうちに死を懇願するだろう。この痛みを終わらせてくれ、と。
 そんなギラティナにとって、プロメテウスは最後の希望に見えたに違いない。必死に縋りついて、生きたいと願っている。プロメテウスに救いを求めている。それなのに……。
「何か……何か方法があるはずでしょ!?」
 ミオは目尻に涙を浮かべて訴える。だが、誰もその声に向き合おうとはしなかった。できなかったのだ。それを察したとき、ミオは言葉を失った。彼らに何も言えなかった。どうしようもない己の無力さを思い知らされているのは、皆同じだったから。
 誰もが諦めていた。そう思われた。ひとりを除いて。
 ピ、ピ、ピ。
 先ほどからずっと鳴り続けていた電子音に、どうして誰も今まで気づかなかったのだろうか。はじめに気がついたのは、シラモだった。
「……ミスター・ラクール?」
 一度呼んでも返事がない。乗組員が次々と顔を上げて、彼を見ると、ラクールは何やら熱心にタブレット端末と睨めっこをしていた。
「ミスター・ラクール」
 二度目にも返さないので、彼のパートナーであるルカリオが見かねて、ラクールの横っ腹を小突く。ようやく視線に気づいた彼は、ギョッと驚いていた。
「なんだい?」
「さっきから何をしているのですか」
 問われて、ラクールはキョトンとしていた。みんなこそ何をしているんだ、と言わんばかりだ。
「ギラティナを助ける方法を考えているんですよ、皆もそうじゃないのかい?」
「話を聞いていなかったようですね。助ける方法はありません」
「それは今までの常識、そうでしょう? 我々は探検家で、常識に囚われない発想をするのが仕事だ」
「妙案があるのなら、ぜひ聞きたいところですね」
 よしきた。と、ラクールは得意になって語り始める。
 熱に浮かれた料理人が、めちゃくちゃな素人意見を飛ばしているだけだろう。誰もがそう思って聞いていたが、熱意を込めて語る彼の言葉に、自然を耳を傾けていた。
「ギラティナの量子情報をそのまま実体化すると、分子間が離れ過ぎて身体が崩れてしまう。焼いたパンが膨張しすぎて、中身がスカスカになってしまうようにね。それなら分子間の距離を圧縮して、分子の安定性を確保すればいい。パンを小さくすることで、旨味をギュッと凝縮して閉じ込めるんだ」
「では、どうやって分子間を圧縮するんですか?」と、シラモが尋ねると。
「それが分かれば苦労しないよ」ラクールは肩を落とした。
 良い線いってたのにここまでか、とため息が漏れる。だが、ラクールの熱意は飛び火していた。
「モンスターボールだ!」思わずブライスは指を鳴らした。「あれはポケモンの習性を利用して、身体を小さくしてしまうんス! 分子間の圧縮っスよ!」
 本当にそんなことが、とシラモは驚いていた。メガロポリスはモンスターボールといった格納技術と縁遠く、話を聞いて「なるほど」と深く頷いた。
「しかし課題はまだ残されています」シラモは前向きに続けた。「たとえボールで保護しても、ギラティナは二度とボールから解放できません。現実世界で大きくなった瞬間、分子結合が崩壊してしまいます」
「だからギラティナには悪いけど、パソコンボックスに入ってもらうしかないっスね」
 パソコンボックス?
 地球文化に馴染みのないシラモは、さらに首を傾けた。

 *

「船体強度一七パーセント、低下止まりません!」
「重力フィールドが消失! 船が沈み続けています!」
「操舵コントロールは依然不能!」

 ブリッジには耳を塞ぎたくなるような報告が相次いで流れてくる。既にブリッジの半分が海に飲まれ、ウォーレンたちは隅に追いやられていた。
 あともう一度船が揺れたら、ブリッジは完全に水没してしまうだろう。目と鼻の先に迫ってきた波打つ壁を見据えて、ウォーレンは覚悟を決めた。
「スノウライト、もう限界だ! 今すぐ作戦を開始しろ!」

 *

 とうとう機関室の壁から、海面の壁が滲み出てきた。
 まずい、まずい、まずい! スノウライトは声高に叫んだ。
「んなもん言われなくても分かってるよ!」
 たかが自然現象ごときに気を取られるな、自分の仕事に集中しろ。言い聞かせながら、冷や汗伝う頬を引きつらせて制御盤を見守った。
 機関副主任のエースバーンは、モニターに出てきた数値を読み上げる。
「ミュウツーのエネルギーレベル上昇、九〇パーセントを突破!」
 ははは、と思わず笑いが溢れてしまうぐらい順調だ。
 ミュウツーはビクティニの加護を受けて、ますます力が膨れ上がっていく。理論値を上回る勢いだ。はたから見れば、やけに邪悪で荒々しいオーラを放っているが、作戦に支障がなければ別にいい。スノウライトは計画通り、次のフェイズへと進めることにした。
「改良したセンサーで虚数世界に沈んだ船体を捕捉したぜ。データをミュウツーのインターフェースに転送する!」
 テレポートには繊細なコントロールが要求される。空間、時間、物質を正確に把握して、初めて座標から座標へ飛び移るテレポートが可能となる。
 ミュウツーにはその才能がなかった。しかしテクノロジーが支えになってくれる。今までぼやけて見えた世界が、その瞬間、初めて鮮明に見えた。
「これは……なんだ……!?」
 想像もしていなかった世界が広がっていた。彼は知らなかった。世界がこんなにも彩り豊かで、繊細で複雑で、美しい形をしていたなんて!
 エースバーンは小さくガッツポーズをしながら報告した。
「エネルギーレベルが百パーセントで安定しました、転送準備オーケー!」
「本当にそうか?」スノウライトは怪訝そうに言った。「ミュウツーの奴、何だか様子が変だぞ。バイタルはどうなっている?」
 心配する声をよそに、ミュウツーは穏やかに息を吸って答えた。
「不安そうな声を出すな、むしろ最高に心地いいぐらいだ」
「そう言われると、心配になってくるんだよ。本当に任せて大丈夫なんだろうな?」
「沈んだ船はちゃんと見えている。乗組員の姿も、奴らの筋肉の動き、毛細血管ひとつひとつまで、あらゆる物が見える。これはまるで……いや、言葉で言い表すことができないほど、すばらしい……」
「ならいい」
「いいの!?」と、ビクティニはミュウツーの肩から飛び跳ねた。
 さあいくぞ。スノウライトは息を吐いて、制御盤に手を置いた。
「ミュウツー、私の合図で転送を始めるぜ」
「いつでも来い」
 臆する間もなく、ミュウツーは答えた。言いやがったな、後悔するなよ。スノウライトは苦し紛れに口角を上げて、賭けに出た。
 ポチッとな。
「転送開始!」

 *

 虚数世界に沈んだ船が大きく揺れ始めた。今までとは違う揺れ方に、乗組員の間で動揺が広がる。船だけでなく、自分たち自身も揺れているようだった。
 制御盤をせわしなく叩きながら、シラモは現状を告げる。
「船全体に量子流動が起きています」
「転送だ! 上のみんなが気づいてくれた!」
 ブライスの声は興奮で上ずっていたが、諸手を挙げて喜んでいる訳ではなかった。脱出が早すぎる。
「ブライス少佐、準備はできましたか?」シラモが尋ねると。
「ギラティナを転送するボックスサーバーの用意がまだっス!」
 だからって諦めてたまるもんか。奥歯をしばって、制御盤に食らいついた。
「時間がないっス、もう始めてください! 一分間だけなら量子パターンをバッファに保存できる!」
「その一分間でボックスサーバーを整備できますか?」
「あたいひとりじゃ無理だけど……」
 手伝ってくれますか?
 ブライスの視線を受けて、シラモは確かに頷いた。そして彼女に背中を預け、通信端末に手を伸ばした。
「シラモよりミオへ、今よ」

 *

 裂けた隔壁から、ミオは真っ暗闇の虚数世界を見下ろしていた。底の見えない深淵を覗き込むと、言い知れない不安に襲われる。だが今はひとりじゃない、みんながいる。そして、船にしがみついている三本の触手の主が、この暗闇の中にも。
「ごめんねギラティナ、ちょっとビックリさせちゃうけど我慢してね……!」
 声が届いたかどうかは分からない。だが、きっと聞こえたはずだ。
 ミオはボールを握りしめ、思いきり振りかぶって。
「いっけぇ、モンスターボォール!!」
 矢のように鋭く、鉄砲玉のように勢いよく、見えない影の王めがけてボールを投げた。

 *

「あ、が、あぁぁああ……!!」
 ミュウツーを覆う鎧がギチギチと音を立てて擦れ合う。身体が異様な痙攣を起こし、コードをひとつ、ふたつと引きちぎって、その身体ごと崩れ落ちた。
「バイタルサインが突然不安定に! ショック状態です!」と、タブンネは計測器のモニターを見ながら叫んだ。
「ネマシュリンを五〇CC投与!」
 ビクティニが要求すると、タブンネが素早く皮下注射スプレーを手渡した。鎧の隙間からプシュッと打ち込み、ごくりと唾を飲んで見守った。
 薬の効き目はすぐに現れた。激しく上下していたバイタルは、穏やかな波の形に戻っていく。
 ほっと胸をなでおろすのもつかの間、スノウライトに対する激しい怒りが腹の底から込み上げてきた。
「あなた、大丈夫だって言ったじゃない!!」
「転送中に異常を検知した」スノウライトはモニターを睨みながら返した。「何かがアンカーのように船を引っ張ってやがる。おかげでミュウツーの神経系に過剰な負荷が生じちまった」
「作戦を中止して、今すぐに!」
「ここまで来てやめられっかよ! センサーを補正して、もう一度ロックする!」
「彼を殺す気なの!?」
 そんなこと絶対にさせるもんか!
 ビクティニの額に激しい炎が灯るも、低い呻き声がそれを止めた。
「び、ビクティ……止め、るな……」
 ミュウツーは立てない身体を自らの念動力で支えながら、外れたコードを挿し直していく。息はゼエゼエと荒く、今にも気を失いそうだ。
 とても続けられる状態ではない。だが、その鬼気迫る勢いに、誰も異を唱えられなかった。ビクティニでさえも。
 その覚悟を、スノウライトは喜んで買った。
「ターゲット、ロックオン! 転送開始!」

 *

 白い波動が船を包み込んでいく。重力の泡を破いて、それは海の下へと広がっていく。量子を揺るがすサイコパワーが、境界を越えて虚数世界に溶け込んでいく。
 はじめに気がついたのはミオだった。
 手に戻ったボールをしっかりと掴んで、海面から射し込む神々しい光をまぶしそうに見上げて叫んだ。
「みんな外を見て! 海が!」
 暗黒の海に沈んだ船を、太陽のように明るく照らし出す。それは切り離されてしまった仲間たちを、優しく包み込んでいるようだった。
 沈んだ乗組員たちも続々と窓際に押し寄せて、光に導かれるように、輝く海面を仰いだ。心の片隅にくすぶっていた不安や恐れが、すーっと晴れていく。長い夜が、ようやく明けようとしていた。
 量子の光に覆われて、沈んだ船が浮かび上がっていく。少しずつ海面が引いて、ひとり、またひとり、乗組員が実体を取り戻していった。
「やったぞ、みんな助かったんだ!」
 手足を振り回して、人とポケモンは歓喜に沸く。無事だった乗組員たちが続々とやって来て、互いに再会の喜びを分かち合った。

 *

「虚数世界から脱出しました!」
 すっかり機能を取り戻したブリッジに、待ちに待ったエルニアの第一声が響き渡る。拍手に溢れて、皆が互いの仕事を称えあっていた。
 エルニアは引き続き、座席の上で飛び跳ねたい衝動を堪えながら報告した。
「ワープライドエンジンが復旧! 全システム、オンラインです!」
 ウォーレンは胸を張って、スクリーンから海を見渡した。
「ワープライド・ドライブを起動しろ。全クルーの安否を確認したら、ただちに発進だ!」

 *

 船中に歓声が広がる一方で、まだ戦いは続いていた。
 電力網が完全に復旧したおかげで照明が戻り、手元が明るくなった。だが、シラモとブライスの顔に安堵の色はない。
 指の先まで神経を張り詰めて、コンマ一秒の争いに臨んでいた。
「ギラティナがボールから転送されました」シラモは矢継ぎ早に言った。「量子パターンをバッファに保存しましたが、情報の劣化が始まっています。すぐに物質化しないと手遅れです」
「副長は量子変換マトリクスの調整を頼むっス! あたいはボックスサーバーをギラティナの最適環境に設定します!」
 モニターに目を貼りつけて、指をひたすら制御盤に走らせる。安否の確認にやって来たラッキーが「ご無事ですか?」と声をかけても、ブライスは眉ひとつ動かさなかった。
「グレイスランド博士の反物質世界モデルをボックス空間に転用、転移フィルターを設定……」
 返事のかわりに独り言がこぼれ落ちる。
 これほど濃密に、そしてめまぐるしく過ぎていく一秒はない。しかし確実に一秒が過ぎていく。
「あと二十秒」
「待って待って待って待って!」シラモに言っても仕方のないことを、駄々をこねるようにブライスは叫んだ。「あと少し、あと少し、あと少し、あと少し!」
 どれだけ一秒を願ったところで、覆水は盆には帰らない。命のロウソクが、コンピュータの中で尽きようとしていた。
 十、九、八……もうなりふり構っていられるか!
 ブライスは制御盤を掴んで、コンピュータの音声認識システムが決して聞き漏らさないよう、大声で命令を叫んだ。
「コンピュータ、セキュリティ・クリアランスをオーバーライド! 認証コード、ブライス・デルタ・ファイブ!」
 すべての承認システムを無視するための、上級士官にのみ許された最強の特権。ブライスは立て続けに言い放った。
「次の命令を最優先で実行せよ! バッファ内部の量子パターンをただちにボックスサーバー『反転世界』に保存!」
『保存に必要な容量が不足しています。コンピュータ・メモリの削除を承認しますか?』
「承認する!」
『命令を実行します』
 最後に機械的な音声が流れて、船中の照明が真っ暗になった。電力を消費しない化学反応による青い非常灯だけだ。照明システムが完全に機能を失っていた。
 遠くの歓声がどよめきに変わる中、シラモは囁くように尋ねた。
「うまくいったのかしら」
「……たぶん」
 生還した乗組員の喜びを、再び恐怖に陥れたのだ。成功してもらわないと困る。
 暗闇の中で、シラモとブライスは互いを見合わせ……くすりと笑った。

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