Box.22 だってだって! 男の子だもんっ!

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この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

「ッタマザラシ!!」

 接近するマニューラへタマザラシをぶん投げる。反射的に丸くなったタマザラシが衝突した。マニューラが驚いて飛び退き、鞠のようにタマザラシが跳ね返る。「ごめんっ!」と口にするが早いか素早くタマザラシを回収した。観客席を背に相手から距離を取る。下卑た客が近すぎるスカートの端を注視した。「たまま! たまたま!」腕の中から抗議の声。客席の視線を振り切るようにリクが叫んだ。「ごめんって!」ユキノが愉快そうに笑い、リクとタマザラシが揃って睨みつける。

「氷柱針」

 熱気に包まれる会場内とは対照的に、マニューラ周囲の気温が下がった。空気が再び凝結し始める。リクは舌打ちした。つじぎりで突っ込んできてくれれば、場外が狙えたのに。正面からでは勝てない。わかっている。タマザラシ、と抱え込んだ球体に囁く。じと目が返ってきた。正面、めきめきと膨れ上がる氷柱針は、今にもこちらへ飛びついてきそうだ。

「――あいつらに、勝つぞ」
 
 応えるように、耳がピンと立ち上がった。ひゅん。風を切る音。懐かしい緊張感がそこにあった。ミナモシティの海底洞窟に沈めたはずの感情が、ふつふつと胸を滾らせてくる。目映いステージライトの下、タマザラシを高く投げ上げた。

「〝下に〟冷凍ビームだ!」
「たまー!」

 真下へ放たれる凍てつく氷の波動。間欠泉が凍りついていくように、みるみるうちに巨大な氷柱が膨れ上がる。飛来。氷柱針が接触、左右へと滑り分かれる。屈折した切っ先が観客席に突っ込んだ。客席から悲鳴。スカートの端っこどころではない。そんな状況ではないのは百も承知だったが。リクは笑った。
 あの頃も野次馬がとばっちりを食らっていた。困れ。騒げ。わめき散らせ。混乱する客席から罵声。知るか。こっちは他人。あっちも他人。
 だったらステージなんて蹴っ飛ばして、場内全てが〝フィールド〟だ!

「たまー!」

 宙へとあがった球体に、にょきっと手足が生える。つじぎり、とユキノの涼やかな声。接近したマニューラが突き立つ氷柱を駆け上がった。たん、たん、だんっ! 足下の残響が放射状に広がった直後、氷柱が崩壊する。氷片が驟雨のように降り注いだ。マニューラが上段から爪を振り下ろし、タマザラシが地へと叩き落とされる。リクが慌てて両手を差し出した。降る氷片。落下するタマザラシ。追って黒い影。上空からマニューラまでもがこちらへ落下してくる。避け――られない!
 タマザラシを受け止め、反対の腕で身を庇った。無防備なリクの肩を、土管でも蹴るようにマニューラが足場にする。潰れた息を漏らして膝をついた。マニューラが再び上空へと舞い上がる。軽業師のように天井で跳ね返り、こちらへ飛びかかってくる。リクはタマザラシを抱え込んだまま、床を転がり避けた。血がステージに赤い跡をつける。赤の印を飛び越えて、爪がこちらへ飛んできた。リクの腕の隙間から一直線に冷凍ビームが放たれ、マニューラが横へ飛んだ。対象を失った冷凍ビームがまたもや客席に飛んだ。悲鳴。数人の観客を巻き込んで凍りつく。
 
「たまっ!」

 腕の中からもぞもぞとタマザラシが這い出した。衝撃の痺れはあったが、自身の肩も動かせないほどではない。司会者が鼻息荒くマイクにつばを飛ばす。

『も、猛攻ー! 一方的な攻撃です! リクちゃん立てるのかー!?』

 立てないわけがあるか。胸中で反論し、ふらつきながらも片ひじをついた。ふと、かすかな違和感を覚える。眼前のタマザラシは〝つじぎりを食らった〟のに余裕がある。タマザラシがチラリと振り返った。擦過傷と血で染まった腕に注がれる視線に、気にするなと言って立ち上がる。
 先ほどと立場が逆転し、黒々とした客席を背景にユキノが傷ひとつなく相対していた。周囲がきらきらと光っている。小さな氷柱針が凝結し、こちらに跳ね飛んだ。回避は――間に合わない。
 丸くなれ、と口にしかけた矢先、タマザラシの体がきゅっと楕円にへこみこんだ。直後、スーパーボールのように跳ね飛んでいく。「たまたま!」迎えくる氷柱針を蹴散らし、あっという間にマニューラへと距離を詰める。リクが慌てて後を追うが、行く手に降る氷柱針が、衣装を、腕を、顔を、掠めていく。待て、と飛び出した小さな体に叫ぶ。マニューラが〝転がる〟を半身で避けた。対象を失ったタマザラシが客席へと飛び出した。場外! あらま、とユキノが口に手を当てる。
 瞬間、タマザラシの口がぷくっと膨らみ、客席側へと粉雪を噴出させた。元のルートへジェット機のように巻き戻っていくタマザラシをユキノが振り返った。翻った黒髪へ掠る。はらりと数本の髪の毛が落ちた。
 返ってきたタマザラシがステージ正面の画面にぶつかり、ぽてりと落ちる。ザザッ! 映像が乱れ、パッとタマザラシをアップで映した。得意げな表情。リクは止められなかった手を、ぽかんとした顔で下ろした。
 
「ふふ、面白い動きをなさいますわね」

 ユキノは、もう一度、と腕を持ち上げた。細く冷気が集束し、氷柱針を模っていく。大きさと数が反比例するように数は少なく大きさを増していく。傍に転がり戻ってきたタマザラシが低めに構えた。
 リクは切れた額から流れる血を拭った。タマザラシは氷タイプの技に強い。練度の差があるとはいえ、タイプ相性の悪い、しかも威力もそこまでない氷柱針にダメージを受けるほど、弱くはない。湧き上がる疑問。悪寒のような、状況への問いかけ。リクでさえ分かる事を、ユキノやマニューラが見落とすだろうか?
 思考は止めざるを得なかった。成長しきった氷柱針が親元を巣立っていく。暗殺者の子供達が風を切ってやってくる。タマザラシが弾丸となって飛び出し、氷柱針が次々と押し負け道を空ける。撃墜ルートを逸れた氷柱針がこちらへ差し迫った。範囲が広い。避けきれない! スカートの端を引き裂いた。剥き出しの腕や足を冷たい刃が掠っていく。冷たい傷は体力を消耗する。タマザラシがさほどダメージを受けていないのであれば、考えられる大きな狙いはひとつだ。
 先ほどの繰り返しのようにマニューラが避け、タマザラシの体がステージ外へと飛び出した。意表をつかれた先ほどとは違う。マニューラが叩き出せる距離。マニューラが地を蹴った。視線の先はこちらへと。
 
『マニューラがリクちゃんへ走ったァ! 明らかなトレーナー狙いだアアアアアアアアアアアアアア!』

 重さを感じさせない動きで、マニューラが疾駆する。ひとつ、ふたつと、瞬きをするごとに距離を詰めてきた。やはりか! 床を滑るような影が下方から伸び上がる。分かっていることと、反応できるかは別問題。視界いっぱいに輝く爪先が迫った。吹っ飛んだソラの仮面が脳裏を横切る。真っ二つ。ざわり。背筋が寒くなった。

「たまー!」

 マニューラが爪を振り切る。逆袈裟懸けに切り裂き、返しの手がリクの頭部を掴んだ。前のめりに引き倒されるリクの肩に飛び乗り、蹴り飛んだ。肩をずんと重い痛みが貫く。声もなく、骨が軋む。顔面からステージに倒れ込んだ直後、対象を失ったタマザラシが真上を通過した。ぽてんと転がったタマザラシは、一瞬の出来事に驚いていた。
 意識が傾ぐような痛みをこらえ、リクは手のひらを床に押しつけ立ち上がった。二度も人の肩を足場にしたマニューラが涼しい顔でユキノの横に戻っていく。血の味がする。ぽたぽたと赤い色が服にも、ステージにも滴った。

「ふふ」

 鈴を転がしたような、密やかな笑い声。二人の黒の双眸が、引き合うようにかち合った。その瞬間、リクは違和感の正体に行き着いた。黒々としたユキノの瞳は、燃えるような灼熱の瞳とは似ても似つかない。しかし本質的には同じ色を映していた。遙か格下の、もがき苦しむ地面の虫を見ていた。

「リクさん。可愛いお顔が台無しですわね」

 可哀想に、と薄く笑う。心にも思っていないくせに。唇を噛んだ。ぶつけた鼻奥から血が流れてくる。抑える手から滴って、白い衣装に赤い花びらを散らした。
 
「たま! たまままま!」

 背後から抗議が上がった。肩越しに振り向く。タマザラシが怒りを露わにして、短い前足で自身の胸をドンドンと叩いていた。狙うならこっちだ、と。
 怒りか。ぐしっと鼻血を拭った。タマザラシが傍にいる。一緒に怒って、戦っている。不思議と心が落ち着いた。リクの目がユキノを貫く。いまだ絶望の欠片もない顔で。ユキノは片眉をピクリと持ち上げると、誰にも聞こえないくらい小さな舌打ちをした。
 氷柱針、と冷たい声音が告げる。リクが視線を下げると、マニューラの足が駆け出す直前のように低められていた。〝分かっていても避けようのない攻撃〟は、心を潰すためのもの。けれどそれは、あの暗闇の行進と同じだ。
 ならばまだ、歩みを止める訳にはいかない。
 リクの前に出たタマザラシの胸が膨らんだ。粉雪で対抗するつもりらしい。それも悪くないが、ぎゅっと拳を握った。指揮棒を振り下ろすユキノを見据えたまま、足下のパートナーに言った。

「オレがマニューラを捕まえる」

 タマザラシの丸い瞳が、横目でこちらを見た。

「後は頼んだ、相棒」

 氷柱針が風切り音で歌い出す。目を惹くそれは、目くらまし。タマザラシが風雪を噴き出し、衝突した氷雪がステージを席巻する。白い壁を撃ち抜いて氷柱針が飛来した。閉じかけた瞼を無理矢理に開いた。冷たい刃が頬を裂く。低く、低く、逆巻く氷雪に紛れて小さな影が疾駆する。いる。こちらへ向かってくる。冷たい氷片が体温を奪い去る。それでもなお、かじかむ手のひらに力を込めた。爪が迫る。怖い。恐怖感が背中を駆け抜ける。マニューラの爪が脇腹を抉った。灼けるような痛みはきっと後から来るだろう。ただただ、「引き裂かれた」衝撃だけがあった。ぽかんとする空白の意識があったかもしれないが、やるべき事に腕が動いた。マニューラの足がさらなる追撃に動く。爪が閃く。ガッと、その腕を赤く染まった手のひらが掴んだ。動揺。意図せぬ方向へマニューラは引っ張られた。リクが叫んだ。信じて、その名を。
 
「――タマザラ、シ!」

 応え、弾丸が飛び出した。タマザラシがステージを蹴り、マニューラの頭部を撃ち抜く。ゴッという鈍い音。跳ね返ったタマザラシがステージを転がった。ぐらりとふらついたマニューラの目の前で星が踊った。いち早く体勢を立て直したタマザラシが〝ころがる〟で追撃に向かう。ユキノから低い叱咤が飛んだ。

「マニューラァ!」

 マニューラがハッとする。立ち上がりかけたが、リクの赤い手のひらが離れない。タマザラシが足を弾き飛ばした。途端、バランスを崩してマニューラは倒れ込む。引っ張られてリクも叩きつけられた。うめきながらも離さない。マニューラが鬱陶しそうに顔を歪めた。
 三度目の〝転がる〟が猛スピードで突っ込んでくる。サッとマニューラがリクを盾にした。衝突。リクの肩にぶつかった。それでも、離さない。リクの声に、流石にタマザラシの方が動きを止めた。マニューラがいらついた様子でリクの手を振り払うが、離れない。ゆるり、と、リクが頭をもたげた。少年の爛々と輝く黒い双眸に、マニューラは息を呑んだ。
 掴まれているのは、腕。ダメージが大きいのは、リク。だが、自身の首を掴まれているような錯覚を覚えた。追い詰められているのはお前だと言われたような気さえした。
 リクは笑っていた。その瞳には、盛る炎が潜んでいた。

「逃が、す、かよ」

 黒い暗殺者の目に、怯えの感情が過ぎった。狩るもの。狩られるもの。ぐるりと反転した関係性に肌が粟立つ。必死に逃げようとするが、赤い手のひらは決して逃がしはしない。

『リクちゃん、マニューラからはなれなーい! これは執念の消耗戦! 見苦しい! 大ッ変に見苦しい戦いです!』

 どっと会場が沸いたが、一人と一匹の耳に届いているかは怪しい。膠着状態にタマザラシが攻撃のタイミングを見計らっている。ふと、近づいてきた足音に顔を向けた。底冷えするような声が降ってくる。

「美しくありませんわ」

 苛立ち混じりの刺すような視線で、ユキノがリクとマニューラを見下している。タマザラシが立ちはだかると、足を止めた。肩を竦め、その場からリクに呼びかける。
 
「リクさん、もう諦めたらいかがです? あなたはよく頑張りましたわ」

 リクは一瞥さえよこさなかった。ユキノは不愉快そうに顔を歪めたが、なお言葉を続けた。

「疲れたでしょう? 痛いでしょう? 苦しいでしょう?」

 声音だけは優しく諭しているが、表情と声が酷くアンバランスだった。貼りつけた笑顔に蠢く何かを隠しているかのように、違和感のずれがじわじわと大きくなっていく。

「もう諦めた方が楽ですわよ。誰もあなたを責めたりしません」

 リクが、そこで初めてユキノを見た。マニューラを掴む力はそのままに。むしろ、強まりさえしていた。
 かつて何度も、何度も何度も何度も、小さなとさかのパートナーと一緒に宣言した言葉を、二度と言うことはないと思った言葉を、口にした。

「〝オレたちが、勝つ〟」

 鼓膜が痛いほど騒がしい場内に、澄んだ少年の声がはっきりと響き渡った。ユキノが目を見開いた。ざわっと纏う空気が変わる。靴底に張りついたガムに悪口を吐かれたような顔で、大きな舌打ちをした。醜悪ささえ漂うその変貌ぶりは、リクが初めて触れた剥き出しの本質そのものだった。息を呑む。ユキノが殺気の滲んだ〝低い〟怒声を放った。

「マニューラァ! その思い上がりのクソ雑魚トレーナーを潰せ! 早く!」

 硬直していた時間が動き出した。マニューラが掴まれたままの腕を引っ張り、リクの体がぐんと前へ。引き裂くための爪が迫る。リクはそこに、躊躇いを見た。迷いを見た。戸惑いを見た。爪先がブレる。
 〝心は同じFieldに〟ポケモンの動揺も、トレーナーの動揺も、等しく互いへ伝播する。来い、とリクが叫んだ。タマザラシが迷わずステージを蹴り飛んだ。直近の爪を、もう一方の手のひらで正面から受け止めた。爪が手のひらを貫いた刹那、握り止めた。マニューラが瞠目する。どうして、と。得体の知れないものに、捨て身で向かってくるかつてない少年に、強い恐怖を滲ませる。
 痛みはあった。だがそれ以上の興奮がそれをかき消した。
 過去、肩を並べた友人は消えた。戦うことが恐ろしくなって、フィールドから逃げ出した。小さなとさかのパートナーは消え、鈴の音の忘れ形見だけが残った。一人、二人と、旅立っていく同年代をあの街で見送った。もう戦えないと思った。一生そこにいるのだと思った。リーシャンの鈴の音が、呪いのように止まった時間の中で響いていた。
 けど本当はずっと、〝まだ〟バトルフィールドに立っていた。きっとどこかで、時間が動き出すのを期待していた。敗北を繰り返しても、悔しくて泣いたとしても、苦しくて目を背けたとしても、バトルフィールドに魅せられた、あの瞬間から、ずっと。
 ――どうしようもないほどに、〝ポケモントレーナー〟だった。

「う、おあアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 貫かれた手のひらがマニューラを止め、タマザラシが横腹にめり込んだ。マニューラの体がくの字に折れ曲がる。『クリーンヒットオオオオオオオオ!』司会が興奮気味に叫ぶと、客席から野太い歓声と共に拳がいくつも突きあがった。一人と一匹が盛大に床を擦る。「クソッ!」ユキノがさなかに飛び込んだ。繋がったままのリクの腕を、ユキノが掴む。

「この手を離せ!」

 骨張った手のひらが、みしみしとリクの腕を握りつぶした。即座にリクが至近の相手に噛みつき返す。

「嫌だ!」
「ざけんな! ぶん殴るぞ!」
「やれるもんなら――」

 やってみろ、と言いかけ、リクははた、と気がついた。目の前の人物が、以前とは全く異なった姿で目に映る。ソラに問いかけた時と同じように、ほぼ確信に近い問いかけを、デジャウのように投げかけた。
 
「お前……男、か……?」

 ユキノが一瞬、動きを止めた。様々な感情がその相貌を横切って、最後には侮蔑の眼差しをリクに返した。

「今更気がつくなんて、やっぱりお馬鹿さんですわねェ?」

 男の声が、艶やかに言葉を吐き出した。リクの目が点になる。真っ赤な手から力が抜ける。その隙にユキノはリクからマニューラを引っぺがし、ほぼ気絶しかけの頬を叩いた。

「しっかりしろマニューラ! 起きろ!」
「ま……まにゅっ!?」

 ユキノの視線が、焦ったように審判も兼ねる司会者、カメラ、マニューラと移っていく。画面に映った瞬間、マニューラが目を開いた。『危機一髪! マニューラギリギリ意識を取り戻したァアアアアアアアアアアアア!』ユキノが短く息を吐いた。直後、飛んできた球体が横っ面をひっ叩いた。「いッてぇ!」ユキノは頬を抑えてタマザラシを睨んだ。だがぽてんと落ちたタマザラシはユキノではなく、リクへ抗議する。「たままー!」眉根を寄せて、ユキノは視線の先を同じくした。眼前に、拳が迫っていた。
 避ける暇も無く、ユキノの顔面に拳がめり込んだ。

「ェがッ!?」

 ずしゃっとユキノが後ろに吹っ飛び、会場が湧き上がる。司会者がマイクに齧りついて叫んだ。『殴ったーッ! 恋心を弄んだ罪は重ーいッ!』そこかしこで馬鹿笑いがあがる。ユキノが痛みに呻く。鈍い痛みがジンジンと頭全体を揺らしている。痛み以上に怒りが湧き上がった。顔面を片手で押さえ、腕を振り上げる。マニューラ、と呼ぶ前に、ガッと胸ぐらを掴まれた。影が差す。仰いだ少年の顔は真っ赤に染まっていて、羞恥とも怒りともいえない鬼のような形相だった。背筋に悪寒が走った。なにを、ともつれる舌を動かしかけた瞬間、頭突きを食らった。「ぐげっ!」ぐわん、と世界がよりいっそう強く揺れた。ぼろぼろと思考が耳から転げ落ちていく。リクがずいっと顔を近づけてきた。

「ソラに謝れよ」

 こいつ、キレてやがる。
 ユキノは悟った、が。

「嫌だね」

 べっと舌を出す。リクの腕を払いのけた。ヒクッとしたリクが再び掴みかかる。ユキノが避け、唸る拳を繰り出した。リクが応戦し、殴りかかる。ユキノの拳がリクの肩を、リクの拳がユキノの胸を殴りつけた。ユキノが服を掴んで引っ張る。リクが蹴った。痛みをこらえ、ユキノが顔を殴打した。耐えたリクが襟元を掴む。殴りかかる。蹴った。掴んで引き倒した。避けた。殴った。お互いどこをどう殴っているのか蹴っているのかも分からないまま、手当たり次第にお互いをドつき回し罵り合う。「謝れよ!」「嫌だっつってんだろ!」「ざっけんなオカマ野郎!」「てめー人のこと言える格好だと思ってんのか!? ア゛ァ゛!?」「うっせぇ! お前の100倍マシだ!」「ホホホホときめいちゃったんですのォ? りくちゃ~ん!?」「ウアアアアアアアアアアア!」「バーカバーカ! ブス! 雑魚!」「うるせええええええええ!」
 もはやステージもバトルもそっちのけで、女装した少年二人が喚いて殴って罵倒しあう。ポケモン達はというと、マニューラが必死にステージを駆け逃げ、タマザラシがたまたま叫びながら転がり追いかける。いつの間にか観客がステージ傍にかじりつき、ヤジに声援に好き勝手叫び始めた。「いいぞそこだ!」「脇が甘いぞ!」「やれ! ぶっ飛ばせ!」「はっはー! こりゃ良い!」「おもしれーぞもっとやれー!」「リク! そこや! 行け!」ライカも混じって声援を飛ばしている。関係者席でボルトが爆笑し、アイドルキングがにこやかに見守っていた。特別に用意された場所に、細かい傷だらけのモンスターボールが収まっている。

「全くもってSmartじゃありません。実に楽しそうデスねぇ」

 ボールの中のポケモンが、呆れたように鼻を鳴らした。ボールにそーっと小さな手が伸びる。がしっとアイドルキングが掴み止める。
 
「コダチgirl、どうしました?」
「ひゃうっ!? なななななななんでもないです!!」

 コダチがブンブンと首を横に振り、真っ青な顔で風のように逃げ去った。ボルトがハハッと笑う。

「下っ端も大変だな」
「Youがカイトguyに告げ口したのは、知ってますヨ」

 アイドルキングは一瞥さえ寄越さずに言った。ボルトが目を猫のように細める。

「遅かれ早かれ、カイトにもバレるさ」
「Sleeping princessのお眼鏡には、適いそうデスか?」
「さぁな。アイツ次第だ」

 二人の視線の先、舞台上ではズタボロの少年達が乱闘をしている。どっちもアイドルらしからぬ形相で、放送禁止用語が飛び交っていた。「てめーなんて××で××××だろ!」「××××なあんたに言われたくない!」「誰が××××だブッコロス!!」「やっぱり××××じゃないか!」肩で息をしながら、不意にユキノは画面を見上げた。映っていたのは美しさや優雅さとはかけ離れた、みっともない自身の姿だった。羞恥に顔を赤く染め、リクを思いっきり蹴っ飛ばした。両手を振り上げ喚き出す。

「てめーのせいで台無しだ。めちゃくちゃだ。最悪だ! こんなの、アイドルの試合じゃない!」

 視界の端ではマニューラがまだタマザラシに追いかけられていた。「マニューラァァアア! いつまで遊んでんだ!」ギロリと睨む。マニューラがびくっと全身を震わせ、ユキノの傍へと飛び退いた。

「あんたがソラにやったことはどうなんだよ。アイドルだって言えんのかよ! クルミちゃんだったらあんな事絶対しないだろ!」
「たまま!」

 リクの傍まで戻ってきたタマザラシが、ぴょんぴょん飛び跳ねて同意した。

「てめーには関係ねぇだろ! 黙れ雑魚!」

 ユキノが片手で頭を掻き毟った。ボサついた黒髪の間から、胡乱な瞳をリクに差し向ける。

「なんなんだよ、お前……! イカれてる。なんでさぁ、そんなに必死なわけ? 友情とか? 感じちゃってるの? しつこすぎるだろ……馬鹿なんじゃないの?」
「あんたが謝れば済む話だろ!」
「うっせぇな! しつけーよ! 何度も馬鹿みたいに同じ事言ってんじゃねーよ!」

 ユキノがヒステリックに怒鳴り返した。舌打ちし、スッと腕をあげる。周囲の気温が下がり、空気が凝結し始める。これまでの牽制や目くらましとは、明らかに成長速度が違う。着物風ドレスはボロボロで、髪の毛もぐちゃぐちゃで、顔は打撲で腫れ上がっているが、瞳だけは美しく――殺気だった光を灯して、ユキノが宣告した。

「次で終わらせてやるよ。この、クソみたいな泥仕合を、てめーと一緒に」

 リクが駆け出す。氷柱針が成長しきる前に距離を詰めるつもりだと、ユキノはすぐに理解した。「やれ!」 手が下される。氷柱針が時を待たずして迎え撃つべく放たれた。リクの目はユキノだけをまっすぐに見据えている。氷柱針になど目もくれない。馬鹿が! たどり着けるはずがない! ユキノがせせら笑った。

「行けタマザラシ!」

 応じ、リクの背中を蹴ってタマザラシが飛び出した。裂帛の気合いで〝冷凍ビーム〟を放つ。氷柱針は止まらない。タマザラシを切り裂いた。けれどこちらだって止まらない。血が飛ぶ。氷柱針の間を縫うように、疲労困憊のマニューラへと青い光が肉薄する。避けろ、とユキノが振り返った。マニューラが飛び退こうとする。足がもつれた。一拍遅い。冷凍ビームが足先を捉えたかと思うと、瞬きのうちに氷が這い上がった。ユキノが奥歯を噛みしめた。ちくしょう。悪寒。リクがステージを踏み切った。来る。風を切って。かつてない恐怖が脳裏を過ぎった。嘘だ。嘘だ! こんな、格下の、底辺トレーナーなんかに――!

「グッ……! く……が、ァ……!」

 リクの拳が、腹部にねじり込まれた。真っ白に塗りつぶされた意識が、機能を停止しようとしていた。この試合で、何度も、何度も何度も聞いた相対する少年の声が、告げた。
 
「オレたちの、勝ちだ」
「こ、の、クソ雑魚トレーナー、が……」

 ユキノが崩れ落ちた。最後の最後まで悪態をついた対戦相手が気絶したのを見留めると、流石のリクもへなへなと膝から崩れ落ちた。満身創痍のリクの腕を、司会者が掴んだ。

『バトルアイドル大会史上、最低最悪の試合を制したのは――』
 
 天井に届くかと思われるほどに、目映いステージライトのもと、高く、高く。血だらけの腕が持ちあがる。

『――ミナモシティ出身のノーバッジ! クソ雑魚底辺トレーナーのリクだあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「へっ!?」
「たままー!」

 きょとんとするリクの顔。飛び上がって喜ぶタマザラシ。
 割れんばかりの大歓声が、会場を大きく揺さぶった。

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