episode8.好きなところで、生きていく

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 後残り僅かで一日が終わりだやり残したことはあるかならば今の内だと言わんばかりに、水平線の直上で真ん丸とした夕日が光を放つ。上空では細切れの雲の色と夕焼けの色が、神様の子供が散らかした後のようにグチャグチャに入り乱れており、ぼんやり眺めると自分の心も入り乱れる感じがした。
 海の奥では一隻の船が汽笛という名の鳴き声をあげながらゆったり泳いでいる。あの船は自らの住居に帰ろうとしている最中だろう。暖かく迎えてくれる主人がそこにいるのか。それとも主人は上船しているのか。
「逃げ出してきた? 本当に?」
 船とは逆にサメハダーは住居とご主人を捨て、夕焼けに染まった橙色の海を泳がんとしている。大きな大会が幕を閉じ一つの波が消え去った。再び大波が襲ってくる前に逃走したのはナイスタイミングだと思った。
(ただ、野生で生きていけるかは別問題だけど)
「そっかあ、とうとう決心を付けたんだね」
「"とうとう”?」
「え?」
「"とうとう”ではないよ。どちらかと言えば”かねがね”だ」
(どういう事だろう?)
「そうだ、今まで話したことなかったね。僕が逃げ出したのは所謂『衝動』じゃない。ずっと昔から、計画していたことだったんだ」
 私はサメハダーがギリギリまで悩みに悩み逃亡を決意したものだと勝手に考えていた。だが、どうも間違った推測のようだった。


「時間ある? 相当話が長くなる気がするけど」
「うん、大丈夫」
 全く大丈夫ではない。こんな所で油を売らず戻らないと駄目だ。買い物を終えたユカが屋上の何処にも姿が無いと知ったら青ざめるし、その光景を想像すると私も青ざめる。けれどどうしても真相が知りたかったし、二度と知る機会が無い事は明らかだから、好奇心に流されるままそう返事をした。
「じゃあ話すね。結論を先に言うと僕はずっと昔から、子供の時ぐらいから、『セイゴから逃げて野生で暮らす』というのは計画していた。人生プランの中に組み込まれていた」
「子供の頃から?」
「自分の生い立ちから話すか。僕は育て屋で孵ってから、ずっと人間社会で生きてきた。セイゴの元で生活していた。だから野性の生活なんか一ミリも知らない。獲物はどう捕らえるのか、天敵からどう逃げるのか、どこで睡眠を取るのか、どのくらいの個体が誕生し、どのくらいが一年後に死ぬか。どのくらいが十年後生きているか。何一つ分からない」
「知る術が無かったんだね」
「周りに野生経験者はいなかったからね。もはや自分にとって『野生』は別世界だった。そうだなあ、ウルトラホールという異世界と繋がる入り口めいた物があるらしいけれど、本当に野生での暮らしは、ウルトラホールの先と同じで異世界だと捉えていた」
「ウルトラホールの喩えはよく分からないけど別世界に感じるというのは共感出来るよ。私も人間の元での暮らしは別世界だった」
「ただね、孵化直後から鬼も逃げ出すようなトレーニングの連続だったから、ここではない何処かへ逃げ出したい、という感情は時折芽生えていた。毎日壁にタックルし続けたり、レベルが高い相手とひんしになるまで何回も戦ったり、幼い頃の自分の脆い精神がよく持ったなって、今になって思う」
「うん。体中の傷跡から苦労がわかるよ」
「体罰や虐待を受けていた訳じゃないから、彼のトレーナー方針を否定はしないけどね。『ひんし』にはなっても『瀕死』になったことは無い。何よりあの人は結果を出している。何が正しいか分からない世の中で数字という明確な結果を叩き出している以上、トレーナーとして間違っているとは言い難い」
 言い草から皮肉を言っている様子は感じない。


「それでその後はどうなったの?」
「悲壮感に苛まれていたとき一匹のキャモメと出会った」
「キャモメ? 海上をよく飛んでいるポケモン?」
「そう、どこにでもいる凡庸なポケモンだけど、あのキャモメは僕の人生を百八十度変えた。ある日落ち込んでいた僕をキャモメは嘴で軽く突いてきた。その後愚痴を真摯に聞いてくれた。そのときにキャモメが、『野性は良いよ自由だし』って誇らしげに言っていたのが記憶に根付いた。それからだった野性で生きることに憧れを抱き始めたのは。大空を伸び伸びと駆け巡るキャモメが、ガキの自分には大層幸せに見えたんだ」
「なるほど、キャモメがきっかけだったんだね」
「うん、ただ」
「ただ?」
「野性での暮らしはやっぱり異世界だから不安しかなかった。自分ごときじゃ海に入った瞬間ホエルオーに喰われて死んでしまう? どれ程レベルが高ければいけるの? キャモメに色々聞いておけば良かったのにね。そこで考えたのがセイゴを利用すること」
「えっ」
「セイゴの過酷なトレーニングを受けて、野性で十二分に生き抜けるレベルまで強くなろうと。あえて辛過ぎる環境に身を置くことで、自分を成長させる作戦を取った。どんな敵にも負けないという自負が芽生えたら、その時初めて野生で生きようと考えた」
「……」
「そう決意してから、以前より遥かに意欲的にトレーニングに打ち込んだ。もちろん辛かった。でも半泣きになりながら『もっと厳しくして下さい』って願っていた。厳しければ厳しい程、早く野生で暮らせるから」
 私はサメハダーの計画の全てを知った。彼は、何年もの歳月を費やして準備を整えていた。決して衝動的に逃げ出した訳では無かった。
 何が酷いってセイゴはこの計画について何も知らないということだ。彼は出荷前に逃げ出す気でいる魚をせっせと養殖していた。合掌。余りにも苦労が報われなさ過ぎて、可哀想にも感じた。サメハダーも言っていたが別に悪い事をしていた訳では無い。
 ただ人間とポケモンが滑稽にすれ違っただけ。


「それにしても、何年も耐えるのって辛くなかった? もっと早い時期に『そろそろ行こうか』って考えることはしなかったの?」
「考えたよ。何度となく考えた。でもやっぱり不安過ぎてどうしてもね。まあ、今はもう不安はゼロだ。強くなった結果不安なんて吹き飛んだ。もう今までの自分じゃないから」
「……確かにサメハダー半端なく強いもんね」
「本当はこの前会ったとき話そうと思っていた。自分の傷跡を結構気にしてくれていたから。ただ、オシャマリは昔野生で生活していて野生の厳しさとかに詳しいだろうから、『止めときなよ』とか『君の考えは甘い』とか言われるのが怖くて中々話せなかった」
「別に私は言わないよ。他人の人生に口出しできる立場じゃないから。ましてや長年積み立ててきた事を否定するような真似は」
「そう。ちなみにだけど、ちなみにだけど、実際問題僕って、野生でも生きられると思う?」
「えっ、そういう事は言われたくないんじゃないの?」
「言われたく、ない、でもやっぱり、真実を知りたい。だから、忖度なしで、正直に、教えて欲しい」
(いや、どっちなの?)
 身を乗り出してつっかえながら喋る彼を見て目を丸くした。こんな態度を取るのは初めて見た。普段は冷静で達観している感じなのに。
(「もう不安はゼロ」って言っていたけど本当?)
 このような態度だと彼が小物に思えるが実際はそうではなく、小物なら長年耐え忍ぶことはできない訳で紛れもない大物な訳だ。大物であろうと小物であろうと一日から一抹の『不安』を無くす事は不可能なのか。
 逃げ出して良かった、と私は思っている。だが野生で生きようとする彼の背中を精一杯押せるか、というと微妙だ。
 なぜならバトルが強いからといって、野生で生き残れるとは限らないから。勿論強いというのは大きな利点であるしサメハダーが身に付けた技は天敵に対抗するとき役立つ筈。ただ、相手を『ひんし』ではなく『瀕死』でもなく『死』に追いやる必要がある戦いを出来るだろうか。逃げられるときは逃げる判断をするべき戦いに慣れるだろうか。
 後次いでに言うとなぜ夕方に逃げ出すのか。明日の朝まで首を長くして待てば良いのに。そんなに首が伸びるのだろうか。いきなり暗い海を泳ぐのは怖い気が。その辺りについてどこまで考えているのだろうと思う。
 こう言う事を正直に話すのは体温を奪う事になるから秘密にする。申し訳ないが忖度はオシャマリの十八番だ。


「ごめん。忖度なしって言われても参るよね。ところでオシャマリの方は最近どう?」
 居心地が悪い沈黙を打破する手段としてサメハダーは話題の向きをこっちへ変更した。
 瞬間私は、何故今自分がご主人との約束をうっちゃらかして海辺にいるのか思い出す。そうだ、私は涙を流したくてここへ来たのだ。
(偉そうに他人の決意について論評している場合じゃない。私は、まだ決意すらしていない段階だ。早く今後の方針を決めないと)
 彼をやたら気に掛けるのは私と正反対の境遇だからというのもあるし、「私は他人について考える余裕があるのだ」ということを自分に示したかったからというのもあった。
 ただ所詮それは現実逃避以外の何者でもない。永遠に現実逃避できるのなら大歓迎だが、私の日常は並行して流れ続ける訳だから、いかんせん逃れることは不可能なのだ。
「例えば最近何か辛かったことある?」
「辛かったことかあ」
 数週間程ザッと思い出しバレぬよう下唇を噛む。辛いことは確かにあるものの、サメハダーや例のサーカスで働く同族と比較し、いかんせん深刻度が少ない。少な過ぎる。サメハダーに悩みを打ち明ければ「アハハハ、そんなのしょぼいことじゃないか。それで悩んでいられるとはシアワセモノだなあ」と嘲笑われるのではないかという恐怖。シアワセモノに見えるというのは悩み、ひいては自分の存在を根本から否定されるのと同じで、いやまさか彼が嫌味発言しないだろと確信していようが勇気が出ないのだ。
「遠慮することはないよ。だって今後永遠に会うことはないんだから。何もかも、ぶち撒けてしまえば良い」
「……」
 私は徐々に気が変わってきた。言われて見れば、もう二度と会えないのだ。今日この日を逃せば打ち明けられる機会は訪れない。
 それにサメハダーも自身の半生を赤裸々に晒した訳だ。私も胸の内を晒さないと不公平だ。ギブアンドテイクの精神から外れる。彼も「考えが甘いよ」って言われる恐怖を耐えて言ったのだから、私も耐えるべきだ。
 また、ついでにここらで思考の整理もしたいと思った。自分が何に不安を感じたか話ながら整理すれば、今度自分はどうすべきか、何か一本でも糸口が掴めるかもしれない。
 という訳で私は、
「じゃあ私も、だいぶ遡って話すね」
 意を決して、そのように言ったのだった。


「人間に捕らえられて以降、それまで一秒も心にとめていなかった物が、急に大それた存在に見えるようになった。客観的にどうでも良い事柄に不安を感じるようになった」
 大袈裟に悩んでいる印象を与えないように、落ち着いたトーンで喋ることを心掛けた。
「例えば他のポケモンと喋るとき『これを言ったらどう思われるか』とかそういう発想が頭を埋め尽くし不安な感情がぽつぽつ出て、」
(オドリドリと初会話を繰り広げた時特に感じていたなあ)
「他にも他のポケモンに自分に非がないことで責められたとき『本当は自分の方が悪いのでは』という考えが出て不安に思ったり、」
(あの件はどう考えてもオドリドリが間違っていたと思うなあ。ダブルバトルという単語そのものを知らないのに質問出来るのはエスパータイプぐらいしかいないけどなあ)
「他にも誰かの陰口を聞かされている際『同調せねば自分も言われる側に回る』と不安になったり、」
(ルガルガンの言っていることも間違ってないけどね)
「そのくせ悪口の対象が自分の憎しみの対象と被っていた場合春が来たかのように心が弾んで、そんな下衆な自分に嫌悪を抱いたり、」
(所詮自分も単純な存在なんだと思い知った)
「なるほど色々な不安や悩みを抱えていたんだね」
「これが一番やばい、というのは特になくて、細かい不安がぽつぽつとある感じ。野生の頃は、こんな些些たること気にならなかった。それは恐らく、明日どう生き抜くか、それで頭がいっぱいいっぱいだったから、そっちに目が向かなかったと考えている」
「そうか、余計なことを考えなくて良い状況というのは、むしろ幸福なのかもしれないね」
 それが幸福というのは間違っているが、気にせず話を進めた。
「そんでもって、『こんな些些たることで辛いと感じる自分は甘ちゃんじゃないか』って鬼の囁きも最近聞こえて二重にくたびれているんだよね。もっと辛い人はたくさんいる。だから我慢すべきだと考えてしまって、」
(こんなことで辛いと感じて良いものか?辛いと感じる自分は駄目なのか? そこまで思考が辿り着いたらもう地獄だと思う)
「私ね、実を言うと自ら望んで人間に捕まったの。自分で網にかかりにいった変なお魚なんだ。捕食される不安から逃げたいがために、私は野生で生きるのを止めたんだよ」
「そうだったの」
「でもね、世の中そんな甘くないね。人間に捕まったら捕まったで別種類の不安が発生する。一抹の不安もない日って中々来ないね。あーあ、せっかく苦労して網にかかりにいったのに」
(あの頃は捕まえてくれるかと思いきや逃され、このまま誰も手持ちに加えてくれないのかと思って、結構精神をすり減らしたなあ。もう二度とああいう作業はしたくない)


「うん、だいたいこういう感じかな」
 一つ一つ苦汁が滲み出た過去を思い出しつつ、言葉にしていく。サメハダーの反応をおっかなびっくり確認。それぐらいで悩むなよ、と言いたげな様子は彼から見られない。ある程度信頼を寄せている相手だろうと、今何を思っているのか、鼻先であしらうような態度を取られてないか、絶えず気にする自分はからっきし成長していない。もはや呪いと表現せざるを得ないこの性格とは、一生付き合う必要があるのではないかと。
「一先ずここまで聞いてオシャマリが色々苦労していることが分かった。今まで大変だったんだね。一つだけ感じたことというか、提案があるんだけど言っても大丈夫かな」
「むしろ聞きたいぐらいだよ。何でも言って」
「もう一度野生に帰るっていう選択は駄目なの?」
「あ、ごめん。それはちょっと、いやだいぶないかな」
 私は即答した。
「不安の種類が違うから比較は難しい。でも野生で生きるより今の方が一応マシかな。やっぱり喰われるか否かという不安は偉大だ」
「でも以前は野生で暮らしていた訳だし元に戻るだけと考えれば大したことないんじゃ」
「今更、あの頃のようには生活できない気がする。安全な生活に体が慣れてしまったから。モンスターボールの中の方が安心して眠れることを知ってしまった。たぶん野生に帰ったら落ち落ち夜も眠れないだろうな」
「そうなの? じゃあ僕も眠れなくなるかな?」
「いや、サメハダーは強いから大丈夫だけど私は弱いから。戦ったことあるから分かるでしょ。だから、野生で生き残れる確率はサメハダーより低めに見積もる必要がある」
 生き残れる確率が私よりは高いだけで100%ではありませんという注釈を入れたい。
「だったらさ、強くなれば良いじゃん」
 サメハダーはボソッと言った。
「僕のように、食べられる心配を完封なきまでに消滅させられる程に、強くなれば良い」
「いやそれは」
「そうなれば不安なことは何一つなくなる。そう! 強くなれば全部全て完璧に解決する!」
 サメハダーは急にテンションを上げて話し始める。やはり、今日の彼は何時もと違う。
(私と喋っていないときは何時もこんな具合? いや違う)
 結局彼は不安なのだ。旅立つのが怖いから、己と同じ道を進む仲間を作ろうとしている。自分は正しい道に進んでいる。それを少しでも確証付けたいから。
「私にはサメハダーみたいなことは無理だよ。根気が続く気がしない。バトルにそこまでの情熱を注ぐことは絶対できない。そもそも、今のトレーナーでは大して強くなれない。ユカはセイゴとは真逆の人間。厳しいトレーニングを課すなんてしない。だから私は、君のように圧倒的に強くなれない」
「あ、そっか」
 心底、本当に心底がっかりした表情を見せている。私はこの辺りで身の危険を感じていた。
「ユカは今やっている島巡りモドキも、大人から強要されて仕方なくやっているだけ」
「島巡りもバトルも別に好きじゃないんだね」
「バトルに情熱は全然向けていないよ。強くなりたいなんて、一ミリも思っていない筈。とりあえずアローラを適当に一周して、大人達のご機嫌を取れば良いという発想だよ」
「そういうタイプのトレーナーなんだね」
「真面目だから、トレーナーとして最低限のことはやろうと努力はしている。でもそれも結局義務感。彼女は心の底から旅やバトルを楽しんでいる訳じゃない。だからユカは、セイゴのように圧倒的に強くなれない」
「好きこそ物の上手なれ。そういうことだね」
 私もユカも圧倒的に強くなれない。目標もなくやりたいこともなく、とりあえず言われるがまま流されるままに生きているだけ。
 対してセイゴとサメハダーは高い目標に向かい、ストイックに己を磨き生きている。
 どちらの生き方も、ありなのだと思いたい。どちらの生き方も、美しいのだと思いたい。
 後者の生き方が良いとされがちだが前者も悪じゃない。そう思えるようになった今なら。
 そして今後もそうやって生きようと思う。
 私は野生には帰らず人間世界にずっといる。
 人間世界で暮らしても、辛いことはどうしようもなく湧き出てくる。しかし私は上手く妥協してごまかして時間が過ぎるのを待つと思う。
 どんな状況に置かれようとも、人生から全ての不安を取り除くことはできない。不安の感情とは永遠に共存して生きていくしかない。
 それは一種の、諦めだった。だが諦めることも、決意の一つであることに違いなかった。 

 しかし。
 そう決意した、矢先のことだった。

「僕が捕食されないよう君を守るから今日から野生で暮らすという選択は駄目なのかな」
 予想だにしない衝撃発言で鼓膜がビリっと震えた。最初冗談かと思った。思わず吹き出す準備を始めた。ただ冗談にしてはだいぶ無粋だし、そもそも冗談を言える心境でない筈。大海原に今まさに挑まんとしている状況でこんな冗談は浮かばないだろう。だから間違いなくサメハダーは本気で言った。
「ごめんどういうこと」
「マンタインとテッポウオになるということ」
「マンタインとテッポウオ。私がテッポウオ?」
「そう。天敵に追いかけられても近くで待機して殺してあげる。オシャマリの安全は確保する。そうすれば、悩みの種はなくなるよね」
 周囲の状況はさっきまでと何ら変化ない。にも関わらず、急に波音が強くなった気がした。寄せては返す波が幾度も砂浜に水を叩き付け水しぶきが自分の皮膚に数滴跳ねる。その度に手で水しぶきを払い除けていたが今はそんな些細な挙動もやる気が起きない。
「そうだ、それで何もかも全て解決じゃないか」
 私だって馬鹿ではない。何故こんな突拍子もない珍案を出してきたのか、理由は分かる。
 ――度を越して親切な言葉には必ず裏がある。
 そんなベーシックな折衝ぐらい知っている。 
 独りで今から海に飛び込むのは途方も無く怖い。だから私を巻き添えにしたいのだ。一緒に旅立てば多少なりとも恐怖が軽減される。
 決して他者の利福を考えての提案ではない。
「ね、そうしようよ」
 サメハダーはここ数分ずっと笑顔だった。「屈託のない笑顔」という言い回しは知っているが「屈託しかない笑顔」という言い回しはあるのか。あるなら是非今使いたい。
 豹変した、は大袈裟かもしれないが、彼は本日出会った時とは全く違う様子になった。
 野生を経験したことがない者が海に飛び込むというのは、相当不安を伴うことなのだろう。私にはどの程度なのかは分からないが。強い脅迫概念は生き者の思考を狂わせ傍から見てずれた言動を繰り返すこともある。
「ねえ、今日から野生で暮らそうよ。僕がマンタインになるから」
(冗談じゃないよ。そんなこと無理だから絶対に)
 どうにかして目を覚まさせないといけない。
 

 サメハダーは確かに強いが、いざ野生で生きれば自分を守るだけで精一杯になるのは言わずもがな。家族でもない他人の身の安全を図る余裕なんて欠片もない。彼は野生を経験したことがないから守ってみせる、なんて絵空事を軽率に言うことができるのだ。
「駄目だよ。私はテッポウオになりたくない」
「え?」
「普通に考えて、サメハダーに悪すぎるよ。君にとって欠片もメリットがないのだから」
「得とか損とかの問題じゃないよ。どうすれば解決するか思案したらこれに辿り着いただけ」
「そりゃあ私の問題は解決するけど、君に多大な負担が行くじゃん。私は何もしないでただのんべんだらりと生活しているのに、サメハダーだけせっせと働いているってことでしょ? 四六時中天敵の気配を探っているんでしょ?」
 正直に「野生はそんな甘くない」って言おうか迷った。でも自分が一番言われたくないことを相手に投げることはできなかった。
「じゃあこのままずっと居心地悪い生活を続ける? それよりもさあ、野生で伸び伸び自由に生活した方が絶対に快適じゃないか」
そう言われると今後について負方向で想像を膨らませたくなる。他人の心情を気にしたり自分の体裁を整えたり、死ぬまでビクビクしながら延々生活するのは嫌ではある。
 確かにこのままの生活は私にとってしんどいことではある。だが私は、それを受け入れていくと、今さっき決心したばかりなのだ。決心した矢先に、せっかくの決心を無に帰すような提案をするのは止めて下さい。
「下らないことで神経すり減らしていくのって馬鹿らしいことだよ」
「〜と思う」ではなく「だよ」と断言されると自分の方に間違いがあるのでは? と疑いをかけてしまいがちだ。なんとか気持ちを堪えていた。私はこれからも下らないことで神経をすり減らしていくと決めたのだ。 
「君にとってはハードルの高い行動ではない筈。野生でついこの前暮らしていたんだから」
(いや、だから。安全な暮らしを知った今戻ることは厳しいってさっき説明したじゃん)
 反論しようとしたがふと思った。確かに安全な暮らしを私は知ったが、その経験も数日経てば忘却の彼方へ消え去るのでは? 人間の元での生活に何時しか体が慣れたように野生の暮らしも徐々に肌に染み込むだろう。そうなれば以前の生活と変わらなくなる。
 だが、その後人間の元での生活が恋しくなった時が悲劇だ。トレーナーをまた一から探す。再び精神をすり減らす日々が訪れる。
(まずい、自分の思考も狂い始めてきた)
 サメハダー程ではないにしろ私も不安によって正常な判断ができなくなっているのだ。それを自覚し客観的に自分を見るべきだ。
(ええと、うん、落ち着いて考えよう。サメハダーは私を守れる訳がない。大変失礼ながらそうとしか思えない。だから良し悪し以前に彼の提案は実現不可能なのだ。あれ、でもちょっとまって。よく考えたら彼は本来私の天敵である筈の種族。だから彼は他のサメハダーに「このオシャマリだけは狙わないで」って周知してくれるかもしれない。だとしたら彼の提案も悪い話しではない? サメハダーは無償で私を守ってくれる。これってとんでもないチャンスでは? いやいや、そんなこと不可能だからね。全てのサメハダーに周知できる訳ないから。でも別に全員でなくても周辺に住んでいるサメハダーだけに知らせれば良いのであって、)
 私は、独りよがりな妄想を繰り広げていた。
「ねえ、行こうよ、僕と一緒に」
 サメハダーにはヒレはあるが手は存在しない。だが心なしか、胴体から白い手がにゅるりと伸びているのが見える。その手は私の手首をガシッと掴んで離さない。そのまま海へとグイッと引っ張られてしまいそうだ。ああやはりサメハダーは紛れもない天敵だ。私を粗暴に食い千切ろうとしている。本当に良いのか。テッポウオになっても何ら問題ない? いや、
「駄目だよ!」
 仮に彼が完璧に守り抜けるとしても、そのときは、無償で庇ってくれている彼に対する、後ろめたい気持ちが絶対湧き上がってくる。
 どんな状況に置かれようとも全ての『不安』は解消できない。例えテッポウオになろうとも、何もせず安全な状況を手に入れることができようとも、半日、いや一時間でも安息の時を過ごすことは出来ない。働かずに食べるごはんが、おいしい訳ではないのだ。
 私はこのことを丁重にサメハダーに説明した。だが、
「そんなことないって! 考え過ぎだよ!」
それでも彼は全然納得いっていない様子だった。ここまで言っても駄目か。だったら、
「ごめんね本当にごめん。とりあえず目を覚まして」
「えっ?」
 次の瞬間私は、サメハダーの体の傷跡がない部分を目掛けて、「はたく」を繰り出した。
 最も頼りがいのある技。馴染みのある技。この技は威力が低いからバトルで使われないが、野生での戦いではこういう地味技の方が便利だと思う。餌のポケモンにトドメを刺すときも使うし、岩陰に隠れた天敵が不意に現れた際、咄嗟にこの技で怯ませて逃げることもできた。今も私は天敵から襲われている。だから、「はたく」を使ったのだ。
 不安に支配され永遠に目を覚まさないならこうするより他はない。暴力に頼るのは好きではないし最低な行為だが、仕方ない。どうせ私の攻撃なんて彼には大してダメージ入らないし少し痛いだけだろう。ところが、
「そんな……そこまでして拒否する意味が分からないよ」
(これで目を覚まさないの!)
 どうやら、私の攻撃は全然痛くないようだ。
 どうしよう。「説得の最終手段」を使ってしまった以上、もう何もできることがない。
 絶体絶命という四字熟語が似つかわしい状況。そう思っていたとき、彼の目からポタポタ水鉄砲が放たれていることに気が付く。
「ごめん、自分だいぶどうかしていた。今ので目が冷めたよ。君が嫌がっているのは僕に対する遠慮じゃないんだ。純粋に野生て暮らしたくないから反対しているんだよね」
 サメハダーは私の手を見つめながらそう言う。いつの間にか私の手から血が流れていた。
(鮫肌に物理攻撃をするとダメージを受けるんだった)
 サメハダーは私の「はたく」そのものではなくその出血を見て我に帰ってくれたようだ。  
 なんだか腑に落ちない終わり方だが、良かった。
 

「本当は不安で不安でどうしようもない。だからオシャマリを誘ったんだ。馬鹿だよね、断られるに決まっているのに。君を守るなんてとんでもない。できる訳がないから」
「やっぱりそうなんだ」
「正直、もしホエルオーに飲み込まれかけから、僕は絶対に君を囮にして逃げると思う」
 急に正直に言い出すものだから、酷い話しなのに思わず私は吹き出してしまった。
「君を守るなんて言ったが逆だ。僕が守られたいと思っている。最低な奴なんだよ僕は」
「そんなことないよ。野生として初めて生活する訳だから、それだけ強大な不安を抱えざるを得ないことは分かる。取り乱したりパニックになったりしても仕方がないと思う」
(ちょっと取り乱し過ぎだとは思ったけど)
「やっぱり駄目だね。どんなに強くなろうと、不安な気持ちを解消することはできない。ここまで強くなったのも無駄だったのかな」
「無駄じゃないよ。不安を完璧に消滅させることは難しい。だけど、不安をなくそうと藻掻き続けること自体は間違いじゃないし、決して無駄なことじゃなかったんだよ」
 たぶん、私も。
「ありがとう、そうだね、そうだよね」


「これでお互い覚悟は決まったよね」
「私は人間の元で生きる、サメハダーは野生で生きる。これで良いよね。私も覚悟決まった」
 覚悟は決まったと言いながら確認し合う二匹。
「じゃあ僕はそろそろ行くね。今までありがとう」
「こちらこそありがとう。またどこかで会え……ないとは思うけど元気でね」
 言い終えたタイミングでサメハダーは体を右に曲げた。向いた先には果てしなく続く大海原。絶えず波を造像しては破壊することを繰り返す海。そこへ今から飛び込もうとする彼の体は震えていた。体内に沈殿した恐怖心はじわじわと内蔵を今もまだ削る。
 いつ見ても体の傷跡は痛々しさの塊だ。夕日に照らされると目下にある細長い傷跡が更に醜く感じる。顎の下にもだいぶ深く抉られた傷跡が一つあった。衝突してきた相手を傷つける筈の鮫肌がボロボロ状態なのは何の皮肉か。同時にそれは努力の結晶でもある。
 私も、これぐらいは傷ついた方が良いのか。時折思うがたぶんそんなことはないのだ。
「好きなところで、生きていく」
 最後にサメハダーはそう呟いた。意を決した表情を作って大海原へ勢いよく飛び込む。水飛沫が少しだけ私の体にかかったとき本当に行ってしまったという実感が湧いた。
 彼の生涯はいかなるものに、また私の生涯も。
 辛うじてまだ辺りは暗くなっていなかった。旅立ちを待ってくれているかの如く、太陽は水平線ギリギリで踏ん張っていた。海は依然として橙色に染まっているかその中でサメハダーは何度か飛び跳ねていた。飛び跳ねる度に光に照らされた水飛沫が、ギラギラ輝きを放ち網膜に刺激を与える。ジャンプして落ちるとき尾びれが揺らめいていることに気が付く。それがお別れの合図だと悟って、私は慌てて手を振り返した。なんだか物足りなく感じたので、水鉄砲を上空に放ち彼の旅の祝福を精一杯祝ってみた。
 その後水が一気に落下し私はビショビショに濡れる。顔を拭きながら瞑っていた目を開くと、既に水平線の向こうまで泳いでいた。すぐに姿が全く網膜に映らなくなった。


 一人ぽつねんと物思いに耽る。寄せては返す波の音が早く動けと絶えず心臓を揺さぶる。
 流石に今なら泣けるだろう。私は夕日に染まる海を見つつ目をパチパチやって涙を放出させようとした。だがいくら待てど目から水鉄砲は一滴も発射されることはなかった。
 いつまで待たねばならんのか時間切れだ、と言わんばかりに、夕日は完全に水平線の下に隠れてしまい、瞬間海が真っ暗に染まる。
 やはり私には振り切るということが難しい。
 少しだけ悔しい感情が湧き、手を喉奥に突っ込んだ。
「おえっ」
 こうして私は無理矢理涙を出した。真実ではない紛い物の液体。一滴の涙は口の中に入り、私はそのしょっぱさを存分に味わった。見たか、これが道化師オシャマリの泣き方だ。
 ――どこまでも中途半端に生きていこう。
 唾液で汚くなった右手を海の水で洗い、海に背を向け歩き出す。私が息をするのは美しい大海原の中ではない。モクモクと黒ずんだ排気ガスが放出し、あちらこちらビルが喧しく聳え立つ、人々が支配する世界だ。

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