三重の十字架

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読了時間目安:8分

この作品には残酷表現があります。苦手な方は注意してください

第三章後半です。

●あらすじ
 自宅の屋敷に戻ってきたマニューラは、今回の強奪仕事について報告書を作っていた。暗号化した書類は、ヘルガーやエンブオーではなく、この屋敷の前の主に向けていた。報告書をちょうど書き終わると、カウンセラーのニンフィアがやってきた。
 私の屋敷は、壁の東側にあるエンブオーの別荘とは街を挟んで正反対の西側、新国道一号線沿いにあり、南に広がるグノーイの森を一望出来た。この屋敷はかつてバジリスクの長官のものだった。彼はエンブオーに仕事上の無能を咎められ、今は難を逃れて、小さな教会で牧師をしている。ここには召使や執事、警備などはなかったし、私が使うよく部屋といえば、三階の執務室兼寝室、二階のバスルーム、一階のキッチンぐらいのものだった。高官の趣味だったレゼキム・ボードは捨てずに取っておき、フーディン・アルトーラス対メタグロス・ゴレイグムによる稀代の名手達の手筋をなぞることが、この屋敷を手に入れてからの新しい暇つぶしになった。
 しかし、最近の私は執務室に入ることも億劫になり、日々の生活が、居間のソファベッドとダイニングテーブルの前で完結することもしばしばだった。その理由というのが、第一に、執務室の中はむせかえるほどの美術品で埋め尽くされ、半ば物置と化していたからであり、第二に、私はそのようなきらきらとした物が大好きで、嫌なことを思い出した日には特に、ふらりと美術品市場に出かけては、余計な買い物と知りながら、財布を開いてしまいたくなる感覚を少しでも意識の内から遠ざけるためだった。第三にして最後の理由は、寝室で床に就くと、決まって同じ悪夢を見るようになったからである。それは私の歴史の恥部であり、冥蛟ギラティナの住まう逆転世界の彼方にまで捨ておきたい記憶だったのだが、今やどこで寝ようが、あのルカリオの放つ光に胸を貫かれる父の姿を一日一回は目にしなくてはならなかった。黒い血の夢を食う獏が、一体この世のどこにいるというのだろうか。
 私は居間の暖炉にブースターの首の毛を巻き付けた薪を入れて、マッチで火をつけた。そして、暖炉傍のレコードプレーヤー下の金庫から、便箋と白紙、暗号版を取り出してテーブルに置くと、ソファに外套と仮面を投げ出した。そして、羽ペンのついた指サックを右手の爪にはめ、羽ペンをインク瓶につけ、暗号版を基準線から百三十五度回すと、終わった作戦についての報告書を徒然と書き始めた。カウンセラーが門を叩く十三時まで、私は昼食も取らずに羽ペンばかりを紙の上で回していた。

 報告書の封蝋も固まり切らない頃、玄関の方から、がらんがらんと鈴が鳴る音がした。心理カウンセラーのニンフィアが来たのだ。私は仮面をつけて外に出た。玄関の前には少女趣味にしか見えない、白とピンクのリボン様触角を首と左耳に生やした、中性的な顔立ちの男が座っていた。
「どうも、マニューラさん。少々お待たせしましたか?」
「時間通りよ。入って」
 声も女のように高かったので、私は自分が男だったのではないかと、この性別不詳の生き物を前に錯覚することさえあった。私はレコードプレーヤーからコロトック交響曲第六を大きめに流した。そして彼を居間に通してソファに座らせると、私は斜向かいの樫の椅子に座った。ふと、庭先の白薔薇の生垣と噴水が目に付いた。生垣にはそろそろ庭師が必要だった。お気に入りの庭師は今や皆、北の雪原で木を数えている。今度は誰に頼もうか。

「今日はやけに冷えますね。ああ、あなたのことではありませんよ。お体の方は問題ありませんか?」
 私は右手をニンフィアの方に差し出した。彼は首の触角を私の手に巻き付けて目を閉じた。ニンフィアという生き物には、この触角で感情を読み取り、心の健康を確かめる能力が備わっている。不思議な念を触角から送り込んで、苛立ちや悲しみを取り除くことさえ出来た。だが、私はそれを拒んだ。誰しもが心の中に聖域を持っている。私は他の者よりそれが広いだけだ。彼は時折、うなずき、唸り、息を詰まらせ、最後には涙さえも流した。私はその様子を見るだけで肩の荷が下りたような気がした。それ以上は何も望まなかった。

「長い、とても長い一日だったのですね」

 ニンフィアは涙も拭わず、目を開いてそう言った。触角が私の手をすり抜けた。
「その後はいかがですか。美術品は手放せられそうですか」
「手放す、とは含んだ言い方ね。博物館にでも寄贈すればいいのかしら。感謝されるとも思えないけれど」
「高級品以外にも、あなたのステータスになるものは多くあります」
「この世の中が何で出来ているか、あなたは知ってるかしら?金と、金以外よ。金が我々の性格と利き目を決めている。その気になれば、金持ちは竜にも妖精にもなれる。金もなければ、何者にもなれない」
 ニンフィアは黙って聞いていた。口角はわずかに上がっていたが、目に反射した日の光は鋭かった。
「私達の関係も金ありきよね?エンブオーも、ヘルガーも、私と自由を売り買いしている。皆、金に生かされているのよ。良心の歯止めが利かないこの国で、平穏と自由を得るには金を得るしかない。たとえ、奪い合いになったとしても、それは自然の摂理だわ」
「閣下はどうです?この館も彼があなたに差し上げた。ちんけな略奪団の会計士を引き抜いて、影の女王をリチノイの盤上に生んだのは他ならぬ閣下です。彼はあなたに少しでも見返りを望んだでしょうか」
 閣下とは、エンブオーのことではない。
「……彼、元気にしてるの?」
 ニンフィアは口元を緩めて、茶色のみすぼらしい麻のバッグを触角で開けて手紙を取り出した。
「教会の扉はいつでも開いています。あなたの席もご用意していると」
「私が教会に行くのは、仕事か葬式の時だけよ」
 私は、報告書と手紙を交換した。
「あれから一睡も出来ていないの。説教の続きはまた今度」
 そう言って立ち上がった時、私の膝はがくがくと笑い出した。ニンフィアは私の右手にリボンを巻き付けて押さえた。
「泣きたければ、いつでも私が代わりに泣きましょう。それで、あなたの苦痛が和らぐのなら」、ニンフィアの目は輝いていた。
「あなたは人魚だ。あなたはそのままでも美しい。だから、せめてご自愛ください。その仮面を自ら外せる日まで」

 カウンセラーが屋敷を去った後、私はレコードを止め、テーブルの上で手紙を開けた。暗号版を二百二十五度に合わせると、意味が浮かび上がってきた。

「天使より人魚に告ぐ。

 影の軍勢へ、最後の予言が託された。
 
 五つの心、人魚が取りに行くことを、主神はお赦しになった。
 燃えさしと双頭の犬は、五つの心を持たず。

 水の心は、滅びし剣の墓の叢に。子狼が匂いを嗅ぎつける。
 火の心は、岩の中に。
 木の心は、森の中に。
 金の心は、人知れず。
 土の心は、裏切られし者の中に。
 暁星は、冥府の底から、月よりも太陽よりも輝き、人魚の目を白く霞める。

 白金の頂きは、主神の心を宿す。
 心は、人魚に大鷲の目を与え、凍てついた時の幻を見つける。



 五つの心は、全ての魂を連れ、主神の口へと導く」

 読み終わった手紙を火にくべる前に、私は交響曲を最後まで聞くことにした。第六の副題は「我が妻子よ、旅の安全を祈る」だった。命を懸けた駆け引きに勝ち、この場所に生きて戻れたならば、必ずこの夜曲を聞いてから床に就こうと決心した。
 その日、私は久しぶりに寝室に戻った。案の定、胸を貫かれる父の姿は見たが、不思議と嫌な気分にはならなかった。そして何より、月明かりに青く照らされたがらくた達が、初めて愛おしく感じられたのだった。
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