Episode-6 おれは、おれ自身が大嫌いなんだ

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 目を覚ます形でカケルが意識を取り戻したのは、風の吹き抜ける屋上ではなかった。突然の景色の変貌に理解が追いつくはずもなく。広々とした明るい外の世界から一転、独房のような狭く暗い空間に自分の体が横たえられているのだとわかるまでに、一定の時間を要した。そして、視界で異変を感じ取った後に、深呼吸しようとした口が塞がれている――布で猿轡を噛まされていた事に、ようやく気づくに至った。
 身動きを封じるために手足も縛られた状態で、ひとまず周囲の様子を把握しようともぞもぞと藻掻くのも束の間。背中に激しい衝撃を受け、埃を巻き上げながら体は宙に放り出される。土と鉄の臭いの他に、鼻を衝く嫌な臭いも感じるが、それが何かを判別する余裕もなく。受身も取れずに、壁まで体が転がっていく。這いつくばりながらも、カケルには未だに闘志はある。一瞥しようと持ち上げようとした顔が、上から容赦なく足で踏まれた。足の裏から伝わる熱と、視界の端に見える白い二足で、それが先日対敵したゴウカザルの物だと即座に判別する。ぎりぎりと踏み潰す勢いで力が加えられる中、カケルは塞がれた口で反抗の意思だけでも露わにする。
「ふーっ、ふーっ!」
「おうおう。いっちょまえに吠えようとしてるのか? 正義のヒーロー気取りの少年よお!」
 絶望に打ちひしがれるのではなく、抗おうと敵意を剥き出しにする。仇為し、敵対する存在である少年の、勇ましさすら感じる意思は、ゴウカザルにとって気に食わないものに違いない。以前対峙した敵の一体は、かつて味わった鬱憤を晴らすかのように、無防備なカケルの腹部を足蹴にする。ごほっ、と肺から絞り出されるような息すら、塞がれた布でまともに吐き出すのを許してはもらえない。苦しみに喘ぎながらも、怒りの炎を瞳に宿し、カケルはゴウカザルを鋭く睨みつける。ゴウカザルは愉快そうに笑い声を上げ、カケルの両耳を掴んで引っ張り上げた。先の戦闘で負った傷は治りきっているはずもなく、今の衝撃で傷が開き、包帯越しにじわりと赤が滲む。苦悶の色が広がるカケルを見て、ゴウカザルはさらに愉悦に浸る。
「そろそろその体も馴染んできたか? 元人間の坊ちゃんよ。姐さんがな、お前は大事な実験体だから、その“お楽しみ”までここにぶち込んでおくんだと。弱らせては欲しいが、丁重に扱えって言ってたんだけどよぉ。こちとら腹の虫が治まらねえんだよ。いつもお前みたいな奴に、ことごとく活動を邪魔ばっかされてると思うとな」
 後ろ手に縛られた縄は、どんなに力を入れても解けそうにない。足も纏めて括られていて、自慢の足技を使う隙もなく、攻撃らしい攻撃も出来ずに抵抗の余地もない。口まで封じられていては、為すがまま、されるがままの状態。だが、耳を掴まれている今でも、なりふり構わず足掻くくらいは出来る。体を捩って暴れようとするカケルに、いらつきの篭った拳が深くめり込んだ。衝撃を受けた後で、びくんと体が痙攣したように揺れる。元々息がしづらい状態で、激しく体を揺さぶられれば、なおの事息が詰まるというもの。このまま呼吸困難で死なれては元も子もない。苦しむ様子のカケルを見て、至極不快そうに舌打ちをしながら、ゴウカザルは猿轡を焼き切った。
「殺すなっては言われてるからな。エースバーンってのは口から技を吐くやつでもないし、これくらいなら自由にしてやっても良いだろ。一方的に良いように殴られてる気分はどうだ?」
「その顔、また蹴り飛ばして、顔面から転ばせてやりたい気分だぜ」
 口腔に溜まっていた唾液を吐き出して、カケルはこれでもかと煽ってみせる。それは、正義は悪には屈しないという、意思の表れの一つ。涙の一つでも浮かべているなら話は違うが、生憎とカケルはそういう意味で可愛げのある者でもない。生意気な少年への返答代わりに、今度は炎を纏った拳が、無防備な腹部に突き刺さった。それも、一撃には留まらない。背後の壁に押し付けられているせいで、突きの一つ一つが重く、鋭く見舞われる。めきめきと音を立て、全身の骨が軋む。幾度となく拳がめり込む度に目は見開き、肺から全ての空気が押し出される。
 だが、カケルという少年は、正義のヒーローと言う名の下に屈強だった。悲鳴も上げない。怒りも絶やさない。対敵を鋭く睨みつけ、弱みを見せないようにと、意識を保ち続ける。ただ、元は人間に過ぎない体ばかりは、痛みに慣れきれずに正直で。胃の中がぐるぐる攪拌される違和感に堪えきれず、目を見開き、食い縛る歯を押し退け、カケルは地面に向かって喉からせり上がるありったけを吐き出した。びしゃびしゃと地に落ちる吐瀉物に、特段一瞥こそくれないが、ゴウカザルは目を吊り上げる。ぜえぜえと一段と苦しそうに呼吸を繰り返す少年の耳を握る力が強くなる。
「そうか。まだそんな事をほざいている余裕があるってんなら、少しは付き合ってくれるよなぁ?」
 もはや交わす言葉もない。尋問でも拷問でもない。ゴウカザルから絶え間なく繰り出されるのは、一方的な虐待。殴る、蹴るを続ける度に、腹部を中心に傷が増えていく。痣だけでなく、叩きつけられる衝撃で、擦り傷もあちこちに生まれる。打撃を見舞われる度に、声にならない声で嗚咽が漏れる。情報の引き出しが目的の尋問ならば救いようがあるが、これはただの憂さ晴らし。インターバルもない応酬が、体の芯まで揺さぶる殴打が、カケルの体を容赦なく襲う。
 もう何も吐くものはないと、唾液ばかり零れだしていたカケルの口から、赤色の反吐が飛び出す。地面を染める赤が、自身の口から出たものだと認識するだけの思考すら、今のカケルには出来なかった。空気を求める魚のように、口をぱくぱくとさせる。疲弊と損傷が酷い体は、それくらいしか命令を受け付けてくれない。それでも、ヒーローとしての誇りだけは失うわけには行かなかった。悪に屈する道など取るわけにはいかない。意地にも近い我慢強さで、カケルはひたすらに攻撃を堪え続ける。満足に息すら吸えない状態でも、カケルは不敵な笑みを絶やさなかった。
 自由の利かない体に一片の余裕などあるはずもない。囚われの身で、明日をも知れぬ窮地に立たされている。だのに、攻撃をもろに受け続けてもなお、強固な意思だけで歯向かい続ける。ただの少年だと侮っていた相手の、折れる事のない姿に、ゴウカザルは殴打による快感とは裏腹に、沸々と怒りが煮えたぎっていく。その感情を顕わにするのを見逃さず、カケルは薄目を開けながら一笑に付した。
「へへっ……おれをいたぶって、満足、かよ。いつか、ぶっ飛ばされたの、根に持ちすぎなんじゃ、ねーの――がはっ!」
 耳を掴んでいた手を離し、ゴウカザルは鳩尾に蹴りを加えた。壁に勢いよく叩きつけられたカケルは、ずるずると力なく床に落ちる。だが、着地させる時間を与えず、壁ごと打ち砕く勢いで蹴りが炸裂する。冷たく硬い壁は到底クッションの役割など果たすはずもない。カケルの体は内側から凄まじく揺さぶられ、さらなる地獄へと誘われていく。口の端から激しく零れる赤が、白い体毛を染めていった。
 ゴウカザルの本来の目的は、カケルを抵抗出来なくなるまで弱らせるもの。しかし、既に主人との契りを逸脱し、限界をとうに越えていた。歯を食い縛り、ひたすらに痛みを堪えるばかりになるカケルの体を踏みにじり、蹴り飛ばし、壁に叩きつける。その度ごとに埃と土に塗れていた地は赤く染まる。ポケモンになった恩恵として、頑丈になった故に意識が失せない程なのは幸か不幸か。どれだけの打撃を打ち込まれようと、傷が出来て血反吐ばかりが喉元を過ぎようとも、カケルは獣の如き鋭い眼光を絶やす事はなかった。いくら手酷く傷つけようとも、反抗心剥き出しで睨みを利かせてくる敵対者に、ゴウカザルの苛立ちは募るばかり。いつからか愉快さを上回って積もりに積もったイライラも、遂には我慢の限界に達した。
「その真っ直ぐな目がうざってえってんだよ。何で姐さん達がこいつに目をかけるのかわからねえ。ああ、クソガキの癖して、本当にいらつくヒーローだなあ!」
 ここから先は命令から一線を越えていた。怒号と共に蹴りが放たれ、サンドバッグ状態のカケルは壁に顔から叩きつけられる。鮮血の花が壁を濡らし、体は抗う術なく地面までずり落ちる。それでもなお、もぞもぞと動いた後に、カケルは変わらぬ敵意を視線に篭め、ゴウカザルを射貫いていた。その瞼は半分閉じて、ほとんど霞む状態ではあったが。絶える事のない抵抗の意思は、未だ精神も成熟しきっていない少年が見せるものにしては、空恐ろしさすらあった。
 ぼやける視界に映るゴウカザルは、背を向け部屋の外へと歩みを進めていた。もはやカケルに攻撃を加える事に何の興味もなく、いたぶる意欲も失せているようだった。一向に屈しない様子に萎えたのか、ただひたすらにこの場を後にしたい意思すら感じる。振り返る事すらせずに扉の前まで辿り着いたところで、ゴウカザルは大層不満げに、だがどこか吹っ切れて落ち着いたように、大きな溜め息を漏らす。
「減らず口も叩けないようにしてやりたいところだが、姐さんとの約束を破るわけにはいかんのでな。てめえにはどのみち死ぬ自由もねえよ。無力を感じながら、黙ってそこでくたばっておけ。どこまで持ち堪えられるのか見物だな。助けが来るなんて期待しない方が良いぜぇ?」
「ぐ、がはっ……! 逃げ、んのかよ。まだまだ、屈したり、なんか、しねーぜ?」
 途切れ途切れの虚勢に、赤い吐瀉物が混じる。カケルが挑発を込めて呼びかけようとも、飽きを感じたゴウカザルの足を止める事はなかった。姿が消える直前、ぎらりと鋭い睨みを向けたが最後、その背中はカケルの視界から見えなくなった。
 外界へと通じる扉が、ばたんと乱暴に閉まる。残虐な仕打ちの後に残されたのは、鉄の臭いが充満した部屋に、襤褸雑巾のようになって横たわるカケルのみ。徹底的に痛めつけられた体に、身動ぎする力は残されていなかった。弱々しく咳き込む度に、全身が軋む痛みに苛まれる。口の中はぐちゃぐちゃで、残った胃液の酸っぱい味なのか、血の鉄っぽい味なのか、その判別すら出来ない程に弱っていた。
 呼吸をするのに精一杯で、何かを考える余裕すらない。意識を保てているのが不思議なくらいで、少しでも気を抜けば夢の世界へと誘われそうになる。ずりずりと音を立てて、僅かに体を引きずるくらいが関の山。再三に渡って痛めつけられた事で、全身が酷く重い。自力で動けないが、かと言って命乞いなど毛頭するつもりもない。助けが来るのを願うくらいが、折れそうな心を保つ唯一の救いだった。だが、監禁ではなく実験が目的の地獄は、まだ始まりに過ぎなかった。

 独房に放り込まれて、既に何時間経過したかわからない。太陽の光すらも拝めない空間では、もし一日以上経過していたとしても、時計のない場所では知る由もなく。凄惨なリンチを受けた体はもはや空腹感さえ覚える事もない。外の光さえ見えないカケルにとって、狭く暗い空間に押し込められる事は、気の遠くなるような拷問に他ならなかった。時間の経過だけでは治るはずもない怪我が定期的に疼き、咳き込む度に回復しかけていた体力が奪われていく。まだそれだけならば、いつかは体が動くくらいの回復も見込め、虫の息で辛うじて呼吸を続ける状況からの脱却も図れたものだが。時折訪れるゴウカザルが、それを許してはくれなかった。
 ポケモンとは言え、生物である事に変わりはない。栄養を失って餓死しないようにと、食事が運ばれてきた。だが、度重なる暴行で胃も喉もずたずたのカケルがそれを受け入れられるはずもなく、大前提として敵から提供されるものをおいそれと口に含むはずもない。弱りつつある体を慮り、傍目には栄養摂取目的で白衣姿の男が点滴に訪れる。嫌な予感しかしないカケルは当然暴れるが、ゴウカザルはさらなる仕打ちを以って黙らせる。――否、正確にはゴウカザルは大した事をしない。せいぜいがカケルが暴れるのを鎮めるために、一撃を見舞うくらい。その後におとなしくなったところへ点滴を打たれる。動けない体に見舞われる一撃は大して強くもなく、点滴は確かに体が自ずと欲しているものである事は、その後の充足感で得られた。単なる栄養にしては嫌に体が火照る感覚を覚えるが、少なくとも力が湧くだけましというもの。問題は、その後だった。
「姐さんも趣味が悪い。本当にこいつを生かすつもりがあるのか、それとも耐えられるか試してるのか……まあ、良い。行け」
 ゴウカザルに促されて出てきたのは、紫色の毒々しい汚染物質、ヘドロの塊。人類が生み出した排気物質から生まれたと言われる、ベトベトンと呼ばれるポケモンだった。部屋の中に入ってきた瞬間に、ヘドロ特有の悪臭が一気に立ち込める。この部屋に放り込まれた時に感じた臭いの正体は、このベトベトンだとようやく理解した。
 カケルの頭の中で警鐘が鳴り響く。ゴウカザルも相手にしたくない手合いだが、あくまで拳を交えたり、向こうの意思で一方的に殴られたりする時の話。だが、このベトベトンは違う。毒タイプである事も知識として知っていて、存在そのものが危険なのだと、カケルの直感が告げていた。
 ゴウカザルにいたぶられた時よりも、白衣の研究員が近づく時よりも、カケルは反射的に抵抗の意思を見せる。意思はあるのだが、体が言う事を利いてくれない。辛うじて体が揺れ、喘ぎのような焦りの声だけが漏れるばかり。ゆっくりとした足取りのベトベトンが近づくまでに、状況は何一つ変わらなかった。ぐちゃぐちゃと音を立てて迫る体が、覆い尽くすようにしてカケルに纏わりつく。それが、地獄の始まりだった。
「――っ、がぁあああああっ!?」
 粘着質のヘドロが触れた瞬間、全身の傷という傷が熱を帯びていった。傷口からじわじわと何かが流れ込み、体が侵されていくのを感じる。痛みと熱で声にならない声が零れ、それはすぐに絶叫に塗り潰され、毒が回っているのだと気づくまでにそう長くはかからなかった。注射で打ち込まれる“何か”による熱の比ではないくらい、全身が熱くなる。その直後に一気に悪寒を感じ、頭が激しく揺さぶられ、酔いが回った時のような酩酊感に苛まれていった。あまりの気分の悪さに、立ち込める臭いなどこの際どうでも良くなる。全身を巡る毒に感覚を掻き乱され、“こんらん”状態でもないのに眩暈が酷くなっていた。
「そいつは“ポケルス”に感染した個体だ。傷だらけの体でそんな奴に接触したら、猛毒だけじゃ済まないだろうさ」
「が……あ……?」
「もっとも、まともに意識が残ってるかもわからんがな。点滴の方にはお前を生かすためか、何やらキノコとかのエキスが入ってるとか言ってはいたが、せいぜい猛毒かポケルスの副作用で死なないようにでも祈ってるんだな」
 名目上として栄養目的の注射は、皮肉にもその後に効き目がある事は何となく感じていた。時折全身の傷が疼くような熱を感じるものの、点滴自体が害を及ぼしている気はしない。だが、ベトベトンから注がれる紫色の液体は、言わずもがな猛毒。しかもただの毒とは異なる点があった。触れられる度に、衰弱していた体の内側が、火をくべられた薪のように燃える。かと思えば、針で全身を刺されたかのような激痛に蝕まれ、炎タイプの体を以ってしても堪えがたい高熱を帯びていく。間違いなく劇薬の類。注入される回数が増えれば増える程、身の危険を嫌と言うほどに感じる。
 実験動物のような扱いに耐えつつも、一方で別の恐怖――自分が自分でなくなるような不安感が忍び寄っていた。心の内で抗おうとも、まるで別人格のように湧き上がる感覚が無視出来ずにいた。その原因はちょうど、ベトベトンによる汚染が二回目を数えた時。傷の痛みも、毒の苦しみも、異物の辛さも、全てが意識を刈り取るような責め苦をカケルにもたらして、少し落ち着いた頃。びくんと身体が震え、瞬間的な謎の快楽に溺れかけ、違和感は突如として、自覚出来るものとして色濃く表れた。
 人間の身体からエースバーンの身体への変化は、身長の縮小や手足の先の感覚こそ違えど、同じ二足歩行という事もあって大きな支障とまでは至らなかった。だが、あくまでも単純な動作についての話。実際には体の軽さや可動箇所などに差はあって、己の身体でありながら人間の頃ほど五体満足に動かせないというジレンマはあった。それはいかに精巧な義手であろうと、本物の手と寸分違わぬ働きをしないのと同じように。故に、いくつかの特訓や戦いを経て、カケルはエースバーンの身体に“慣れてきただけ”というのが正しい認識だった。
 しかし、その感覚が、ゆっくりと崩壊しつつあった。元人間がポケモンの身体を扱っているというものから、自分の身体としての違和感が薄れていったのだ。まるで最初から、自分はポケモンだったかのような気さえして、慣れよりも馴染みという感覚が適切だとさえ感じる。その時は熱に浮かされているのとは別に、酩酊感に大きく支配され、ポケモンである事に対して心地良さを覚えていた。それは一定時間が経つと、傷の疼きと共に現実に引き戻される幻想のようで、思い返すと何故その状態に陥っていたのか、自分自身で疑心暗鬼になるほど。その不可解さに疑問は残るものの、深く考えるだけの余裕は、すぐさまカケルから奪い取られていく。
 毒に混じった劇薬が体を巡る度に、裂帛の叫びが牢内に木霊する。研究員は顔色一つ変えずに栄養の方の投与を終え、ゴウカザルは冷徹な目で見下ろすばかり。叫んでいる時の声が、自分が発しているものだという感覚すらない。悲鳴のような、断末魔のような、苦しみしか感じない声を自覚出来る余地すらない。吐き気と、熱と、疼痛の三重苦の連続。断続的に襲い来る激痛に、体はおろか心までも蝕まれていく。助けは来ないのだと諦めかけ、死を迎える事すら覚悟した。
 だが、心にソラの姿を思い浮かべる度に、消えかけた灯火が小さな光を宿す。自分は何者にも屈してはいけない正義のヒーローだと自覚する事で、辛うじて自我を保つ事が出来る。終わる事のない絶望の中にも、僅かな希望だけは失わなかった。

 それは四度目の点滴のタイミング。これまでの三回と決定的に違ったのは、研究員の傍に厄介なゴウカザルもベトベトンもいなかった事だった。三回目の点滴の折、カケルは一芝居打ったのだ。それは、点滴に抗う気力もなく、初めのように暴れる事なく済ませた。結果、抵抗の意思もなくなったと判断してか、弱らせるための二匹を伴わずして研究員がのこのこと現れた。これを逃す手はない。枯れかけた力を必死に振り絞り、縛られた足を振り回す。白衣の男の手から注射器を取り落とさせ、両足で蹴り飛ばした。咄嗟の攻撃に人間が対応できるはずもなく、研究員は無様に部屋の隅へと転がっていく。
 カケルにも運が回ってくる。度重なる攻撃で縄が解れていたのと、伏している間も解けないかと動かしていたのもあって、今の勢いで足の捕縛だけは外れた。突き飛ばしたのも所詮は時間稼ぎの一時凌ぎ。今にも崩れそうな足で立ち上がり、よろよろと扉に向かって足を運ぶ。思いの外遠くまで蹴飛ばせた研究員が起き上がる前に、何とか扉まで漕ぎつけた。このまま脱出まで行ける――そんな搾りかすのような希望は、一瞬にして打ち砕かれた。仁王立ちで待ち構えていた、ゴウカザルによって。
「そこ、どけよ。おれ、帰らなくちゃ、いけねーんだ」
 手だけはきつく縛られ、震える足で、カケルは果敢に立ち向かおうとする。熱に浮かされる状態で、技を出す事すら念頭から消え、がむしゃらに体術で対抗する。その意思は、胸部を叩く拳に容易く摘み取られた。みしみしと骨が悲鳴を上げ、カケルは大きくよろめく。痛恨の一撃に意識が飛びそうになるが、まだ膝は折らない。半分消えかけの意識で、血を吐きながら足を前へ。
 相手は風が吹くだけで倒れてしまいそうな体。気迫すらも失いかけの、根性だけで持たせているだけの状態。そんな少年が見せる愚直な姿勢に、ゴウカザルは不覚にもほんの一瞬だけ気圧され、たじろいだ。怯える要素などない足が、後ろに一歩退いてしまった。反射的な行動が一種の敗北のように感じられ、ゴウカザルの自尊心は大いに傷つく。
 ぎりっと歯を食い縛り、ゴウカザルは内に湧いた怒りを爆発させる。覚束ない足取りで近づいてくるエースバーンを、全力で壁際まで蹴り飛ばし、骨を折るような勢いで押し付ける。死に体の少年をめりこませた足は、口からぼたぼたと滴り落ちる血に塗れた。ゴウカザルは気に食わなそうに振り払い、力なく血を吐くカケルを地面に叩きつける。
「逃げられるって希望を少しでも持ったか? 残念だったな。おとなしくしてりゃ悪いようにはしねえものを。お前、既に瀕死のダメージを負ってる癖して、このままだとまじで死ぬぞ?」
「がふっ……! う、ぐ……だ、誰が、悪の組織の、思い通りに……させる、もんか。おれ、は、最後まで、足掻いてやる」
「筋金入りのバカが。こちとら、てめえがどうなろうと知ったこっちゃねえ。好きにすりゃ良い」
 ぜーぜーと息を荒げながら、不敵な面構えは崩さない。にっと上げた口角が歪み、零れだす赤でむせ返る。命を削ってまでしつこく粘る少年に、侮蔑の篭った視線だけ投げかけると、ゴウカザルは息が詰まるほどに血の臭いに満ちた部屋を後にした。腰を抜かした研究員も、カケルがぐったりとしている内に栄養の注入を済ませ、そそくさと逃げるようにして出て行った。
 疲弊しきった身体に、来ないと思っていた最後の絶望が再来する。ゴウカザルと研究員と入れ替わるように現れたベトベトンが、無表情で眼前に待ち構えていた。既に紫の毒液に塗れたカケルの体を、ヘドロの体が侵食していく。カケルの下から手に当たる部分を滑り込ませ、仰向けにする。その様は抱え上げているようで、けれどヘドロのベッドに心地良さなどあるはずもなく。べちゃべちゃとへばりつき、泥のように沈みゆく感覚に、吐くものもない吐き気すら催す。激痛すら皮肉にも回数を重ねて慣れたもの。もはや口を動かすくらいしか力のないカケルだが、折れかけの心で立ち向かおうとする。
「へっ……お前の毒、なんて、慣れてきたぜ? 何度も何度も、触れたくらいで、毒にやられるなんて――がぼっ!?」
 今まではベトベトンに体を触れられるか、軽くのしかかられるだけで済んでいた。それが今回ばかりは違う。口から吐き出された“ヘドロこうげき”が浴びせかけられ、カケルの全身を毒液まみれにする。ダメ押しの攻撃に二の句が継げなくなるが、それだけには留まらない。ベトベトンの短くも大きい手がカケルの視界を覆い、毒素の高い汚泥に口を塞がれた。そこから滲み出す毒が、容赦なく直接注がれていく。砂や鉄の味でいっぱいになっていた口の中に、舌先の感覚をずたずたにする劇物が流れ、喉へと押し込まれる。吐き出そうにも唯一の出口に栓をされ、拒む事すら出来ずに体は受け入れてしまった。
 どくん、と体内で激しく胎動が起きた。侵入した異物に、体が異常を来す。それは全身の血液が沸騰しているようだった。心臓の高鳴りが激しくなり、重度の眩暈と共に視界が歪む。体はずっと伏せているはずなのに、地震でも起きているみたいに平衡感覚が乱れていく。直後、体中に埋め込まれた爆竹が破裂したように、激痛が全身を駆け巡る。痛い、などという言葉で表現するにはおこがましい爆発の連続。最悪の形でベトベトンの毒を享受し、犯人は満足したように部屋を後にする。残されたカケルの身体は、ぶちまけられたヘドロ溜まりに打ち捨てられる。
「ごぼっ……ぐ、がぁああああっ!」
 痛い。熱い。痛い。熱い。痛い熱い痛い熱い痛い熱い――!
 最高の痛み。最低の気分。一瞬の高揚も、すぐに上書きされていった。まともに呼吸すら出来ない。しようと酸素を求める度に、喉が焼け付く。沸騰しているお湯でも飲み込んだかのように、体が内側から燃えるように熱く感じるばかり。熱を帯びた血の奔流が、口から止めどなく溢れ出していく。吐き出しているのが飲まされた毒なのか、自分の体内から溢れる命の源なのかすらもカケルにはわからない。四度目にして最大級の苦痛に、思考が焼き切れそうになる。苦しみから逃れたいと手を伸ばそうとも、縛られていて何かを掴もうとする事も出来ない。摩耗しきった心が侵されていく。どうしたら苦しみから解放されるか。そればかりが先行して、漂白されかける意識の中で、一瞬だけ脳裏を過る、『死』の一文字。どうして自分ばかり苦しい思いをしなければならないのかと悲観的になって、いっそ死んでしまえば楽になるのではと短絡的な答えへと辿り着く。
 朧げな視界を見通した部屋の隅に、朽ちた木板が転がっているのが見えた。経年劣化でいずこからか落ちたのか、単に放置されていたのかはわからない。ただ、その板に打ち付けられた錆びた釘が目に留まる。喉元をあの太い釘で貫けば、死に至るだろうか。逃れられない地獄の責め苦から逃れられるだろうか。また殴られるのは嫌だと、毒に体をおかしくされるのは嫌だと、縋るように身を捩ろうとする。しかし、死という諦めに向かおうとする身体は、空しくも動かない。
「はぁ、はぁっ……痛いのも、辛いのも、いや、だ。こんなの……だれか、助けて……」
 口の端からは、涎と血と毒が混ざった液がだらしなく垂れていく。元のふわふわで真っ白な体毛は、既に血の赤とヘドロの紫で塗り潰されている。不明瞭な意識の中、口にするまいとしていた弱音が零れ落ちる。敵の前では気丈に振る舞い、強固な意思だけで降参しないように頑張ってきた。しかし、いかに体を鍛え、苛烈な経験を潜り抜けていようとも、中身は普通の少年だった。己が理想に必死に近づこうとする気概だけで、本来特異なるヒーローという姿に自分を重ね合わせられていた存在。自身を強く保つ鎧が砕けてしまえば、その実情は否が応にも露見する。元々壊れかけていて、それでも必死に堪えてきた心が瓦解しかかっていた。体の前に、心が先に死を迎えそうだった。安楽のために、命すら投げ捨てたくなる。
 ポケモンの姿になった頃は戸惑いこそしたが、ダイマックスしたナットレイとの戦いを経て、今の姿も悪くないと思い始めた。ソラと意思疎通が叶う現状が心地よく、今まで嫉妬の温床となっていた「自分は指示するだけのトレーナー」という葛藤から逃れる事も叶った。自身で戦う事に痛みや苦労は伴うものの、正義のヒーローとして戦いに明け暮れる日々自体は今までと変わらない事を踏まえれば、自分自身が戦って成果を収められるという事実による充足感の方が上回っていた。
 しかし、それは皮肉にも、「ポケモンになった自分に利用価値がある」と思い知らされた時点で崩壊していく。自分をポケモンへと変貌させた研究員の策略によるものだと考えれば、全て腑に落ちる。今まで泳がされていたのを、本格的に実験の対象として据えられただけに過ぎない。死の危機に瀕した自分をポケモンの姿へと変える事で救ってくれた事で、恩情めいたものを感じなくはなかった。だが、それが全て研究の一部だと思い知らされ、絶望しか押し寄せて来なかった。所詮は淡い希望のようにして抱かされた、仮初の充実感に過ぎなかったと、痛感するしかなかったのだ。ここに来て改めて、ポケモンになった事を後悔した。
(おれ、何か悪い事、したのか? ただ、正義のヒーローとして、頑張りたかった、それだけなのに)
 正義のヒーローを名乗り始めた本当に最初の内は、自身の承認欲求を満たすのが全てだと思っていた。別に名声を求めるとか、脚光を浴びたかったわけでもなく、自分の存在に自信が持てなかっただけ。お伽噺で見るような特別な存在になれば、自分は何者かでいれるのだろうかと模索して。それがいつからか、他人のために動けることが、カケルの中で一種の誇りとなっていた。原動力となっていた。誰かを守るために戦い続ける事で、自分も誰かの役に立てるのだと、自信を持ち始めていた。
 だが、蓋を開けてみればどうだろうか。その影ながらの努力と活躍を誰に称賛されるでもなければ、悪の組織からは疎まれ、酷い仕打ちを受ける始末。実際に死ぬような思いをして掴んだのは、輝かしい英雄としての日々ではなく、実験動物としての末路。悪の組織に良いように利用される道具に過ぎないという事実が、自身の在り処が不明瞭になりつつあるカケルの心を打ちのめしていく。
(なんで、だよ。人間の頃だって、満足に役に立てなかった。ポケモンの姿になって、ソラの戦いの役にも立てるって、少しは思えたのに。こんなのって)
 血の滲むような特訓の日々すら、血を吐き続ける苦痛の前には霞む。全てが憎らしく感じた。無力な自分が。ポケモンになってぬか喜びした自分が。敵の掌の上で踊らされているのだと気づかないまま、仮初のヒーローとしての日々を謳歌していた自分が。ほんの少しでも、自分は誰かのためになれるヒーローに変われたのだと、一時でも思った事が腹立たしかった。本当は少したりとも、自分は輝かしい存在になれたわけでもないのに。
 ――そうだ。おれは、おれ自身が大嫌いなんだ。大した事も出来ない癖して、甘ったれな自分を見られるのが嫌で、いっちょ前にかっこだけつける。強がって見せる癖して、ソラの前では弱音を吐いたりして、人間らしく振舞って見せる。本当はずっと前から、人間らしさなど抜けていた、壊れかけた空っぽの人形だったに過ぎないかもしれないというのに――。
 奪われていく体力と共に、心に僅かばかり残っていた自信も喪失していく。口ばかりで役立たずだと、烙印を押された気がして。今まで関係を築いた大切な人達との繋がりを断ってまで、正義のヒーローという偶像に縋って、頑張ってきた意味などもはやあるのだろうか。自問自答する度に、ポケモンの姿になって目を背けていた事実を突きつけられているような気がして、余計に自我というものを見失いつつあった。
 正義のヒーローなどという役割に雁字搦めにされ、心を強く保ち続けるには、カケルはまだ精神的に不安定な年頃だった。――否、正確には、正義のヒーローだからという前提でなければ、こうして拷問の時間になど耐えられるはずもなく。自分が望んだ姿でありながら、いつしかその名は一種のしがらみのようになっていた。良くも悪くも真っ白で、真っ直ぐな気持ちもすぐに染まりやすい。ただ、正義感が強いというだけで耐えるには、カケルが味わっている苦痛はあまりにも酷なものだった。
「正義のヒーロー、なんて……そのせいで、おれはこんな……。何が、ヒーロー、だよ。おれ、みたいな、かっこわるいヒーローなんて、いない方が良いのか?」
 傷だらけで、血だらけで、ヘドロまみれの自分の体が、否が応でも目に入る。正義のヒーローという存在は、輝かしくて、華々しいもの。それは、血を吐くような努力や、目に見えない苦労の上で成り立つものだと理解していた。故に、痛い思いをする事も、自分の中の何かが酷く汚される事も、覚悟の上でなったつもりだった。覚悟していたからこそ、ただ大口を叩いて這いつくばっているだけの自分に辟易し、幻滅し、吐き気すら催してくる。こんな醜態を晒して、どの口が正義のヒーローを名乗れようか。憧れだけ抱いてヒーローを名乗っていた事すら、恥だとさえ思えてくる。全てから目を背け、楽になりたいと瞼を閉ざし――その裏で、真っ暗な世界に一縷の光が差し込む。
「でも、おれは、なりたくてなった。その想いは、絶対に、嘘じゃないんだ。どうして、だっけ」
瞳の光が完全に濁ろうとしていた折、大事な記憶を、姿を思い出した。
 大事な記憶。それは、かつてヒーローに命を救われたという記憶。いつも瞼の裏に焼き付いている、“二人の”かっこいい正義のヒーローの背中。自分を救ってくれたその姿が眩しくて、羨ましくて、いつからか羨望の対象となっていた。過去に遡ると、救われたという事に、報いなければならないという思いの原点となっていた。
 大事な姿。いつだって傍にいて、かけがえのない存在となった相棒。ソラならば助けに来てくれると願うのは、根拠のない自信でしかない。それでも、正義のヒーローとして一緒にいてくれるソラの姿は、全てを投げ捨てるまでに追い込まれていたカケルの心に、光を照らしていった。
 憧れと夢があったからこそ、今の自分がある。諦めたくないと藻掻いたからこそ、自分は今なりたい正義のヒーローになっている。過去と現在に両立する、理想を保つための支柱。自身が掴みとった真実を、自分のルーツを今一度思い出す事で、挫けかけた心に炎が灯されていく。
「そう、だよな。今のおれは、正義のヒーロー、なんだ。悪の前に、自分の弱い心に、屈しちゃ、ダメなんだ」
 絶望に心が支配されかけながらも、カケルに生きる希望が戻っていた。醜態を晒しているのは事実に変わりない。だが、本当に正義のヒーローを名乗るならば、ここで持ち直してこそ。ここで折れてしまっては、それこそ期待を託して育ててくれた師匠に顔向け出来ないというもの。共に戦い続けてくれるソラの隣に立って、頼られたいなんて願いすら、考えるのすらおこがましくなるというもの。悪との戦いである以前に、弱気になる自分との戦いなのだと気づかされる。
 全身は冷え切って、汚れまくって、数えきれないほどの傷を負っている。だが、それでも、カケルという少年は心の内に燃えるような輝きをくべていた。今まで歩んできた道のりが決して華々しいものじゃなくとも、踏み締めて積み重ねてきたものは、確かにそこにある。絶望的な状況下でも自分を自分たらしめるのが、正義のヒーローである事だと思い直し、心の支えにしながら。
 もう一度己の信念にしがみつこうと決意してからは、時間を数えるのは止めにした。折れそうになる自分の心に抗うように、呼吸を落ち着かせる。絶えず全身を襲う痛みを、歯を食いしばって、深呼吸で整えて、必死に堪える。意識を手放したら死ぬくらいの覚悟を持って、カケルは待った。いつかきっと来てくれると信じて。見失ってはいけない光を心に灯し、悠久の時とも思える時間を堪え忍び、体力を温存して生き続けた先で、好機は訪れた。
 消えかけの朦朧とした意識の中で、辛うじて働く聴覚が捉えたのは、ここに放り込まれてからはついぞ聞く事のない衝撃音だった。爆発のような広範囲に響くものではなく、近くで聞こえる、壁に何かがぶつかるような音。何か良からぬ事でも始まったのだろうかとは考えるが、衰弱していたカケルに推理する気力すら残されてはいない。
 音は着実に近づいてはきているが、断続的に聞こえるほど騒々しいものではない。また自分をいたぶる新手かと一瞬恐怖が過ぎるが、既に敵地である以上深く考えても仕方ないと諦めに入る。何かが過ぎるのを黙って堪えようと、開けかけた瞼を閉じようとした――その視界に、扉を豪快にぶち破って見覚えのある影が飛び込んできた。勇ましくて頼れる、青い戦士の姿。波動の棍棒を構えて現れたそれは、見紛うはずのない相棒――ルカリオのソラに他ならなかった。

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