#4 蜂蜜-1-

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください


 ジャグル・タルトがディドル・タルトの家にやってきてから起こった事件のうちのいくつかを、ここに書き記す。




 クラウディアの屋敷の一室で、ロコとジャグルは机に向かって一枚の紙を眺めている。
 数学の家庭教師から、ロコは課題を出された。学のないジャグルに対して、勉強を教えるというものだ。教師に見守られて、二人は問題に向き合っている。
 机の上に置かれた紙には、直角三角形が描かれていた。一辺の長さを求める問題のようだ。
 ロコの説明は的を射ず、ジャグルの頭を混乱させる。最初は一致団結して、はりきっていた二人だったが、徐々に雲行きが怪しくなってくる。
「だから二乗ってなんだよ。数字を二回掛けることと直線の長さと、どう関係するんだ? 分からん、全然分からねえ」
「実際に長さを出してみればどうかしら」
 そう言って、ロコは紙に線を描く。
「書いてみないで頭の中だけで考えるからそうなるのよ。ほら、この直角三角形の直角側の長さを3と4とするでしょう。斜めの長さを測って」
 目盛りのかかれたひもを使い、実測してみる。
「……5だな」
「でしょう。3の二乗は9、4の二乗は16。5の二乗は25。9+16は?」
「ち、ちょっと待って、書かせてくれ」
 ロコのを理解する前にどんどん話が先に進むので、全く追いつける気がしない。止めれば止めたで苛立つので、整理している時間もない。焦った手で羽根ペンを持ち直す。慌てて引き上げたせいでインクがぽたぽたと垂れ、いざ文字を刻もうとする頃には掠れてほとんど書けない。何とか答えにたどり着いたものの、ジャグルの右手は真っ黒に染まっていた。
「あれ」
「どうしたの」
「えーと、結局なんで二乗したんだっけ」
 頭の中を整理する為に呟いた一言で、ロコは降参しそうになった。
 そうこうしているうちに、予定の時間を大幅に過ぎてしまった。ロコの勉強に付き合っているとつい議論が白熱するので、いつも長引いてしまう。家庭教師もクラウディア夫人も、熱中することがあるのはいいことだ、と笑って済ませてくれるが、ドドからは後で何を言われるか分からない。
 迎えに来たドドを見つけるなり、ジャグルは慌てて謝った。クラウディア夫人と雑談を交わしながら、二人を待っていてくれたらしい。
「ごめん、遅くなった」
「ごめんなさい、お待たせいたしました」
 ロコもドドに頭を下げる。
「教えるって、難しいことなのですね。自分でやってみて、私の至らなさを思い知りましたわ」
 家庭教師は微笑んで頷いた。ジャグルは神妙な面持ちで頷いた。

 クラウディアの屋敷を離れると、
「さて、」
 とドドは言った。普段から感情を露わにしない寡黙な性格が、ここぞとばかりに恐ろしさを発揮する。クラウディア家の敷地では何事もないようなそぶりだが、遅刻の後には決まって罰がある。ドドの家に帰ったら一体どんな仕事を言い渡されるのだろうかと、ジャグルは内心恐怖していた。洗濯、掃除、あるいは薪拾いか。それも、尋常ではない量の。
「本当にごめん。反省してるからさ、このとおり」
 大きく頭を振り下ろす。大げさかもしれないが、これくらいしなければ伝わるものも伝わらない。さて、しか言っていなくても、後に続く言葉は阻止できるものなら阻止したいところだ。ドドは怒鳴ることはしないが、言葉一つ一つが重みを持ってジャグルの心を揺さぶってくる。
「約束をないがしろにしようってわけじゃなかったんだぜ。あまりに熱中し過ぎちゃってさ、つい、……ね」
 ははは、と笑ってごまかす。しかしドドの表情は全く動かない。
「いち、に、さん、よん、ご……ろく」
 ジャグルによって歩みを止められたドドは、指を折りながらゆっくりと数え上げる。ろく、の声と共に人差し指を再び開く。何の回数かは分かっている。クラウディア家で、ドドを待たせた回数だ。
「とうとう片手で数え切れなくなってしまったな。なあ、ジャグル」
 ジャグルは顔を上げる。ドドの握られた手を見やり、顔を見る。ドドはまるで老いた賢者のように、にっこりと微笑んでジャグルの顔を覗いた。
「な、何さ」
 無言の中に秘められた心臓を握り上げられるような感じがして、まるで大蛇に睨まれ石にでもなったかのようであった。不気味な沈黙が続く。
 何を言われるのかとひやひやしたが、ドドはなぜか急に何かに納得したように頷き、歩き出してしまった。石化は解けたものの、まだ心臓はきゅっと縮んでいる。どんなに厳しい罰よりも、自分の処分が決まらないことの方が居心地が悪いことを、ジャグルは学んだ気がした。今回はそういう罰なのだ、と言うことに気付いたのは、もう少し後になってからのことだった。

 ドドの家に帰ったらすぐ、ジャグルはいつも与えられている役割をこなした。
 薪に火を付け、お湯を沸かす。
 机などに積もった埃をふき取る。
 晴れている日は天の月を観測し、満月に近い日は天窓を開け、寝室に月光を取り入れる。
 月光のもとにまじない石を置き、浄化する。
 髪や爪が伸びていたら切り、集めておく。
 これらを行う際には、まじないを使ってはならない、とドドは言う。一度だけその理由を聞いたが、彼は微笑むだけで何も語らなかった。ジャグルもそれ以上は聞かなかった。
 お湯が沸騰すると、皿に湯を注いだ。茶葉を盛った小皿と一緒に、机の前に座ったドドに出す。飲むための茶葉ではない。近い将来を占うまじないのために、必要な道具である。ドドは茶葉をつまみ、ぱらぱらと湯の上に落とす。そして、皿に両手をかざした。
 ほどなくして、ふわっ、と周囲に香りが漂う。最初は茶葉の香りのようであったが、徐々に別のものへと変化していく。朗らかで、強烈に甘い香りだ。すぐに手を伸ばして、舌で溶かしてしまいたくなるような甘い香り。幼い頃に、どこかで味わったことがあるような気がしたが、どうにも思い出せない。
「……ふむ」
 ドドは軽く唸り、顎に手を当てる。
「実は今日、夫人から依頼があった。目的地は、クラウディア領の北のはずれだ。三日後に出発する。ジャグルは出来るだけ多くの携帯食を用意してくれ」


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