第五十六話 エルド=アルタイム

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

 ーーエルド=アルタイムの話をしよう。






 時は数えて今より十数年前、エルドは地元の名家であるアルタイム家の長男として産まれた。両親は仲が良くて優しく、名士なだけあって金銭的な不自由もない。世の中でも有数の恵まれたこの過程に生まれたエルド=アルタイムは、しかし小さい頃から不幸であった。
 その理由は簡単、ポケモンの基本となる技が使えないのだ。もともとポケモンは技を使えるようになる年齢に個体差がある。シオン=ハーヴィが幼少期から操ることが難しいシャドーボールを生成できたように、”剣聖”は生まれる前から卵の中で技を使っていたという伝説が残るように。それくらいエルドの「技が使えない」という才能は突き抜けていた。体つきが徐々にがっしりしていっても、宿り木の種一つすら芽吹かせることができない。医師が先天的な技器官の不良、原因は不明という診断を下すまでそう時間はかからなかった。もしエルドの才能にマイナスをかけたら相当な強さのポケモンになれるだろう。そう思えるくらいには負の才能が突き抜けていた。
 幼い頃は暖かい家庭に支えられていたため、多少悪戯っ子であったとは言え、性根は優しかった。しかし、技が使えないことが発覚すると恵まれた環境がエルドに牙を剥くようになる。両親の優しさは過度な期待に思えてストレスに感じるし、裕福な家庭だけが通える学校という環境はいじめを誘発させる。そして名士としての交友関係の広さはコンプレックスを刺激する。エルドの上には姉がいたため、彼が跡取りとして注目されなかったのは不幸中の幸いであろうか。
 そんな歪みは優しいエルドの根っこを捻じ曲げるのに十分だった。十分過ぎた。傷、そして痛み。振り返れば日常はその二つがやってくる。子供とはときに大人よりも残酷だ。いや、無邪気であり、しかも他者をうまく選別しているあたりは大人よりもタチが悪いかもしれない。
 子供とは退屈を持て余す存在であり、常に行き場のないパッションが渦巻いている。幼い頃は仲が良かったポケモンも、成長することでエルドをいじめの標的にする。
 その昔に外へと向けられていた好奇心は閉ざされ、表情は暗くなる。当然であろう、そんな環境に晒されていてはまともに表現することができないのだから。

 ーーただ、一匹の例外を除いては。
 









 日常は反復する。今日も今日とて子供達のやり場のない加虐の感情に晒され、それにすらもう怒りを感じることなく帰ってきた。
 音もなく住んでいる屋敷に帰り、部屋にこもろうとした。ただ時間が過ぎるのを待つだけのルーティン。だが、それを許さない存在がいた。

『エルド!』

 声の主ーーリーフィアはつかつかと歩み寄ってくる。そして身体に刻み付けられた傷を見て表情を歪める。

『……ひどい。誰にやられたの』

『大丈夫だよ、姉さん』

 乾いた声と弱々しい笑みが同時に出る。だが姉であるリーフィアは、どこからとなくオレンの実でできた薬を取り出した。そして丁寧にそれを塗る。

『ごめんね。私がいないせいで……』

『大丈夫だよ』

 無為な言葉を紡ぎ、そっとエルドは手を伸ばす。

『僕は姉さんさえいればいい』

 手をぎゅっと握り俯いて言う。それは彼の偽らざる本心で、素直な性格の名残でもあった。そんなエルドに姉は困ったように手を握り返して微笑む。

『お菓子でも買いに行こうか』

『……うん』

 黙って素直に頷く。エルドが昔のような優しい表情を見せるのは、姉のリーフィアことルナだけになっていた。
 それは、自分を決して叱らない両親に対する反発もあったのだろう。優しさが腫れ物に触るような態度に思えた。姉に対してはしっかりと叱る両親は、自分が何をやらかしてもオロオロとするだけ。決してエルドは彼らのことが嫌いではなかった。ただ、普通の子供として扱ってほしかったのだ。さりとて、聡明なエルドでも小さい頃はそれを言語化できるほど成熟してはいなかった。
 唯一、ルナは。優しくいつも自分の手を引いてくれたルナの存在によって、エルドの心は辛うじて保たれていた。









 ルナはエルドと真逆の存在だった。エルドのように技を使えないということもなく、むしろかなり強い部類であった。それでいて驕ることもなく、優しく明るい性格で誰からも愛されていた。それでいて、エルドがルナに対して嫉妬心を抱かなかった理由は、彼女がエルドに対しても優しく対等に接してくれていたからであろう。
 在りし日のことである。エルドが今日も今日とて、部屋の隅でぼんやりと座っている。何も考えていない。いや、何も考えないようにしていたのだ。感情が凍結すればいいのにとすら思っていた。

『エルド! あーそーぼー!』

 ばんばんとノックがした。そしてエルドが答えるよりも前に、ルナが大きな紙袋を抱えて部屋に入ってくる。

『それはなに?』

 ルナが持ってきた紙袋を見てエルドが首を傾げる。するとルナは悪戯っぽく笑った。

『花火玉よ。知らない?』

『うん。初めて見た』

 エルドは素直に言う。すると、ルナは得意げな表情になる。

『行商のマッスグマさんから買っちゃった! ブーバー製の商品で、割ると綺麗な模様を描くんだって』

『ふーん……?』

 エルドは少し不思議そうな表情でルナが持ってきた紙袋の中身を取り出す。一見は単なる不思議玉である。

『父さんと母さんがこれを見たら怒るんじゃないの?』

 心配そうなエルドの様子に、ルナは笑って首を振る。

『大丈夫よ! 綺麗なだけで害はないってマッスグマさんが言ってたから!』

 ルナはそんな不安を一蹴すると、不思議玉をポンと放る。

『わぁ……』

 目の前に広がる光景を見て、エルドは目を輝かせる。鮮やかな火花が走り、美しき模様を冠していた。赤、青、緑。三色が煌めく。その様子にエルドとルナは視線を外せずにいた。

『綺麗だね』

 ルナが呟く。エルドも大きく頷いてそれを肯定した。

 さて、当然ながら火を伴う不思議玉は室内、しかも水タイプのポケモンがいない状況で使うべきものではない。当然ながら、綺麗な模様は火となって部屋を焦がす。エルドとルナの悲鳴を聞きつけた両親がやってきたから大事は避けられたものの、ルナとエルドはきつくきつく叱責された。それでも、エルドの数少ない美しき思い出でもある。












 
 幼少期のエルドにとって幸せな記憶は片手で数えるに足る。それ以上の辛い記憶、嫌な記憶は星の数ほどあった。だが、エルドが今のようになってしまったのは、この出来事が決定的だったであろう。

 いつものように淡々と学校が終わり、そしていつものように誰かからからかわれる。今日はその相手がいじめっ子であるマクノシタとコラッタであった。

『おいエルド!お前はタネマシンガンすら使えないのか!』

『……』

 マクノシタのこの台詞は学校の実技試験を下地にしたものだ。この学校では身を守るために技の練習という授業がカリキュラムで組まれている。これは勉強が大っ嫌いな子供達にとって何よりも楽しい授業、そしてエルドにとっては何よりの苦痛でもあった。
 学校に入った当初は、ほとんどのポケモンが技が使えなかった。しかし周囲のポケモンは成長するにつれて技をだんだんと取得していく。ただ、エルドを除いて。
 揶揄するように言うマクノシタをキッと睨みつける。しかし、その眼差しは他のポケモンが使う攻撃技の威力を下げる睨みつけるではない。何の役にも立たない目。

『へ! そろそろ下の学年に混ぜてもらったほうがいいんじゃないか?』

嘲笑うマクノシタに、その後ろでニヤニヤと笑うコラッタ。
浴びせられる罵倒の言葉をエルドは黙って聞き流していた。この手の発言は相手にしても仕方がない。次々に飛んでくるからかう声を無視して家まで急ぐ。そこまで行けばもう追ってはこない。罵声にはもう慣れきっている。心の痛みはとうに麻痺しているし、身体の傷のようにじくじくと痛みはしない。だから何も思わない。思わないのだが。

『お前なんかがいるような家族ってろくでなしだろうな!』

 はたとエルドが立ち止まる。傷つけられすぎて痛みを訴えることもなくなった自尊心でない、また別の場所が躍動するのを感じていた。

『姉さんの悪口を言うなっ!』

 叫びながらエルドは飛びかかる。そして呆気にとられていたマクノシタを組み伏せ、拳を叩きつける。だが、それは技ではない。故に、効くわけもなかった。あっさりと振りほどかれて、今度は

『舐めんな、必殺前歯!』

『喰らえ、はっけい!』

 圧倒的に破壊力が上回る技で組み伏せられる。体格も負け力も負けて好き放題に嬲られていく。それでも絶対に声だけは上げなかった。腕から血が出ようと、どれだけ屈辱を浴びようと、これ以上は向こうを喜ばせたくなかった。どくどくと沸き立つ心臓を抑えながら精一杯抵抗した、そんな時だ。

『おい、喧嘩だぞ!』

 第三者の声が響く。やべっとマクノシタとコラッタが呟いて逃げようとするが、その前にどかどかとポケモンが集まってくる。自分達より年上であろうか。そんなポケモンたちがエルドたちを見ていた。しかし、エルドは集まってきたポケモンのうち一匹に視線が吸い込まれた。

『ねえ、さん?』

 そこにいたのは姉であった。しかし、エルドが家で見るようなルナではない。その周りには友達らしきポケモンが多くいる。そして表情もいつもとまるで違う。近いのに他人のような。そんな表情である。ルナの目が揺れる。いや、揺れたように見えたというべきか。

『ねえ、あの子って技を使えないポケモンじゃなかったっけ?』

 ルナの周りにいたポケモンのうちの誰かがそう呟く。その呟きには悪意がない。ただ面白そうに言っただけ。呟きは波紋を呼ぶ。ときおり、くすくすという嘲笑も聞こえる。

 ーー技を使えないポケモンって本当にいるんだ

 ーーそれアイデンティティーがないってことじゃないの?

 ーーねえ、技を使えないってどう言う気持ちなの?

 色々と興味半分の質問が投げかけられる。それには慣れていた。慣れすぎていた。だからエルドは今更それについて何も思わない。それよりも不安なのは姉の動向であった。周りのポケモンが口々に叫ぶ中で、ルナだけは口を真一文字に結んでいた。

『ルナってあの子の姉じゃなかったっけ?』

 誰かがまた言った。今度は面白がる気持ちに、ほんの一匙悪意を添えて。エルドは何も言わない。いや、言えない。麻痺したかのようにその場に座り込むだけ。そのとき、ルナと視線があった。あってしまった。

『ーー知らない!』

 何度もエルドを守った手がまた伸ばされる。しかし、それは優しさでなく加害の意思を持って。

『弟なんかじゃ、ない!』

 突き飛ばされた。そして呆然としているエルドを見ないでルナが走り去っていく。残されたのはただ一匹、自分だけ。
 この日、エルドの中で何かが死んだ。自尊心、信頼、愛。そのどれもが、自分が持っていいものであるとは思えなくなってしまった。
 後になったら理屈はいくらでもつけれた。姉いえど自分の道を捨ててまで弟に尽くす義理はない。まだ年端の行かない思春期の少女にとって、そこまで優しくはなりきれない。技が使えない自分を見て気持ち悪いと言うのは当たり前だ。だって、そんなポケモンは少なくともこの地域にはいないのだから。それは、どんなポケモンにも持ち得る弱さであり、日常的に繰り返される差別の一つである。論理で整理すれば、いくらでもこの言葉に解は突きつけられる。
 
 それでもエルドの中で信頼という美徳が死んだことは確かであった。










 エルドにとって善意は悪意よりも恐ろしくなった。罵詈雑言がどんな音楽の調べより心地よい。暴力を受けることは治療されるより好ましい。なぜなら善意は嘘をつくが悪意は嘘をつかないからだ。自分に笑顔を向けるポケモンよりも、突き飛ばしてくるポケモンの方が好きになれる。だって彼らは自分に害をなすという一点で正直なのだから。姉のように、いざという時に自分を切り捨てる心配もない。最初から期待させないでほしい。技を使えない自分が肯定されるはずがない。あんなに優しくしてくれた姉でさえ、いざという時には見限ってきたのだ。
 両親の褒め言葉はいつしか悪口として聞こえるようになる。信じられるものがいつしかモノクロに見えていく。世界が汚れて見えた。知っているポケモンも、知らないポケモンも。もっとも、一番汚れて見えたのは自分だったが。
 外に出なくなった。涙を見せなくなった代わりに笑顔も見せなくなった。ただ一日を空想の世界で消費するだけ。ありとあらゆる本を読んだ。政治、経済、哲学、自然科学、新聞……ただ意図的にファンタジー小説は避けた。読んだら何も持っていない自分が惨めになるからだ。空想に救われたくなかった。現実で見返してやりたかった。
 そんな時に彼が読んだのは、父の書斎にあった一冊の本である。誰が書いたのかはわからない。足型文字で書かれていないから読むことすらできない、稀代の難書であった。しかし、文字以外……そこにあるイラストは刺激的だった。ポケモンの身体がどうなっているかを事細かに描いてある。学者が注釈をつけていたのか、ところどころ解説をされていた。曰く、ポケモンの技はいかにして出るのか、と。
 その一冊に希望を見た。ポケモンは嘘をついても科学は嘘をつかない。ならば、自身が研究することで、技を出せるようになる。そう信じた彼の行動は早かった。ありったけの文献を読んだ。一匹でただただ勉強を続けた。目標は一つ、大学に行って研究をするためだ。
 キモリという種族は特別に頭が優れているわけでもない。「コトブキ大学」という世界で唯一の研究機関に行けるほどに頭がいいポケモンはフーディンやメタグロスと相場が決まっていた。しかし、エルドには彼らにない武器を持っていた。希死念慮、絶望、憎悪、怒り、虚しさ、悲しみ、焦燥感ーー肥大し、複雑に絡み合う負の感情を全て勉強に注ぎ込む。数年間、エルドはポケモンとあった記憶がない。ただ暗い部屋で本をめくるのみ。そして、逃げ出すように家を出たエルドは、試験を受けるべくコトブキ大学ある大陸に向かう。
 ーー「国家」。世界を統べるその機関が特別に作った研究施設がコトブキ大学である。大陸の一角をまるまる開発して、そこを近未来的な都市に作り上げたのだ。
 その外観に感嘆している暇もなく、とある建物の一室に通される。周囲は真っ白な壁がただ広がるだけ。てっきり多くのポケモンがいると思っていたが、目の前にいたのは一匹のポケモンだけであった。
 しかし、そのポケモンの姿にエルドは驚く。幻のポケモンとして文献に書かれていたポケモンーーユクシーがそこに鎮座していたのだ。しかしユクシーはエルドの表情をちらと見ただけで書類へと目に落とす。

『エルド=アルタイム』

 凛と響く声でユクシーはエルドの名前を告げる。さて、試験が始まるのかとエルドは身をこわばらせる。

『はい』

 緊張した声で辛うじて答える。ユクシーはそのまま落ち着いた表情で次々と問題を出してくる。技の理論から歴史、地理に至るまで。エルドはただただその問いに答えを突きつける。
 數十分が経っただろうか。ユクシーはようやく口を止めると、また書類を見た。

『最後の質問です』

 書類に向いていた視線が再びエルドの目を捉える。

『どうしてあなたは知を求めるのですか』

『……は?』

 無礼ではあったが、思わず声が漏れてしまった。しかしユクシーは聞こえていなかったかのようにそれを無視する。

『ここはコトブキ大学、世界の遍く知がここへと集まります。ここに来るポケモンはその恩恵を受けられるでしょう。対価として、ここに来るポケモンは何かを成し遂げなければいけません。そして、知を多くのポケモンに分け与えることが必要です』

 ユクシーは手に持った書類をなぞる。エルドは今度こそ黙って話を聞いていた。

『さて、エルド=アルタイム。あなたはどうして知を求める?』

 簡単な質問だ。しかし、重い質問でもあった。エルドは知を広めることになんら興味はない。公共の利益のためでなく、追い求めるのは自分のためだ。
 嘘をつこうと、思ってもいない美辞麗句を口に出そうとする。しかし、ユクシーの透き通った目を見てそんなことはできなかった。

『……僕は、世間のために何かをやりたいとは思えない』

 ぎゅっと拳を握り、下を見たままに言う。ユクシーは口を挟まない。ただ黙って聞いていた。

『あくまで自分のために成し遂げたいことがある。そのために知を求める』

 落ちた、とエルドは思った。同時に嘘をつけない自分が嫌になる。ああ、落ちたらどうするべきか。そう考えはじめたときにユクシーの穏やかな声が沈黙を突き破る。

『思ってもいない偽善を並べられるよりもずっといいでしょう。知とは欲望の産物ですから』

 あっさりとユクシーは偽善と切り捨てると、無表情を解いて薄く笑った。

『ようこそコトブキ大学へ。歓迎しましょう。ここは知を愛し、知に愛されしポケモンが集う場所です』

 ユクシーはエルドに向けて手を伸ばした。エルドは少しぼんやりとした表情でその手をとる。これが、エルドとユクシーの初対面であった。












 ともあれ、エルドは無事にコトブキ大学へと滑り込むことができた。知を求めるにしては最良の環境である。
 エルドは順調な生活を送っていた。しかしながらすぐに彼の研究は行き詰まる。当然だ、技の理論は学問の中でも一番力が入っており、それでなお誰も完全に理解していないのだ。再三言うが、エルド=アルタイムは凡愚である。薄々、自身の限界に気が付き始めた。
 そんなある日のことである。研究は行き詰まり、そして思考も進まない。どうするべきかと考え込みながら歩いていると、誰かにとんと肩を叩かれた。

『エルド=アルタイム』

『……! ユクシー、教授?』

『ユクシーでいいです。それよりも聞きたいことがあります』

 相変わらず神々しいオーラの持ち主であった。しかし、目はキラキラと少年のように輝いている。珍しい話だ。ユクシーは誰かと馴染まないポケモンであると噂に聞いていた。だが、目の前にいるユクシーはとてもそうは見えない。

『その、あなたが別の大陸出身と聞いて話を聞きたくなったのです。もしよろしければ少し付き合ってもらっても?』

 さすがに自分が興奮していることに気がついたのか、ユクシーは少し顔を赤くしながら聞いてくる。エルドはそれにどう答えるべきかしばし迷った。いつもならば適当な理由をつけて突き放したであろう。だが、今日は進まぬ研究に疲れていたのか言葉が思うように出てこない。気がつけばエルドは頷き、ユクシーの研究室へと向かっていた。











 久しぶりに他者と長く喋った。きっと昔、ルナと喋って以来であろう。その内容は多岐に渡る。技理論の話から宗教、社会、経済、政治……。一匹でじっと本を読み続けていた日々が役に立ったのか、ユクシーほどではないが、エルドもまた知識が成熟していた。ユクシーはそんな彼に惜しみなく知識を与える。その対価としてエルドはポケモンの暮らしを伝えた。エルドにとっては当たり前でどうでもいいものであったが、ユクシーはその一つ一つのエピソードに目を輝かせて聞く。

『そんなに珍しいものですか?』

 ポケモンの食生活と建築物の関係について楽しそうにメモをしながら聞くユクシーに、エルドは半ば呆れて言った。普段見せる他者を寄せ付けない態度はどこへやら、にこにこと笑いながらエルドの話をメモにとる。

『ええ、こう見えても私はポケモンが大好きですから』

『ポケモンは愚かですよ』

『私だってポケモンです』

 妙に疲れたエルドの声に、ユクシーは明るい口調で答える。しかしエルドにとっては不思議であった。ユクシーがエルド以外のポケモンと話すのはほとんど見なかったのだから。

『そんなにポケモンが好きなら、どうして他のポケモンと交わろうとしないのですか?』

 ふと心中の疑問が口について出る。色々なポケモンの噂から聞いていた。いわく、ユクシーは誰とも関わろうとしない、と。
 ユクシーの表情は一瞬固まった。しまった、話を変えようと思ってエルドは口を開こうとしたが、ユクシーが話し始める方が早かった。

『私は永遠に近い生を与えられたポケモンです。だから、この世で普通に生きるポケモンと価値観がずれてしまう。仲良くなるよりも早く、喧嘩が起きてしまう』

 胸を押さえてぽつりぽつりとユクシーは話し始める。

『それでも、寂しい。どうしようもなく一匹でいることは寂しい。だから、誰かと話したいと思ってしまう。……幻のポケモン、失格ですよね』

 悲しそうな表情で微笑むユクシーに、エルドは視線を落とす。

『僕のことはいいのですか』

『少し意地悪な質問ですね』

 そうは言ったが、相変わらずユクシーの声は穏やかであった。それがどこか心地よかった。

『……思い違いかもしれませんが、あなたもそんな風に見えたので』

『そう、ですか』

 肯定も否定もしない。深く考えないようにエルドはできるだけ冷めた声で言う。無理やり思考を切り替え、深みにはまらないようにする。

『またここに来てもらえませんか?』

『まあ、気が向いたら』

 気のない返事をエルドは返す。しかし、自分がまたもここを訪れるであろうことは予測できた。そうしたいぐらいにはエルドの心は疲れ切っていたのだろう。













 それからというものの、エルドとユクシーは次第に話す回数が増えていく。研究室で話す時間は数分から數十分に。そしてある日は数十時間まで。エルドの生涯で最良の時が姉と仲が良かった時であるとすれば、二番目によかったのはユクシーと親交を育んでいたこの頃であろう。
 ただ一つ注意したことは、自分は技が使えないとユクシーにバレないようにしたことだ。幸い、コトブキ大学で求められる技能に技の練度はなかった。だから、ユクシーに自分の汚点を知られることはなかった。
 そんなある日のことである。エルドは全力でユクシーの研究室になだれ込んだ。そしてぜえぜえと息を切らしながら驚いた表情のユクシーに言う。

『匿って、ください』

『どうしたんですか?』
 
 不審に思いながらも、ユクシーはとりあえずエルドをガラクタの山に放り込む。数分後、バタバタと響く足音に乱暴なノックが研究室に響く。

『……どうされました』

『どうもこうもない! 大学の一角が何者かに爆破されたんだよ! 犯人を見てないかね!』

 乱暴な声でバリヤードが質問する。相当怒っているのか、顔が真っ赤になっていてオクタンのようであった。ユクシーは慌てて笑いを噛み殺す。

『いえ、何も見てません』

 笑いを漏らさないように下を見ながら言う。

『ふん、幻のポケモンは犯罪者の一匹も見つけられないのか。本当に使えないな』

『……っ!』

 不躾なバリヤードの声にユクシーは顔を引きつらせる。それを目ざとく見つけたのか、バリヤードが薄い笑みを浮かべた。

『なんだ、何か文句があるのかね?』

『……いえ、何も』

 感情を押し殺したユクシーの返答に、ふんと鼻を鳴らすと、バリヤードは去っていった。
 ユクシーは気持ちを落ち着かせるように幾度か深呼吸をする。

『うまくあしらいましたよ』

『ユクシーのろくに整理されていない部屋が役に立ちましたね』

 ぶつぶつと文句を言いながらエルドがガラクタの山から出てくる。最近はエルドも少し慣れたのか、小生意気なことを言うようになっていた。それに対してユクシーはいつも軽口の一つや二つ返す。だが、ユクシーはぼうっとした表情を浮かべていた。

『どうしました? 偏屈バリヤードのじいさんに何かされました?』

『……いえ』

 ユクシーは首を振る。そして、努めて明るい口調でウインクしてみせる。

『対価は解剖ですよ』

『絶対に嫌です』

 即座にエルドが首を振る。少し調子が出てきたのか、ユクシーはむうとほおを膨らませる。

『……理論的には、私が作り出した「マスイ」という薬品さえあれば、痛みなく身体を切り裂けるはずです。理論上は』

『僕はそのせいで怪我をしてひどい目にあったんですが』

 右腕に生々しく残る傷跡を指してエルドはユクシーを睨みつける。熱心に頼んでくるユクシーに根負けして、一度はエルドも実験台としてその身体を捧げたのだ。しかし、「マスイ」と呼ばれるユクシーが使った薬は効果がなく、血がどんどん流れてあの世が垣間見えた。偶然オボンの実がなければ、どんな目にあっていたかわからないだろう。

『研究に失敗はつきものです! それに助かったし後遺症も残らなかったから……』

『それ、本人を前にして言えますか?』

『はい、ごめんなさい……』

 流石に調子に乗りすぎたと思ったのか、ユクシーはうなだれる。しかしすぐに口を尖らせてボソッと一言。

『誰でしたっけ、施設を実験で爆発させた馬鹿は』

『それはそれ、これはこれです!』
 
 今度はエルドが図星を突かれたのか、ぎゃおぎゃおと吠える番であった。対してユクシーも被せるように言う。

『じゃあ私の実験もそれはそれ、これはこれです!』

『僕の実験は誰も殺しかけてないです!』

『結果論じゃないですか!』

 ほおを紅潮させて子供っぽくユクシーは屁理屈を言い、エルドはそれを上回る屁理屈で返す。屁理屈はさらに加速していき、どんどんと話がずれていく。
 数十分は経っただろうか、互いにぜえぜえと言いながら黙り込む。叫びすぎて喉が痛くなったのだろう。

『それにしても、そんな危険な実験をどうして真夜中にやったのですか? それも、わざわざ夜中にやるなんて』

 不思議そうな顔でユクシーはエルドに聞く。ただ純粋な、悪意のなさそうな声で。
 少しだけ心が揺れた。技が使えないということを、ユクシーになら話していいとも思えた。変わり者ではあるものの、ユクシーはエルドがここ数年で一番親しく付き合ったポケモンである。話しても、いいのではないか。

『……その』

 口に出そうとして、ユクシーへと視線を向ける。そのとき、エルドはユクシーの優しげな目を見た。見てしまった。そして、「優しさ」とは嘘であることを思い出した。

 もしも否定されたら。
 もしも嫌われたら。
 もしも気味悪がられたら。

 嫌な予感が胸をざあっと駆け抜ける。ユクシーには、ユクシーだけには悟られたくなかった。だから、エルドは笑顔の仮面をかぶる。

『ーー単なる好奇心ですよ』

 嘘をついた。自分を守るために。本当の自分を知られないために。











 ーーそれから多くの年月を重ねた。
 ある日、エルドは何気なくユクシーがいる教室に向かっていた。普段は教室まで向かうことはなかったのだが、たまたま授業が早く終わったのと、聞きたいことがあったのだ。そして、教室の扉に手をかけて首をひねる。教室の中から罵声と悲鳴、技が飛び交うような爆音が聞こえたのだ。慌ててエルドが教室に入ると、そこには残忍な笑みを浮かべるゲンガーと、そのゲンガーに首を締められているユクシーがいた。

『は……?』

 あまりの事態にエルドの脳が追いつかなかった。なんとなく、コトブキ大学でユクシーがよく思われてはいないということをエルドは知っていた。だが、直接被害を受けるほどだったのか。

『ユクシー!』

 大声で叫びながらエルドは教室に転がり込んだ。ゲンガーは予期せぬ来訪者に驚いたのか、一目散に逃げ去った。残されたのは、あちこちに傷を受けたユクシーと、呆然とそこに立つエルド。

『ーー幻のポケモンといえど、傷を受ければ痛いですね』

 それは、初めてユクシーが見せたぎこちない微笑みであった。普段は自由気ままに振る舞う科学者がこんな顔をするとは。いや、当たり前なのかもしれない。彼女とて、また一匹のポケモン。一切の感情から解き放たれた神のような存在ではない。

『何があったんですか』

 声が震えていることが自分でもわかった。目の前の事態を処理することができていなかった。

『……ちょっとしたいざこざです』

 そういってユクシーは何事もなかったかのように宙に浮こうとするも、痛みのためか顔をしかめた。そして痺れているのか、一つ一つの動作が遅い。

『よくあることですよ。幻のポケモンだからお高くとまりやがって! というやつです』

『そんなわけ……』

『事実、ですからね』

 攻撃を受けたためか跳ねている毛を整えながら、重い声でユクシーはエルドの声を遮る。

『こう言ってはよくないですが……私は生まれついて隔絶された存在ですから』

 違う。そんなことはない。だが、エルドはうまく声を出すことができなかった。

『オレンの実を持ってませんか? ちょっと切らしてまして』

 小さな体から血を流して、それでもユクシーは気丈に微笑んだ。それが、無性にエルドにとっては悲しくて。

『ユクシー』

『大丈夫です。憎まれることには慣れていますから』

 静かにユクシーは告げる。そして、エルドからオレンの実を受け取ると、ありがとうございますと頭を下げた。

『近々、私はこの大学を去ろうと思います』

 オレンの実を食べながら、唐突にユクシーが衝撃的な発言を口にする。エルドの頭はそれに追いつけず、真っ白になる。

『ど、どうしてですか!』

『実は私には幻のポケモンとしての任務があるのです。そろそろそれを果たさなければいけない時期です。それに、こんなことがありましたし、潮時ですね』

 あくまで寂しそうで憎しみの感情を一切見せない。そんなユクシーを見て、思わずエルドは胸を押さえた。

『どうして、あなたが泣くんですか?』

『……は?』

 その不思議そうな声に、エルドは慌ててほおを拭う。熱い液体がこぼれ落ちていた。それを見てユクシーが寂しそうに微笑む。

『そんな顔をしないでください。幻のポケモンとして生まれた以上、当たり前のことですから』

 そのあとエルドは自分がユクシーとどんな会話をしたのかは覚えていない。ただ覚えているのは胸に湧く怒りのみ。
 柄でもない。自分に得はない。ユクシーはただの教授であり、尊敬こそしていたが、命をかけるほどではなかった。自分を研究対象として見ていたところと、技が使えないことに同情をしないところは好ましくあったが。
 だが、許せなかった。何の理由もなく、他者を傷つけることがあっていいのだろうか。自分ならまだいい、技が使えないどうしようもなく劣って生産性のないポケモンを見下すことはわかる。しかしユクシーは一体彼らに何をしたと言うのか。
 ガリと乱暴にドロンの種を噛み砕く。絶対に許せない。そんな燃えるような憎しみを抱きながら。








 さて、ここでエルドが何をしたかについての詳細はのちに筆を譲るとしよう。簡単に言えば、エルドは暴れに暴れた。そして自分を顧みることもなくゲンガーに恥をかかせた。それのみならず、大学に喧嘩を売った。当然、総スカンを喰らうわけでエルドはほうほうの体でコトブキ大学から逃げ出す。
 さて、これからどうしようか。家に逃げ帰るわけにはいかない。他の大陸で研究を続けるしかないであろう。そんな風に歩いていたそのときだ。

『エルド!』

 はたとエルドは足を止めた。振り返らなくてもわかる。しかし、エルドはあえて振り返らない。

『あなたは、一体何を』

『なんのことですかね。それよりやめるならさっさと行ってくださいよ』

『こっちを向きなさい!』

 ぐいと体が掴まれる。強制的にユクシーと目が合わさる。もしかしたら、友と呼んでもいいかもしれないポケモンの顔が。

『エルド、あなたは自分が何をしたかわかっているんですか!?』

 ユクシーは目を怒らせてこっちを見ていた。だが、エルドはそれを振り払う。

『……言いたいことはそれだけですか?』

 なおも何かを言いたげなユクシーにしっしとエルドは手で払う。ユクシーと自分が関わっていることを誰かが知れば、ユクシーがまたも復讐されかねない。そうすれば、自分の中で何かが崩壊する気がした。ユクシーを信じてしまったら、また裏切られたときに心が持たなくなる。きっとそうだ。心の底から不愉快であった。本当の自分を知るわけもないのにこっちを受け入れる顔など見せないでほしい。技を使えない自分が好かれるわけがない。仮面の奥に隠された薄汚い本性を見て好きになるポケモンなどいるわけがない。

『さようなら』

 ユクシーはきっと大学を去るはずだし、自分が関わっていることを知られては、ユクシーにも怒りの矛先が向くだろう。ーー後者の考えは無意識的なものであったから、エルドは自身にある優しさに気がつけなかった。いや、気がつかなかったのかもしれない。
 友情という嘘をつかないでほしい。どうせ裏切るのだから。こっちが好意を抱こうが抱くまいが、そんなものは無視してほしい。こっちが勝手に好意を抱いただけなのだから。
 そしてエルドは歩き始める。ただ一度もユクシーの方を振り返ることもなく。そして別れの言葉すら残すこともなく。最後に会えて嬉しいという気持ちと寂寥の気持ちを無理に押し込めながら。

『ーーエルド! まだ言いたいことが……』

 ユクシーが背後から呼びかける。だが、エルドは何も聞こうともせずに走り去った。良い夢を見れた。もしかすれば、自分が友を作れるかもしれないという幻想を。











 ここからはユクシーが預かり知らぬところではあるが、エルドは大学から処分こそされなかったものの、同じ大学のポケモンから追われる身になった。最も、一手遅かった。彼らに見つかるより早く、エルドは逃亡の準備を進めていた。
 このときに役に立ったのが不思議球とタネだった。もとより自身を強化する手段として研究の傍で勉強を進めていたが、次々と実戦投入するようになる。粘りつく爆裂のタネ、ドロンのタネ、火を吹く不思議球……大学を抜ける時にしっかりと資料だけ盗んでおいたことが幸いする。
 その成果もあって、エルドは無事に別の大陸へと逃げることができた。流石に追ってくるポケモンはいない、しかし同時に頼れるポケモンもいなかった。
 それでも、ただ一つ。研究を続けたい気持ちだけは変わらなかった。変われなかった。しかし大学に入り直すことはもうできない。下手をすれば足がついて追ってこられるだろう。その代わり、エルドは一つの道を知る。商売だ。
 幸い、ここの大陸は他の大陸と比べて文明レベルが高くない。その代わりとして、おおらかなポケモンが多い土地であり、他の大陸から渡ってきたポケモンに向けられる目も冷たくない。そして他のどの大陸と比べても探検隊の活動が活発であった。エルドの知識や仕入れたものがあれば、十分生きていくことができるだろう。
 まず必要なのは金、そして情報であった。金さえ払えば情報を手に入れることができる。情報があれば信用を手に入れられる。
 では、その信用をどうやって得るのか。その手段にエルドは悩んでいた。だが、ある日一筋の光明を見る。それは、他の商人がやっていた手段である。注意深く周囲を観察していると、ナゾノクサという明らかにひ弱そうなポケモンがいた。しかし、彼はうまく自分を売り込んでいた。というのも、ナゾノクサは弱そうなことを隠しはせずに、むしろ他者から同情させるように振舞っていた。
 これだ、とエルドは直感する。おどけ、逃げ回り、へりくだり、軽い言葉で周囲を笑わせ、深い関係になるのは徹底して避ける。裏に秘めた思いは隠す。「弱い」ということはときに武器にもなり得るのだ。じくじくと心が痛むのをこらえながらも、時に自分は技が使えないポケモンであるということを暴露した。この大地にいるポケモンは優しく、表立っては差別をしてこない。むしろ、同情されるくらいであった。
 仮面をかぶる。他者を利用するために、自身を守るために。思考は止めた。他者が望む「エルド=アルタイム」を構築していく。簡単な話だ、他者との関係は貨幣のようなものである。相手に「好意や興味を抱いてる素ぶり」を見せ、対価として「仮初めの好意」を受け取る。深い関係は築かない。なぜならば「内心」の告白を求められるから。
 技が使えない自分が好かれるわけはない。薄汚い根性と捻くれた思いを受け止めてくれるポケモンなどいるわけがない。自己否定と怨嗟の念、そして諦めた感情を渦巻かせながら直視しないようにする。代わりに研究をもっと深めて知識の海に自己を投げ出す。その情熱の根底は自己否定の気持ちだと知りながら、それから目を逸らす。
 そんな思いを抱え、手っ取り早く換金できる水晶を手に入れようと、滝壺の洞窟に行った。分け前を払いたくないからたった一匹で。
 珍しく焦っていたエルドはそこで失敗を犯す。コダックの群れに追われるはめになったのだ。このまま死ぬのか、気が動転してしまったエルドは道具すら使えなかった。破れかぶれになって、そこらのポケモンに助けてくれと叫んだ。

 ーーそこで、エルドは小さき英雄を見た。

 迷わずに自分を助けるピカチュウにイーブイ。実力こそ追いついていないが、その動作の一つ一つに大器の片鱗を感じた。しかし、エルドが注目したのはそこだけではない。依頼を出してすらいない自分を助けてくれる姿は偽善すら超克した存在に見えて。
 利用しよう、そう決意した。それだけ懐の深いポケモンに会えたことは僥倖であった。もはや彼にとって全てのポケモンは利用価値があるかどうかしか見えない。……いや、意図的にそれだけを考えていたというべきか。
 自分だけの力では、この広い大陸を渡ることはできない。トレジャータウン近隣は幸いにして多くのポケモンが集まった。だから金を握らせれば情報を落としてくれることも多い。しかし実際にこの目で見なければわからない与太話も多い。だから探検隊に紛れ込み、遠くの地域に連れて行ってもらえないかと考えていた。特に、プクリンのギルドはいい場所であろう。探検隊の質も高い。

 ーーなぜ他の探検隊でなく、ライたちと組みたいと考えたのか。この愚者の思考はそこまで至らなかった。

 そこからの彼の行動は早かった。まずプクリンのギルドを中心に情報を集める。案の定、最近ピカチュウとイーブイの探検隊が台頭していることを知る。さらに幸いだったのは、そのピカチュウがここ数ヶ月で急に現れたポケモンであると知れたこと。何か後ろ暗いものがある、そうでなければ急にここで探検隊活動をしないだろう。その後ろ暗いものについては情報が入らなかったが、そこは目をつぶった。……一方で、イーブイの方はずっとここらにいること以外何もわからなかった。しかし、トレジャータウンでは優しいポケモンとして知られていた。優しいならば操りやすい。向こうの同情心を引けばいいのだから。
 続いて手に入った情報は、カイリキーのギルドとプクリンのギルドが共同で遠征をすると知れたところ。短い期間だから探検隊を組みたい、そう頼むことを画策する。いきなりチームに入れて欲しいと言っても信用はされないだろう。ならば、遠征の間に自身の価値を売り出し、後々長期で組ませてもらおう。
 ではどうやって彼らと接触するか? その手段に悩んだが、意外なところに救いの手があった。
 ある日、路地裏で大騒ぎする探検隊らしきポケモンたちがいた。その顔の悪さと下品さに興味をもち、耳を傾けた。すると、ドクローズはブレイブと戦い、ボコボコにしてやるとか。迷うことはなかった。口にドロンのタネを放り込むと、こっそりと彼らの後をつけた。
 最も、エルドはピカチュウとイーブイが負けるわけがないと確信していた。ポケモンとしての格が違うのだ。片や田舎のチンピラ、そしてもう片方は大器の片鱗。例え、いくら小細工を使っても勝てないだろう。自分が他の凡庸な野生ポケモンに勝てないのと同様に。
 果たしてドクローズとブレイブの戦いが始まる。あの手この手でスカタンクは二匹を追い詰める。正直、自分の勘が間違ったかと覚悟した瞬間もあった。しかしピカチュウとイーブイは勝利する。そしてエルドは馬鹿な探検隊の仮面をかぶり、二匹の治療を行った。偶然ここに来た、そんな設定を練り上げて。
 イーブイの方はころっと信じてくれた。そのうえ、遠征中に技を使えないことを匂わせたら決まりの悪そうな顔をしていた。ピカチュウの方はなかなか信じてくれなかったが、セカイイチを渡したらようやく折れてくれた。この手のポケモンには、自分の利用価値を伝えればいい。幸い、技の制御や立ち回りに欠点があり、エルドはその穴を埋めることができた。あとは、自分が二匹を利用するだけであった。
 エルド=アルタイムは凡愚である。どれだけ口でふざけようが、他者にバカにされるべく道化として生きようと、それだけは忘れてはならない。道化で、どうしようもないポケモンであってこそ自分であり、それ以外は許されない。許されていいはずがない。あくまで自分のウザさで全てがトントンになるように計算し続けろ。

 ーーそんな環境に少しの心地よさも感じてしまった。








 甘かった、自分の考えが間違っていた。”幻影神官”ことドーブルを見ながらエルドは歯噛みする。まさか、自分が選んだ相手が世界で指折りの悪辣な組織に目をつけられていたとは。同時に知った、この組織を追えば自分の目的に繋がると。本来はハクリューが使えないはずのアクアリングを使った。そしてハクリューを弄ったのは”黒い蝶”。一か八かでも彼らを追うべきだったのだ。使えないはずの技を使う、エルドがずっと求めてきたものは目の前にあったのに。そうしないでエルドが逃げ出した理由は単純である。

 ーー死にたくない。

 どうしようもなく命が惜しかった。どうでもいいと投げやりになっていたこの身が傷つくことが何よりも怖い。渇望を放り投げてでも自身の命を助けること、それが目標になってしまったのだ。
 結局のところ、エルド=アルタイムはただの凡愚にしかなれない。研究を重ねても何かを成すことはできず、目の前の強敵からは逃げ出すことしかできない。

 逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて。

 そこにはなにもなかった。技すら使えないキモリ。その手に残されたものはなく、その情熱もなかった。自分にはもう何も残されていない。死にたくない、生きていたくない。研究は続けたい、研究は失敗する。多くの二律背反を背負い、彼一匹に解決する能力はない。結局のところ、彼は凡愚にしかなれなかったのだ。命を賭けて何かを成そうとしない、だから結果はついてこないし不幸を呼び寄せるのだ。
 死んでしまおうか、ふっとそんな考えが生まれてしまった。あのときは生きのびるために逃げたのに。しかし、考えれば考えるほど悪くないような気がしてきた。そう考えれば簡単、すぐに丈夫なロープを用意すると天井にぶら下げる。遺書は残さなかった。残す相手がいなかった。
 ロープを首にかけた。しかし、数秒後にとんでもない恐怖と、酸欠の苦しみが死の欲動を生へとベクトルの向きを変換させる。マッチポンプの火事場の馬鹿力でロープから抜け出して床に情けなく転げ落ち、酸素を取り込もうと喘いでしまう。
 死ぬことすらできない。こんなにも生きることは辛く、虚しいものでしかない。それなのに自分の弱気のせいで最後の選択肢すら選べない。

『……っあああ!』

 苛立ちまぎれに自分を殴ってみる。しかしまともに鍛えていない自分の拳は自分にすら痛みを与えることもできない。情けがなくて涙が出てくる。それでも死なない。死ねない。こんなにも消えてしまいたくて、それでも体が動かない。
 思考を止めた。ただロボットのようにぼんやりと研究してぼんやりと商売をする。そしてぼんやりと虚空を眺め、食事は気が向いたら取る。生きていることに意識を向けたくなかった。ただ一日一日を何も考えずに消費してーー
 もう二度と会わないと誓ったピカチュウに襲われたのはそんな時であった。







 無茶苦茶だ。脅迫だ。いくら行き詰まっている自身の研究が進むかもしれないとはいえ、”エーファ教団”に侵入してイーブイを奪還するなど正気の沙汰ではない。エルドは取るに足りない研究者であり、そんな実力は備わっていなかった。
死にたくない、生きていたくない。そしてその道を選ばなければ殺すと脅してくる。どのみち死だった。ならばせめてライに殺される方を選ぼう。ーーもし切羽詰まった表情を見なければ、そうしていただろう。

『シオンを、助けてほしい』

 あられもない懇願に、なし得なかった自らの過去を見た。犯罪ギリギリのことをやろうが、どんな罵声を浴びようがその瞳は真っ直ぐで揺るがない。そして、涼やかな表情をかなぐり捨てて土下座してきたのだ。羨ましかった。憎かった。鬱陶しかった。そして、心の底から敬意を示した。それは、エルドではきっとなし得なかったことだ。ありとあらゆる手段を用いて、命もプライドも捨てる覚悟でどこかに飛び込んでいく姿に惹かれないわけがなかった。
 勝ち目のない賭けに乗った。死を覚悟して戦場に飛び込んだ。なあなあで生きることをやめてしまった。色々とそれらしい理屈をつけたが、エルドの気持ちが動いたのはこれが原因であった。だって、そうだろう。憎たらしいほど冷徹なピカチュウが感情を露わにして、イーブイを救いたいと叫ぶ。そんな情けない姿にエルド=アルタイムの底にある義侠心に火がつけられないはずがなかった。
 同時に死にたくなるほど感じたのは自分の弱さでもある。仮に、自分が逆の立場であったとしても彼のように“エーファ教団”に突っ込むという選択肢を取れるだろうか。否である。
 それを、彼は成し遂げた。相棒を奪還し、“エーファ教団”を壊滅させてみせたのだ。英雄とは何か、と聞かれたらエルドは彼らの名前を挙げるだろう。そんな存在に、エルドはどうしようもなく惹かれてしまった。憎くて頭がおかしくなるほど嫉妬しているのに。だからこそ、エルドはギルドに残ることを選んだ。彼らが光であるがゆえに。それは、ルナやユクシーのような光ではない。それでも、彼らの存在は確かに光であった。










 ーー世界がモノクロになった。

 重傷を負った師を見たときに最初に感じたのは、頭を殴られたかのような衝撃だ。その痛みのあまり、世界から色が抜け落ちたのだと思う。ユクシーの綺麗なあの黄色い毛の色は見えず、楽しげで、どこか達観しているユクシーの声は聞こえない。それは、死者とはあまり変わらないかのようにエルドには思えた。
 これまで感じたことのない憤怒に貫かれる。この手でジュプトルを仕留めてみせようと思った。しかし、それはプクリンに止められた。プクリンはああ言っていたが、自分が技を使えないから討伐隊から外されたのだろう。エルドの思考はそこに帰着した。
 静かに、冷静に怒る。腹立たしいが、プクリンのおかげで頭を使って考えられるようになった。確実にジュプトルを仕留める。
 まず、思考を整理する。口にこそ出しはしなかったが、エルドはヨノワールが挙げた候補のどこかにアグノムがいると考えていた。その中で、真っ先に切り捨てた候補は泥の迷宮に終の大地である。前者のダンジョンは地面タイプのポケモンがかなり多く、地盤が不安定である。時の歯車を守るには適しないダンジョンであろう。終の大地は最近見つかったダンジョンである。ここにアグノムがいるとは考えにくい。このように候補を絞っていくと、やはり怪しいのは北の砂漠に水晶の洞窟だ。前者にはエムリットが番人として滞在していたと聞く。ならば、水晶の洞窟にアグノムがいるであろう。水晶には意思を映し出す力があると、昔ある神話で読んだ。与太話と思っていたが、一考の余地はあるだろう。
 その推理を誰かに告げようとしてーーふと口をつぐむ。もしジュプトルを捕まえたとして、自分はどうなるのか。例えこの世界に日常が帰ってきたとしてそれが何か。自分に技が使えないということを再確認するだけではないか。
 あれだけ強いピカチュウですら、自分の命を投げ捨てるのを苦としないのだ。ならば、今更自分が命に固執するなんて馬鹿らしくはないだろうか。そも、彼は自分のことを生きていい存在であると考えていなかった。
 もしユクシーと再会しても、この環境では自分が技を使えないことはバレてしまうであろう。そうすれば、ユクシーが自分を嫌うであろう。嫌われてもいいポケモンから嫌われることはどうでもいい。だが、ユクシーだけには、嫌われも同情もしてほしくなかった。
 彼の中にある自己否定の感情は檻から解き放たれ、死を抑制すべき本能は悲しみと諦念の前にまるで無力。
 仮面をかぶる。笑顔の仮面を。愚者である「エルド=アルタイム」の仮面をかぶり続けよう。きっと、最後になる愚者の仮面を。












「ーージュプトル!」

 淡い青が光るその場所に、ジュプトルはいた。その少し先にはアグノムが倒れている。時の歯車の所在を示す淡い光は、まだ湖の奥にあった。
 ほっとしてエルドは息を吐く。もし時の歯車が取られていれば、全ては台無しになるところであった。
 青いマントをはためかせ、エルドはジュプトルを睨んだ。ジュプトルは何も感情を乗せない目でエルドを見返す。

「何をしにきたんだ」

「決まっているでしょ。貴方を倒すのですよ」

「悪いが俺もはいそうですかとやられるわけにはいかないな」

 ジュプトルは手についた葉を脅すようにちらつかせる。それは見ているだけで斬れそうになるくらいの鋭さ。持つ側のポケモンのみが誇示できる力だ。

「今、そこのアグノムを連れて帰って逃げれば何もしないと約束しよう」

 ぐったりと倒れるアグノムをジュプトルは片手で指す。既に戦いには敗れた後なのか、浅い呼吸をしてその場でうずくまっている。傷だらけで、とても戦いは続けられそうにない。

「ーーそうですね。僕はあなたには勝てない」

 現実を噛みしめるようにしてエルドは言う。片や歴史に名を残す大犯罪者、そしてもう片方は技すら使えぬ凡愚。勝ち目などあるわけがない。あるなどいうポケモンがいれば、張り倒したいくらいだ。

「物分かりがいいな。なら」

「待ってくださいよ」

 エルドは乱暴にマントを剥ぐ。仮面を、素顔を晒す。持たざる者の最後の姿がこれである。

「……なんだ、それは」

 初めてジュプトルが表情を揺るがせた。世紀の大犯罪者ですらこんな光景を見れば驚くのだろう。ああ、いい気味だとエルドは心の中で嘲笑った。

「爆裂の種ですよ。これだけの数があれば、あなたを仕留めるくらいはできるでしょうね」

 見せびらかすようにしてエルドは右腕を前に突きつける。そこには、いくつもの爆裂の種がくくりつけられていた。いや、右腕だけではない。全身余すところなく、爆裂の種がくくりつけられている。随分と不恰好なものだ、とエルドは苦笑した。その格好はお世辞にもかっこいいとは言えない。だが、こんな最期も自分らしくはないだろうか。

「そんなことをしたらお前もーー」

「死ぬでしょうね。はは」

 乾いた笑いをエルドは返す。まもなく終わりを告げようとする命に、本能が死にたくないと暴れる。それを理性が捩じ伏せる。死に場所をずっと探していた。死にきれるほど勇敢ではなく、かといって生き続けるほどの勇気はない。

「正気か!」

「狂気ですよ。でも僕からすれば正気だ」

 気色ばむジュプトルを見てざまあみろと笑う。こんなときであるというのに、自分の行為がジュプトルを怯えさせていることが何よりも愉快でたまらなかった。

「無駄な真似はやめろ! こんなことをしても何も……」

「何の意味もない、ですか?」

 聞き飽きた、つまらない、下らない、空虚な。そんな言葉で今更気持ちを変えられるとでも思ったのだろうか。エルドはぎゅっと胸を掴み、ジュプトルを蔑むような目で見る。

「僕の生涯には、何の意味はありませんでしたよ」

 届きはしないであろう虚しい言葉を空へと飛ばす。そして、全てがゆっくりに見える世界で、エルドは心地よく最後の跳躍をした。身体に取り付けた爆裂の種は破裂し、自分の命を奪うだろう。だが、エルドにはそんなことどうでもよかった。愚かな自分の命を犠牲に、世界に貢献できるのならば。
 走馬灯のように目の前が白んでいく。終わる世界の合間に見えたのは、やはりユクシーと姉の姿である。ふっとエルドは笑った。最後に、自分は何か貢献できたであろうか。
 死に向かう理性に対し、本能が怯えたように身体を震わせる。だが、それすら間に合わない。きっと自分は木っ端微塵になるはずでーー。

「ーーやっぱりあなたは愚か者ですよ」

 もう二度と聞くことはない、そう思っていた声がした。










 まず疑問符がエルドの脳にやってくる。次に、体の熱を奪うような雨が来る。ぽたぽたとエルドの身体から滴る水は、爆裂のタネが湿気ってもう使えないということを告げていた。視界の片隅で雨降らし玉の残骸と、不機嫌そうなピカチュウに不安そうな表情を浮かべたイーブイを捉えた。もう二度と目を開くことはないと思っていたのに、自分の見えている世界には色に満ちている。しかし、それよりもエルドの目を引きつけたのは、もう会わないと思っていた師である。

「エルドとアグノムを連れて帰ってくれ」

 ジュプトルから目を離さないままライが言う。そして、ジュプトルを正面から睨む。その横には、そっとシオンが寄り添った。

「……わかりました。ご武運を」

 ユクシーがゆるやかに一つ頷くと、おもむろに不思議玉を叩き割った。次の瞬間、エルドの目の前にあった風景がぐにゃりと歪んで消えていく。





 流れ行く現実を掴めぬままに出来事は過ぎ去っていく。戻ってきた先はプクリンのギルド。そして多くのポケモンが怒号を飛ばしあっていた。慌ただしく水晶の洞窟に向かう探検隊の背中が見える。しかし、エルドにはそれが近くにあるのにも拘らず遠くに見えた。
 今のエルドはギルドの部屋でぼんやりとしている。脳は砂漠のように乾ききっていて、思考を進めようにもうまく働かない。何かをしなければという焦燥感のままに立とうとする。
 刹那、ばたんと扉が開く音がした。神々しいオーラを纏うポケモンがガラス玉のように透き通った目でエルドを見つめていた。

「ユク、シー?」

 現れた懐かしきポケモンの姿を前に、エルドが噛みしめるように言うと、ユクシーはゆっくりと口を開く。

「手紙、読んでくれましたか」

「……ええ。読みましたよ」

「どんな内容か覚えていますか」

「そりゃ、もちろん」

 淡々と味気のない文章でユクシーは近況を語ってくれた。黙ってはいたが、ある任務のために霧の湖というところにいると。そして、またいつか会いたいという話だった。それを読んでエルドはほっと一息つけたのだ。ああ、ユクシーは元気でやっていると。

「そう、ですか」

 深々とユクシーはため息をつく。そして、エルドの近くにやってきて手をあげた。

「愚か者っ!」

 ぱん、とほおが叩かれる。これまでエルドが見たことないくらいにユクシーの顔は紅潮していた。突然の衝撃に体が揺らぎ、その場にへたりと座り込む。

「何をするんですか!」

 不意な暴力に思わずエルドは声を荒げる。すると、それを上回る大声でユクシーは叫び返す。

「手紙に書いたじゃないですか! “どうか無茶をせず、元気にやってほしい”って!」

 ユクシーの言葉でエルドはふと手紙を思い出す。何度も何度も丁寧に読み返したが、その部分については特に思うところなく読み飛ばしていた。
 
「ああ、そう言えばそんなもの書いてましたね」

 その程度の感情しか湧かない。だって、その言葉をまともに受け止めていい資格が自分にあるわけがないのだから。もしも技を使うことができればその言葉を受け止めてもよかったであろう。だが、現実として自分は技を使うことができない。だから姉に迷惑をかけたのだ。

「あなたは、自分の命をなんだとーー」

「持つものが、持たざる者の何をわかると言うんですか!」

 吐血するような思いで叫び返す。どれほど自分が切実に“普通”であることを望んできたと思うのか。英雄になりたいわけではない。天才になりたいわけでもない。ただ、ひたすらに平凡であることを望んでいただけなのだ。そんなささやかな願いですら、エルドにはずっと遠く。

「僕は、技を使えないんです!」

 エルドも怒りのままに叫ぶ。ついに言ってしまったと冷静な頭のどこかで思う。ああ、しかし。血管を持っている自分がそんな思いを抱えるのは間違いであろう。

「ユクシー、あなたには何もわかりませんよ。技を使えない機能不全なポケモンの気持ちだって」

 ありったけの憎しみと汚い嫉妬心をこめて言う。良心がユクシーを責めるのは間違っていると訴えかけていた。だが、今更心にある黒い感情は流れ出るのが止まらない。
 結局、自分はこの程度なのだとエルドはどこかで思う。技を使えないだけでなく、八つ当たりするような性格。そして助けてくれたユクシーにお礼の一つも言えない。それどころかただ罵倒するだけ。
 仮に技が使えたとしても性根は変わらなかっただろう。こんな自分がまともに誰かから受け止められるわけがない。どうせ別の形で姉から否定されたであろう。
 もう疲れたのだ。放っておいてほしい。ただエルドはぐったりとその場に座る。こうまで言ってなお、ユクシーが自分に何かを言ってくれるわけがない。それが妙に清々しかった。物事があるべき姿に戻っただけだ。愚かで、無能で、孤独なまま死ね。それが、エルド=アルタイムに許された唯一のことだ。

「……そうですね。私にはあなたのことがわからない」

 ユクシーは静かな声で言う。そして、すうと深呼吸をした。

「でも、あなたに死んでほしくない!」

 また平手が飛んでくる。エルドは反射的に目を閉じたが、いつまでも痛みは来ない。恐る恐る目を開きーーそして、息を呑んだ。ユクシーの双眸からは涙が流れ落ちていた。

「あなたを大事に思うポケモンがここにいるとなぜわからないのですか!」

「……!」

 咄嗟に視線を下に向けた。違う、そんなことを自分は望んでいない。ユクシーを泣かせるつもりはなかった。ただ、自分はーー。

「こっちを向きなさい!」

 またほおを張られる。そしてしっかりと肩を掴まれた。

「いいですか、エルド=アルタイム。あなたが技を使えようが使えまいが、そんなことはどうでもいい」

「……は?」

 間抜けな声が口から飛び出す。そして次に出たものは乾いた笑い声だった。

「は、は。何を言っているんですか」

 へらへらと笑いながらエルドはユクシーの言葉を切り捨てる。だがユクシーは依然としてエルドの肩を逃さないように掴んでいる。

「あなたが何かを隠していることは、私にだってわかりました。そして、あなたが礼を言われたがらないこともなんとなく知っていました。だから、私も何も言いませんでした」

 違う。それは自分に礼を言ってもらう価値なんてないのだから。そんなもの、エルド=アルタイムには度の過ぎた貰い物である。

「でも今は違う。あなたに言いたいことがたくさんあります」

「……っ!」

 危険を感じてユクシーの手を払おうとする。しかし、それを上回る力でユクシーに抑えられていた。

「私はあなたから多くのものをもらいました。あなたがどう思っているかはわかりませんが、私はあなたをこの世に生受けて以来、最良の友であると思っています」

「ちが……」

「違わないです。私はあなたに礼を言いたいことがたくさんあります。いくら言っても足りないし、いくらでも言い続けたい」
 
 胸に手を当ててユクシーは静かに語り始める。

「あなたのように、私のためにあそこまで怒ってくれるポケモンは初めてです。そして、私とずうっと話をしてくれたポケモンも初めてでした」

 気がつけば柔らかく自分の体が受け止められていた。それが、ユクシーに抱きつかれていると気がつくには少し間があった。

「生きててくれてありがとうございます」

 耳元で暖かな声がする。そして、手がそっと頭の上に置かれていた。

「……っ」

 暖かな言葉がエルドの心にあった氷を静かに溶かしていく。そして、長年せき止められていた思いが、静かに目から溢れ出していく。

 ああ、なんだ。自分が欲していたものはこれだったのか。
 バカな話だ。甘えた話だ。本当に欲していたのは、“生きてていい”。そんな言葉だったなんて。

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