13.そしてこれは、繋がりの物語。

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―――好き

 紡がれた二つの音。

―――それを先に伝えておくね

 ふわりと笑った気配が耳もとでして。
 彼から紡がれた二つの音が合わさる。一つの言葉。
 その意味を理解した瞬間。
 彼女の中で熱が弾けて、頬をぽっと染め上げた。



   *   *   *



 自分の耳もとでふわりと笑った気配がして。
 何だか心がくすぐったくて。茶イーブイの顔を見たいと思って。
 腹這いの姿勢。そこから、ニンフィアが顔を上げると。
 ぱちり。彼と目が合う。
 瞬間。先程の二つの音を思い出して、ふるりと心が振れた。
 小さかった振れ幅が次第に大きくなって。
 色付いていた頬を、さらに深く色付かせる。
 と。そんな彼女を見つめていた茶イーブイの瞳が楽しそうに笑んだ。
 彼女と同じ腹這いの体勢になって、重ねた前足。
 そこに顔を乗せ、楽しそうに笑む瞳。
 まるで、こちらの様子を眺めて楽しむみたいに。
 そんな彼の視線が彼女には恥ずかしくて。
 彼女も同じように重ねた前足に顔を乗せるも、ふいっと目をそらす。
 すると、くすりと笑う声が聞こえてきて。

―――もう、なに?

 と、頬を膨らませてから、ちょっとだけ嫌悪そうに問いかければ。

―――ううん、なんでもないよ。ただ、ラテと同じ目線なのが嬉しくて

 と、彼はまたふわりと微笑んだ。
 だから、それがくすぐったくて嫌なのだ。
 ふいっと彼女は視線をさらにそらす。
 何だか悔しい。眉間にしわが刻まれる。

―――ボクがおっきくなりたい理由ね

 どくん、と鼓動が跳ねて。
 その声に桃色の瞳が動いた。

―――ラテと同じになりたかったからなんだ

 ニンフィアの視線が向いた先。
 茶イーブイの視線は床の木目に落ちていた。
 彼はぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。

―――同じ目線に立ちたいって思った

 ニンフィアの心がふるりとふるえた。

―――同じ高さで同じものを見たいし、匂いとか、感触とか、そういうの……えっと、何ていうか……

 茶イーブイの視線が上がって。

―――ボクはラテと同じものを、同じように感じたいんだ

 彼の真剣な瞳が、真っ直ぐ彼女を射抜く。

―――見るものとか、匂いとか、感触とか

 そういうのを。と。
 彼は照れ臭そうに笑う。

―――ラテに追い付きたかったんだ。ボクはラテが好きで、隣にいたいと思ったから

 はっ、と。息をのむ音が響く。

―――なのに、ごめんね。自分の気持ちばかりで、ラテのことを考えてなかった

 申し訳なさそうに。
 苦く、彼は笑ってから。

―――何よりも先に、伝えなきゃいけないことがあったのに

 一変して真剣な眼差しで、彼は告げる。
 けれども、そのとき。
 彼女は予感がした。だから。
 気がつけば身体を起こしていて。

―――ねえ、ラテ

 彼がそれを言葉に、カタチにする前に。
 とっ。彼女は小さく木目床を踏み出した。
 それを視界に認めた彼は、反射的に身体を起こす。

―――ボクのかぞ

 そして彼女は、彼へと飛び込む。
 だって、教えてくれたから。
 飛び込めば、受け止めてくれるよって――。

―――ラテがカフェの家族になってあげるっ!

 は。茶イーブイの口から息がこぼれた。
 そんな彼の首に顔を埋めて、ニンフィアは言葉を続ける。

―――ラテ、ちゃんと覚えてるよ。ラテが言ってあげるって、“よやく”したもん

 ぎゅっと彼女は、茶イーブイの首もとのもふ毛へ鼻面を押し付ける。
 ふわっと彼女の鼻腔を刺激する甘い香りは、きっとシャンプーのものなのだろうけれども。
 彼女の身体をふるりとふるわせるのは、きっとそれだけじゃない。

―――カフェの家族にラテがなる。ラテがカフェの家族になりたいんだもん

 繰り返させる、家族、の言葉に。
 茶イーブイの心は何度もふるえた。
 それは嬉しさだったのか、恥ずかしさだったのか。
 でも確かなのは、その言葉に、憧れ、願望、時に妬みの感情、それらをいつも引き連れていた。
 親の顔は知らないし、受け取るべきだった“愛”も知らない。
 それでも、自分は運命に出会った。
 “つばさ”という一つの存在に出会ってから、自分は確かに存在し始めた。
 そんな自分の隣にいつも在ったのが彼女で。

―――カフェ、泣いてるの……?

 その声にはっとした。
 気が付けば、彼女が自分を見下ろしていて。
 桃色の瞳が心配そうにゆれていた。

―――泣いてる……?

 確かに自分は泣いていた。
 そっと前足で頬に触れれば、ちょうど熱いそれがあふれるところだった。
 はは、と笑い声がもれた。

―――なんでボク、泣いてるんだろうね?

 これは本当だ。
 嬉しさなのか、恥ずかしさなのか。
 それとも、ほっとして力が抜けたからなのかもしれない。
 よく分からないけれども、あとからあとから熱いものが頬を濡らす。
 変わらずに心配そうにゆれる瞳に笑ってみせる。
 別に、彼女にこんな顔をさせたいわけではないのだから。
 大丈夫だよ。そう伝えようとして、気が付いたときには。
 彼女に自分の身体が引き寄せられていた。
 息が詰まる感覚がして、 はっと吐息がこぼれた。
 突然のことに戸惑いで目が瞬く。涙も引っ込んでしまった。
 けれども、戸惑いで瞬いていた目は突如半目になって。

―――ちょっとラテ

 唸り声にも近い声が飛び出た。

―――何してるの? え、ボクはあやされてるの?

 茶イーブイはニンフィアに身体を引き寄せられて。
 彼女の片前足は彼の背に回されていて。
 それだけならば、彼はどきりとしたのだろうけれども。
 次には彼女のリボンが伸びて。
 彼の頭をよしよしと撫で始める。かと思うと。
 彼の背に添えられていた前足が、とんとんと一定の拍子を刻むように優しく叩き始めて。
 それはまるで、母親が幼子をあやすように。

―――落ち込んでるラテをね、つばさおねえちゃんは撫でてくれたの

 その感触は、ずっと彼女の中で残っている。

―――だからラテも、カフェを撫でてあげるの

―――ボクはべつに、落ち込んでるわけじゃないんだけどね

 苦笑する茶イーブイ。
 けれども、ニンフィアの気持ちに触れた気がして。
 また彼は、じわりと視界が滲んだのを自覚する。
 それに応えるように。
 彼女もまた、彼の背へ回していた前足で、ぎゅっと自身の方に引き寄せて。
 抱き締めるかたちで、ただ、そうする。
 とくん。とくん。とくん。
 一定の速度で、一定の拍子を刻む音。彼女の音。
 それが茶イーブイの鼓膜をふるわせる。
 ああ、と記憶をたどる。
 あの時もこんな感じだった。と。
 時間が経っても、不思議と色褪せることのない記憶をたどる。
 青い身体に、額を飾るそれから両側に垂れる一房。
 そして、透き通るようにこちらを見下ろした蒼の二対。
 あの時もその記憶の彼女は、自分を抱え込んでくれて。
 あの時の記憶の自分も、彼女のこの音を聴いていた。感じていた。全身で。
 そしてなぜか、とても心地よくて。
 そしてなぜか、とても泣きたくなった。
 あの時の記憶が、今と重なって――。
 小さく息を呑んだ。

―――…………カフェ?

 泣いているのか、とニンフィアは茶イーブイに問いかけようとして。
 その言葉を途中で飲み込んだ。
 だって、彼が顔を押し付けて来たから。

―――ラテの、音がするね

―――へ……?

―――ラテの生きてる音がする

―――ん……?

 茶イーブイから発せられる言葉の意味が掴めなくて。
 困惑する声しか出ないニンフィアだったけれども。
 彼が自分から発せられる音に耳をすましているのには気付いて。
 瞬時に頬に熱が集まり、堪らなくなった彼女が彼から離れようとしたら。

―――待って

 と、言葉。
 驚くくらいの力で、今度は逆に離れかけた身体を引寄せられた。

―――ほら、聴いてよ

 何を。と、彼女が問えば。

―――ボクの音

 とだけ、彼は答える。
 聴いてよ、とは何をだ。
 聴こえるのは自分の鼓動だけだ。
 どくどくどく、と早鐘を打つのみで。
 慌ただしいにも程がある気がする。
 けれども、それとは別の音があることに彼女は気付く。
 とくとくとく。この音は。と。
 自然と視線は下に落ちて。

―――…………っ

 ぱちり、と。
 こちらを見上げる彼の視線と重なった。

―――ほら、ボクの音とラテの音が重なった

 どくどくどく。とくとくとく。
 互いの鼓動。けれども、幾分か自分の音の方が賑やかな気がする。
 何だか恥ずかしい。否、恥ずかしい。
 今度こそ堪えきれなくなった彼女が身体を離す。
 数歩分彼から遠ざかって、彼を見やれば。
 また、彼と視線が重なった。
 どくんとまた鼓動が跳ねて、視線をそらす。
 火照ったままだった頬が、より火照った。
 彼との距離感が分からなくなっている。距離感が迷子だ。

―――ふっ

 小さく吹き出す音に、桃色の瞳が動いた。

―――ボクを引き寄せてきたのはラテの方なのに

 くすくす笑う茶イーブイの姿に、ニンフィア思わず頬を膨らませる。

―――カフェがヘン

―――なんで?

―――だって、さっきまで泣いてたのに、その、いきなりラテにくっついてきて……!

―――いつもボクにくっついてくるのは、誰?

 彼の言葉にうっと言葉を詰まらせる彼女。

―――ラテだよね、そうだよね

 ふふん、とイタズラめいた笑みを浮かべるのは茶イーブイ。
 けれども、ニンフィアが突如俯いてわなわなと身体を震わせ始める。

―――ラテ?

 少し不安を感じた彼が名を呼べば。
 顔を上げた彼女が、獲物を捉えたような目を向けて。

―――カフェのばか

 とだけ、ぽつりと言葉を落とす。

「ぴやっ」

 てりゃ。
 そんな掛け声一つで彼を押し倒す。
 そのまま彼の首のもふ毛へ鼻を押し付けて。
 すうと目一杯に吸い込む。
 そして、ぱっと顔を上げれば。

―――ラテはカフェが好きだから、カフェを感じたいのっ!

 ふんすっ。鼻息荒く、告げてやる。
 と、今度は彼が頬を火照らせる番だった。

―――か、感じるって……言わないで……

 彼自身も驚くくらいの弱々しい声だった。
 そんな彼を見て、彼女はやっと分かった気がした。
 昨夜、つばさ達が口にしていたあの言葉の意味を。

―――そっか、これが“愛を感じる”ってことなんだ……

―――はい……?

―――ラテの気持ちはカフェのものだもん。ラテの愛は、カフェのかたちをしてるんだもんっ!

 にぱりと満足げに笑って。
 彼女は再び顔を彼のもふ毛へ埋める。

―――だからラテは、カフェを感じるの

―――だ、だから、その言い回しやめて……

 ぷしゅう、と音を立てそうなくらいには、湯だってしまった気がする茶イーブイだ。
 それに、だ。
 彼女からなぜ、そんな言葉が飛び出してきたのかは知らないけれども。
 その言葉が指し示すものと、彼女が語ったその意味とやらは。
 違ってはいないだろうけれども、少しだけズレている気がする。
 それでも、それが嬉しい。
 だから、だからこそ、言葉にしないと。
 カタチにしなければ、自分は。

―――ねえ、ラテ

 先程とは色の変わった声音に。
 茶イーブイのもふ毛を堪能していたニンフィアは顔を上げた。
 絡まる視線。今度は解れなかった。

―――ボクの、家族になってくれる……?

 またたく桃色の瞳。
 沈黙が降り積もって。
 その中で響く、互いの息づかい。そして。

―――うん

 一つの声が落とされた。

―――ラテがカフェの家族になるのっ!

 えっへん。誇らしげに胸を張る。
 その姿が、いつかの白イーブイの姿と重なって。
 茶イーブイの瞳が膜を張る。

―――ラテの気持ちは、ずっと変わってないもんっ!

 張られた膜が厚くなって、耐えきれなくなった膜は。

―――カフェ?

 ぽろりと落ち始める。
 ぽろぽろと零れ始める。

―――……っ、うん

 言葉を詰まらせて、それだけを何とか声に乗せた。

―――……っん、ありがと

 すんっ。茶イーブイは鼻を鳴らしたつもりだった。
 けれども、実際にはそれはぐすっと鼻をすする音で。
 それがちょっとだけ恥ずかしかった。
 でも、そのあと直ぐに、彼女がまた自分のもふ毛に顔を埋めてきて。
 そのまま彼女の前足が自分の背へ回されてしまったから。
 彼女に抱き寄せられるその感覚に、身体は硬直して恥ずかしさは吹き飛んでいった。
 だって、別の感情が支配したから。
 とくん。とくん。これは彼女の音だ。聴こえる生きる音。
 これは、家族の音だと思った。
 先程も思った。だって、自分は前にも耳にした音だったから。
 脳裏に過ぎるのは青い身体に、額を飾るそれから両側に垂れる一房。
 そして、幼い自分を見下ろした透き通る蒼の二対。
 彼女の音と彼女の音が重なる――。
 それは唐突だった。
 ふえ、という声と共に、瞳から溢れ落ちるものがより増した。
 なんだ。自分は知っていた。知っていたのだ。
 家族を、自分は知っていた。その想いにきちんと触れていた。
 だからあの時の自分は、忘れないようにと、焼き付けるようにと。
 なんだ。なんだ、なんだ、なんだ。
 自分は知っていた。知っていたのだ。
 茶イーブイは、自分に回されたそれに応えるように。
 ぎゅっとニンフィアの背に自分のそれも回した。
 小さく見開かれた桃色の瞳。口元は嬉しそうに緩んで。
 尾はふりふりと揺れて、リボンははためく。

―――ラテはカフェが好き、大好き

 そっと、こぼした言葉に。

―――ボクも、大好きだよ

 と、小さな応えの声がした気がして。
 彼女のリボンは嬉しそうに、一層はためいた。



   *   *   *



 座る影が二つ。大きいのと小さいの。
 日は先程よりも昇って影を伸ばす。
 一つの影が、一つとくっついて、二つが一つになった。

―――ちょっとラテ、寄りかかってこないでよ

 迷惑そうに言葉をこぼす茶イーブイは、倒れないようにと足に力を込めて踏ん張る。

―――へへっ、だってさ

 対するニンフィアは嬉しそうに、よりその身体を彼へと預けた。

―――カフェがラテのこと好きって、大好きって

 口の両端が持ち上がって、それがにんまりと満足げな笑みを作る。
 彼女の尾がふりふりと振られているのもその感情の表れ。
 リボンがひらりひらりとはためいて、それが隣の彼へと絡むのも。

―――ちょっと絡み付いて来ないでっ!

 その感情の表れで。
 茶イーブイから抗議の声が上がっても、リボンは構わずに絡み付く。
 彼の抵抗もむなしく、体格差も相まってか、しゅるりんと鮮やかに、いっそのこと清々しく彼の身体を絡め取った。

―――体格差が悔しい……

 半目になって、悔しげにむむっと彼は唸る。
 そのまま彼は、嬉しそうな彼女の頬擦りを受け取りながら。

―――やっぱりボク、おっきくなりたい……

 進化をすれば、少なくとも今より身体が大きくなるのは確かなはず。
 そうすれば、今みたいに絡め取られることも少なくなるはずだ。
 と。そんな彼の呟きの応えなのか。

―――でも、ラテはカフェのもふもふ好きだから、それがなくなっちゃうのはさみしい

 頬擦りをやめて、桃色の瞳が茶イーブイを見つめる。
 ぱちりと、瞬いたのは茶イーブイの瞳で。

―――ラテはさ、好きな男の子とかいるの……?

 彼は恐る恐る問うてみた。少しばかりの緊張もはらんで。
 どくん、どくん、と。
 先程までとは別の意味で鼓動が響く。
 引き結んで乾いた唇を湿らすように、彼が唇を舐める。
 その時だ。きょとん、とした彼女から声が返ってきた。

―――カフェだよ?

 何を今更。先程気持ちを確認し合ったばかりではないか。
 なぜ、それをまた訊く必要があるのだろうか。と。
 彼女は不思議でたまらないという表情だ。

―――あ、えっと……それは分かってるんだけど、その、えっとね……?

 それは分かっている。十分過ぎる程に分かっている。
 痛いくらい分かっている彼である。
 だって、自身を絡め取るリボンが、ぎりぎりと少しばかり締め付けてるから。
 彼女はまだ進化したばかり。
 力加減がわかっていないのか、それともわざとなのか。
 それは彼には分からない。

―――ラテの憧れる男の子のタイプを知りたいっていうか……こんな感じの男の子の傍にいるのは憧れるなーとか、そういうの、ないの……?

 彼女が言葉にした”そのまま“。
 それが未だに彼の中で引っ掛かるのだ。
 彼女がどうしてその言葉を発したのか。
 その理由は分かっているつもりではいる。
 けれども、拭いきれない不安があるのもまた事実で。
 だから彼は言葉を続ける。
 そして、これが本当に問いたかったことなのかもしれない。

―――ラテは……今とは違うボクは、もう、好きじゃない……?

 か細い声。それは自信のなさの表れ。
 ゆるりと絡み付くリボンが緩んだ。
 ちらと彼が彼女を見やると、桃色の瞳が瞬いた。

―――なんで、そんなこときくの……?

 ゆるんだリボンは絡む力をも失って、すとん、と茶イーブイを落とした。

―――カフェは”今“のラテは嫌いなの……?

 あ。と、彼が思った頃には、桃色の瞳に膜が張られていて。
 その膜が厚さを持ち始めた頃に、彼は慌てて後ろ足で立ち上がり、前足を彼女へ伸ばす。
 ぎゅっと、抱き締めるかたちで。

―――ごめん、ボクが変なこと訊いたからだよね

 ぐすっと鼻をすする音が彼の鼓膜を震わせる。
 それにちくりと胸が痛む。

―――あの頃のラテも、今のラテも……ボクは好きだし、ずっと大好きだよ

 進化。その言葉は今の彼女にとって、ある意味の地雷なのかもしれない。

―――ラテはラテ。どこまでもずっと、ラテじゃないか

 ね。と、優しく紡いだ一音。
 うん。と、小さな声が返しとして戻ってきて。
 茶イーブイは安心したのか、尾が立ち上がってゆらりと振れた。
 何となくその動きをニンフィアは目で追いながら、今度は彼女が言葉をこぼす。

―――ラテも、ラテもカフェ好き。カフェがカフェだから、ラテは好きなの

 はっと、茶イーブイの瞳が見開いた。

―――ラテは知らないもん。ラテはカフェしか知らないもん。ずっと、ラテはカフェだけだもん

 むすっと、少し不貞腐れた気配。
 同時にニンフィアは彼の首もと、もふ毛に顔を埋める。

―――カフェがカフェなら、なんのカフェでもラテは好き。でも、これができなくなるのは……ラテ、さみしい

 すう、と息を深く吸い込んで。
 彼の香りをふわりと感じて。
 同時に、彼の身体がふるりと震えたのを感じる。

―――……じゃあ

 彼の声に、桃色の瞳が動いた。

―――ボクはこのままでいようかな

―――でも、カフェはおっきくなりたいって……

―――いいの。ラテと同じようになりたかったけど、それでラテが寂しく思うのはもっと嫌だから、いいの

 それに。と、繋ぎの言葉を呟いてから、彼は黙ってしまう。
 不思議に思って微かに首を傾げたけれども、彼女にはどうして黙ってしまったのかはわからない。
 ただわかるのは、彼の身体に熱が灯ったことだけで。

―――カフェ……?

 名を呼べば、その身体がぴくりと跳ねた。

―――それに、なに?

 続きを促してみたら。

―――…………っ!!

 言葉にならない声が返ってきた。

―――?

―――だ、だから……! ラテにボクを感じてもらえるのは好きだしってことっ!!

 桃色の瞳を見張る。
 触れる彼の身体の熱さが上がった気がした。
 心が、振れた。

―――!

 もつれるようにして倒れた二匹。
 否。彼女が彼を巻き沿いにして倒れ込んだ。
 横向き。互いの表情がよく見える。
 桃色の瞳が嬉しそうに笑んで。
 もう一方の瞳が恥ずかしそうに視線をそらす。
 けれども、その頬は深く色付いたまま。
 そんな彼に影が落ちた。
 刹那。そらされた瞳が見開かれる。これ以上ないくらいに。
 すっと離れていく影に、驚きの視線を向けて。
 ぱくぱくと開閉する口はその驚きの表れ。

―――らて……? い、いま……

―――んー?

 そんな彼の反応が楽しくて、彼女はくすくすと笑った。

―――ラテをどきどきさせた仕返しだもーん

 次いで、笑みが意地の悪いそれに変わった。

―――なっ……!

 衝撃で言葉を返せない彼は、のろのろと頬に前足を添える。
 早鐘を打つ鼓動が、先程の頬に触れた柔らかな感触を思い出しては跳ねる。

―――にひっ

 どやっと。所謂、どや顔。
 そんなものを見せてくる彼女に、彼は口をへの字にする。
 同時に悔しさが滲んできた。

―――なら

 むっとした声に、彼が前足を伸ばす。
 それが彼女の頬に触れれば。

―――……へ?

 彼女から気の抜けた声がもれ、同時に身体を硬直させた。

―――今度はここがいいかな?

 頬に触れた前足が滑るように彼女の口に触れて、それをなぞるように動く。
 彼の口の端が持ち上がった時、彼女は自分を見やる瞳に、熱っぽい何かを見つけて。

―――ねえ、ラテ……?

 彼の声が彼女の名を紡いだ時。
 ぴくりと彼女の身体が跳ね、ぎゅっと目をつむる。
 近付く彼との距離。吐息が重なる。
 心の振れ幅が変わった。それはお互いに。
 つまり、今までと同じで違うということ。
 つまり、ある程度あった一定の距離を越え、それを許すことでもある。
 刹那。桃色の瞳が見開かれた。
 瞬間。熱っぽい何かをはらんだ彼の瞳を見つけて、視線が絡む。
 みるみると頬に熱が集まるのを彼女は自覚して。
 許す”それ“とは何か。自問。
 ”それ“とはつまり”それ“だ。自答。
 彼女の視線が彼のそれに向けられる。
 別に憧れがないわけじゃないし、むしろ触れたいとも思ったし。
 初めてのそれはレモンの味とかきくし、それは気になるし。
 実はあの時、彼に上に覆い被せられた時は少し期待しちゃってたし。
 何よりも彼のそれは柔らかそうだし。
 とまで考えて、彼女の思考はそこで限界だった。
 ぷしゅう、と音が聞こえた気がした。
 ここからは無意識下だった。
 顔をひねって彼の前足を払えば。
 そのまま勢いをつけて反転。

―――え、ちょっと待って

 尾が見事に彼の頬を打ち付けた。
 勢いよく飛ばされた彼は、咄嗟に身を丸めたことで壁への激突は回避。
 自分の毛玉で弾んだだけで済んだ。
 けれども、彼が顔を上げたときには。

「ぴやあああっ!」

 と叫んで。
 どたどたと元気に、階下へ駆け下りて行く彼女の姿しかなかった。

―――あーあ

 少しだけ残念な気持ちで、彼はその姿を見送る。
 そして、くすりと一つ笑って。

―――ボクをどきどきさせた仕返しだよ、それも倍返し

 ふふっ、と意地悪い笑みを浮かべた。刹那だった。

「カフェは一体、いつそんなテクニックを覚えたの?」

 彼の身体がふわりと浮いた。否。

―――つばさ、お姉ちゃん……?

 抱き上げられたのだ。
 顔だけ振り向いて、そのままぎょっとする。

「つばさ……このタイミングで出てきちまうのはどーかと……」

「えー?」

 つばさが振り向いた先。今度はすばるが姿を現した。
 茶イーブイはさらに、その後ろからエーフィにブラッキー、ファイアローまでもが姿を現したことに目を見開いた。
 それに、だ。
 その後ろに続くかたちではないけれども。
 壁から覗く二つの顔まで見つけてしまった。
 ハクリューに、もう一羽のファイアロー。

「だって、じっとなんてしてらんなかったもん」

「だからって……」

 すばるの呆れた声音が茶イーブイの耳に入ってくる。

「ここはやっぱ、静かに見守る姿勢が大事じゃねーのか?」

 すばるのその言葉に、彼はぴしりと身体を硬直させた。
 ちょっと、待って。
 見守る姿勢とは何だろう。何を見守っていたのだろう。

「私は静かに見守って、ちゃんと見届けたよ? 始めから、ラテが階下へ駆け降りていく最後まで」

 心外な。とでもいう口調で、しれっと返すつばさ。
 え。茶イーブイの身体がさらに硬直する。

―――はじめ、から……?

 か細い声音。その声はつばさとすばるにも届いていた。
 二人の視線が彼へ落ちる。

「あ」

 と、その二人の声が重なったのは。

―――はじめから、ずっと見てたの……?

 二人を見上げ、ぷるぷると身体を震わす彼がいたから。
 頬は朱に染まっていて、瞳が潤んでいるのは、たぶん、恥ずかしさのせいで。

「あー……。カフェ、その……ごめん。つい、好奇心で……」

 気まずそうに彷徨う橙の瞳。
 申し訳なさそうなつばさの声に見え隠れする、その好奇心とやらの色。
 茶イーブイの口が引き結ばれる。
 その様子に慌てたつばさが隣に同意を求めた。

「す、すばるだって、き、気になってたでしょ?」

「はー!?」

 突然のふりに驚きながらも。

「まあ、気にならないっつったら嘘になるけど……」

「ほ、ほらー!」

 応えるすばるに、どこか安心したような様子のつばさ。

「だからね、ほら、カフェ――」

 口を引き結んだ茶イーブイ。
 その口がわなわなと震えている気がした。

「――カフェ……さん?」

 おそるおそる彼を呼んだつばさ。
 一気にその場の空気が鎮まる感覚がした。そして。

―――つばさお姉ちゃんのばかー!

 次の瞬間には、鎮まったその空気が一気に震えた。
 思った以上の衝撃。声量。その場の皆は思わず一瞬だけ目を閉じた。
 その隙にするりとつばさの腕から抜け出した茶イーブイは。

「あ、ちょ――」

 つばさが声を発する前に、階下をだだだっと駆け降りて行ってしまった。
 意味もなく伸ばされた手を静かにおろして。

「やっぱり、静かに見守るべきだったかな……?」

 くるりとすばる達へ振り返った彼女は、苦笑を滲ませてあははと笑う。

「そりゃーなあ……」

 呆れた眼差しのすばる。
 ちらりと背後へ視線を向ければ。
 さっと視線をそらす幾つもの顔。
 これだけ目撃者の数があれば、それは恥ずかしいものだろう。
 身に覚えがあるだけに、茶イーブイに対して同情すら覚える。
 見られていた、なんて事実は知りたくなかったに違いない。

「でもさ」

 つばさの声にすばるが視線を戻す。

「これで、カフェとラテがカフェラテになったね」

 橙の瞳が嬉しそうに笑って。

「私達も、あの子達を注げるマグカップにならないと」

 なーんてね。と、舌を小さく出して茶目っ気も含むものだから。
 桔梗色の瞳が小さく見開かれて。
 そして、すばるの頬を朱に染めることになるのだ。
 そんな彼の様子に、いち早く気付くのはやっぱり彼のパートナーで。

《おやおや?》

 意地の悪い声音を発するエーフィ。
 楽しそうな紫の瞳が彼へ向けられる。
 対して、彼女を見下ろす桔梗色の瞳には、嫌そうな色が滲んでいた。
 否。それは焦りだったのかもしれない。

《すばるん、ひょっとしてさー》

 やけに調子付いたエーフィの声。
 ぴくりとすばるの眉が跳ねた。

《つばさちゃんの笑顔にどきっ――》

 と。彼女が言葉を最後まで紡ぐ前に。

「俺、まだねみーし、朝でもまだはえーしな。もういっぺん寝てくる」

 すばるがエーフィを拾い上げ、くるりと踵を返すように。

「あるば、ニア。お前達も行くぞ」

 彼女達の横を通りすぎて、彼は自室へと姿を消した。
 ハクリューとファイアロー。彼女達は互いの顔を見合わせて。
 くすりと小さく笑ったあと、ぺこりと小さくつばさ達へ会釈して部屋へと戻って行く。
 その場に残されたのは。

―――やっぱり僕、あいつ嫌い……

 むうと膨れた声音で言葉をこぼすファイアローと。

《ばからし》

 くわあと興味なさそうにあくびをするブラッキーに。

「あ、あれ……?」

 きょとりと瞳を瞬かせるつばさのみ。
 頬をかいて橙の瞳は視線を落とす。

「すばる、どうしたんだろ?」

 困惑の色を滲ませた瞳はブラッキーへ答えを求めるけれども。
 その彼は、再度あくびを繰り返すのみで返しの声はない。

―――あいつはつばさちゃんの笑顔にあてられただけ

 代わりに答えたのは、やけに不満げな声。

―――つばさちゃんの隣を手に入れたくせして、まーだ笑顔一つでほっぺ染めるなんて情けないっ!

「い、イチ……?」

―――つばさちゃんの魅力は、まだまだたくさんあるんだから、笑顔一つでこの調子じゃ、この先が思いやられるっ!

 ばさばさと翼をばたつかせ、興奮気味なファイアローは、きっ、と熱い視線をブラッキーへ向けた。

―――ね! りんくんもそう思うでしょっ!!

 同意を求める彼に。
 怠そうな金の瞳を向けたブラッキーは。

《…………》

 面倒くさそうに。

《興味はない》

 と、一言。そのまま彼もつばさの自室へ戻るべく去って行く。
 んなっ。と。
 驚愕な声をもらしたファイアローが、そんな彼を大人しく逃がすはずもなくて。

―――ちょっと、りんくん。つばさちゃんの”一番“のパートナーである、君がそんなんじゃ駄目でしょっ!

 やけに”一番“の部分を強調して、ファイアローはブラッキーのあとを追いかける。
 そのまま一匹と一羽はつばさの自室へと消えて行ったのだけれども。
 ファイアローによるつばさ講座は、ブラッキーがうんざりと疲弊するまで続いたらしい。
 というのは、ブラッキーが後日教えてくれたこと。

「え、あ、ねえ、ちょっと……」

 そして、その場に残されたのはつばさのみ。

「…………」

 橙の瞳が、少しだけ寂しそうにゆらいだ。
 目を閉じる。
 階下からは何だか騒々しい音がする。
 なんでカフェまで降りてくるのっ。
 そう叫んでいるのが聴こえた。
 彼女だろうな、と思う。
 対する彼の声は聴こえないけれども。
 困惑した彼の様子が目に浮かぶ。
 階上に戻ろうと思っても、先程のことがあって気まずだろうし。
 そのまま彼女といても、熱が少しだけ冷めた今では、彼女とも気まずいだろう。
 完全に板挟みだな、と。つばさは小さく苦笑した。
 目を開く。
 視認できるのはすばるの部屋と。それから、つばさの部屋。
 瞳が瞬いて、少しだけまたゆらぐ。
 繋がりのカタチが変わった。
 そして、周りの大切な存在もそのカタチを少しずつ変えていっている。
 それはこれからも、少しずつ変っていくのだろう。
 カフェとラテが、カフェラテになったように。

「私も一歩、踏み出してみようかな」

 階下からきこえる騒々しい音が、背を押してくれた気がした。

「ねえ、すばる」

 呼びかけに応える声はない。

「朝一番にすばるの顔を見て、おはようが言いたい」

 ぽつりとこぼす言葉。

「夜、寝る前には最後にすばるの顔を見て、おやすみが言いたい」

 朝の空気に溶けるつばさの声。

「だから、私はすばると同じ部屋になりたいんだけどな」

 と彼に伝えたら、彼はどんな顔をするのだろうか。
 驚くのか。照れるのか。
 それとも、恥ずかしそうだけれども、嬉しそうに笑ってくれるのか。
 彼がどんな顔をするのか、それはちょっと楽しみだ。
 自分たちは世で言う夫婦というやつだ。
 けれどもその前に、互いに一人の”トレーナー“である。
 先ずは一緒に暮らすことから始めよう。と。
 ポケモン達のことも考えての別室だった。
 慣れないことを、時間をかけて慣れていくこと。
 ”日常“にしていくこと。
 だから、まだもう暫くこのままの方がいいとはつばさも思っている。
 でも、人というのは欲張りだから。
 たまにちょっとだけ、寂しく思ってしまうことはある。
 だから、たまに一人の時に本音がこぼれてしまっても許して欲しい。
 夫婦から、家族へ。いつかは。
 そのカタチを変えたい気持ちは、ずっと奥底にある。
 ふう、と息を吐き出して気持ちリセット。仕切り直し。
 いつの間にか俯いてしまっていたらしい。
 だから、彼女は気付かなかった。

「私、すばるとの家族が欲しいんだ」

 気付いた自分自身の気持ち。
 でもそれは、いずれの話で。いつかの話で。それは今ではないけれども。
 でも。それを口にして、言葉にしてしまったのは油断していたから。
 誰もいないと思っていたから。

「あ」

 顔を上げた瞬間。つばさの口から声がもれた。
 かちりと硬直したのは、そこに目一杯に見開かれた桔梗色の瞳があったから。
 ぼっと頬に熱が集まったのを自覚する。
 たぶん、熟れた果実みたいに顔も染まったことだろう。だって。

「お、おま……何、言いやがる……」

 同じような状態のすばるがいたから。
 桔梗色の瞳と橙の瞳。
 その二対の瞳の視線が絡む。
 絡んでは解れ、また絡む。その繰り返し。
 周囲の空気の温度が上がった気がするのは。
 きっと、熱のはらんだその視線のせいだ。

《……まったく》

 すばるのあとに続いて部屋から廊下へ出てきたエーフィ。
 けれども、今の二人は彼女の存在に気付かない。気付く余裕がなかった。
 彼女の紫の瞳が呆れた眼差しで二人を見上げる。

《すばるん達はちっとも成長しないんだから》

 たぶん、硬直したままのこの二人には。

《まあ、そんな二人のそんなところが》

 彼女の言葉は届いていないだろうから。

《ボクは好きなんだけどね》

 何を言葉にしても平気だろう。
 二人を見上げなから、紫の瞳が幸せそうに笑った。
 だって。この先で出会うであろう”それ“の、嬉しい予感がしたから。
 



   ◇   ◆   ◇



 こうして、繋がりのカタチは少しずつそのカタチを変えて行くのだろう。
 一つ一つ、確かな日々を重ねて。
 幾度か季節が巡って、一巡を繰り返した先。喫茶シルベには。
 子供の声と、小さな毛玉達の元気な声が響き渡る。
 けれども。そこ辿り着く間にも、喫茶シルベを賑やかにさせる騒動は。
 やっぱり、起こったりするのだけれども。
 例えば、そのままの姿でいると決めた彼が。
 その彼女の起こした惨事に巻き込まれて、うっかり進化を遂げてしまったりとか。
 その他にも、まあ、いろいろで。でもそれは、また別のお話。
 なのだけれども、変わらずに言えることは一つ。
 彼らは今日も一つ一つその日々を重ねて、繋がりを紡いでいく。
 そしてこれは、そんな彼らの繋がりの物語。
 今まで紡いできた物語。そして、これからも紡いでいく物語。

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